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原告第6準備書面

目次
第1節 はじめに
第2節 認定制度の根拠・目的と仕組み
第3節 認定制度違法運用の歴史(1)
第4節 認定制度違法運用の歴史(2)
第5節 認定制度の本質
第6節 本件とのかかわり

第1節 はじめに

 本書面は水俣病の認定制度の歴史とその違法な運用実態をのべる。
 それは被処分者溝口チエに対する被告の違法な処分は、決して偶発的な出来事ではなく、違法認定の歴史的な土壌があり、必然的に生じたものであることを示すためである。

第2節 認定制度の根拠・目的と仕組み

1 認定制度の根拠法律は、被告が第1準備書面第3認定業務の概要のところで述べているとおり「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」(以下救済法)と「公害健康被害の補償等に関する法律」(以下補償法)の2法である。
 本件溝口チエについては救済法による。

2 ここで最も肝心なことは、原告第1準備書面第2章第2節「救済法の制度趣旨」で述べた通り、申請者への処分は公衆衛生の要請を基にした応急的措置であり、従って「迅速かつ幅広い救済」が法の趣旨ということである。
 すなわち救済法=認定制度の目的は、救済を「緊急」に必要とする公害の健康被害者を「緊急」に拾い出すことであり、これをもって必要十分とする。

3 そこで認定と不服審査の具体的手続の流れを理解する便宜のために、本書末尾に手続のチャートを添付する。

第3節 認定制度違法運用の歴史(1)

1 認定制度の根幹を成す審査会の淵源は1959年(昭和34年)厚生省が設置した水俣病患者診査協議会である。
 診査協議会は1959年12月30日当時の患者互助会と新日窒とのあいだに結ばれた調停案(いわゆる見舞金契約)と対になって補償金受給資格の判定を担うものであった。この事実が以後の審査会の性格を40年以上に渡って規定することになる。

2 1968年(S43年)9月に政府による水俣病の公害認定がなされるが、当時の熊本審査会は機能せず翌69年5人を認定したのち救済法によって発足した熊本県・鹿児島県公害健康被害者認定審査会に変わる。
 新審査会も70年にやはり5人認定したのみであった。
 この1年間に5人という数がチッソ(当時新日窒)の補償金支払いに配慮したものであることが、次の@川本行政不服で明らかになる。
 この節ではおもに1970年代に明らかになった認定制度の違法な実態を列挙する。

@川本行政不服
1970年8月18日 熊本県の認定棄却処分を受けた川本輝夫ら9名が厚生大臣に行政不服審査請求を行う。
70年11月9日  熊本県より弁明書
71年4月    審査請求人の口頭による意見陳述と、厚生省係官による審尋
71年5月13日  参考人意見陳述 武内忠男参考人、椿忠雄参考人。
県側参考人として、徳臣晴比古審査会長、原田義孝委員、荒木淑郎委員、三嶋功委員。
71年3月〜7月 請求人側は、数次にわたって反論書を提出。
71年8月7日  環境庁はついに認定棄却処分取消の裁決。 あわせて、この裁決を出さざるを得なかった救済法の運用の実態の改善について、事務次官通知を出して、法の趣旨のより一層の理解・徹底を求めた。

 この裁決の重要な意義を2点挙げておく。
 1つは行政不服審査過程中に明らかになった、熊本県による審査会委員(先に述べた救済法による新審査会)への説明の文言(1970年第2回会合)に、「(救済法は)民事とかかわりなく適用するとあるが、水俣病関係では本審査会判定は公害補償と関連があるので、その点も考慮して慎重を要する」とあったことである。
 「民事とのかかわり」、つまり熊本県は「認定すると補償を支払うことになるから、出来るだけ認定を控えるように」と明らかに違法な指導をしていることである。
 もう1つは事務次官通知が鮮明に再確認した認定の趣旨である。
 すなわち有機水銀の影響を否定できない健康被害者は、広く認定することである。
 しかしA以降にみるように、この次官通知の趣旨はその後意図的に抹殺された。

A八木・小川ら補償金内払仮処分
 水俣病被害者八木シヅ子、小川フイらは、発病以来10年以上も経ち、働くことも出来ず、しかも1973(昭和48年)5月及び同年7月水俣病認定申請をなしたにも拘わらず、放置状態におかれていて、生活が極度に困窮した。

 1974(昭和49年)3月13日、にチッソを被申請者として認定されるまでの毎月の医療・生活費支払いの仮処分申請を熊本地方裁判所に行った。
 同年6月27日、早くも熊本地方裁判所は(糟谷忠男裁判長)、チッソに対し八木・小川2名の水俣病を認め、医療費及び月2万円の栄養費の支払いを認める仮処分の決定を下した。
 この決定は、県知事の救済法の違法な運用を明確に批判している。
 すなわち救済法は、公害による健康被害だけでも、とりあえず迅速にかつ、幅広く救済することを第一義的な目的とし、その実現のために民事責任とは切り離した応急的な行政上の制度を制定した。
 つまり司法制度による救済では、因果関係の立証の困難性、裁判の長期化など厳しい要件を必要とし、かつ時間がかかることにより、迅速かつ幅広く救済するという目的を完全に達しえないからこそ、あえて行政上の救済制度としたのである。
 この救済法の存在意義ないし制度趣旨に照らせば、論理必然的に導かれるのは、救済法による救済が、司法制度による救済と比較して、より迅速かつ幅広く行われるものでなければならない、ということである。
 ところが、実態は、まったく逆の現象を呈していたのである。

 事実、八木シヅ子は1976(昭和51年)11月に、また小川フイは1977(昭和52年)9月に県知事から水俣病と認定された。
 これは司法の決定が正しいことが立証されたばかりでなく、行政認定は司法の決定に遅れること、何と2年半というありさまであり、すでに当時の認定制度運用の違法性はあまりにも明らかだったということなのである。

 ちなみに、チッソは仮処分決定の2週間前1974年6月14日に、仮処分が認められると認定制度が無視され、補償体系の基礎をゆるがす、との上申書を提出している。
 このことは加害・原因企業が、認定制度・救済法の趣旨を強引にねじ曲げ、認定が緊急な救済ではなく、補償になるから出来るだけ認定をするな、と司法に圧力を掛けていたのである。

B柳田・浜本裁決
 1973年(昭和48年)8月に、認定申請を棄却された柳田タマ子と浜本亨は先の川本らと同様に環境庁に行政不服申立てを行った。

 浜本は若い頃津奈木で漁業に従事し、その後も魚の行商をするなどして汚染魚介類を多量に摂取しており、その為四肢に知覚障害、企図振戦、難聴等の症状が発現し、しかも、同居していた実妹は認定されているという事情であった。
 また、柳田タマ子も水俣市津奈木町に居住して、汚染魚介類を多食し、その為、知覚障害、四肢の脱力、味覚、嗅覚、聴覚の障害等の症状が発現し、しかも第4子は臍帯メチル水銀量1.1ppm(乾重量)で胎児性水俣病と認定されているという事情であった。

 1975年(昭和50年)7月24日に、小沢辰男環境庁長官は、右申請人らの不服を認め、棄却処分を取消したものである。

 取消裁決の理由は、レントゲンで頸椎に異常が認められるからといって、知覚障害を起すとは限らず、他方、申請人の曝露歴、家族歴を考慮すれば、水俣病を否定することは慎重を要するという明確なものである。
 そしてその後熊本県知事は、同人らを認定している。

 この環境庁長官の裁決は、水俣病認定行政上極めて重要な意味をもつものである。
 第一は、それまで県知事は、同人らと同様の胎児性の母とか、認定者の同胞、同居者という決定的な曝露歴、家族歴を有し、かつ、四肢末端の知覚症状という水俣病に典型的な症状を呈する申請者すら棄却していたということである。
 即ち、水俣病の医学常識に反し、ましてや前記1971年(昭和46年)の環境庁事務次官通知に明白に反する処分が続々となされていたという点である。

 第二は、しかも熊本県知事は、それまでの誤った棄却処分を自主的に再検討することもなく、まして審査会に対し、誤りの再発を予防する何らの具体的措置もとらなかった。
 そのために審査会は本裁決を検討すらせず、その後も違法審査を続けた。

C認定業務の「促進」
 1973年3月の水俣病一次訴訟判決以降、ようやく水俣病被害者は自己が公害の被害者であるという認識をもち、地域の迫害に抗して申請することが出来るようになり、申請者は増加する。
 国・被告は、これまでは違法な狭い認定基準=病像論で救済を拒否し、それなりに成功していたが、この一次判決後の被害者の適正申請=申請者増大に対してもなお違法な狭い認定基準を固持したために、申請者を処理することが物理的に出来なくなってしまった。

 1974年2月22日、九州大学黒岩義五郎教授を座長として水俣病認定業務促進検討委員会が発足。
 この委員会が計画した「集中検診」の違法な実態は、救済法の趣旨を無視した人権もわきまえぬもので申請者の怒りを呼んだ。
 とうぜんのことながら、この違法検診が以後、水俣病事件の解決の大きな障害になった(甲22号証)。

D水俣病第二次訴訟一審判決
 1973年(昭和48年)1月20日、被害者・家族141人がチッソ株式会社を被告として慰謝料総額16億8430万円余の請求を熊本地方裁判所に提訴した。

 1979年(昭和54年)3月28日、熊本県地方裁判所(松田冨士也裁判長)で判決が下され、判決は、水俣病の概念につき、

「水俣病を単にハンター・ラッセルの主症状を具備したもの、もしくはこれに準ずるものといった狭い範囲に限ることは相当といえず、原告らあるいは患者らがどの程度有機水銀に曝露されてきたのかを出生地、成育歴、食生活の内容等により考察し、さらに各人に有機水銀中毒にみられる症状がどのような組合せで、如何なる程度ででているかを検討し、その結果各人の症状につき有機水銀摂取の影響によるものであることが否定できない場合には、これを本訴において水俣病として捉え、損害賠償の対象となすを相当とするというべきである。
 さらに、原告らあるいは患者らが他の病気に罹患しており合併症が存する場合にも、当該症状のすべてが明らかに他の疾患を原因とするものであることが認められる場合を除き、当該症状について前記同様に有機水銀摂取の影響の有無を判断していくものとする。」

 と定義し、原田鑑定を適正に採用し、原告12名中10名を水俣病と判断し、損害賠償を認容した。

 ところで、前述した通り、原告14名のうち、1名は未申請死亡者であるが、他の13名は皆、行政の認定を棄却されていたものであった。
 ところがその後、被告熊本県知事は患者らの行政不服や再申請や更には解剖認定を認め、結局8名が逆転認定されている。

 従って本判決は鋭くも、被告の行政認定の実態が、まったく救済法の目的とするところに違背し、違法な認定棄却が行われていることを、司法が断じているのである。
 此処でも再び、損害賠償請求事件として、因果関係・責任論・損害論などの厳しい要件を充足し水俣病患者とし認められ請求を認容されるべき被害者を、被告側は水俣病患者と認定していなかったということである。
 すなわち、県知事の手続で「救済もれ」にされた被害者達が、司法制度において救済されるという、およそ法の予定したこととは、まったく逆転した事態が生じていたのである。
 従ってこの二次訴訟判決も、公権力が県知事の法の趣旨・目的に反した違法運用をしていること断罪したものである。

 ところでこの二次訴訟は、1985年8月16日福岡高裁で確定するが、その判決のなかで「昭和52年判断条件」が厳しく批判されている。
 この判決を受けて環境庁が設けたのが、本件で被告がのべる「医学専門家会議」であったが(被告第1準備書面9ページ)、この会議では学術的討論等殆どなされなかったことが、その後の御手洗らの行政訴訟の過程の祖父江座長尋問で明らかになっている。

E不作為違法判決
 1973年以降、Cで述べた状況で、被告は認定業務を適正に処理しなかったために、認定は促進されず、被害者は放置されたままであった。

 1974年(昭和49年)12月、そのため申請者406名が被害者の代表となって、認定業務の遅滞を熊本県知事の怠慢・違法とする確認訴訟を起した。
 三年の審判の後、熊本地方裁判所(松田富士也裁判長)は、原告の主張を認める判決を下し、熊本県知事の認定制度運用遅滞の違法性を確認した。

 判決は、水俣病の認定の困難さ、申請者の増大の事態があるとしても、それは、当時にはじめて起ったことでなく、十分対応出来たはずであるとして熊本県知事の認定制度運用の基本的姿勢を明確に批判しているのである。

 ここで県知事は正しい検診、正しい基準を再考し、審査会にもその趣旨を終始徹底させるべきであった。しかし、この判決は、違法の確認だけで罰則や強制力はないため、熊本県知事はこれらの措置を一切とらなかった。従って、その後も処分保留者は増大する一方であった。

第4節 認定制度違法運用の歴史(2)

 1990年代、平成になってまだ数多く放置される被害者にたいして、国・被告が取った方策は救済法や補償法の趣旨に則った救済ではなく、最終的な大規模な切り捨てであった。
 そしてこの過程で被告の違法運用の認定制度は破綻するのである。

@政府最終解決策
 1994年(平成6年)9月からはじまり1995年12月にいたる政府解決策は多くの問題点を抱えていたが、その最たる点は被害に対する考え方であった。
 解決策(水俣病対策について 1995年(平成7年)12月15日)の付属文書1.(2).ア には解決対象者の考え方について以下の規定がある。

『過去に通常レベルを超えるメチル水銀の曝露を受けた可能性があり、四肢末梢優位の感覚障害を有すると認められる者の中には、公健法(補償法)において水俣病と認定される者と認定申請が棄却される者がある。
 水俣病の診断は、メチル水銀曝露を前提として、症候の組合せによる症候群的診断により行われる。
 今回の解決対象者は、認定申請が棄却される人々であるが、水俣病の診断が蓋然性の程度の判断であり、公健法の認定申請の棄却は、メチル水銀の影響が全くないと判断したことを意味するものではないことなどに鑑みれば、救済を求めるに至ることには無理からぬ理由があることから、本協定の解決対象者とするものである。』

 これは要するに棄却者の中に水俣病患者がいるということである。
 事実、解決策作成にあたった小島敏郎環境庁保健企画課長が「ジュリスト」(No1088,1996年4月15日)に発表した「水俣病問題の政治解決」の中で、このことをつぎのように説明している。
 すなわち「制度上水俣病と認定されなかったからといって、医学的に水俣病の蓋然性がまったくないということではない」と。
 つまり国自らが認定制度の破綻を認めていたのである。

A御手洗棄却取消訴訟高裁確定判決(1977年3月10日)
 1978年に、被害者御手洗鯛右は、他の3人の被害者とともに行政訴訟を提訴した。
 詳しくは原告第1準備書面第2章第3節のとおりで、一審原告勝訴を経て高裁でも棄却処分の取消が言い渡された。
 これは第2章@Bとおなじく1974年当時の被告の認定制度違法運用を示すものである。

 さらにここにはもう一つ重要な問題がある。
 それは一審で勝訴した御手洗以外の3人の原告が高裁判決の一年ほど前に取り下げを行ったことである。
 これは@の政府解決策が、その受け入れの交換条件として認定申請・行政不服・訴訟のとりさげを強いたことによる。
 この条件は国・県側の係争つぶし以外のなにものでもなく、被害者に違法な選択を要求するものであり、これら被害者は取り下げさえしなければ、当然高裁でも勝訴し、水俣病被害者と認められていたものであることを指摘しておきたい。

BY氏裁決放置事件
 1979年に、水俣病被害者Y氏は棄却され行政不服を申請した。ところがY氏が1980年死亡したので、妻が手続を承継した。
 解剖所見から原処分取消の裁決案が三度以上も起案され、裁決がでる直前までいきながら被告の抵抗などによって結局見送られることが続き、しかもその経緯がマスコミのスクープによって露見するという極めて異常な事件であった。(甲23・24号証)
 結局、裁決が出し直され、Y氏は原処分破棄差戻しとなり、被告は認定処分をした。
 そして環境庁と熊本県は同裁決放置の経過を調査し、報告書を作成公表した。
 この事件が行政不服審査過程までも含めた認定制度の著しい違反違法運用であることは論をまたない。

 このことのほかにも指摘すべきことが2つある。
 1点は報告書で明らかになった被告の姿勢である。
 被告は、県審査会の病理学者に気をつかい、他方裁判に与える動向にも苦慮しているだけで、認定制度を適正に運用しようとする思想も姿勢もまったく欠如している(甲25号証)。

 他の1点はAと同様にY氏の遺族が政府解決策を受け入れて、同行政不服を取り下げていた、ということである。
 もし報道機関の指摘・報道がなければ、被告側の違法運用の実態は闇から闇に一切葬られていたのである。
 誠に恐ろしい、暗黒の認定制度である。

C精神神経学会見解
 1998年9月19日と1999年3月20日に、精神神経学会は水俣病事件の混迷・違法事態に対して、「昭和52年判断条件」ならびに、これを妥当とした「医学専門家会議の意見」について、全く科学的な資料収集や分析がなされておらず机上の空論であると、徹底批判の公式見解を宣言した。
 医学界からの初めての、しかも決定的な批判である(甲26・27号証)。
 今日まで、国・被告側からは、何らの公的再反論がなされず、学会の批判を認めた状況である。

D関西訴訟高裁判決
 2001年4月27日に、大阪高等裁判所は、国の責任を認め、さらに病像論でも画期的な判断を下した。
 従来水俣病の知覚障害は末梢神経の障害、または大脳中枢部との両方の障害に由来すると考えられてきた。
 本審でも被告はこのように主張している(被告第1準備書面4ページ)。
 しかし熊本大学の浴野成生教授は関西訴訟控訴審に「メチル水銀中毒症に関する意見書」を提出し、ここにおいて水俣病の知覚障害は中枢由来のものであり末梢には障害がないと指摘し、判決もこれを採用した。
 しかし国・被告側は水俣病究明の根幹に係るこの判決に対し、検討会を開こうともしない。
 政府解決策のあとでは、真実の病像解明は解決策の奸策・欺瞞が暴露されると、恐れているのである。

 ちなみに原告は本訴訟で、知覚障害の由来についての医学論争を求めるつもりはない。
 問題は有力な医学論文が提出され、しかもそれを採用した判決が現実になされているのに、現実の認定制度に携わる被告側がこれらを一顧だにしない姿勢は、これまで述べてきた度重なる被告側の認定制度の違法運用に対しいっさいフィードバックをしてこなかった被告側の態度と全く重なるものであることを強調したい。

第5節 認定制度の本質

1 以上見てきたように、被告側の水俣病における認定制度の運用は、補償金の支払いを出来る限り拒否するために、認定基準を極端にせばめ、その後増大する申請者に対しては「死ぬまで待たせる」という時間の壁で遮り、さらに切り捨ての為に恣意的な病像=基準を固持するという、無法の限りを尽くしたものであった。
 しかも司法・立法からたびたび是正勧告を受けながら、これを一切フィードバックしてこなかった。
 このように認定制度の運用は、補償問題と行政意図によって動かされ、真の医学・疫学はまったく活用されず、まして法の要請は完全に無視されてきた。

2 いまや水俣病のような広範な地域汚染の公衆衛生的な問題にたいして、認定制度は必要だったのか、という問題が指摘されている。
 確かに、水俣病以外の食中毒事件で、被害者確定のために認定制度など、あり得なかった。   すなわち水俣病事件の本来の解決には、地域住民の悉皆調査を行って母集団と被汚染者を確認していく手法で十分であったはずである。

3 水俣病事件の歴史にもこのような、正しい対処方法の導入の機会があった。
 それが第3章@でのべた事務次官通知である。
 この時、次官通知の趣旨どおり被害の認定を行っていけば、住民の有機水銀の影響は的確に把握されていたはずである。
 いずれにせよ認定制度は、あくまで被害者発見のスタートなのであって、ゴールではなかったはずである。
 ところが被告側はチッソ企業と意思相携えて、認定制度を強引にねじ曲げ、あたかも被害者救済のゴールであるかのごとき、奸策・欺瞞をなしてきたのである。

第6節 本件とのかかわり

1 溝口チエは申請後21年後に棄却処分にされている。
 原告第1準備書面第1章でも主張したとおりこの状態は不作為違法である。
 この違法行政は、本書面第3節CとEケースと密接に関連するものである。
 溝口チエ死亡後の病院調査の懈怠、また原告第5準備書面で詳しくのべた被告の電話応接の過失などは、前述第4節Bの被告の態度と全く同質の違法である。

2 溝口チエ死亡後の審査の放置は原告第2準備書面で詳述したように、被告には未検診死亡者を放置しようとする、確固たる違法の意思があったのである。
 このように被告の溝口チエにたいする放置、違法な処分は、決して偶然や特殊なケースではなく、被告のいままでの違法認定制度と同質・延長上にある構造的なものである。

以上

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