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【巾着田の曼珠沙華と日和田山】 -日和田山から五常の滝-

季節もそろそろ秋の彼岸の頃となった。お彼岸は正しくは彼岸会といい、そもそもは波羅蜜多(到彼岸)、つまり悟りを開く為に精進する行事なのである。これが日本の祖霊信仰と結びつき「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるように、季節の節目に親戚一同が会する日本独特の仏教行事となった。そして、秋の彼岸になると咲くのが彼岸花ともいわれる曼珠沙華。今回はその曼珠沙華群生地として知られる日高の巾着田と、高麗王若光の威徳を偲びながら高麗周辺や日和田山を散策してみる事にした。
彼岸花もそろそろ見頃を迎えた休日の混雑を避け、平日を選んで西武線高麗駅に来たものの、駅前はすでにかなりの賑わいを見せている。何でも前日にTVで放映されたという事で、県道の渋滞ぶりもかなりのものだ。自動車の場合はとくに日高市運行のバスを利用するのがいいと思う。 http://www.kinchakuda.com/
さて、高麗駅からはかつての高札場を経る近道が散策コースとして設定されいて、巾着田までさほど時間もかからない。彼岸花も以前に増して群生し、すでに立派な観光地となっている。観光客もかなり多いが、あいあい橋から栗坪交叉点を経て、獅子ヶ岩橋、出世橋から高麗神社へと向う人はあまり多くはないようだ。高麗神社はかつての新堀村大宮社で、高句麗から渡来した若光王の霊を祀る。参道から社殿に向えば、その扁額が高句麗神社となっている事に気づくだろう(下段左)。高麗神社で参拝し、高麗家住宅(国指定重要文化財・下段右)を見学した後は、この社からさほど離れていない聖天院に立寄ってみる。この聖天院は正しくは高麗山勝楽寺といい、本尊は不動明王。境内には高麗王若光王の墓石となる五輪搭がある。近頃は本殿も新築され、益々尊崇を高めているようだ(下段中央)。
この聖天院から再び巾着田のある鹿台橋方面に向う道を、カワセミ街道というのだそうだ。さすがに彼岸花の季節はすれ違う観光客も多い。そして高麗本郷交叉点にでる手前を曲って日和田山へと向う。山中の整備された遊歩道は金毘羅社の一の鳥居で男坂と女坂に道を分けるが、どうやら男坂といわれる岩場の道が、金毘羅社の本来の参道であったようだ。けれども、新道となる女坂の傍らにある貞和四年(1348)の宝篋印搭も、新編武蔵風土記稿高麗郡惣説に「山腹に古搭の破碎せるものあり」と記されている。この女坂は男坂と金毘羅社の前で再び合わさるが、この社殿からの見晴らしが良い(2頁下段中央)。ここで巾着田を眺めながら一休みして行こう。ここから日和田山山頂(305m)まではわけもない。
日和田山の山頂には享保十年(1725)の宝篋印搭がある。聖天院三十五世隆敞法師が建立したものだ。この宝篋印搭は山頂からかれこれ280年余も高麗を見守り続けている。ちなみに日高市の日の字は日和田山にちなんだもので、この山は文字通り日高市のシンボルともなっているのだ。この日和田山山頂からは物見山(375.4m)まで、遊歩道も続いている。せっかくなのでこの道をを辿りながら物見山に向って見よう。遊歩道とはいえ途中から殆んど同じ道筋で、古道の痕跡もなくはない。おそらく、かつては高麗山麓に展開する集落を結ぶ道でもあったのだろう。やがて道は高指山(330m)の電波搭の脇から舗装路となって駒高の集落へと至る。そして再び山路に入った後に右手に小社を見れば、じきに遊歩道から離れ物見山へと辿り着く。ここからは日和田山方面の眺望が良く、物見山の標柱もあるのだが、三角点はさらに進んだ杉林の中だ。しかし、相も変わらずそういうものには興味がわかない。
物見山で少し休憩した後は、ヤセオネ峠の宿谷の滝分岐を経て遊歩道をさらに先へと進む。途中、小瀬名集落への分岐があるが、本来はその小瀬名集落を経由して北向地蔵に向っていたようだ。やがて遊歩道は権現堂林道の切り通しに至って終わりを告げる。そこから少し山中に入った所には古道を示す石標があるが、中野横手方面への道はすでに藪と化し、果ては中野林道に踏襲されている。そして、その石標の辻をわずかに過ぎれば北向地蔵(岩舟地蔵)はもう目の前である。この北向地蔵からは先はどうにでもなる。ここから鎌北湖に向うも良し、あるいは、時間があるならユガテを経て顔振峠へと向っても良いだろう。今回はユガテ手前の分岐から土山の地蔵堂を経て五常の滝(2頁下段右)へと向い、そのまま関の入林道を下って武蔵横手駅に帰る事にした。
ところで、滝不動も祀られている五常の滝だが、その名の由来は次の通りである。「南北朝対立の戦雲漂う正平七年(1352)閏二月のこと、王若光以来三十二代目にあたる高麗多聞房行高は新田義宗及び弟の義興一族が宗良親王を奉して、上野に兵を起こし、足利尊氏の八万の軍勢と武蔵野で交戦するに至り、劣勢なる新田軍に味方すべく意を決し、この滝にて斎戒沐浴した。これを高麗の里人は偲んで"五常の滝"と呼ぶようになった。」孔子の教えの根本をなす「仁」、孟子が「仁」とともに強調した「義」、荀子がとくに重視した「礼」、これに「智」と「信」の徳を加えて五常という。 |
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