Title:MilkAge

嫉妬
Image 悠澄は、母親っ子である。妻がいないと、私で満足しているが、大抵の場 合傍にいるのは妻でないといけない。平日殆ど一緒にいない私にくっつけ という方が、無理な相談ではあるが。

しかし、問題はその独占欲である。1才前から、私が妻の肩を抱いても怒 りだす。1才半の今、表情は多彩になり、その怒りだし様はコッケイでさ えある。口を尖らせ、「もーっ」と行って飛んで来る。そして、回した私 の腕を振りほどき、妻を抱き抱えるように自分の方に引き寄せる。

妻はすっかり母親の顔をしている。哀しいかな、私が文句を言える余地は ない。

定期検診
1ヶ月、3ヶ月、6ヶ月、1年目、1才半、そして3才に、定期検診が各 市町村など[1]で行なわれる。時期は、場所に依って少し異なり、集まっ て来る子供達も、上下1ヶ月程の幅がある。

[1] 都道府県市町村によって、時期などがかなり異なる。

しかし、ほぼ同じ年ごろの子供が一堂に集まると、面白い[2]。子供達 は、なにやら似たようなのが居るなぁと、周りを見回す。親達は、無意識 の内に比較を始める。あの子よりは、ウチの子の方が背が高い..等。生ま れた体重などでも、差があるので、ある意味ではこの頃の体格差は結構あ るものだ。

[2] 妻が身重になってからは、出来るだけ私も一緒に行くようにした。
車という移動手段が一番の要素。

知識の度合も違う。やれること、やれないことの差が、並べてみると面白 い。でも、1才半の検診のあたりでは、なにかしら返事ができる程度にな っているようだ。

保健婦さんが、「山田太郎くーん!」と呼んだ、その場に居た20人の子 供達が一斉に「は〜〜い!」。

妻の社会参加
妻をカゴの鳥にしているような感覚が、私にはずっとある。育児のため に、無理矢理家に閉じ込めているような感覚。

出産のために退社した会社で、ばりばりと働いていたのを知っている。今 子供の泣き声の中で、育児にかかりっきりになっている事を本人はどう思 っているのか。

何度か定期的に、この事を尋ねる。答えは、「そりゃ、いつかは社会復帰 したい。でも今は不可能よ」。何度尋ねても、同じ答えである。実際、こ れだけ夜中に泣かれては、たとえ良い託児所が見つかっても、難しいだろ う。

子が生まれてから、妻が「社会参加」らしきものをしたのは、

あとは育児に忙殺されている。ストレスが溜まりすぎない事を祈るばかり である。

ものを壊した時
子供と暮らす限り、モノが壊されていくことは避けられない。大切にして いたものも、容赦なく壊される。

そんな時、亡き母が私を叱った時のことを思い出す。母は決して声高に壊 したことを叱りはしなかった。母の言うことは、常に「繰り返さないよう に」という1点だけだった。しかし、壊されたモノを哀しく見つめる姿 が、それ以上のことを語ってくれる。もちろん、これは私が覚えているこ となので、私が小学校に上がってからの話である。

あの時の母の姿を思い出して、息子を叱る。先ず破片が飛び散っているか を確かめ、あれば掃除する。怒るよりも、二次災害を起こさないことを心 掛ける。ムッとした顔で破片を片付けだすと、息子は自分が大変なことを したことを自覚する。片付けが済むと、大抵低い声で、「もうするなヨ」 と言う。我が子に限らず、なにかを叱るときには、何のために叱っている のかを忘れて、自分の意に反したことをした事に対して熱くなってしまう ことが多々ある。どんなにきつく叱っても、壊れたものは元に戻りはしな い。本人が何をしてしまったのかを自覚した時点で、「ものを壊した時の お叱り」の目的の大半は実は達成している。低く静かに言うのは、叱る側 の私が気持ちを抑えるためである。ここで爆発しても意味はない。

次に、ある程度言葉が話せるので、何故叱られているかを自分の言葉で言 わせる。もちろん、現在の語彙の数は考えながら、尋ねる。「なんで、こ んなことしたの!」と頭ごなしに叱っても、答えようがない。子供にとっ て、それは大抵は「手を伸ばした結果」でしかないのである。息子の知っ ている言葉(単語)1つで答えられるように、質問は選んであげる。

昔、怒る前に10数えろとか言われた。当時はできなかったけれど、今は なるべく、叱られる子の立ち場を考えることで少し自分の頭を冷やしてい る。無論、常にではないけれど[1]。

[1] 妻曰く、「そんな風には殆ど見えない」。

ひとり遊び
悠澄と遊ぶ時に、意識的に注意したことがある。それは、「ひとり遊び」 を始めたら、できるだけ干渉しないということだ。

積み木をしていても、外で砂いじりをしていても、自分の世界に入られた ら、なるべくおとなしく見守るように努めた。何やら言葉を発しながら遊 ぶ悠澄は、特に成長を実感できる姿だ。何をやっているのだろうと考えな がら、視線さえ気付かれないように見守る。視線に気付くだけで、ニコニ コしながらこっちにサービスをし始めるからだ。こういうのは、大阪の血 かなぁとも感じる。見つめられると芸を期待されていると思ってしまうの か。

観察者の掟は、観察対象に影響を与えてはならない−ということだ。親と 言うのは別に観察者ではないけれど、自分が干渉することでその子の独自 の進歩を妨げてはならない。また、特に教育的にどうのこうのではなく、 ひとり遊びをしてくれると助かるのだ。だから、できるだけ長く没頭する ように習慣付けたい。

外では、さすがに車などの危険があるので、放っておく訳にはいかない。 物蔭からこっそりと見つめる。ちょっと転けたくらいでは泣かなかった り、普段より少し頑張っている姿がそこにある。

私の母は、よく見守ってくれたと思う。だから、私もそうありたいと願っ ている。しかし、日本は、静観とか見守るというのがどうも苦手になって しまったようだ。こと教育に関しては、なんでもかんでも干渉して台無し にすることを延々と繰り返しているかのように感じる。そうした教育を受 けたものが、暴きたがりの遠慮なしのマスコミを育てているのかもしれな い。身内の死に遭った哀しむ者から、執拗にコメントを取ろうとする。あ んなことを我々視聴者が望んでいるのだろうか。ああいう心無い行為を、 心無いと感じられるように育てていきたい。

誰に似ているか
男親にとって、子供の顔が自分に似ていることは嬉しい事のようだ。非道 徳的な発想からすれば、科学的検査を除けば、それが唯一の我が子である 確証である。

息子は、明らかに私の家系の顔をしている。抱いて歩いていると、「そっ くりですね」とよく言われる。私から見ると、息子の顔は少しづつ変化し ているので、いつもいつも「私にそっくり」であるようには思えない。な のに、他人様からは「そっくりですね」と言われる。

何故かは言葉にして説明できないけれど、正直言って、本当はあまり嬉し くない。けれど、「全然似てませんねぇ(本当に息子さん?)」と言われる よりは、百倍もましなので黙ってへらへらと頷いている。

私の肉親はどう思っているのだろうか?父の猫可愛がりようは、ルックス から来ているものには余り見えない。しかし、日頃無愛想な弟などは、最 初に会ったときから、「おっ、こいつ俺のちっちゃい時にそっくりやぁ」 と嬉しそうに相手をしている。

息子と2人で遊ぶとき、少し距離を置いてじっとその顔を見つめる。「そ うかぁ、そっくりかぁ...」と、なんだか溜め息が混じっている。自分の これまでの生き方の、不器用さを想っているのかもしれない。どんな人生 を歩いて行くのだろうか、この子は。

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