原告最終意見陳述(溝口秋生さん陳述)
思い返せば、平成14年3月15日に、私はこの法廷で意見陳述をしました。この訴訟を始めるにあたってのいきさつと、決意、裁判所へのお願いを申し上げたと思います。当時私は70才、それが今は75才となり今日の法廷をむかえています。
提訴にあたっては迷いもありました。しかし、この訴訟が進むにしたがい、熊本県がどのような考えで私の母を扱っていたのかが実にはっきっりとしてきました。私はその事実にがくぜんとしましたが、同時にそうした事実を明るみにだせたこと、母がなぜ21年間も放置され切り捨てられたか、熊本県の水俣病認定行政のありかたがはっきりと見えてきたことを大きな収穫と思うようになっています。
熊本県はこの裁判でなんと言ったか。「原告は熊本県に急げと要求するばかりで、環境庁に申請替えしなかった。だからスムーズに処分できなかった。」、「病理解剖を行う方法もあったが、それもしなかった。」、「カルテも原告が集めることができたはずだ。」などなど、よくも恥ずかしげもなくこうしたことを言えると驚くばかりでした。これが熊本県の水俣病被害者に対するほんとうの姿、本音なのです。
国民年金でも大問題になっていますが、本来やるべき仕事をさぼりながら、それがばれるまでは国民にいばり返し、ばれてはじめて頭を下げる。水俣病でも同じです。平成16年の最高裁判決までは私に対しても言いたい放題を言い、熊本県の責任が確定すると頭を下げていい子ぶる。
裁判の中で県が提出してきた証拠によれば、私の母のようなケースは放置すると、環境庁、熊本県は相談して決めているではないですか。申請替えすればうまく行ったはずというなら、環境庁は何人の未検診死亡者をどのように扱い処分したのか公開させなさい。
母の主治医は熊本県認定審査会の会長、副会長を務めた三嶋医師でした。先生は臨終の床にある母を見て私を励ましてくれましたが、母が認定申請者であることを知っていながら、カルテを取って置くようになどとは一言も言わなかった。ましてやカルテを市立病院で保全してくれることもしなかった。
私がなぜ母を解剖に付す気持ちにならなかったかは、冒頭陳述でも申し上げたはずです。熊本県は、母を亡くした子の気持ちも思いやることができないのか。
人を人と思わず、水俣病被害者を虫けらのように扱う、申請者の自己責任を言い立て、自分たちのさぼりは棚に上げる。水俣病での県の仕事はいったい何なのか。母のカルテの保全はあなたたちの仕事ではなかったのか。市立病院、市川医院、佐藤医院に電話一本かければカルテの保全はできたはずではないか。
熊本県は、私が母の認定申請をどうするのかと何回電話しても取り上げなかった。この裁判の中で、県が私の電話を事実上無視し、やがてはメモさえも取らなくなっていったことがはっきりしました。認定申請者を当たり前に扱うことを求める遺族の声にさえも聞く耳を持たない。水俣病50年と昨年は大騒ぎでしたが、50年たってなぜ何も解決できないかが、私の訴訟を通してもはっきりとわかります。
訴訟の中では、私の母と同じ立場に置かれて、結局泣き寝入りさせられた人たちが何百人といることもわかりました。私はその人たちの無念を背負ってこの訴訟を続けているのだとわかりました。
生後まもなくけいれんを繰り返し、チッソ付属病院の医師の紹介で熊大に連れて行った二男のこともこの訴訟を続ける力となっています。私は二男が胎児性水俣病患者だと思っています。その息子が救われていない悔しさも私の原動力です。
裁判長、こんな理不尽が許されていいのでしょうか。私の母が勝てないのなら、水俣病認定申請者は死ぬまで放置し、あとは病院のカルテがなくなるまで待てばよいということになります。国民の信託を受けて仕事をする行政が、その怠慢をまったく裁かれずに逃れることができるのなら、日本は法治国家ではありません。厳正な判断をお願いします。