静かな夜の愛し方

虹の町



 虹の向こうには虹の町があって楽しいことがたくさんあるのよ。
 幼いエルリック兄弟は母のお話を信じ、虹がでるたびに駆けだした。母が亡くなりしばらく過ぎた頃、あの話はお伽話だと気づき記憶の底に沈める。
 今日、久し振りに虹を見て、エドワードは懐かしい気持ちになった。
「虹の町は見つけられなくても、虹を目指してる時は楽しかったな」
 唐突なエドワードの呟きだが、同じ記憶を共有するアルフォンスには通じた。
「どんな楽しいことがあるのか、考えるだけで楽しかったね」
 イーストシティを濡らす雨が、虹という置きみやげを残して去った午後だった。



 エルリック兄弟が東方司令部に訪れると業務は瞬間的に滞る。皆が久方振りに現れる兄弟にかまいたがり、なにより、仕事をさぼろうなら無言でにらみをきかせるリザ・ホークアイが輪に加わるからだ。
 話のついでにアルフォンスが虹の話をすると、さまざまな反応が返ってきた。
「未来が見えるって話なら」
「結婚相手がわかるって聞いたぜ」
「妖精の国に行けるんじゃないのか?」
 と、各自それぞれのネタがあるらしい。
「楽しそうだな」
 幽鬼のごとく生気のない調子で話に加わったのは、司令部内で司令官に継ぐ実力者ロイ・マスタングだ。目の下にはわずかながら隈ができている。
 朝からデスクに拘束されてるのだと、こっそりエルリック兄弟に教えたのは銜え煙草がトレードマークの少尉だ。かなり後がない書類をためこんでいたのはエドワードも想像できた。ロイに送ったホークアイの眼差しは大の男を震え上げさせるほど凄まじい。
「言いつけられた書類は片付けたよ」
 慌てた様子で先手を打つ姿に部下らは苦笑した。
「では小休憩してください」
 ホークアイがロイのためにコーヒーを用意しに立ち上がる。濃いのを頼むよ、とまっすぐな背中に向かってロイは言った。
「相変わらず仕事さぼってるじゃん」
 エドワードの台詞には遠慮がないが、本当に告げたいものではない。
『会いたかったぜ』
 再会したら言おうとしていた言葉は、いざ本人を前にするとかけらも伝えられなかった。近くにいればそれだけで、頭の回転が止まりそうになる。現に半分止まっていたエドワードは、ロイが声をかけるまでぼうっとしていた。
「私に見惚れていたのかな?」
 男の面白がる口調に「言ってろ」と苦々しくエドワードは返す。ひとの気持ちを知った上での台詞はタチが悪い。
 タチが悪いと思った男に嫌気が差さない自分に、始末が負えないとエドワードは苦笑する。
『さしずめあんたは、おれの“虹の町”だな』
 虹にむかって駆けだすときめきが似ている。楽しいことばかりでない恋だけど、虹のようにきらきらひかる恋ではないけど、幼いときに信じたお伽話が胸に甦った。
 ほどなく、ホークアイが戻ってくる。彼女の手にはコーヒーカップでなく小包があった。辞書が二冊入るほどの大きさだ。
「さっき届いたばかりなのだけど」
 ホークアイが示した包みの宛名には「東方指令部内エドワード・エルリック」と記されてある。
 根無し草で住所がない彼らは、たまに旅先の荷物を東方司令部に送っていた。だが今回は、エドワードには覚えがなかった。
「ちょっと貸して」
 ホークアイの手から包みを貰う。エドワードは封を開ける。油紙にくるまれ厳重な扱いになっている本がでてきた。
「誰が送ったんだ?」
 首をひねる少年の発言に、その場にいた者は全員青冷めた。
「差出人がわからない荷物を開けるな」
 ロイがすぐさま注意する。大げさな、と言いかけたエドワードだが、不安定な時勢だと思いだして反省する。
「気をつけます」
 と殊勝に反省をする割に、エドワードは本を取りだす。本ときいては好奇心が抑えられない少年だ。
 本を手にした瞬間、妙な匂いが鼻についた。見ると白い手袋が深緑色に変色している。
「鋼の!」
 エドワードの次に異変に気づいたのは近くにいたロイだった。一瞬にして場の空気が変わる。
「捨てろ」とロイが指示したが、エドワードは従えなかった。謎の薬品が付着するものを、安易に手放せない。幸か不幸か、本を掴んでいる手は機械鎧の右の方だ。
「おれは大丈夫だ」とこたえざまにエドワードは弟を呼ぶ。
「こいつを保存するガラスビンを練成しろ」
 片手が塞がってる状態ではエドワードも練成できない。無謀な兄に弟は悲鳴のような声を上げたが、すぐに了解して要求されたものを練成する。練成陣を描くやり方は少し時間がかかった。その間、エドワードの黒い上着も変色をはじめた。
 できあがったビンにエドワードはそっと本と封筒を入れる。アルフォンスが蓋をすると場の緊張が少しだけ解けた。
「エドワードくん、早く服を脱いで」
 焦りを含むホークアイの言葉に、エドワードはすぐに動けなかった。剛胆な少年といえど、変色した服を触るには勇気が必要だった。
 ためらうエドワードの耳に指が鳴る音が届く。次の瞬間、エドワードの右手が燃えた。
 さすがにエドワードは驚いたが、炎の出所がわかるだけに、すぐに冷静になる。
 エドワードの右腕を、変色した部分の服だけを燃やし炎は唐突に消えた。
「器用だね、大佐」
 本気で感心する少年の一言に、アルフォンスたちは脱力した。が、炎を練成した錬金術師だけが厳しい顔をしていた。
「ホークアイ中尉」
 ロイが部下の名を改めて口にした。
「対策チームの設置を命ずる。そして司令部に送られる荷物のチェック体勢をもう一度徹底させるんだ」
 厳しい声が発する命令に、エドワードは取り残された気分になる。
「売られたケンカだ。3倍返しにして返すように」
 数々の指示の後に、ロイがしめくくった言葉は好戦的で容赦がない。志気を煽るためだとしても、淡々とした口調と内容に差があっておそろしい。
 青年の違う面を見せつけられて怯んでしまう。
 ただでさえ背伸びをしても届かない差があるのに、これ以上は開きたくなかった。
 駆けても追いつけない。
(やっぱりあんたは虹の町だ)
 走り続けるのは苦しいのに、楽しいなんて正気ではない。
 エドワードは剥きだしの右腕に目を向ける。見慣れた義手に変わった部分はない。「新素材よ!」と鼻息も荒く力説した機械鎧の制作者に少年は感謝した。
 鮮やかな青空のもとにある故郷は遠く久しい。



続く


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