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冒頭意見陳述書

 私は原告の溝口秋生と申します。私の母について、この裁判を始めようと決心するに至った理由を、ぜひ裁判所に聞いていただこうと思い、意見陳述させていただきます。
 私の母は鹿児島県との県境にある神ノ川という所で生まれました。そこの川尻海岸は、水俣で一番と思われるほど美味しい魚介類の宝庫です。そこで育った母は、当然魚介類が大好物で、多食していたようです。母は父と結婚してからも、潮時には必ずと言ってよいほど海に行って、とった魚介類を食べていました。
 父と結婚して10人の子宝に恵まれましたが、現在まで私の兄弟姉妹は病気で死んだ者は一人も居りません。戦死と交通事故だけです。そんな健康な家族の母が、昭和47年頃から体をおかしくしてしまったのです。
 私たちが仕事から帰って来ると、庭先で日向ぼっこをしながらボーッとしてよだれを流しているのです。またある時は料理の味付けに、私の妻が「おっかさん、こん味はなんな。辛うして辛うして食べならんがな」と言うと、「ばってん、いっちょん味のわからんとじゃもね」と答えるのです。
 やがて病院に通う日々が続き、昭和49年に認定申請しました。その母が入院して昭和52年に死亡しました。その死のまぎわの時、今は認定審査会の会長をしている三島功先生が当時は市立病院の医師で、「あきらめるな、あきらめるな」というような事を言ったのを憶えています。
 母がなくなってから、さあ葬式という時に、父が私に喪主になるように言いました。私は最初いやだと言ったのですが、どうしてもということで、すべてをまかせてくれるなら、という条件で引き受けました。その時の一番の仕事は解剖のことでした。私が、これ以上母に痛みを与えることがしのびなく、「解剖はしない。母親を切り刻みたくない」と言ったら、母の姉弟が涙を流して喜びました。
 そして一周忌、県に電話して母の認定申請はどうなったか聞いてみましたが、何の答えもありませんでした。三周忌(2年目)には、「検討中です」との答え、3年目も同じでした。
 私は母の命日(7月1日)には必ず電話するぞと心に決めていました。「まだ審査の順番が来ない」、「申請者がたくさんいるので順番がまだです」と県は言うけれど、それは行政が早く手を打たなかったからだと、言い返しました。5年すればカルテはなくなってしまうのだから、死んだ人を先に審査すべきではないのかと言いました。
 そのまま月日は過ぎ、やがて政府解決策が出てきました。私自身と二男は全国連という団体に加入して裁判をしていました。総会が開かれ、解決策に賛成・反対の挙手がおこなわれました。ほとんどの方が賛成し、反対は私を含めて4人だけでした。

 ところで、私の二男は胎児性水俣病と思われます。生まれてすぐからけいれんに苦しめられていました。ところが県は棄却、保留の繰り返しでした。裁判も取り下げ、解決策の医療手帳対象者として、今は終日家の中で暮らしています。
 長い年月が過ぎ去り、平成8年、母の認定申請は結局棄却されました。学校時代の後輩にあたる川本輝夫さんを応援して、水俣病患者救済の運動を手伝っている支援者に相談しました。すすめられて行政不服審査を始めたところ、母の棄却がでたらめもいいところであることがわかってきたのです。東京にも応援してくれる人達ができて、環境省ともかけあってくれたりしたのですが、結局県や審査会の非人間的なやり方がとおってしまいました。
 これが最後の頼みの綱と、今回の提訴に踏み切ったのです。

 提訴までにはだいぶ悩みました。朝晩仏前に灯りと香をあげ、鐘を鳴らして、「お袋、どうしよう」と問いかけました。
 ついにお袋が「やれ」と言ったのです。T(二男)のために、他にもたくさんいる方たちのためにと。
 そうしてとうとう今日という日が来たのです。

 裁判長、どうかわれわれ被害を受け、放置された者のありさまを見て下さい。そして正しい裁判をして下さい。お願いします。

平成14年3月15日
溝口秋生
熊本地方裁判所 御中

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