Title:MilkAge

出産
予定日は、10月1日[1]だった。それまで、妻は体重と食欲と御腹の圧 迫感との間で、傍目にはおかしく微笑ましい格闘を真剣に演じていた。通 う産院に依っては、出産迄の体重増加分を規制するところがある。基本 的に出産時に、胎児(約3キロ),羊水+オッパイ(3キロ)の計6キロが、 最低限必要(?)な体重の増加分であるそうだ。つまり、これ以上の増加分 は、妊婦の御腹に残ることになる。もちろん出産は体力の要る仕事なの で、多少はエネルギーを蓄積していないと、母子共に辛くなる。そこで、 これに少し上乗せした7〜10キロ位の増加に留めるように指導する所も ある。片桐助産院は、そういった制限は設けなかったが、妻は「上限10 キロ!」と誓っていた。

[1] 最初は10月4日と診断され、後に10月1日に修正される。こんなこともある。

赤ん坊は、御腹に手を当てて感じられる動きが、当初の羊水の中に浸った モノのそれから、肉づいた生きもののそれへと確実に変わって行ってい た。それでも、2人は初産は遅れるものだという言い伝えを信じて疑わな かった。

9月18日、少し御腹が痛くなって来たと妻がいう。さすがに元看護婦で ある、その痛みの起った時刻を記録していく。しかし、「未だだ」という 変な確信が2人ともにあった。その晩、大型の台風18号が接近してい た。外は既に大雨である。

19日午前3時から7時まで、妻は10分間隔の陣痛を訴える。それで も、出産は未だのはずだと信じて、私を会社に追いやろうとする。9時、 出社を諦め助産院に電話をする。近くに住む友人の助けで昼前には助産院 に到着。来る途中も雨のため通れない道があった。ラジオは小田急線の一 部が不通になった事を告げている。

到着してからは8畳間が一部屋あたえられ、延々と妻は10分間隔の陣痛 と闘っていた。ゆっくりと確実に増して行く痛みに耐える妻に、私は呼吸 のリズムを与え、背中や腰を擦ってやるしか術がない。痛みのために、妻 は呼吸のリズムが次第に早くなって行く、それをゆっくりに保つように横 で大袈裟に「ヒーヒーフーッ」と示すだけだ。私自身喘息で苦しんできて いるので、不安から来る呼吸困難はいやと言う程知っている。もがけばも がく程苦しくなるのは差がないのだろう。それにしても、代わってあげれ ない我が身が辛かった。しかし、一番辛かったのは言うまでもなく、汗だ くで耐えていた妻である。私が辛かった等と書くと、妻はきっと怒るだろ う。

夜9時頃今夜の出産はないと判断され、心配のため駆け付けた妻の姉は帰 り、助産婦さんも「完全付き切り」を止めた。外はもう小降りになってい た。台風でなかったら、きっと出直して来いと言われたね−などと話す。 定期的な痛みは続いていた。

10分間隔になってから24時間たった20日の午前3時、3分間隔位に なって来た陣痛を耐えながら、分娩室に移った。分娩室は、男子禁制の場 所だと教わってきた。そこに入るのに何の抵抗もなかったかと言うと、嘘 になる。しかし、そんなことは言っていられない。妻はとても痛そうだ。 分娩室と言っても、2畳程のマットが敷いてあるだけの普通の部屋であ る。病院の様に足枷の付いたベットもなければ、姿勢も強制されない。妻 は、初め4つん張いの姿勢が良いと言ったが、膝に負担がかかり疲れると の意見で右側を下にして横になった。

それからは、時間にして5時間半の格闘だった。呼吸を乱し、痛みに負け まいとしがみついて来る妻を支えて、「フーフーフッ」である。3日程や っていた様に思える長さだった。外が白み始めた頃、頭がでてきた。何度 も何度も出たり入ったりを繰り返しながら徐々に赤ん坊は外へと出て来 る。最後の踏ん張りを経て、赤ん坊は外に飛び出した。生々しいヘソの管 を引きずりながら、真っ赤な顔で泣き出した。やっと終わった..安堵感ば かりであった。感動ではあるが、人間がこうも生身の生きものなのかとヘ ソの緒を見ながら感じていた。ヘソの管の脈動が止まるのを待って、切ら せてくれた。何とも言えない感覚が手に残った。泣き続ける赤ん坊は、体 内に居た痕跡でもある血をあちこちに付けたまま手渡された。一瞬恐いと 思った、何故かは判らない。血塗れの生まれたての赤ん坊が目の前に居 る。しかも、自分の子だ。その泣き続ける子を受けとった。私の汗だくの Tシャツにも血がついた。何とも不安定な筋肉の塊を胸の中に包み込む と、心憎い事に泣き止んだ。大きな目を見開いて私の顔をじっと見つめて いる。涙は出なかった。何とも言い難い万感の想いがぐるぐると頭の中を 廻っていた。

体重は、2950g。予定日を10日も早い割には重い方だろう。生まれて見 て分かった事だが、ヘソの緒が首に一周巻き付いていて、更にその下に両 手が挾まって居た。このまま予定日まで、御腹の中で成長していたら、も っと苦しい事になっていたかもしれなかった。私の兄弟は3人とも3500g 以上というツワモノだったので、多少不満は残った。でも納得した。性別 は男だ。先輩社員が、出産後手足の指の数を数えたといっていた。私も数 えた。でも事務的だった。泣き声からも健康である事は察した。それに、 やはり気が立っていたのだろう、実は正確に数を数えられなかった。自分 でそれがおかしかった。

記念にといって、助産婦さんが写真を撮ってくれた。フラッシュに反応し て眩しそうにする我が子に、目が見えるだろう事を感謝する。少し、息子 の目を心配する、「あんなに強い光で大丈夫だろうか」。

それから
それから、3人で別室に行った。しばらくしてから赤ん坊をお風呂に入れ てくれた。お湯と水のお風呂に交互にいれる。石鹸は使わない、塩だけで 洗う。基本的に羊水と同じにする訳だ。飲んでも構わないし、子供の体に 付いている名残りも取れなきゃ取れないで構わない。回数をこなすうちに 取れてくる。お湯に浸かっている我が子は、心無しか満足げで偉そうに此 方を見つめている。一仕事終えた満足感にひったっているのかもしれない。

ようやく、一段落した。疲れた妻と何かに満足そうにしている我が子と3 人になり、ようやく涙が出て来た。無事に生まれた事に対して、感謝して もし尽くせないような想いが込み上げて来る。

2日仕事をさぼったのを取り返すため、午後は出社した。出産法を説く本 には母親の着替えなどは書いてあるが、ラマーズ法を選んだ場合の夫の着 替えのことは書いていない。私は自分と妻の汗でビショビショである。出 社といっても、気が高ぶって思考の伴う事は出来ないので、事務的な仕事 だけをかたずけて来た。速く帰りたかったので思ったより仕事が進んだ。 日頃もこれくらい集中出来れば、残業も減るのだろう。子供の偉大さと自 分の単純さを想う。

高々10時間ぶりの再会である。しかし、子供は顔を変えていた。まるで 猿のようだと思っていたその顔は、既に人間のそれである。体中の細胞が 活発に外界に適用しようとしているのだろう、体のあちこちでピクピクと 筋肉を動かしている。毎時間毎に変化する様は生後20日頃までは続い た。出社前と帰宅後では必ず何かが変わっている。寝ているだけに見える 我が子の中では、途轍もないスピードで様々な事が学ばれているのだろ う。いや、単なる親馬鹿かもしれない。

その10時間ぶりの再会は、大阪の父と共にであった。初孫である。父も 10月過ぎを想定していて、今回は5年前に亡くした母の墓参りが目的の 上京であった。久しぶりの赤ん坊である。抱く父も緊張していた。両親と 助産婦以外の人間に初めて触れる息子は、父の緊張も素知らぬ素振りです やすやと気持ち良さそうに眠っている。厳格で、我儘な私とのモメ事を繰 り返して来た父の表情も和らぐ。言葉も発せぬこの赤ん坊が、幾つもの私 達親子の問題を水に流してくれる予感がする。改めて、この子の大きさに 気付く。その後、父は用事があるといってホテルへと向かった。きっと照 れ臭かったのであろう。自分の喜びの感情を外へ出さぬ世代の頑なな心 も、いつかこの子が変えていくかもしれない。

その晩
その晩、私は1日ぶりの我家に帰る。とても一晩を助産院で過しただけと は思えない疲れがある。しかし、気が立って寝付けない。胎教に悪いと敬 遠されていたビデオ[1]を借りてくる、「ブラック・レイン」。癌である 事を知りつつ熱演する松田優作氏がそこにいる。良くできた映画だ。しか し、小さな命の誕生に立ち会ってきた目には、自分の中で生死に対する感 覚が麻痺しかかっている事を痛切に訴えるように映った。ショッキングさ を売り物にする毎日に浸りすぎているかもしれない。

[1]ショッキングなシーンの多発するビデオは妊娠5ヶ月頃から御法度。

翌日の日曜日、昼までゆっくりと休み、助産院へと向かう。一晩中泣き続 け、妻がろくろく眠れなかった事を知る。私の前では常に「良い子」であ る、すやすやと眠っている。助産婦さんから、一晩泊まって妻を休ませな いかと提案される。願ってもないことだ。まるで、民宿に泊まりに来た様 に3人で「家族」というものを感じていた。その晩、噂通り3時間毎に子 供は泣くが、それほど苦労もなく収まってくれる。助産院の方針で未だ食 べ物(ミルク)は与えられない。胎内にいた時の名残を排泄させるために、 水酸化マグネシュウム(通称:スイマグ)を水で薄めて与える。生後1日 で、金属製のスプーンで与えるのだ。初めは何だか残酷な様に感じた。御 腹に居た時も、聴診器の様な金属製のモノをあてると、ビクッと反応した のを思い出す。妻はそれを「嫌がっている」と言って居た。しかし、小さ な唇にスプーンを何度か当てている内に必死に飲もうとしてくる。一晩の 内に、助産婦も感心するほど飲んでくれた。飲んでは眠り、眠ってはぐず ついて、再た飲む。私の腕枕で休む息子は想像以上にいとおしい。子供好 きで、10才離れた弟がいる私は、きっと我が子でも今までと同じ位の可 愛さだろうとタカをくくって居た。しかし、そんなものではない。正に目 の中に入れても痛くないほど可愛い。驚きだった。

呼吸停止
「それ」は、翌22日00:15PMにやって来た。午前中、少し元気がないか なと思いつつも、私は子供の異常に気付かなかった。昼食が私達の部屋に 運ばれ、交代で食べようと言う事になった。単に一緒に居たかっただけで ある。先ず、妻が食べ、私が息子を見守る。そろそろ、胎内に居た頃の血 液が壊され、外界用の血液に変わるので、黄疸が出るかもしれないことを 注意されていた。その事が頭にあったせいか、眠る我が子を、心無しか色 が違うなと気付いた。しかし、黄色と言うには青黒く感じる。一瞬、陰に いるのかなとも思った。自分の手を当てて色を確認する。尋常には思えな かった。すぐに妻を呼び、助産婦を呼んだ。手を長めの服から取り出して 背筋がゾッとなった。青黒い色から殆ど紫に近い。助産婦は、呼吸が止ま っているという。しかし、揺すると呼吸を弱々しくも始める。心拍数, 熱..と助産婦はてきぱきとデータを集めている。私達は、擦って呼吸が止 まらないようにするので精一杯だ。その内、2人とも我が子に話しかけて いた、呼吸を止めないように励ましていたのだと思う。何を口にしたかは 覚えていない。私は5年前の母の臨終を頭に浮かべ、妻は看護婦として立 ち会った妊婦の死を思い出していた。未だこの世に出て一言も喋りもせず に、去っていこうとする事への怒りも浮かんだ。30分後、再び無呼吸に 陥る。しかし、擦る事で再び息を吹き返す。助産婦は酸素ボンベを運び込 み、湯タンポで体を暖め、幾つかの病院に電話[2]をした。3つの病院に かけ、3回ずつはタライ回しにされているのが壁越しに聞こえてくる。同 じ症状の説明を何度もさせられて助産婦も苛立っているのが判る。救急病 院と謳っていながら、適切な救急看護体制を取れぬ病院への怒りが込み上 げてくる。3つ目の病院で、ようやく許可が出た。急いで車を用意して乗 り込んだ。酸素マスクを軽く当て、湯タンポで暖められながら、息子は気 持ち良さそうに眠っている。胸の辺りが微かに上下するのが救いであっ た。外は台風の影響を少し残しつつ活気に満ちていた。すれちがう人達の 健康ささえ恨めしく思えた。

[1]通常は、緊急用に特定の病院が確保されている。 この日はたまたまそこが休診日であり、
息子は出産時に問題がなかったので、緊急用の手配をしていなかった。

渋滞もあって30分後に、県立厚木病院に到着した。生後2日の赤ん坊の カルテを作るために2枚の書類に名前と住所などを書かされた。もう1枚 書かされていたなら、受付の爺さんに怒鳴り付けていたかもしれない。電 話での許可とは裏腹に連絡ミスがあったらしい。看護婦は私達に平謝り で、焦る医者との間に挾まれて可哀想であった。冷静に見れたのは、息子 の呼吸が安定している様に見えたからだ。レントゲンやら幾つかの検査を 経て、異常は見つからないが、念のため新生児用のICU(集中治療室)に 入院する事になった。何度か幾人からの説明を受ける間に、2人きりにな る時間があった。張り詰めて、てきぱきと症状を説明してきた妻の緊張が 切れた。脆く触れれば崩れ落ちそうな妻が泣いていた。

現状で心配な点は出ていない事、24時間体制で呼吸と心拍をチェックす る事、万が一呼吸が停止しても機械で酸素を送り込み続ける事を聞き、私 達は助産院に戻った。許可を取り、もう一晩妻と共にいる事にした。助産 院を選んだ結果がこれかどうかは判らない。大きな病院で新生児室に並べ られていたなら、気付かずに死んでしまっていたかもしれない。とにか く、異常に気付かせてくれた事と適切な処置が取れた事に心から感謝し た。

その晩は、よく泣いた。昨夜居た小さな者が居なくなって、こんなにも淋 しいものかと思った。人間のできる限りの治療は施せる場所に置けた。あ とは委ねるしか無い。2人とも頭では理解していた。しかし、哀しみは止 められない。この引き離されたことで、妻は一気に「母親」になった。も はや、女房の顔をしてくれない。

万一のために連絡しておいた親や友人からの心配する電話が入り、妻の実 家から両親が駆け付けてくれた。また、早急に名前を決める必要がでてき て、その後の妻の退院までは慌ただしく過ぎてしまった。泣き過ぎてお岩 さんの様に目を腫らした妻も元気になってきた。幾人かからは、初めから 大病院で産めば良かったのだと怒られもした。しかし、その時2人にでき たのは待つ事と健康に育つ事を祈るしかなかった。どの選択が良かったの かは、誰にも判らない。怒っている者も、それは重々知っているのだろ う、怒るほどに心配してくれている事に感謝したい。

名前
名前は、「悠基(ゆうき)」「悠雄基(ゆうき)」「智基(ともき)」「悠燈 (ゆうと)」...かなり考えた。「ゆ」にこだわった訳ではないが、なんと なく選んだものがこうだった。親とも相談したが、「悠澄(ゆうと)」とし た。字は少々難しいので、中学まで漢字では書けないかもしれない。それ でも、漢字自体にも興味を持って欲しいし、外人にも発音できるものにし たかった。そして、「澄んだ心を持ち続け、憂いも喜びも呑み込んで悠々 と流れる大河の如く生きていけるように」、という想いを込めて、これを 選んだ。大きな子になって欲しい。私達2人は御腹に居る間、この子を 「元気」と呼んでいたので、その切換えには、しばらく悩まされた。2人 目も御腹に居る間は同じ名前で呼ぶだろう。

悠澄の入院生活は至って健康だった。無呼吸の原因は結局判らずじまい だ。疑わしいのは空腹時の血糖値が基準値に達していない点だけ。1週間 後の9月30日(月)に無事退院。翌週の検査でも血糖値の問題は出ず、現 在至極健康で、元気に3時間毎に親を起して暮らした。無呼吸は、入院以 来1度も起きてはいない。

赤ちゃんが来た!
入院騒動の一週間後、ようやく息子が我家にやって来た。退院のお迎えに は、私は仕事で行けなかった。帰宅すると息子がさも当然のような顔でベ ッドに眠っていた。

訳もなく添い寝をしたかった。「スースー」微かに響く寝息が、なんとも 嬉しかった。3人で「川」の字に寝ているだけで、なんだかホンワカ嬉し い。こんなに小さい者が居なくなりそうで、あれほど胸が締め付けられる 思いをしたのだ...と思い返す。

私の小指を握るのが精一杯の大きさの手を見つめる。点滴の跡が青く痛々 しく残っている。どれほど心細かったろうかと想像する。

心温まる再会のシーンは、映画ではラストシーンになっても、実生活では そうはいかない。この日は、それから始まる「眠れない夜」の始まりであ った。2〜3時間毎の息子の泣き声は、日増しに大きくなって行く。眠れ ないイライラは、入院時にあれほど心配した気持ちとは裏腹に大きくなっ て行く。しかし、爆発させようもない。

何度となくうるさい息子を睨みながら、「じゃあ、居なくなってもいいの か?」と、自問した。もちろん答えは、決まっている。あんな心臓に悪い のはこりごりだ。「ならば、我慢するしかない」と、毎度のように自分を 押さえた。

私達は、呼吸停止のことを話題にすることをなんとなく避けていたので、 後で聞いたのだが、これは妻も同じだったそうだ。睡眠不足が続いて疲れ 切ったりすると、頭の中で同じ自問自答したらしい。

一度最悪のケースに出会ったものは、忍耐の度合も大きくなる。子供が自 分達の時間を奪っていると嘆いたり怒ったりする話を聞く度に、それを頭 で理解はするけれど、「じゃあ、居なくなってもいいのか?」と、頭の中 で尋ねた。あの入院事件は、我々夫婦を教育する、神様の「手」だったの かもしれない。きっとああでもしなければ、私達のような未熟な新米夫婦 は、きっと子供を大切にしないと思われたのだろう。

育児参加させろ!
悠澄が退院してから、一旦戻っていた義母が再び来てくれた。ただでも狭 い我家(1LK)に、大人3人赤ん坊1人の生活が始まった。しかも、この生 活の中心点は、高々身長50cmの息子である。

常に3人が寄ってたかって世話をする訳にもいかない。つまはじきにされ たのは私である。義母に怒られるのを覚悟で白状すると、義母の居てくれ た10日間は、私は殆ど息子に触(さわ)れもしないで、不満一杯だった。 何度、「俺の子だぞ!」と心の中で叫んだことか。

しかし、もちろん感謝している。出産がどれほど大変かは実感はないが、 想像はできる。何と言っても、10ヶ月間も御腹の中で育て、それを数時 間で出すのである。体調が不安定になるのは道理というものだ。昔は「1 週間は台所に立たせない」とも言われた。そんな妻を手ばかりかかる赤ん 坊と家に閉じ込めておく訳にはいかない。感謝してるからこそ、じっと耐 えた。う〜ん、触りたい。

お前も親になれば...
子供の頃、「お前も親になれば判るだろう」とよく言われてきた。そんな ものは無いと信じて来たが、実際に親になってみて初めて見えてくるもの は存在した。父の話してくれた事と同じかどうかは判らない。しかし、こ の子の未来に関することではある。悠澄を見ていて、この子をこう育てた い、あれもやらせてみたいと色々な事が頭をよぎって行く。しかし、私は 父の希望を尽く壊しながら育ってきたと思う。この子もきっとそうするの だろう。楽しみだ。ただ出来るなら、大人になって行くことを高ぶること なく意識しながら大きくなって欲しい。これから、「家族」として様々な 新しい事に出会うだろう。それぞれがどんな対処をして行けるか、悠澄と ともに学んで行きたい。

子供をつくる事に躊躇している友人夫婦に聞いたことがある、「子供が生 まれて幸福な時代かを疑問に感じる」と。この子が御腹に居る間に、湾岸 戦争は終結を迎え、何が「正義」かの議論が湧き起こる。ソ連では湾岸調 停のために外交官が奔走し、自らの共和国の独立問題と経済破綻に苦しみ ながらクーデターとその失敗を経験した。日本では、大戦の責任を明確に せずに平和維持軍の問題が論じられ、支持率65%の海部内閣が自民党内だ けの議論で倒れようとしている。そして、南ア共和国では、永年のアパル トヘイト政策に終止符が打たれる。人類は、未だ何処に行くのか見えてこ ない。悠澄の時代にはもう少し人類が賢くあって欲しい。この子のおかげ で、何かをしなければならないと思い始めてきた。

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Copyright:1997 Hideki_Mitsui@MilkAge