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原告(溝口秋生)陳述書050226

 上記当事者間頭書事件につき、原告は下記のとおり陳述する。

第1 魚介類の入手方法、摂食状況について
1 知人、行商人他からの購入
(1) ジャコ等
(2) 鮮魚
2 親戚や知人から分けて貰って。また、米との交換
3 自家採捕と主な採捕場所
(1) 採捕 その1 とくにチエ
(2) 採捕 その2 とくに秋生
@ 川と山
A 潟(袋湾内)
B 海(袋湾内外)
C 海の採捕場所
第2 溝口チエおよび袋地域の状況
1 チエ本人の愁訴
2 流涎・味覚等家庭内で
3 「農作業」の実態など
4 近隣の状況
(1) 近所の住人の状況
(2) 溝口家及び袋地域での「奇病」観
(3) 認定後や補償を受けたのちに噴出した、激しい差別やねたみ
(4) 本人申請主義の矛盾、患者放置の実態
(5) 次男、Tの症状について
5 飼い猫、飼い犬の”奇病”など
(1) 飼い猫
(2) 飼い犬
6 改めて釈明を求める点
添付資料

第1 魚介類の入手方法、摂食状況について

1 知人、行商人他からの購入

(1) ジャコ等
 ジャコ(だし用のイリコ=煮干)等は、はじめは湯堂のIさんから昭和35年から36年頃まで、その後、茂道の網元のMさんから付き合いで買っていました。
 ジャコの入っている紙製の1斗袋ひとつの底がみえかけてきたら、また1斗分を買う、というようにしてを繰り返し購入していました。
 Iさんは父の喜三と友人でした。もともとはIさんが市内のTさんと友人で、そのTさんが父喜三と友だち、という付き合いからでした。

 ジャコの味噌汁は毎日の献立でした。
 ジャコはそのまま具として、家族全員が、朝と昼には必ず食べていました。
 また、フライパンに油を入れて熱くしてジャコを入れて、しょうゆをさして白ゴマを振りかけたものは、今でも妻が良く作る副食です。
 田んぼや畑、みかん山などに行くときのおやつは、ポケット一掴み分のジャコでした。
 ジャコは、紙製の1斗袋に入れて台所においてありました。この袋の底が見えかけてきたら、また1斗分買うということを繰り返していました。

(2) 鮮魚
 行商では、出水の米ノ津からやって来る行商人の「Nさん」から買っていました。
 私の家とは付き合いの長い人で、以前から(私が子どもの頃)通ってきていました。
 かといって、毎日まいにち買っていたわけではありません。が、ほとんど連日家に寄ってきてくれました。売れ残りが出た時には必ず寄りました。
 留守の折には、家の涼しい所に置いておいてくれました。精算は後でかまわない、といった信頼関係がありました。
 喜三は、晩酌に無塩(刺身)を食べるのが好きでした。

 大きな魚の頭などアラは、母チエや妻が大根やゴボウやらの野菜と一緒にアラ煮を作りました。
 煮汁は、魚からも野菜からもいいだしがでますから、私たちはこれをご飯にかけて食べたり、猫のご飯にかけて与えたりしていました。

 昭和30年代に、行商のNさんが魚を仕入れていただろう米ノ津でおきていた出来事についての新聞記事と年表を提出します。
 『鹿児島毎日新聞』の1959年8月19日付(甲第96号証)と、『南日本新聞』の昭和34年8月20日付の写し(甲第97号証)と、『水俣病−20年の研究と今日の課題』(甲第98号証)から、それを伝えた部分と行政の動きを記した年表です。

 これらの記事も年表も、2005年2月、弁護団事務局が私に送ってくれたものです。行政や大学など、当時の私たちには縁もなかったところの動きを、後から整理してまとめたこのような年表と、そのころの普段の暮らしとの間には、大きな隔たりを感じます。
 当時、このような騒動が起きていたとは知りませんでした。知らされていたら、誰しも当然、魚を買うのを控えるなどそれなりに警戒したでしょう。

 行政は、どうしてこの時点で、広く「魚を獲るな。売るな。食べるな」を徹底してくれなかったのでしょうか。昭和30年代、特に昭和34年は、私と妻が結婚した年です。母チエの身体の具合も悪くなっていた頃のことです。

 私たちは、昨日までと同じく、食べ続けていました。

 Mさんからは、だしジャコの他にも、湯がきたてのシロゴやいきのいいタレソ(カタクチイワシ)なども買っていましたし、またヒアジ(アジゴ)なども貰っていました。

 Mさんと同じ茂道のKさんからは、夏にはボラを買っていました。私とは小学校からの同級生です。「ボラ獲り名人」で有名でした。
 のちに川本輝夫さんたちと、棄却処分に対する、行政不服審査請求をおこなっています。

 川本さんKさんらの行政不服審査請求については、原田正純先生の岩波新書『水俣病』に紹介されています(甲第99号証 185〜196頁)。
 昭和46年8月7日、大石環境庁長官は、熊本県の棄却処分の取消しを裁決しました。
 川本さんもKさんらも逆転認定されています。この経過は、後から知ったことですが、しかし、逆転認定という結果は、当然と思います。

 鮮魚は、米ノ津からのNさんが、いつころからか通ってこなくなった後は、苗字は同じですが別のNさんをひいきにしていました。市内水光社のものを買っていました。

2 親戚や知人から分けて貰って。また、米との交換

 神ノ川は母・チエの出生地です。また、チエを長女としてその妹のW、M2らも神ノ川で生まれ育ちました。
 Wさんは、戦後ともに台湾から引き揚げてきたK2さんといっしょに神ノ川で畑を、主にはカライモを作っていました。
 M2さんは、神ノ川の漁師・K3さんと結婚しました。
 K3さんは、「流れ」とか「流れ船」と呼ばれていた打瀬船での底引網漁(やカシ網と呼ばれている刺し網漁)をしていました。
 打瀬船に関する添付資料として、『新水俣市史民族・人物編』160〜163頁(甲第100号証 3〜6頁)を提出します。

 網漁ですから、釣り漁では獲れないクルマエビ、クチゾコ(シタビラメ)をはじめ、ワタリガニ、カレイ、ナマコなどの底魚も獲っていました。

 昭和30何年だったか、流れ船を処分した後は、K3さんたちは一本釣りでアジなどを獲っていました。
 私は、幾度か船に乗せられ、一緒にアジ釣りに連れて行ってもらったことがあります。

 K3・M2さん夫婦の家は、水俣病関西訴訟原告のOさんが暮らしていた家と、隣り合わせでした。
 K3さん夫婦は、現金収入を得る手段として、魚介類を餌に豚を飼育していました。ところが、豚は次々に死んでいきました。
 昭和20年代頃半ばからは、特にそれが続いていました。

 神ノ川に田んぼはありません。昔からそうでしたし、今も同じです。
 昔からどこの家も、K3さんのところもOさんのところも、ご飯の代わりに魚を食べる、というよりも、魚が主食のような暮らしぶりでした。
 私は、子供時代のOさんを良く覚えています。
 私の家では、稲刈りを無事に終えた後の、祝いのさなぶりには母チエが、必ず赤飯を炊きました、手伝いに来てくれた親戚に宴席で振る舞い、帰りがけには赤飯をつめた重箱ひとつを手渡しながら、お互いにねぎらうのです。
 さなぶりの日には、普段米など口にできない、まして赤飯などめったに食べられない子供たちもやってきました。
 チエは、そんな子供たちに赤飯でおにぎりをむすんでいました。

 子供たちの中に、Oさんが居ました。昭和15年の生まれです。
 彼は、苦しい家計を助けるために、小さなころから足半(あしなか)を踏んで、茂道に網子に通っていました。足半(あしなか)というのは、長さがかかとまでもない、小さなわらじのことです。
 小さな足で、神ノ川河口の川尻から、岬ひとつ向こうの茂道の網元さんのところまで、山道を越えて通い続けていたこの一人です。
 戦中、戦後の食糧難の時代はことさらでしたが、みな米に飢えていました。
 チエの姉妹、WさんもM2さんも米を欲しがり、特にM2さんは、「この魚と米とを交換してくれんか」と、度々たずねて来ていました。
 後から考えれば、夫のK3さんが昭和35年か6年から市立病院に入院したという事情も重なっていたでしょう。
 ちなみに、M2さんと長女M3さんは水俣病と認定されています。
 Oさんは、小学校4年生のときに小茂道でボラが浮いているのを目撃しています。どれも傷などついておらず、ボラ籠の中で暴れたとも考えられないとのことでした。

 Oさんは、また、小学校5年生のときからK3さんの網漁、主に、刺網漁にアルバイトで乗り込み、漁を手伝っていました。
 主な漁場は袋湾内、ほかは湾外の各所です。

 網漁で捕れたアジ、コノシロ、ワタリガニ、コチ、チヌ、キスゴなど魚介類は、K3さんが袋湾内に船を留めて、Oさんがトロ箱に入れて、私の家まで、月々数度持ってきてくれました。

 K3さん、Oさんは、袋の天神様の祭や八幡祭、さなぶりや節句などの祝い事のおりには、必ず魚を持ってきてくれました。

 Oさんは、昭和30年に袋中学校を卒業し、昭和34年の12月に神ノ川を出て大阪に向かいました。

3 自家採捕と主な採捕場所

(1) 採捕 その1 とくにチエ
 水俣では昔から、「春ビナ食わんばウジになる」とか「グヂナになる」と言い慣わされていました。
 旧暦3月の大潮には、野川、長崎、茂川・・・といった山間の村からも大勢の人たちがやってきて、ビナを採り、カキを打つ、というのが習慣でした。
 これらのことは、『新水俣市史(民俗・人物編)』 176〜179頁(甲第100号証 17頁)、また『水俣の啓示(下巻)』色川大吉編 田中アサヲ氏 陳述 103〜106頁(甲第102号証 7頁)
 私の家と海との位置関係、距離を示すため、昭和27年の水俣市地図(甲第101号証)と「新水俣市史(民族・人物編)」の1078ページの地図を拡大したもの(甲第100号証 2頁)を提出します。

 春ビナ採り取りのおりには、牛の背中に籾を乗せ、精米所に預けて浜に降り、戻りに精米済みの米を持ち帰るという人もいました。
 湯堂のSさんの兄弟で、野川から茂川に養子としてはいったYさんなどがそうでした。
 湯堂のS2・S夫妻は認定患者です。その子どものS3さんは、胎児性水俣病患者です。
 チエは、重いものが持てない身体だったので、妻にメゴ(女籠)を持たせてカキ打ちに連れ出しました。

 チエの生まれ育った神ノ川の川尻は、カキも多く−カキはどこに行って採れましたが−ビナもいろいろでした。
 川尻は、ビナは種類もいろいろなうえに、たくさん採れました。
 マルビナ、コロビナ、グッチョビナ。このグッチョビナというのは、周りの人たちも「たくさん食べると鼻が詰まったような妙な感じになる」などと言い合っていました。また、ホゼやたまにニガビナが採れてました。
 魚以外ではウニやアワビやワタリガニなどが採れました。
 昔は、カキでもビナでも、多くとれた時には近所同士で分け合っていました。
 カキ打ちには、チエが一人で行ったり、妻と二人だったり、また慣れたら妻が一人で行ったり、近所の人たちと誘い合ったりと、袋の天神様のあたりやゴンガシタ、川尻によく通いました。

 潮時はみなよく知っていて、「潮時やっで、行こい」とか「今日は、あんた家(げ)は行かんとかなー」とか、近所同士で声を掛け合って、連れだって袋や外海、川尻に通っていました。

 袋の天神様なら歩いて5分、外海のゴンガシタや川尻でも歩いて20〜30分です。

 カキは、とくに外海やシラトによく付いていました。チエも妻も潮の満ちるのが速いときには、「オテガラ」とみんな呼んでいましたが、殻付きのままのカキをメゴに積んで帰りました。

 妻が生まれ育った長崎もそうでしたが、袋地域にも、今のような商店はありませんでした。

 肉は、当時高価でほとんど買わず、食べませんでした。そもそもが、店では売っていませんでした。
 町中(市内中心部)に行くには、バスに乗るか、徒歩であれば片道1時間をかけて行かねばなりませんでした。

 なにもこのように時間とお金をかけなくとも、浜に行けば、お金など使わず、2〜3時間で、カキやらビナやらがいくらでも採れました。
 また、つきあいでは、カキ打ちなどしながらの、近所の人たちや居合わせた人たちとの世間話や、カラモイ分け合いながら、あれこれ話したり笑ったり、という楽しみも大きなものでした。

 カキは、みな「元気な子が生まれる」とも「乳の出をよくする」とも、「カキが身体には一番良か」と語っていました。

 妻が嫁いできて、とくにお腹が大きくなってきた頃には、チエは妻によくカキを食べさせてくれましたし、妻も一人でよく採りに出かけました。
 寒い冬のカキは、とくにおいしいものでした。

 県の疫学調査記録(乙第24号証)で、<経過>の欄に、「チエは昭和47年頃から座っている日が多くなりだす」とか、意味のわからない「ブラブラ」などとあります。これは、いったい何のことでしょうか。
 その頃も、チエは、天神様あたりまで歩いて通っていました。
 行き帰りに田んぼの様子を見たかったし、何より、子どもの頃から慣れ親しんでいた味の、カキ打ちやらビナ採りやら、毎日のように続けていたこと、家に座ってこもっているより外にいる方が気が晴れ、楽しみがあることを、そうそう簡単に捨てられるはずはありません。

 妻の父・Fは、梅戸のチッソ火力発電所に55歳の定年まで勤めていました。
 Fは93歳で亡くなりましたが、若い頃、昭和30年代には、梅戸港で浮いていた太刀魚やボラなどを網ですくって、同僚と食べていたそうです。
 どうして行政はもっと早くから、「獲るな。食べるな」という、当たり前を言ってくれなかったのでしょうか。
 毒が入っているとわかっていたら、誰も獲ったり食べたりなどしません。

(2) 採捕 その2 とくに秋生
 私は、子どもの頃から袋川や歩いてすぐの袋湾、そして外海、川尻などに通っていました。

@ 川と山
 袋川では、ダクマ、ウナギがよく獲れました。
 ダクマというのは、手の長い川エビです。
 ウナギは、ウナギ手籠(てご)や、竹筒にミミズを入れました。いったん入ってしまったらもう逃げ戻れんように、漏斗状の口をつけて一晩沈めておきます。
 袋川の水と海の潮とが混じるあたりには、エビナ(ボラの若いもの)もたくさんいました。
 群れていますから、手当たり次第に棒でたたきまくって、気を失って浮かったものを手づかみで獲っていました。

A 潟(袋湾内)
 冷水川と袋川とが出合うあたり、いまの合板工場あたりは、昔は潟でした。みな、「お人形潟」と呼んでいました。
 「お人形」とは、鬼ごっこのことです。
 私の家は、その潟の近くで畑を作っていました。
 昭和30年頃、私の弟のN2(昭和12年生まれ)が、大きな太刀魚が浮いているところを手づかみで獲り持ち帰ってきたのを、家族で食べたことがあります。
 山では、茂道山での伐り出しや下草払いを9月から12月にかけて、ほかは久木野など泊まりがけでの山仕事のおりに、ムベ、アケビ、コジの実、椎の実などの山の実や、ウド、タラノメ、ワラビ、ツワブキなどの山菜を採りました。

B 海(袋湾内外)
 小茂道では、小学生の頃から磯釣りをしていました。
 毎日ではありませんが、同級生と誘い合ったり一人で行ったりでした。
 エサは、ゴナ(ヤドカリ)やビナをひろい、殻を割って身を取り出しものが主でした。
 春、田植えの頃はチヌ(黒鯛)、ほかクサビ(ベラ)、ガラカブ(カサゴ)、ツバメ(スズメダイ)などが釣れました。たまには、そのエサ狙いでやってきたタコも釣れました。

C 海の採捕場所
 私やチエなど、溝口家一家の者が、また結婚後の妻とチエが、南袋の人たちと最も足繁く通ったのは、家から歩いて5分、200mほど先のにある天神さん(袋天満宮)のあたり一帯でした。

 湯の鼻のすぐ南から犬吠が鼻のあたりまでは潟でした。ここには穴ダコがたくさんいました。
 細い足の長さが一尺以上のタコで、丸ごと醤油で煮付けにしました。
 ほかに、多かったのはナベガイ、アサリ、クロガイ、カキなど。ナマコはどこにでもいました。

 家と潟との間には、私たちの田んぼがありました。
 かよった順番で次に多かったのは、茂道の半島、茂道山を抜けた先のゴンガシタ(地図では椎が屋敷)です。主にゴンガシタ、そして瀬内の鼻(地図では浦)から坊主ガハンドあたり。のろし台には、六角堂と呼ばれていた、小さな、木でできた祠がありました。
 袋湾の外は、みなが「外海」と呼んでいました。
 外海のものが欲しいな、といったときには、みなが行っていたのがゴンガシタでした。

 次にシラト(地図では白戸)、そして川尻。マガリが一番多くいたところがシラトでした。
 マガリは、貝では一番旨いものでした。巻貝です。採ったらそのまま口にあてて吸ったり、湯がいて食べても旨みがありました。

 神ノ川の川尻からは小茂道に抜けられる細い山道がありました。

 貝ではほかに、ケガイ(ヒザラガイ)、カラスガイ(ヒバリガイ)。海の中に入っていって、急に深くなる境目のあたりには、袋では「ぶう」と呼んでいた大きなメガネケースくらいの大きさの貝や尻高(シッタカ)がよくいました。

 どちらも身も大きくおいしいものです。

第2 溝口チエおよび袋地域の状況

1 チエ本人の愁訴

 私と妻が結婚することに至った経過ですが、まず、農家にとって(漁家にとっても)嫁は貴重な労働力であり、また「家」や「土地」は代々継ぐものということは常識です。
 私の結婚した当時、チエはすでに「身体のきつか」と、体力の衰えや体調の不良を訴えていたいました。そしてチエ自らが、市内山間部の長崎から袋に嫁いできていた親戚であるN3に、嫁の来手(きて)の相談を持ちかけ、N3が、長崎のFと妻父娘に赴き話をまとめたというのが実情でした。
 妻が嫁いできた当時は、チエはすでに60歳になっており、「味がわからんようになった」とか、後年には「味がしなくなった」などと言っていました。
 チエは、時折、妻に代わって食事の支度をすることもありましたが、どの料理も塩辛く、特に、みそ汁などは塩辛すぎて飲めたものではありませんでした。
 私たち夫婦は、「これは何(なん)か。飲みならんがね」と怒ったこともありました。
 今でもふり返ると、本当に申し訳なく、詫びたい気持ちがこみ上げてきます。

2 流涎・味覚等家庭内で

 この頃すでに、チエの涎は目立ちはじめていました。
 チエとチエと仲の良い近所の4〜5人と、結婚間もない妻らとの茶飲み話の折に、チエは、涎を近所の人から指摘されて頻繁に拭っていました。

 後年の昭和47年頃、妻は同じ南袋の近所の人から、「チエさんは水俣病じゃないのか。涎をダラーッと垂れて」と言われたこともあります。

 この時代は、ラジオやテレビで水俣病のことがたびたび取り上げられるようになり、南袋の住民も水俣病に関心を持っていた時期でした。

 チエの涎はこの頃、ひどい状態でした。

3 「農作業」の実態など

 チエ「疫学調査記録」には、「農業は、身体が悪くなって働けなくなる70歳過ぎまで続けていた」との記述がなされています。
 一言でまとめればそうですが、内実は、チエがまったくの健康状態であったのではありません。
 たとえばチエの晩年近くの歩行方法は、ヒザは上がらずかかとも上げないままの、すり足で移動していました。
 同じ頃、父の喜三は、自宅で灸を自らしていました。
 そして、この「農業」の中身ですが、チエがおこなっていたのは、軽い草取りや、どうにか歩いて行ける100メートル先の畑に出かけ、野菜を取って戻ってくる、田んぼの様子をへりから眺める、といった程度でした。
 妻が嫁いできた頃には、すでに本当の農業らしい力仕事や長時間の立ち仕事など、ほとんどできる状態ではありませんでした。
 妻には、溝口家なりの作業の進め方を指導・指示していた、という状態でした。
 水俣では、田畑にしばらく姿を見せないと「ふゆじ」などと呼ばれ、怠け者のようにみなされます。
 そのようなみなされ方を歓迎する者など一人もいません。

 そもそもチエは、若い頃「村で一番の働き者」と言われていたし、本人も誉められることを喜びながら、懸命に農業をしていました。

 私が、自動稲刈結束機(バインダー)を購入したところ、チエは、「私(おる)もまだ刈りきっとじゃ(完遂できる)」「手で、鎌でできることを、高価な機械(しなもん)など買わんでいい。戻してこい」と、猛反対して怒りましたが、翌年から刈り取った稲ワラを風と日にあてて干すハサガケのおりなど、稲ワラを束ねるのもうまく結べなくなって、作業が下手になっていました。
 しかし、チエの、田んぼに対する執念といってよいほどの思いは、頑固な性格とともに変わりませんでした。

 足が不自由であるにもかかわらず、田んぼに入りたがりました。
 私は、「チエが田に入り転倒でもしたら危ない」と常々考えていました。様々な理由を挙げて、(例 足で開いた穴に機械がとられ作業がしにくいなど)チエに繰り返し言い聞かせ、田んぼに入らせませんでした。

 「田んぼに行っている。通っている」との言を第三者は、とくに農業の実態を知らなかった者は、すなわち「重労働に耐えていた、達者であった」と考えたのでしょう。

 私も妻にとっても、機械の導入は、何日もの重労働からの解放です。時代の流れ、でもありました。また、早く終われば他の仕事にもとりかかれもします。しかし、チエにとっては、農作業は人生そのものであり”自分の本来の仕事”がなくなることを意味するのであり、寂しいことだったに違いありません。

 チエの最期は、昭和52年7月1日午前3時。
 私は、市立病院の病床での臨終の場に、三嶋功医師が立ち会っていたことを記憶しています。
 三嶋医師は、当時、認定審査会委員でした。

4 近隣の状況

(1) 近所の住人の状況
 私の家の隣は、Nmさんの住まいでした。
 Nmさんのもとに嫁いできたのは、出水市今釜出身のNsさんでした。
 昭和16〜17年頃の結婚でした。
 妻が袋に来た時点で、Nsさんの子は数人が既に亡くなっている、と人から聞きました。
 Nsさん本人も理由は語らず、私らも敢えて尋ねるようなことはしませんでした。
 このNm家のEさんは、出水出身のHさんと結婚しました。
 Eさんの弟のS4さんは、夜ぶりが大好きな男でした。S4さんは、私に、「ゆうべはタコを獲り過ぎた。(海に)捨ててきた。漁師に舟で追われて、怒られて」と、よく笑いながら話していました。
 ちなみに夜ぶりというのは、ホコ突き漁のことです。カーバイドランプ(「ガス燈」と呼んでました)を灯し、主にタコを、他にナマコ、ウニ、魚などを突きます。

 Nmさん宅の下隣のMkさん、その2軒先のYi夫妻(妻は坪谷出身)、私の前の家のYhさん、みな認定患者です。
 また、Eさんは保健手帳、Hさんは医療手帳の交付対象者です。

(2) 溝口家及び袋地域での「奇病」観
 南袋・南袋近辺で、最も早くに「奇病」として認定されたのは、茶小場(地図『新水俣市史(民俗・人物編)』 甲第100号証 2頁 JR線袋駅北方 線路脇 )のYtさんではなかったでしょうか。
 水俣では”ダシゴロウ”と言うのですが、牛を使って、伐りだした材木を搬出する仕事をしていた、体格の良い男でした。
 夜ぶりが好きな男で、そのYtさんの娘婿は、湯堂のIeさんの弟さんです。
 Ieさんは、妻、息子さんともども認定患者です。

 いつ頃からか、Ytさんが「寝たきりになった」と人から聞きました。「ウーッと唸ったまま、ずっと」と。「別人みたいにやせ細って」と。近隣の人たちはYtさんを「萎えじゃ」と評し合い、それまで近所付き合い、友だち付き合いをしてた者の誰も、Ytさんの家には行かなくなりました。
 実は、私も、そのように変わり果てたと聞くYtさんを、心中、軽蔑し嫌って、行かんようになりました。
 「奇病」とは、伝染病らしいと。それ故の、どこそこでの井戸が消毒されたとの話も、人の噂で耳にしていました。

 やはり「奇病」とは父親の言う通り、貧しい者や米を食えない者や野菜を食わない者がなるものだと思っていました。
 やせ細って死んだのだと言う話を聞けば、やはり栄養失調でもあろうと思っていました。
 ただ、何か異様な、それまで誰も見たことも聞いたこともないような死に方をする恐ろしい病気という気はしていました。

 ちなみに、チエの認定申請は1974年、私と妻の申請はさらにその後のことです。

 ところで父の喜三は、「奇病」の話題を嫌っていました。
 今でこそ水俣病とか、メチル水銀中毒症という言葉で言われていますが、昭和30年代から40年代当時は、多くの人が、無論私を含めて「奇病」と呼んでいました。

 私の家にテレビが入り、重症の胎児性を見てびっくりしました。
 Uさんという方たちでした。ほかにも、劇症型の人たち。
 奇病になるというのは、あのように寝たきりの重症となって死ぬ、ということなのだと思っていました。

 喜三は、「奇病になっとは(なるのは)、弱った魚(いお)を喰った者(もん)。野菜を食わん人間がなる」、「田んぼを持って米を食ってる者、野菜を食ってる人間は、絶対ならん」とよく語っていました。
 喜三は熱心な自民党支持者で、湯堂に住んでいた市の有力者のYaさん(30歳代で市会議員で市農協長)とつき合いがありました。
 南袋の家にちょくちょくやって来るYaさんとふたりで、「奇病は、あれは栄養失調たい」と話したりしていました。とくに第一次訴訟・原告団長の渡辺栄蔵さん一家のことを指していました。

 渡辺さんの一家は、湯堂でした。
 私も若かった頃は、父親のいうとおりと思い込んでいました。
 ところが私は、「この奇病は、もしかすると農薬のせいかもしれない」と思ったことがあります。
 つまり、「農家が作っている作物が同じなら、使う農薬も、使う時期もだいたい一緒。となるとホリドールか何か、強い薬が一時にどっと川から海に下ったせいではなかろうか」ということです。

 また、私も父親と同様に、自分たちの住んでいる袋と、地区名は同じ袋であっても海辺端(うみべべた)の村とは違う、という意識が強くありました。これは私の家だけではなく、袋の住民意識全体として、昔からそうでした。

 たとえば、嫁取り(結婚)ですが、田んぼのない神ノ川、茂道、湯堂、出月などの海辺端の村から袋に嫁に来る人は多かったのですが、逆に、袋から海辺端という例はほとんどありません。
 私の記憶で知っている人の中では、同じ南袋のYhさんの娘さんが、茂道のSeさんに嫁いだ、というただ一件だけです。
 Seさんは、弁護団事務局の高倉史朗さんによると、解剖によりに水俣病と認定されています。
 『水俣病−20年の研究と今日の課題』の525ページ、症例11がSeさんです(甲第116号証 2頁)。

 そもそも袋村は、水俣では早くから開けていた古い村で、公立小学校としては、水俣では袋小学校が最初の開校です。公民館が建ったのも、水俣では袋が早かったと思います。

 これらに加え、何より、袋はどの家も皆、田畑を持っている「土地持ち」ばかりです。漁業専門というのは数軒あったかなかったかくらいでしょう。「新水俣市史」1063〜1064頁(甲100第号証 14頁)を添付します。
 私や父の喜三も含めて、土地持ちの袋の住民にとっては、やはり「田畑のない神ノ川や茂道、湯堂などとは”格が違う”」というプライドは強いものでした。
 茂道でも田んぼを作っていた人はいました。しかし、私の記憶にあり知っている限りでは、Nさんという方が一人だけでした。  湯堂では、S2・S夫妻のところ一軒だけだったでしょう。

 当時「田んぼを持っている」とは「永久就職の保証」でした。同じ農業とはいっても、畑作のみで田んぼは無しというのは、はるかに格下と見なされました。まして「土地無しの漁師」となれば、格はさらに一層下にみなされていた。私自身がそのように見ていました。
 後年認定された奇病患者の家は、当時は、袋の者から見れば畳もぼろぼろの掘立小屋のようなお粗末なもの、との印象は否めませんでした(資料 細川一『今だからいう水俣病事件の真実』 甲第105号証)。
 ただ、家は先祖伝来のものがあるとしても、袋の住民も、確実に現金収入を得られる術が常に手にできていたわけではなく、下草払いや伐り出しなどの山仕事をして、やはり額に汗して働かなければ収入を得るのが困難であったことにおいては変わりはありませんでした。

(3) 認定後や補償を受けたのちに噴出した、激しい差別やねたみ
 それゆえか「奇病の患者が認定され、寝たきりが立派な家を建てた」など見たり聞いたりなどすれば、住民のあからさまなねたみ、水俣の土地の言葉で言う「しょのみ」はより激しく、「もともとアル中たい」「金めあて」「ただの怠惰者(ふゆじごろ)が」「萎えたい」等々、詐病視をとおり越しての差別は激烈でした。

 私が耳にした科白のひとつが、「あぎゃん徒(と)ん(あんな連中の)、認定でもならんば家なんぞ建てきるもんか」というものでした。付き合い方も、全部いっぺんにガラリと変わった、です。

 袋で、「渡辺栄蔵さん一家は、ほとんどが認定された。総額で一億近い金も入った。それで家を建てた。そんな話を聞いた」という住民の中には、「大きな家は良かばってん、広かればあとからの管理や掃除やらが大変やろな」などと、あからさまな皮肉を嗤いながら口にして、話の種にする者さえいました。

 また、見た目で「軽症」の誰それが認定されたらしい、といった話の折りには、「仕事もやれとる達者か者(もん)が、何で認定かな」とか、自分の家から比べて海から遠く、山の方に近い者が認定されたらしい、との話の折りには「なんで山の者(もん)が認定なって、海の者(もん)がなっとらんとに、おかしなもんな」との声もありました。

 しかし、これらの科白を突き詰めて考えれば、それは言った本人も責任があるでしょう。しかし、このような矛盾を持ち込んだのは、地域の分断を作り出したのは、そもそもチッソと行政ではないでしょうか。例えば、「奇病」を一時伝染病扱いとした行政は、「伝染病ではない」と、いったいいつ公表してくれたことがあったでしょうか。
 この伝染病扱いで、患者の家族がどれだけの苦難に耐えねばならなかったか。差別や迫害がどれほどすさまじいものであったか。
 行政のかたで、伝聞として聞かれたかたもいるでしょうが、どんな想像すらも、当時の実態には追いつかないかもしれません。

 私は、栄蔵さんの息子さんと袋小、中学校で同級生でした。
 第一次訴訟の判決が出てしばらく後、私が袋又(今は手漉き和紙の工房があるあたり)で山仕事をしていたとき、通りがかった息子さんと、ばったり出くわしたことがありました。
 私が息子さんに、「あそこは奇病で金もらって、家建てて、など言う者(もん)もいるが・・・きつかったな。大変だったな」と話しかけると、息子さんは頷きながらすり寄るようにしてきたことを、よく覚えています。
 彼は、周囲の者らの陰口をいろいろと耳にしていたはずです。
 当時の差別や迫害は、認定された人の家の前の通りすがりで、またすれ違いざまに、あからさまな言葉を、わざと聞こえよがしに言う者らが多かった時代です。
 たしかにはじめの頃は「奇病」として、重症者に焦点があたっていました。
 病院に、とくに避病院に運ばれたとか、寝たきりになったとなれば、村の中では隠しようもなく人の口の端に上がります。
 テレビも、この人たちをクローズアップしていました。
 避病院のことについては、『市制10周年記念 市史みなまた』(昭和34年刊)の165頁(甲第03号証 2頁)を添付します。

 しかし、水俣病は、当時から、「奇病」とよばれた重症の方たちばかりだったのではなく、いわゆる「軽症」とか「ハンター・ラッセル症候群」に当てはまらない、いわゆる典型でない患者が数多くいたはずです。劇症で亡くなった方たちが、典型のように言われていますし、母チエを棄却した52年判断条件も、症状のあれこれの組合せが必要といっています。が、むしろ、そのような方は、少数なのではないでしょうか。
 袋湾、不知火海で当時魚介類を食べていた、その後身体に異変が起きた、それだけでもう疫学として充分ではないのですか。
 被告のいう疫学とは何ですか。昭和52年の部長通知よりは格が上の、46年の事務次官の通知をよく読めば、そうはっきり書いてあるでしょう。

 「奇病」の時代、実は私自身が、言葉や態度でその人たちに、いわば石を投げていました。
 生き地獄にいた患者・家族の人たちを侮蔑していました。その方たちが屋根の下で、どんな苦難に耐えているとも知らず、知ろうともせずに、です。

 後年、私自身も、妻も認定申請しました。が、「奇病」の時代からはずいぶん後のことです。私の見知りのひとりは、病名変更運動に熱心に関わっていましたが、私より後に認定申請しました。
 このような「水俣病隠し」、申請のためらいの状況については、先にあげた原田先生の『水俣病』(甲第99号証)に加え、色川大吉『水俣−その差別の風土と歴史』(甲第104号証)を提出します。

(4) 本人申請主義の矛盾、患者放置の実態
 昭和30年代から40年代は、今でもですが差別や蔑視や子どもの結婚に差し支える等々の状況で、自ら申請することなど、私らにはとても考えられないことでした。もっと時代がすすんだあとも、私たちには、たとえ身体がどうにかなったと自覚していたとしても、何も言いならん状況でした。
 申請したことが隣家に知れたら村八分になり、これを考えるととても恐ろしくて、申請することなどできませんでした。
 むしろ、地域のこんな状況を知っているからこそ、行政は本人申請にまかせ、自らは何もしないこととして放っておいたのでしょう。
 今は、水俣病が食中毒事件であるということは、常識的な理解でしょう。しかし、それにもかかわらず保健所は動きませんでした。
 行政は、これからも本人の申請を待つだけなのでしょうか。水俣病相談事務所が作った『問答集』の中にある、『認定患者分布図』(甲第107〜110号証)は袋での患者数が年々増えています。
 しかしこれは、行政が積極的に医学的確認作業を行った故などではなく、袋でさえも申請する者が増えた結果を反映したものでしょう。
 チエのことも、患者を抱えた家族の実態も何も、行政は知らんし知るつもりもない、という意思表示なのだと思っています。
 いまだに声を挙げていない人、申請しようと考えてはいても様々な事情でできない人は、数多く潜在していると思います。

(5) 次男、Tmの症状について
 二男のTmはあまりにひどい症状で胎児性にまちがいないと申請しました。棄却でしたが、長男の申請も実は考えていました。昭和35年の生まれです。

 親であれば誰しも、我が子はほかの子と比べてどうか、と成長ぶりをみて安心できたり不安になったり、あれこれ思います。

 田んぼや畑仕事の折りなど、私たちはメゴに毛布を敷いてTmを座らせていました。
 他の子は這って出て行くのに、おとなしすぎるぐらいおとなしかった。
 Tmは、菓子の玉子ボーロを、家に遊びにやってくる他のこどもたちは争うように素早くつまんで口に持っていくのに、うまくつまめませんでした。

 ナワトビなどもさせますが、早い子は3歳か4歳ぐらいからしていますが、皆よりだいぶん遅れてしかできませんでした。

 1年生のPTA総会の日に、妻が学校に行くと、Tmがひとり校門の前に座り込んでいたので訳を聞くと、担任の先生が「走り方がおかしい。遅い。もっと一所懸命やれ」と、何度も走り直させたということでした。
 そのあと学校には、しばらく行きたがらなくなりました。入学当初はよろこんで通っていたのに。担任の先生からは「特殊学級にやらないか」と促されもしました。
 昭和40何年か、「訓練のために」と、私は当時は珍しかった卓球台を購入しました。
 ラケットを握らせましたが、うまく当たらず、また当たっても返球にならず、で、運動は拙劣でした。よその子はやってきて勝手に喜んでやっているのに。
 卓球台は今でも家にあります。

 野球が好きでしたが、結局、小学4年生のときに少ししただけで、以後はまったくしませんでした。周りについていけなかった。
 それでも、Yt先生が、私とは水俣高校で同じ陸上部の同級生で話しやすく、またTmの状態に理解を示してくれていたので、親としては救われる思いでした。
 小学4年でやめた野球ですが、Yt先生は、ピンチヒッターにTmを指名してくれたりなどして、たまに出場させてくれたのです。

 Tmの、SS先生の診断書ですが、これは高校入学直前のものです。
 診断書の写しを添付します(甲第111号証)。
 体育の授業を免除してもらおう、ということを考え、閉じこもりがちのTmを、私が、言葉は悪いですが、だまして花見に行こうと誘い出しあちこち連れて、SS先生のところで診てもらい、同時に認定申請もすすめられて書いて頂いたものです。

5 飼い猫、飼い犬の”奇病”など

(1) 飼い猫
 米作農家として、猫は米俵をネズミから守るために必要でした。
 昭和30年代に3匹くらい飼っていましたが、いつ頃からかいなくなりました。
 近所の人たちも「いなくなった」という話をしていました。
 飼っていた飼猫のうち、死んだ原因が明確なのは、ミーコと名付けていた赤ネコの交通事故一件です。
 袋あたりでは「赤ネコの雌は宝ネコ」といわれていました。またよく「猫は自らの死期が近いのを悟ると、姿を消す」といいますが、私が床下の大掃除をしていた折、骨だけになってた猫の亡骸を見つけたことがあります。
 臭わなかったので、寒い頃に死んだのかもしれません。
 猫に与えていたのは、主にジャコ。ほか、刺身をとった後のアラやハラ(内臓)を炊いて。またごはんに、ジャコ入りのみそ汁、煮魚を作った際の煮汁、紙袋の底に残ったイリコのカケラや粉などをかけて与えていました。猫のごはんもひとのそれと近いか、魚という点では同じです。ペットフードなど何処にもなかった時代の話です。

 茂道のS5さんは、私の家に茶飲みにしょっちゅう来ていました。
 S5さんは仔猫をもらいたがりました。
 私は、飼猫が産んだ仔をたびたび持たせていましたが、「どれも間もなく死んでしまう」ということでした。
 漁師(漁家)は、網をネズミから守るため猫を必要としていたのです。
 猫はどこも大切に飼っていました。

(2) 飼い犬
 私は、結婚の翌年(昭和35年)から犬を飼い始めました。
 まだ1歳くらいのシェパードに次郎と名付け、可愛がっていました。
 エサは、ジャコ入りのみそ汁をごはんにかけたものが主でした。
 予防注射は年に一度、きちんと受けていました。
 次郎は成長が早く、身体が大きくなってからはリヤカーも引いてくれました。
 しかし、いつ頃からか、次郎は目が見えない様子で、涎を流しながら壁やら何やらに突き当たっていました。
 私が真っ先に思ったのは、「誰かがごはんに農薬を混ぜたのかもしれない」ということでした。
 家の前を誰かが通るたびに吠えていたから、それがうるさいと嫌われたのかもしれいないと。
 次郎は、2、3歳頃(昭和37年か38年頃)、突然大量のあぶくを吹き、痙攣して死んでしまいました。
 苦しみながらで、かわいそうでした。

6 改めて釈明を求める点

 私が疑問に思う点について、あらためて釈明を求めます。
 私たちの住んでいた袋、またはその南袋近辺での、「奇病」「水俣病」について、行政は公的資料を作っていないのでしょうか。
 最初に発病したのが誰で、いつのことだったのか。
 何年にはどのくらいの人が申請して、何人認定したのか、棄却したのか。
 保留か。
 母チエと同じように、申請中に未検診のまま亡くなった人たちは袋にどれくらいいたのか。
 家族(遺族)から問い合わせはなかったのか、また、これらにどの方にどういった対応をし、どのような回答を、いつ、誰が行ってきたのですか。

 行政にとっては、私の問い合わせは、きてほしくない、うるさいだけの電話だったでしょう。しかし私は、母チエの命日に合わせ、毎年かけざるを得ませんでした。
 申請して途中で死亡し、その先どうなるのかわからない母の処遇について、一番近くに暮らした遺族の私が最後まで見届けるのは、子としての義務のようにも感じていました。
 被告が求釈明にも応えず、資料を出してこない以上、私としては、この間弁護団事務局が入手し送ってくれた資料を陳述書に添え、ここに提出したいと思います。
 被告が第8準備書面で「袋地区は水俣病多発地域であるが、しかし南袋は空白」などと主張している点につき。
 水俣病相談事務所が発行していた『水俣病問答集』の昭和55年版、59年版、62年版と、平成6年版の4冊(甲第107〜110号証)の中、には「袋には、北袋、南袋、冷水を含む」と明記している『水俣病認定患者分布図』と、昭和55年版からは(他の3冊にも同じ記載がありますが)行政が想定問題集として作ったこの本の16頁の写しです。
 (答)の項で、「広く資料を収集することにしている」旨明記してるではありませんか。
 私への電話での回答はいつも「検討中」でした。にもかかわらず、実際は病院調査も、何もしていなかった。
 これが、意図的な放置・不作為以外の何だというのでしょうか。

 また、『水俣市並びにその周辺地域の医療需給に関する研究−研究報告書−』(昭和49年7月1日、水俣市立病院内・同研究班作成発行)(甲第106号証)は、母チエが認定申請を行ったその年に発行されました。
 この調査報告を用いて、多くのことを明らかにできたはずです。
 実態がどうなのかの究明は、把握は、ただちに取り組めたし、取り組むべきであった、と思います。
 たとえば、この報告書に記されている認定患者の「住所区分と患者数」「患者分布状況」「発病時の住所、及び現在の住所」「現在の愁訴」等々。
 水俣病が食中毒であることは、県が作った文書である『熊本県水俣湾産魚介類を多量摂取することによって起こる食中毒について』昭和34年(甲第52号証)でも被告は認識済みでした。
 食中毒ですから、当然同じものを食べている家族に、地域に、集積性が高いことは常識でしょう。
 特別なものを特別な人だけが食べていたような時代でもなければ、そんな村ではありませんでした。
 漁師さんたちは先祖代々そうであったように、昨日と同じように漁に出ていただけでした。
 私たちも、同じように田んぼや畑をつくりながら暮らしていただけ、ただそれだけの暮らしでした。皆、この水俣で一所懸命に生きていました。栄蔵さんも、Ytさんも、チエも。
 水俣病は、おこってはならないことでした。
 しかしいったんおきた以上、行政としては、やるべきことがあったはずです。
 ところが何もしなかった。
 行政の無為無策が、チッソと私たち住民の命とを天秤にかけての、意図的な放置・不作為が、水俣病の汚染・被害を拡大させ続けました。

 この行政の責任は、川本輝夫さんの刑事裁判でも(甲第51号証『裁かれるのは誰か』102〜109頁)、2004年10月の水俣病関西訴訟最高裁判決(甲第94号証)でも明確に司法が断じています。
 私は、昨年10月15日の最高裁の法廷で この判決を聞いています。Oさんたちと一緒にです。裁判中に亡くなった原告の方も、遺影で法廷に臨んでいました。

 母チエの、またチエと同じように申請中に亡くなった人たちの、病院調査の棚上げや、私の毎年の電話に「検討中です」を繰り返しながら実態としては何もせず放置していたのも、同じ不作為の責任ではないでしょうか。
 実際、被告の県と環境庁は、被告熊本県決済文書(乙第111号証)で明らかなように、方針として、「病院調査の棚上げ」を合意していたではありませんか。

 母チエは、水俣病でした。
 資料が無くわからないゆえの棄却、とはとうてい納得できません。その「処分」も申請から17年後です。
 県の疫学調査は、チエが亡くなってからでした。
 病院調査を放置し資料を散逸させたのは、被告です。
 私の弟が市立病院に勤めていたことが、「資料に近かった」など、よくも言えるものと思います。
 調査する義務と権限を持っていたのは、被告です。

 チエ、私たち一家、そして袋の住民が、どのように暮らしてきたかを長々と述べました。
 行政が本来の行政であれば、本当はこのような裁判をおこす必要はありませんでした。
 このような陳述書も、本来は必要ないはずです。

 しかし、この裁判においてさえも、行政と被告の姿勢は、言い訳と開き直りの連続です。
 永野元公害部長の証言は、「記憶にありません」「覚えていません」の連続でした。 いったい、何のための、何を言いたくての証人だったのでしょうか。
 「病院調査はおこなった。おおかたのカルテが失(な)なくなる頃合いを見計らっての、1994年からではあったが、調査自体したことはした」とでも言いたかったのでしょうか。

 母・チエの資料は捨てられ失われました。もし存在し入手できて読む人が読めば「チエの水俣病は否定できない」「間違いない」と言ってくれたはずです。
 他の人の資料も、袋のII病院に通っていた、多くの袋地域の人たちの資料、世界的にも貴重な多発地域の実態を示していたはずの資料も失われました。
 繰り返しになりますが、長年月にもわたる異常で異様な放置の事実自体が、「被害者の迅速かつ広汎な救済を」とうたった救済法の趣旨と目的に背いたことは、不当であり違法と訴えざるを得ません。
 また、チエの生前の暮らしぶりや病状からも、チエは水俣病であった、と訴えざるを得ません。

 司法には、被告熊本県によるチエ棄却処分の取り消しを、同時に、チエは水俣病であったとの事実の認定を求めたいと思います。

以上

添付資料

1 鹿児島毎日新聞 昭和34年(1959)8月19日付 新聞記事写し

2 南日本新聞 昭和34年8月20日付 新聞記事写し

3 『水俣病 : 20年の研究と今日の課題』 有馬澄雄編
青林舎 1979年1月20日 年表840〜849頁

4 『水俣病』 原田正純著
岩波書店 1972年11月22日 184〜197頁

5 『新 水俣市史(民族・人物編)』 水俣市史編さん委員会編
水俣市 平成9年3月31日
@打瀬船について 160〜163頁
Aカキ打ち、ビナ採りについて 176〜179頁
B溝口家と袋湾内外の海との位置関係について 1078頁
(ただし、溝口家の所在に関しては提出にあたり矢印で示す)
C袋地区について 1063〜1064頁

6 昭和27年 水俣市調製地図より一部抜粋

7  カキ打ち、ビナ採りについて。また「奇病」時代の状況について
『水俣の啓示 不知火海総合調査報告(下)』 色川大吉編
筑摩書房 1983年 103〜106頁

8 昭和30年代の奇病観、特に、伝染病としての行政措置との関連において
『市政10周年記念 市史みなまた』
水俣市 昭和34年 165頁

9 本人申請主義や病像論の矛盾、患者放置の実態、患者差別の構造について
『水俣−その差別の風土と歴史 不知火海一調査団員の証言』
反公害水俣共闘会議編  反公害水俣共闘会議 1980年3月

10 『ドキュメント日本人7 無告の民』
「水俣病の真実」 細川一
學藝書林 昭和44年4月 148〜159頁

11 『水俣市並びにその周辺地域の医療需給に関する研究−研究報告書』
水俣市立病院内 同研究班作成・発行
昭和49年7月 1〜17頁

12 『水俣病問答集』
熊本県水俣病相談事務所 作成・発行 昭和55年版
(1)『水俣病認定患者分布図』
(2)昭和55年版 16ページ

13 『水俣病問答集』
熊本県水俣病相談事務所 作成・発行 昭和59年版

14 『水俣病問答集』
熊本県水俣病相談事務所 作成・発行 昭和62年版

15 『水俣病問答集』
熊本県水俣病相談事務所 作成・発行 平成6年版

16 Tm 診断書

17 『裁かれるのは誰か』 原田正純著
世織書房 1995年10月15日

以上

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