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原告第30準備書面

はじめに

 河野慶三氏証人について、当方はその重要性を述べてきたが本書面でもさらに強く主張する。
 ところが、被告が2005年11月29日付で提出した釈明書によると、被告が河野氏に、乙第122号証記載の調査について問い合わせたところ、記憶に無いとの回答であった(5頁4)。また、同号証の決済文書署名者も全員記憶に無いとの回答であった(6頁6)という。
 本書面で述べているように、1984年当時の未検診死亡者についての調査は、水俣病対策上の最大級の重大事であり、そのまさに中心ともなるべき事象について、関係者全員が記憶に無いということなどとても考えられない。
 さらに被告は、このような決済済みの調査を実施しないというケースは通常考えられない(6頁7)とも述べている。ということは、本調査が実施されなかったのだとしたら、きわめて異常なケースであるから、関係者の記憶に残らない訳などないのである。
 結局、被告並びに河野氏他病院調査関係者は、調査の事実を隠蔽し、無かったことにしようとしているのである。
 また、上記4並びに6の「問い合わせ」については、その態様も日時も不明であり、極めて真実性に乏しいと断ぜざるを得ない。
 この釈明書によって、病院調査の責任者である河野慶三氏への証人尋問の必要性は、さらに一段と高まったといえる。

第1 本準備書面の骨子

1 本書は、河野慶三証人(以下、「河野証人」という)が、当時の水俣病認定制度において担ってきた決定的な役割を主張し、同証人の証拠調べの必要不可欠性を主張するものである。
 すなわち河野証人は、本件溝口チエ認定棄却処分の手続きのうちで、とくに(昭和54年)病院調査に関与し、河野氏こそがこの頃の被告側病院調査の立案・実行者であったことを明らかにする。

2 しかも、河野証人は当時、被告の認定制度を代表して、病像論において理論上、「感覚障害のみで有機水銀中毒(水俣病)」と言明しており(甲第162号証)、河野氏の証言によって、被告の認定手続きの矛盾・違法が明らかになるのである。

3 河野証人は認定制度の転換期における決定的に重要人物であり、被告はこのような人物に業務として病院調査を命じておきながら、その調査の経緯が全く不明であるなどということは絶対にあり得ない。
 ちなみに、同氏は退官後も公的な場所で水俣病事件についての発言をしており(甲第130号証6頁)、水俣病認定制度における、キーマンであったことは明らかなのである。

4 事実は、原告にとって決定的な河野報告書があるのであろう。
 だからこそ、被告は「調査結果は分からない」などと言う、行政としてあり得ない答弁をして、重要調査結果を隠蔽しているのである。

5 原告は今後の準備書面で、同証人と関連して乙第111号証以下の被告側行政書類を分析し、被告側の認定手続きにおける謀略を明らかにするものである。

6 このように河野氏は本訴訟にとってもキーマンであり、被告は河野証人の病院調査に関して公的な責任があり、調査は公務としてなされたのである。
 それにも拘わらず、被告は河野氏の陳述書すらも提出しない。
 このように疑惑が明かである渦中の河野氏の証人調べに反対することは、裁判手続の公正さからいっても、立証責任のある被告の立場からいっても到底許されないことである。

7 ところで、現在問題となっているアスベスト被害者の救済は、疾病の発症は30年以上であるので、直ちに住民票の確認、住民調査と民間カルテの収集保管しなければならないと言われていて、厚生労働省通達で各都道府県はこれを実行している。
 無論、このような調査に反対する行政官・医者はいない。
 それにも拘わらず、同じ広域健康被害の水俣病においては、被告はこのような調査方法を、現時点でも否定している。
 被告が実質的な答弁拒否、溝口チエの被害記録を隠蔽し、原告の立証を妨害する行為は、決して許されない。

第2 河野氏の略歴

1 河野慶三氏は1945年に生まれ、神経内科の専門医師であり、医学博士であった。

1970年、名古屋大学医学部卒業。
1980年、厚生省入省。
1983年9月、環境庁より熊本県へ出向。
1986年、労働省主任中央じん肺診査医。以降、産業医科大学助教授、自治医科大学助教授を経て、現在は富士ゼロックスの全社産業医である。

 被告は河野氏の生死すら隠蔽するが、上記の程度のことは、甲第130号証5頁、2004年5月1日、自治医科大学地域医療情報研修センターで開催された産業医学研修会における同人講義資料『メンタルヘルスケア概論』で、河野氏自身が明かにしていることなのである。

2 甲第162号証(1984年2月17日付け熊本日日新聞)によると、「河野氏は神経内科の医師で、昨年9月、環境庁から県に出向してきた。」

3 熊本県在職期間は、県庁・人事課の『職員録』によると、昭和58(1983)年9月より昭和61(1986)年3月まで。役職は、公害部首席医療審議員(医療職、部次長級)であった。

4 なお河野氏が就任した、医療審議員制度は、昭和52(1977)年6月28日、水俣病に関する関係閣僚会議が、「水俣病対策の推進について」検討をおこない、「熊本県の幹部職員として国の職員を出向させ、現地の実情に即した業務の推進に資する。」として発足が決定した。

5 水俣病認定業務は国の機関委任事務であったから、河野氏は「国から出向の県幹部職員として」水俣病に係る国の政策判断・意志を体現しつつ、熊本県の水俣病対策業務全般の方向性決定、意志決定に高度に関与していた。
 従って詳細は後述するが、河野氏は本件における「病院調査」等の“手続論”のみならず、公害部主席医療審議員として水俣病の“病像論”の決定についても、主導的な役割を果たしていたのである。

6 ちなみに河野氏と国との意思疎通について一事例を示すと、

(1) 1985年8月16日に、水俣病第二次訴訟控訴審判決があり、同日、同訴訟原告らは県庁で熊本県と交渉があった。
 席上、中川公道公害部長ら県側は「司法判断は行政認定のよりどころにしている(昭和52年)判断条件とは異なるので、環境庁と協議したい」との意向を示したが、河野氏は積極的に「患者救済につながるよう環境庁と話し合う」と述べていた。(甲第131号証、1985年8月17日付け西日本新聞)
(2) 当該発言中の「協議」「話し合い」が実際に行われたか否か、また行われたとして、その経過・内容はいかなるものであったかは不明であるが、環境庁は1985年10月11日・12日の両日「水俣病の判断条件に関する医学専門家会議」を開催した。
 そして15日に「意見」を公表し、昭和52年判断条件は医学的に妥当、と結論づけた。
 河野氏の上記発言にてらし、河野氏はこの会議に関与していたと思われる。
(3) 河野氏の環境庁での役職等詳細は不明であるが、この「医学専門家会議」を構成していた8名の委員は、すべて河野氏と同じく神経内科学を専門としていたので、河野氏が「意見」の作成に一定の関与をしていたと思われる。
 ちなみに同会議の座長は祖父江逸郎氏で、河野氏は同座長と、「Parkinson病に対するL−DOPAの効果−二重盲検法によるTrihexyphenidylとの比較実験を中心として−. 医学のあゆみ 1970:75:95−105」を、共同で論文発表をしている仲である。
(4) ところで、水俣病第二次訴訟控訴審判決と、同判決を契機として開催された「昭和60年医学専門家会議」、およびその「意見」の内容の分析に関しては、日本精神神経学会『精神神経学雑誌』第101巻第5号、470頁ないし489頁(甲第26、27、113号証)、や甲第93号証の津田敏秀先生の「意見書」に詳しい。

第3 河野慶三氏と本件との関連性

1 河野氏が溝口チエ棄却処分に関係する場としては、大略(1)手続論(2)病像論の2点に整理することが出来る。

2 手続論における関与
 言うまでもなく、溝口チエは膨大な「未検診死亡患者」の一人であった。
 そこでチエ存命中の1970年代以降、申請患者らがいかなる問題提起を行っていたのか、また、被告・処分庁がいかなる認識を有していながらどのように対応していたかをまず概観すると、河野氏の関与の意味も浮き出てくる。
 とくに被告側の認定「不作為」について概覧することが重要である。
 この点、年表的に確認し得る事項は多数あるが、溝口チエとの関連においては、「民間資料の扱い」、「病院調査」、また民間資料(主治医診断書、カルテ等のデータ)より審査会資料への「転記」「要約」などの問題が重要である。

3 病像論での関与
 被告・処分庁らの認識や対応、それと同時に河野氏の発言については、年表的に概覧することが、便宜であると思う。
 とくに河野氏が「感覚障害のみで中毒学の理論上、有機水銀中毒(水俣病)」との発言は重大である。

4 河野氏発言に関しては、乙第122号証、すなわち病院調査実施の決裁に係る1984年当時の発言をはじめ、後記第4で列挙する。
 また、行政不服審査請求口頭審理速記録での発言を指摘する。

第4 水俣病問題をめぐる当時の状況

 以下、溝口チエの手続論と病像論に関連する当時の重大事件を、問題点ごとに列挙する。
 そして、河野氏が特定されている事件は、★★★印を付ける。
 また、裁判所の理解の便のため、特に重要な事件に付いては、月日の後に、<手続>、または<病像>或いは<民間資料取り扱い>などと表記し、その事件の特質を指摘する。

1 不作為違法確認訴訟の問題

1974年8月1日
 溝口チエが認定申請をなした。

1974年12月13日<手続>
 水俣病認定申請患者協議会(申請協)に属する申請患者406名が、熊本県を相手取り「認定申請から処分まで50日位で充分であるのに3年から14年もかかっているのは、認定が遅れているのは、県行政の怠慢である」として〈不作為の違法確認訴訟〉を熊本地裁に提起。また同日、県議会に対し訴状同趣旨の公開質問状を提出した。

1976年12月15日<手続>
 不作為違法確認訴訟について、熊本地裁判決があり、「法の目的は迅速な救済。認定処分の遅れは救済を受ける権利の実質的否定、申請者のいわば泣き寝入り。人道上からも条理上からも到底容認することはできない。」と、厳しく行政の怠慢を指摘した。

1976年12月28日<手続>
 熊本県沢田一精知事は、これまでの行政の怠慢を認め、被害者にこれ以上の負担と時間を掛けぬことを決意し、熊本地裁判決に控訴しないことを表明した。

1976年12月30日
 熊本地裁判決は確定したが、しかし、不作為違法状態はなんら解消されなかった。

1977年2月21日
 そこで、申請患者8団体、県知事と交渉し、不作為違法状態解消策につき、@県は具体策を示すことA汚染地区住民に国と県で被汚染者健康手帳を交付し、水俣病像の解明に努力すること、など3項目について追及したが、行政からは回答が得られなかった。

1977年3月17日
 申請協と県とが再交渉をし、具体策の提示を求め、知事室前に座り込んだ。

1977年4月11日<手続>
 沢田一精熊本県知事は申請協に謝罪文を提出した。
 公保第38号で、「今日のような事態を招来したこと、また不作為違法判決以後今日までの間この違法状態を解消するための具体的対策を講じられなかった・・・申し訳なく存じている」という、内容のものであった。

1978年2月24日
 申請協は、不作為違法判決確定後も行政の患者放置状態に対し、熊本県庁と環境庁において、同時に座り込みを開始した。

1978年2月28日<手続>
 熊本県浜田一成公害部長は、「水俣病認定制度について」との文書で制度の破綻を公式に認めた。

1978年12月15日
 申請協は患者放置の状況に対して、さらに熊本地裁に「不作為制裁(待たせ賃)」訴訟を提起した。

2 偽患者発言の問題

1975年8月7日
 熊本県公害対策特別委員会(公特委)委員らが、環境庁で水俣病問題について陳情した。席上、公特委・杉村国夫委員長、県議・斉所一郎委員「水俣病申請者のなかには、補償金目当てのニセ患者も多い」「認定審査会はこうしたニセモノとホンモノを見分けるのに苦労している」等の暴言を述べた。

1976年12月6日
 申請協は、上記暴言をなした杉村、斉所両名に対し、名誉毀損の損害賠償を求め熊本地裁に提訴した。

1980年3月24日  熊本地裁・堀口裁判長は、両名の名誉毀損を認定し、県知事名での謝罪広告掲載を命じる判決をなした。

3 水俣病第二次訴訟の問題

1979年3月28日<病像>
 水俣病第二次訴訟に対して熊本地裁が判決を言い渡した。
 即ち「水俣病を単にハンター・ラッセルらの主症状を具備したもの、もしくはこれに準ずるものといった狭い範囲に限ることは相当といえず」「各人の症状につき有機水銀摂取の影響によるものであることが否定できない場合には、これを本訴において水俣病として捉え、損害賠償の対象となすを相当とする」
 「合併症が存する場合にも、当該症状のすべてが明らかに他疾患を原因とするものであることが認められる場合を除き、当該症状について有機水銀摂取の影響の有無を判断していくものとする。」
として、原告14人(うち死者1名)中12人(うち死者1名)を認定した。

1979年5月29日<病像>
 衆院公害環境特別委員会で上村環境相が、第二次訴訟判決につき問われ、「現行判断条件を否定したわけではなく、判断条件は見直さない」と答弁した。

1983年11月4日<病像>
 第二次訴訟・一審判決で「水俣病とは認められない」とされた原告・坂本武喜が、1983年2月に死亡(72歳)し、解剖の結果、認定された。

4 溝口チエの手続の問題

1977年7月1日<病像>
 環境庁環境保健部長通知(昭和52年環保業第262号)「後天性水俣病の判断条件について」−いわゆる「52年判断条件」がなされた。(甲第9号証)

1977年7月1日<手続>
 溝口チエが水俣市立病院で逝去した。

1980年8月2日<病像><手続><民間資料取り扱い>
 熊本県認定審査会(三嶋委員、岡嶋委員)と患者各派(関西患者の会、申請協、津奈木・明星会)との定例話し合いが行われた。
 この席で、関西患者の会、「なぜ、主治医の診療データを審査会で使わないのか。」「検診センターで独占する理由は何か。」「阪南病院のデータを使えないか。」等、「民間資料の扱い」につき質問と申入れを行い、回答を得た。(甲第132号証、甲第133号証『水俣』1980年8月25日、第126号、3頁)

1980年8月29日<同上>
 民間資料の扱いについて、患者は大阪で「上申書運動」を開始した。
 そして関西患者の会、8月2日申入れに係る件につき熊本県に対しこの日付けで「上申書」を提出した(甲第134号証、1994年7月14日付け「回答書」、及び甲第135号証 関西水俣病訴訟平成元年9月25日「第12準備書面」)

1982年3月23日<同上>
 申請協は、県議会公特委に対し「水俣病認定審査の資料として民間開業医のカルテ採用」など三項目の実現を訴えた。
 同項目は、1980年9月19日以来展開・継続してきた「棄却のための検診は拒否する」との“検診拒否運動”中止条件のひとつを提示したものであった(甲第136号証 1982年3月24日 熊日)。

5 行政の認定手続の不作為の問題

1981年6月26日<手続−未審査死亡者の問題>
 申請協、水俣病患者連盟など6団体が、水俣市で熊本県と交渉した。
 県公害部木原章三次長ら県側は「不作為違法状態は解消しておらず、事実上認定制度は破綻している」と再び認めた。
 この際、「未審査死亡者が180人いる」と明らかにした。

6 剖検の問題

1981年8月1日
 熊本県が環境庁に対し「病理解剖による水俣病判断条件の整備」を要請した。
 この点の「病理認定基準」は、2005年現在も文書としては不存在である。(熊本大学医学部・二宮正氏の質問に対する熊本県回答。−後日、確認文書を提出する。)
 この問題は、〈病像〉にも、〈手続〉にも重要なことで、「臨床検診」の限界、病理の根拠の再確認の必要性の問題であった。

1983年10月<剖検認定>
 10月22日付け熊本日日新聞<水俣病潜在患者の周辺>
「ことし8月末までの解剖数は253人。うち138人が認定され、115人が棄却されている。認定率は54.5%。全体の認定率がここ数年10%前後であることから死亡解剖による認定はずば抜けて高率だ。」と指摘している(甲第141号証)

1983年11月4日
 熊本県、第二次訴訟で棄却の坂本武喜を死後解剖で認定。

1984年3月<剖検認定>
 6日付け毎日新聞は「水俣病 増える剖検認定」とのリードで、「公害健康被害救済法施行(昭和45年2月)以降、昨年末までに、県に申請し、解剖後に処分が出たのは262件。うち認定144人で認定率は55%。144人のうち15人は臨床所見で一度以上棄却された人たちで、いわゆる“逆転認定”なのである。」と指摘している。

7 水俣病事件に関する国の責任の問題

1982年6月21日
 新潟水俣病・第二次訴訟を新潟地裁に提起し、患者の救済はもとより、水俣病事件に関する国の責任を追及した。

1982年10月28日
 チッソ水俣病・関西訴訟を大阪地裁に提起し、同様に国家賠償を請求した。

8 資料転記の問題

 国・県は、一貫して転記の理由、即ち原カルテを裁判に提出しない理由として、「検診医の氏名入りカルテが申請者本人の目に触れれば、原告が検診医を追及し、検診医に迷惑を及ぼす」などと主張していた。(甲第135号証、平成元年7月14日付・大阪第12準備書面)

1983年2月28日<手続>
 ところが、第一次認定棄却取消訴訟の第16回口頭弁論で、熊本県認定審査会副会長岡嶋透氏に対する原告主尋問が行われ、原告代理人による質問で、「なぜ原カルテを提出できないのか」「4名中2名の原告についての棄却理由を」との尋問に対して、証人の岡嶋氏は「原告・荒木氏の審査会資料には『運動失調』との書き込みがある。記載が事実であれば、故荒木氏は認定されて当然」「しかし、事実として棄却されたのだから『運動失調』との書き込みは“消し忘れたのだろう”」などという、転記のでたらめさを自白する証言をした。
 また、原告コピーの資料には検診医氏名が記入されていた。
 そこで原告代理人がこの点を指摘したところ、岡嶋氏は「検診医の氏名表示で検診医が不利益を受けたことはない」「この氏名入り資料を使っての責任追及も皆無」と証言した。
 従って、被告・行政が原カルテの提出を拒否する理由は、実際には不存在であることが、明らかになった。

1985年6月25日
 6月25日付熊本日日新聞と西日本新聞(甲第148号証)で、県が水俣病認定業務の資料作成にあたり、認定申請者が死亡後に、検診を受けたとする審査資料を作成し、審査会に提出していたことが暴露されている。

9 県債の問題
1983年3月21日付け朝日新聞(甲第137号証)によると、水俣病判決から10年で、未審査のまま亡くなった申請者は実に276人にのぼっていた。
 また「熊本県発行の県債は、すでに患者補償に213億円、ヘドロ処理負担分270億円、チッソの累積赤字は700億円近くに達する。」というものであった。

1985年5月30日(状況−チッソ経営、県債の関係)
 県議会公特委。県、チッソ(株)と主要子会社の昭和59年度決算概況を報告。チッソ、他は水俣病患者補償支払い・水俣湾ヘドロ処理負担金・県債利子など水俣病関連で93億3千万円の特別損失を計上。累積赤字は899億円。(5月31日付・熊日)

10 審査会の問題

1983年2月3日付け毎日新聞「ひと」欄(甲第138号証)で熊本県水俣病認定審査会長・三嶋功氏(65)は、「未検診のまま、死んでいった人が250人以上もいる。」と発言していた。
 同年7月23日付け朝日新聞で同三嶋氏は、さらに「水俣病かどうか医学的判断がつかず11年を最高に長期間答申保留になっている申請患者1478人について『大半は水俣病ではないが、審査委員全員の意見が一致しないため医師の良心から保留にしている』、と保留の審査内容を初めて明らかにする一方、不作為制裁(待たせ賃)訴訟(1983年7月20日の)判決について批判」した(甲第139号証)。
 なお、この「全員一致」の点であるが、熊本県条例は「過半数」による審議を要請しており、「全員一致」との条文は存在しないのである。
 このように三嶋審査会長以下、審査会の認識と運用は、全く恣意的であった。

1983年6月23日
 同日付朝日新聞で、「水俣市立病院が、水俣病認定申請に必要な診断書を昭和54年度以降一通も発行していないことが明らかになった。」「ため、ほとんどの人が民間の病院から診断書を発行してもらっているようだ。」「これについて、市立病院の田浦孝事務部長は『最近、一通も発行していないのは水俣病の専門医がいないためだ』」などと弁解している。(甲第140号証)

1983年7月20日<手続>
 不作為制裁(待たせ賃)訴訟に関しても熊本地裁が請求認容の判決を言い渡した。
 環境庁は即日控訴し、熊本県も8月1日に控訴した。

1984年3月6日<未処分死亡者>
 毎日新聞は「ほかに『体を切り刻むのは・・・』と解剖を望まない遺族も多く、未処分のままの死亡者は329人にのぼる。」と鋭く審査会の問題を指摘している(3月6日付毎日、甲第142号証)。

★★★1984年5月<地域状況>
 5月17日付熊本日日新聞(甲第143号証)は「大字単位の水俣病認定申請率 県が公表」「この資料は・・・河野慶三県首席医療審議員が独自にまとめ提出した。」と、河野氏の権限の大きさを報道している。

1984年8月20日<地域状況>
 県議会公特委が、県、水俣市と芦北郡3町62地区の申請状況を報告し、11ヵ所が申請率が住民の10%以上だと報道している。

★★★1984年8月24日<手続>と<病像>
 熊本県、病院調査の実施につき、部長レベルまでの決裁がある。
 担当者は河野慶三首席医療審議員である。(乙第122号証)

1985年1月14日<手続>(民間資料の扱い)
 県議会厚生常任委員会で伊藤明敏公害保健課長が答弁し、「未処分のまま放置されている死亡申請者の取り扱いで、指定機関以外の民間カルテも参考にして何らかの処分をしたい。」と述べている。

1985年1月14日<手続>(未処分死亡者)
 県議会で伊藤課長は、「現在、県が抱える未処分申請者5100人余りの中に死亡申請者が350人程度含まれている」ことも明らかにした。(甲第144号証、1985年1月15日付け熊本日日新聞)

★★★1985年2月27日<病像>
 公害健康被害補償不服審査会・口頭審理で河野氏、1984年2月の同・口頭審理では、「理論的には感覚障害だけの有機水銀中毒(水俣病)はありうる。」「しかし、県としてはそういう例は認定していない。」と発言。この日「感覚障害だけでの認定例」の存在を認める発言した。(甲第145号証2月28日付け西日本新聞、甲第146号証2月28日付け読売、毎日新聞)

1985年5月29日
 この争点について、熊本県は環境庁の行政不服・口頭審理(於・熊本)でも認定事例の存在を認めた。

1985年5月27日<病像>(審査会委員らの認識)
 水俣病第三次訴訟・第32回口頭弁論、(熊本地裁)で、荒木淑郎・熊本大学医学部教授兼臨時水俣病認定審査会委員が証人になり、「昭和52年の判断条件が示される以前には、感覚障害だけで胎児性水俣病患者の母親が認定されたケースがある」との証言。
 また、椿忠雄元新潟大教授も「新潟のケースで、疫学条件と四肢末端の感覚障害のみで認定された例がある」と証言した。(甲第147号証、5月28日付け熊本日日新聞)

1985年7月<手続>と<病像>(不作為、未処分者の問題等)
 申請協、東海地方患者互助会、関西チッソ水俣病患者の会は、7月5日付けで熊本県水俣病認定審査会に対し、不作為、未処分死亡者等の件につき、各委員あて公開質問状を発送した。
 これに対して17日、審査会会長・三嶋功氏が回答をよせ、未処分死亡者の責任を回避している。(甲第149号証。『水俣』1985年9月5日、6頁)

11 第二次訴訟高裁判決の問題

1985年8月16日
 水俣病第二次訴訟の控訴審判決が福岡高裁で言い渡された。
 判決は「病像」については、「水俣病症状のうち遠位部優位の手袋・足袋様の知覚障害は、頸椎変形症による場合との判別困難な例がないではないが、極めて特徴的な症状であるので、このような知覚障害の診断所見しか得られない場合も、当該患者の家族に水俣病症状が集積し疫学条件が極めて高度と認められれば、右症状が他の疾患に基づくことの反証がない限り水俣病と認定できる」と、判示した。
 また、「昭和52年判断条件」については、「環境庁が示した“後天性水俣病の判断条件”は、協定書所定の補償金を受給するに適する水俣病患者を選択するための判断条件となっているものと評せざるを得ず、広範囲の水俣病像を示す水俣病患者を網羅的に認定するための要件としてはいささか厳格に失する。そして、水俣病認定審査会の認定審査が公害病救済のための医学的判断に徹していないきらいがあるのも、一旦、水俣病と認定すると、水俣病の症状がごく軽微であっても患者は前記協定書により最低1,600万円と附帯の損害金及び月々所定の手当金を受けることになっていることにあると思われる。」

★★★1985年8月16日
 同訴訟の原告らは、県庁で中川公道公害部長・河野慶三首席医療審査員らと交渉した。
 席上、中川県公害部長「(敗訴したチッソは)上告すべきことではない」
 河野氏「申請者の立場を十分尊重して、患者救済につながるよう環境庁と話し合う」と発言した(甲第131号証、1985年8月17日付、西日本)

1985年8月22日(県議会)
 熊本県議会公害対策特別委員会も同判決に議論が集中した。

1985年9月5日
 井形昭弘・鹿児島大学教授は朝日新聞「論壇」に投稿し、「判決は従来認められていなかった広いボーダーライン層を認知したものと言うべきであろう。この層を認める事は、汚染を受け訴えのある人びとに対する現実的対策としての広い救済を可能にするもので、医学的な判断とは別に社会的な意義が高いと考えたい。」と、無責任な主張をしている。

12 医学専門家会議

1985年10月11〜12日
 環境庁で「水俣病の判断条件に関する医学専門家会議」が開催された。
 同・会議の内容を伝える13日付け西日本新聞、解説記事見出しは「司法との対立鮮明に」また、チッソ水俣病患者連盟委員長川本輝夫氏のコメントは「司法軽視」と指摘している(甲第150号証)。

1985年10月15日
 環境庁は「水俣病の判断条件に関する医学専門家会議の意見」を公表した。

1985年10月16日
 そこで、この日付け熊本日日新聞「感覚障害、単独で現れず」、朝日新聞「感覚障害、切り捨て報告」と、直ちに批判した。

1985年11月29日
 不作為制裁(待たせ賃)訴訟が、福岡高裁判決で原告患者勝訴の言い渡しを受けた。
 環境庁は12月4日に、熊本県は12月12日に上告した。

1986年3月27日
 第一次認定棄却取消訴訟も熊本地裁で判決を受け「原告4人全員についての水俣病認定申請棄却処分を取消す。」との、全面勝訴判決であった。
 3月29日に被告・熊本県は控訴した。

1997年3月11日
 同訴訟の控訴審判決が福岡地裁で言い渡された。
 原告御手洗氏が、再び勝訴。
 鹿児島県知事は、早くも3月26日に御手洗を認定した。
 なお、同判決前に、御手洗を除く3名の原告は、政府解決策の給付を受けるために訴訟を取下げていた。

第5 認定資料に関する河野氏等処分庁職員の発言

1 はじめに

(1) 乙第122号証ないし乙第125号証との関連において、昭和59(1984)年当時の、河野氏等処分庁の職員の発言を検討する。
 前節で概観した通り、当時、水俣病認定申請患者らや訴訟原告患者らは、国ならびに処分庁・熊本県に対し、認定審査会やその各委員らに対し、その不作為に係る事項につき、くり返し問題の所在を指摘し、時には座り込みという手段で、法の目的・趣旨の実現、矛盾の解消を迫っていた。

(2) 病像に関しては、つねに昭和52年判断条件、またこれを医学的に妥当と結論づけた医学専門家会議の「意見」が論争の的であり続けた。

(3) 現在、すなわち2004年10月15日のチッソ水俣病関西訴訟最高裁判決後の今日に至ってもなお、同訴訟勝訴原告は公健法上は棄却あるいは保留として放置されている状態にある。
 環境省は、2004年10月15日当日、関西訴訟団との交渉の席上、「公健法上の水俣病と判決が示したメチル水銀中毒症とは異なる」などと発言。以降も原告患者ら関西訴訟団が要求しつづけている「判断条件の見直し」「公健法上のすみやかな認定」を拒否し続けている状況である。
 まさに、行政の意図的な不作為、司法の無視としか言いようがない。

(4) そこで本節では、上記関西在住患者ら、また熊本県在住の水俣病認定申請患者らが請求人として提起した行政不服審査請求、その『口頭審理速記録』を主たる資料とし、河野氏、処分庁の認識、発言を分析する。

(5) そこで甲号証の番号として、行政不服審査請求の口頭審理開催日に即して、

熊本の審尋
1984年2月14日を甲第151号証、
2月15日を第152号証、
11月27日を第153号証とし、

大阪の審尋
1984年4月24日を第154号証、
4月25日を第155号証、
9月18日を第156号証、
9月19日を第157号証、
とする。

2 手続論 民間資料の扱い・病院調査についての河野氏らの発言

(1) 甲号証による発言の確認

熊本・1984年2月14日 甲第151号証

P.9 中島処分庁側代理人「民間資料の扱いについては、公平・公正の観点から原則として採用しないということでございます。」

★★★P.9 河野「判断の材料としてその診断書を採用するということはしておりません。」

PP.15−17で代理人・川本輝夫、高倉史朗に、昭和48年9月13日衆議院・9月20日参議院での決議「主治医の診断が尊重されるよう配慮すること」に関して、

P.17 高倉「全く配慮されていないことになるわけですけれども、よろしいのですか。」との質問に対し、

★★★P.17 河野「結果としてはそういうことになりますけれども、私どもは審査会と話合いの末で、公平・公正という観点から、診断書については判断の材料にはしないということでやっております。」

P.17 高倉「それはいつから始めておるのですか。」との質問に対し、

★★★PP.17−18 河野「最初の段階からだと思います。」「診断書を見て、ここに所見があるから、この所見を採用して認定しようとか、棄却しようとかということを考えたことはない」

P.18 川本、昭和54年に民間カルテ収集による認定棄却処分事例を挙げ、河野に訂正を求める。

大阪・1984年4月24日 甲第154号証

P.78 竹岡代理人、昭和45年1月26日・厚生省庶務課長から熊本県企画部長あて「救済法による認定に際しての医学的検査の実施について」通達につき述べる。
 これを受けて、

★★★P.78 河野「原則として、私どもの検診センターで行った検診資料以外は用いていません。」
 さらに、

P.78 「亡くなった方については、できる限り資料を集めて判断しろという別の通知がございますので、それで病院調査とかやっております。」

P.87 川本代理人「45年の課長通知では、適当な民間の医療機関を通じて救済を早くしなさいと書いてあります。」
 また、

P.88 内田代理人「検診センター以外の資料は用いていないとおっしゃいましたので、その法的な根拠は何ですかと聞いているのです。」
 川本代理人「阪南中央病院の資料についても、使わないという法的な根拠はないわけですね。法的な断る理由としては。」これに対し、

P.88 二神処分庁側代理人「法的な根拠はございません。」

PP.88−89 竹岡代理人「県の行った検診資料以外の医学的資料を使わないというのは、県知事と審査会との取り決めですか。」「取り決めですね。」との質問に対し、

★★★河野「お互いにそれを了解し合っている。・・・その実態を了解し合っているという状態です。だから文書だとか何とかはないのです。」

大阪・1984年4月25日 甲第155号証

P.3 竹岡代理人「法の趣旨を徹底すれば、主治医の診断書などを尊重して早期に結論を出す、そういうふうに考える方が法の原則と言えないでしょうか。」
 これに対し、
 渦巻処分庁側代理人「現在の方法がベターである。」

PP.11−12 三浦(医師)・補佐人に審査会における診断書の扱いについて問われ、

★★★PP.11−12 河野「一応委員全員に配ってはいませんけれども、必要があれば確認できるという形になっていますので、使おうと思えば使える状態です。」

P.12 三浦補佐人「あなた方の恣意で、使う使わないということではなくて・・・判断する際の材料の一つとして全員に用いられないといかんのではないですか。」「出す医師の方は、それが一つの判断の材料として検討されていると思うからこそ出してきている」

大阪・1984年9月18日 甲第156号証

P.25 中島処分庁側代理人「前回の宿題でございます、民間資料の使用についてということでございますが、死亡者につきましては従来からずっと使用いたしております。」
 さらに、

P.28 松本代理人、昭和55(1980)年に審査会が患者の団体に回答した内容につき質問、これを受けて、

★★★P.28 河野「その文書を正式に読み上げます。」
 中島「死亡者については、できるだけ広く資料を収集するため、全員について病院調査を実施しています。」
 本件に於て、原告は、この9月18日河野、中島両名発言に係る当該回答文書「公保第741号」、それに先立つ1980年8月19日付け「公開質問状」とをあわせ一体として、甲第132号証5頁として提出する。

大阪・1984年9月18日 甲第156号証

PP.29−30 松本代理人から民間資料の扱いについて質問されて、
 河野「我々が進めている作業が非常に能率が悪くなる、ということが一番大きな問題」というのに対し、
 松本、処分庁の従来主張「公正・公平の担保」にあらたな理由を付加したことにつき、また国会附帯決議の無視につき批判。

熊本・1984年11月27日 甲第153号証

PP.1−2 村上処分庁側代理人「診断書は、今年10月から審査会の全委員の手元に配布しております。個々の委員が診断書の記載を見た上で審査会資料を検討するということで、県の方も理解をしております。」
 つづけ、

P.2「検診未完了の死亡者についてはできるだけ広く資料を収集するため、全員について病院調査を実施することにしております。」「なお、ごく初期には審査会に主治医の出席を求めたことがありますが、これは病院調査と同じ趣旨でございます。」

PP.7−8 (P.7、で)高倉「(民間資料を)使うのか、使わないのかもはっきりしないままうやむやにされてきた、というのはおかしいんじゃないですか。やはり手続上の誤りじゃないですか。」また吉永代理人が資料収集によってこそ正確さ、客観性の担保が可能な旨の発言。
 これを受けて、

★★★P.8 河野「死亡者の場合は、環境庁の通知もありまして、そういう姿勢で我々はやっているわけです。」

3 手続論の結論

(1) 甲第132号証(公保第741号、昭和55年10月14日付け、熊本県公害部長の回答)にてらし、遅くともこの時点で既に被告・処分庁は未検診死亡者については「全員について病(医)院調査を実施して」いたものである。
 チエ死亡より3年後の回答である。

(2) 河野氏の県公害部着任は1983年9月である。
 以降の当人自身の発言、また処分庁職員の発言にてらし、乙第122号証に係る病院調査・民間資料の収集は実施していたものと思料する以外にない。

(3) 原告としては、河野氏は実際に病院調査を行った、と考えざるを得ない。
 年表的に概観し得た数項のみでも、申請患者らが提起し続けた未検診死亡者の問題、その切実性は、被告にとっても重要課題として認識していた緊急の事項であろう。
 また仮に、決裁にまで至っていながら行っていなかった、とすれば、単なる職務専念義務に対する違背・違反を通りこしての違法・異常な不作為である。

(4) 被告は第10準備書面において、この件に係る決裁より以降の文書は不存在である、と主張する。
 ところが、この主張自体が異常であって、文書が実際に不存在であるならば、河野氏本人の陳述書を提出しえた、またすべきであった。
 不可能な理由を原告が思料するに、調査結果は実は隠蔽されている。

4 病像論に関する、河野氏等の発言について

(1)甲号証による発言の確認(行服口審速記録)

熊本・1984年2月14日

P.28 川本代理人「国の定義は、中枢性神経疾患という定義です。」「問題は、いわゆる水俣病はハンター・ラッセル症候群以外はないのだと主張されるかどうかです。」

P.29川本「判断条件に該当しない水俣病があり得るのか、ないのか。この前棄却取消の訴訟でも、『あり得る』と岡嶋先生はっきり言っておられます。」

熊本・1984年2月15日

PP.6−7 高倉代理人「水俣近辺で起った有機水銀中毒症において、四肢末梢型の感覚障害だけの水俣病、有機水銀中毒症というものは、あり得ないということですね。」
との質問に対し、

★★★P.6 河野「可能性としてあるということまでは否定できない」

P.7 同「理論上あり得る。」「中毒学の理論上」

★★★P.44 河野「(氏名)さんは曝露歴を認めておりますので、感覚障害があれば、その感覚障害が有機水銀の影響によって起ったという可能性は捨て切れないと思います。」

★★★P.45 同「可能性があるということを言っているのです。」
 この点、

P.45 川本「事務次官通知に言う、『影響を否定できない』という言葉になるでしょう。」
 との質問に対し、

★★★P.45 河野「それはそのとおりです。」

熊本・1984年11月27日

P.16 高倉代理人、待たせ賃裁判第15回口頭弁論(昭和57年4月16日)における熊本県公害部主席医療審議員・野村瞭の証言につき述べ、2月14日以来の争点・論点の確認を行う。
 すなわち、
 原告代理人「感覚障害だけの水俣病というのはあるんですか、ないんですか。」
 野村証人「理論的にはありうると思います。」

(2) 原告は、(1)で確認した河野氏、野村氏発言関連資料として「水俣病認定申請棄却処分取消請求の訴、準備書面其の8、昭和60年5月24日」を提出する。(甲第158号証)
 なお、野村氏の在職期間は昭和52(1977)年8月〜昭和60(1985)年7月である。

(3) 上記論点に係る資料として、原告はすでに、甲第56・58・59・64・82・83号証を提出済である。

「1991年中公審議録」より−

第1回(2月26日)・P.24・環境庁事務局によれば、「52年の判断条件につきましても、行政の通知でございますので、100パーセント医学的な診断基準ではないわけです。」

第6回(10月9日)・P.32・同「水俣病に関して純医学的な面から医学者の方がつくられた診断基準というものがない」

第7回(10月29日)PP.55−57、井形昭弘委員長、浅野直人委員、環境庁事務局らの認識として「メチル水銀の影響を受けて、四肢の感覚障害のみを有する者はあり得る」

(4) すなわち、河野、野村両氏ともに環境庁より熊本県に出向、公害部首席医療審議員であり、「メチル水銀の影響を受けて四肢の感覚障害のみを有する」水俣病の存在を、「理論上」あり得る、また実際の認定事例もあること、を認識済みであった。
 とくに、野村氏の専攻は公衆衛生学であった。
 被告らの政策判断による、医学の歪曲・無視は、本件における被告主張と、軌を一にしている。

5 審査会資料作成、とくに「転記」に関わる問題について

(1) 上記に係る本件、求釈明事項は既に提出した準備書面に記載の通りである。以下についても実態は明らかにされるべきである。

(2) 河野氏在職時に申請患者、行政不服審査請求人、同代理人、同補佐人らが指摘した事項は、同「速記録」の4月24・25日分の通りである。
 疎明資料として『水俣』1984年6月5日号(甲第159号証)、また同年12月5日号(甲第160号証)を提出する。
 さらに、数点指摘をしておく。

大阪・1984年4月24日

P.74 (代理人に県の「所見一覧表」について問われて)河野「原カルテに書いてあるとおりはもちろんここに全部書き表せませんから、要約した形でここに示しています。」

1984年4月25日

PP.22−23 処分庁側代理人・末満「原カルテをここに写すのは、審査会の委員もしくは専門委員でございます。」
 しかし、

1984年9月18日

P.17 同・末満「不完全な転記がございます。」

(3) 1985年6月25日付け熊本日日/西日本新聞報道は「日付のミス」という説明であった。

(4) 本年、明らかになった事例のひとつは「ひとのとりちがえ」というものであった。(8月18日付熊日、「認定棄却の不服審査、県、別人資料を国に提出。」)

(5) いずれも単なる「事務処理上のミス」では済まされない。1981年4月には、検診未了患者が棄却処分とされた事例も存在する。(1981年4月11日付熊日、4月13日付熊日)
 従って、被告・行政側のなした資料の作成・転記は、真実である信用性がまったくなく、原票しか証拠能力はないのである。

以上

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