被告第11準備書面
被告は、本準備書面において、本件各請求の争点を整理し、その争点に必要な範囲で、従前の被告の主張をふえんするとともに原告の主張に対する反論を述べる。
本件は、溝ロチエが、救済法に基づき、水俣病の認定申請をしたのに対し、被告熊本県知事が棄却する処分をしたことから、原告が、その処分の取消しと、同知事に対し、溝ロチエが水俣病であると認定する旨の処分の義務付け(申請型義務付けの訴え)を求めている事案である。
取消請求事件の争点は、本件申請者が救済法上の水俣病と認定されるべきか否かに尽きる。
また、申請型義務付けの訴えは、併合提起が義務付けられている取消訴訟に係る請求に理由があると認められ、かつ、その義務付けの訴えに係る処分につき、行政庁がその処分をすべきであることがその処分の根拠となる法令の規定から明らかであると認められるときは、裁判所は、その義務付けの訴えに係る処分をすべき旨を命ずる判決をすることになる。本件で原告が義務付けを求めているのは水俣病の認定処分であり、その請求原因事実は、本件申請者が救済法上の水俣病と認定することが救済法の規定から明らかであると認められることであるから、これは、結局、本件申請者が救済法上の水俣病と認定されるべきか否かという取消請求事件の争点と同一である。
(1) 救済法における水俣病と認められるか否かは、医学的な判断による。したがって、医学的に水俣病であることを示す症侯が認められない場合には、当該申請者は、救済法にいう「水俣病」と認定されるべき者に該当しないことは明らかである。
ところが、本件申請者については、そもそも、水俣病であることを示す症侯が認められないというべきであるから、同人については、水俣病と認定されるべきものということはできない。
(2) これに対し、原告は、主としてS医師作成の診断書(甲第2号証)に基づき、本件申請者には、四肢末端の知覚鈍麻が認められるなどと主張する。しかしながら、同診断書のみでは不十分であり、他の検診結果等に照らしても、本件申請者には水俣病であることを示す症侯が認められない。
また、原告は、甲第164号証の二宮意見書や、疫学に関する甲第92号証の津田意見書及び津田証言を基に、本件申請者が水俣病と認定されるべきものである旨主張する。しかしながら、二宮意見書並びに津田意見書及び津田証言は、本件申請者に水俣病であることを示す四肢末梢優位の感覚障害等の症侯が認められることを前提とするものであり、その前提を欠く本件では、そもそも本件申請者が水俣病と認定されるべきとの原告の主張を裏付ける関係にない。
(3) したがって、本件申請者は、救済法上の水俣病と認定されるべきとはいえない。
(1) 救済法は、「この法律において『指定地域』とは、事業活動その他の人の活動に伴って相当範囲にわたる著しい大気の汚染又は水質の汚濁が生じたため、その影響による疾病が多発している地域で政令で定めるものをいう。」(2条1項)、「前項の政令においては、あわせて同項に規定する疾病を定めなければならない。」(同条2項)とした上で、「指定地域の全部又は一部を管轄する都道府県知事は、当該指定地域につき前条第2項の規定により定められた疾病にかかっている者について、その者の申請に基づき、公害被害者認定審査会の意見をきいて、その者の当該疾病が当該指定地域に係る大気の汚染又は水質の汚濁の影響によるものである旨の認定を行なう。」(3条1項)と規定している(乙第52号証)。そして、救済法の委任を受けた公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法施行令1条別表6は、認定業務の対象とすべき疾病について「水俣病」と規定しているにすぎない(乙第53号証)。
このように、救済法は、「水俣病」がいかなる疾病であるかについては具体的に規定していないが、「水俣病」という概念は、医学上の「水俣病」以外にあり得ないから、救済法3条は、医学的に水俣病と診断し得る者を認定の対象とすることを明らかにするものであり、どのような者を水俣病と医学的に診断し得るかということについては、医学的知見にゆだねる趣旨と解するのが相当である。
(2) したがって、医学的に水俣病であることを示す症侯が認められない場合には、当該申請者は、救済法にいう「水俣病」と認定されるべき者に該当しないことは明らかである。
なお、認定申請者に認められる症侯が、医学的に「水俣病」以外の他の疾病によるものと判断される場合も、当該申請者は、救済法にいう「水俣病」と認定されるべき者に該当しないといおざるを得ない。したがって、「水俣病」の認定に当たっては、他疾患との鑑別診断が重要となっている。
(1) 水侯病であることを示す症候
水俣病は、メチル水銀により神経系の特定部位が等しく傷害される疾病であるため、これらの傷害部位に対応する症侯である
などの症侯がみられる。
しかしながら、上記の主要症侯は、それぞれ単独では非特異的であり、他の疾患によってもそれらの症侯を来す場合がある。また、水俣病は、神経系疾患であるところ、神経症侯の把握は、患者の応答を介して行わざるを得ないことが多いため、その把握には専門的熟練を必要とする。特に、水俣病の症侯は、上記のとおり非特異的なものであるため、類似症候をもたらす他疾患との鑑別には高度の神経学的知識が要請される。
したがって、水俣病の症候と認めるために医学的に有効な一定の所見は、技術的熟練や解剖学、生理学等の医学的専門的知識とともに、豊富な経験を有している医師が、客観的に公正な検診を行うことにより、初めて得られるものである。
(2) 本件申請者についての症候に関する資料
ア 自覚症状に関する資料の記載内容
(ア) 本件申請者が昭和49年8月1日に認定申請を行った際の認定申請書(甲第1号証)の「健康状態の概要」欄には、「手足のしびれ、歩行の不自由、よだれが出る、味が良くわからない」と記載されている。
(イ) 本件申請の際に提出された診断書(甲第2号証)の「傷病名」欄には「病名不詳 自覚的には四肢のしびれ感、歩行のゆらつき、流涎があり、血圧162〜80粍水銀柱。四肢末端に知覚鈍麻を認める。水俣湾の魚介類を多食していたとの訴えから精査を必要と考える。」
と記載されている。
(ウ) 熊本県が昭和52年7月13日に本件申請者の次男夫婦に対して実施した疫学調査記録(乙第24号証)には、「S47年頃から味がしなくなったと訴えだし、足が痛い為、米ノ津のマッサージに通っていた。この頃から毎日。ボヤーッとして座っている日が多くなりだす。」と記載されている。
(エ) 環境庁特殊疾病審査室が平成8年11月8目に原告らに対して行った審査請求にかかる審尋録取書(甲第3号証)には、「亡溝ロチエの症状等」として、「よだれを垂らしながらボヤーッとしていることがあった。」、「食事を自分でつくっていたので、味をみせてもらったところ、ものすごい味付けになっていた。聞いてみたところ、辛いのかあまいもわからない、口の中が何も感じないといっていた。」、「耳は遠く目も悪かった。」、「歩き方もおかしかった。」と記載さ れている。
イ 検診結果
本件申請者について、上記の客観的で公正な検診結果として得られているのは以下のものである。
(ア) 求心性視野狭窄について
ゴールドマン視野計による検査において、左右ともに視野狭窄及び視野沈下は認められない(乙第28号証の1・2枚目Wの2)。
(イ) 中枢性障害(眼科、眼球運動異常)
眼球運動検査の結果、滑動性眼球運動障害で軽度の異常が認められるが、中枢性眼球運動障害のもう1つの重要な判断要素である衝動性眼球運動で異常が認められない(乙第28号証の1・2枚目Wの3)。
(ウ) 中枢性障害(耳鼻科、後迷路性難聴の聴力障害)
純音聴力検査の結果、後迷路性難聴を示す聴覚疲労現象は認められず、語音聴力も正常範囲であるから、聴力障害は認められない(乙第28号証の1・2枚目Xの1)。
(エ) 平衡機能障害
視運動性眼振検査と眼振検査が実施されている。眼振検査では異常はみられず、視運動性眼振検査の結果は、水平方向はデータ不良であった(乙第28号証の1・2枚目Xの2及び3)。もっとも、視運動性眼振検査の垂直方向については、本件申請者が頭がふらふらして気分が悪くなったため、検査を続行できず、データが得られなかった(乙第23号証)。
(3) 本件申講者に水俣病であることを示す症候が認められないこと
ア C求心性視野狭窄、D中枢性障害(眼科、眼球運動異常)及びE中枢性障害(耳鼻科、後迷路性難聴の聴カ障害)が認められないこと
上記(2)イの客観的で公正な検診結果に照らせば、本件申請者については、上記(1)のC求心性視野狭窄(両側性)、D中枢性障害(眼科、眼球運動異常)及びE中枢性障害(耳鼻科、後迷路性難聴の聴力障害)が認められないことは明らかである。
イ @四肢末梢優位の感覚障害が認められないこと
本件申請者については、上記(1)の@四肢末梢優位の感覚障害の存在を裏付ける客観的で公正な検診結果は得られていない。上記(2)アの自覚的な神経症状に関する資料が存在するものの、それらは、いずれも本件申請者の自覚症状を聴取して録取されたものにすぎず、客観的な検診に基づくものとはいえない。
また、上記診断書に「四肢末端に知覚鈍麻を認める。」と記載されているものの、その理由について、何ら明確な説明はされておらず、また、「なにぶん25年も前の事で不正確な点があるかもしれません。」とその作成された経緯についても正確でないことは、診断書を作成した医師も述べているとおりである(甲第40号証2及び3ぺ一ジ)。
したがって、以上に照らせば、上記診断書のみでは不十分であり、本件申請者については、@四肢末梢優位の感覚障害は認められるとはいい難い。
ウ B平衡機能障害が認められないこと
眼振検査では異常はみられず、視運動性眼振検査の水平方向はデータ不良であったことからすれば、平衡機能障害は確認できないといわざるを得ない。
視運動性眼振検査の垂直方向については、本件申請者が頭のふらつきを訴えたため、データが得られず、S医師作成の上記診断書(甲第2号証)にも「歩行のゆらつき」との記載があるが、上記診断書のみでは不十分であり、これらの事情が医学的に平衡機能障害を示すものともいい難い。
したがって、本件申請者については、B平衡機能障害も認められないというべきである。
工 A運動失調も認められないこと
A運動失調に関しても、本件申請者については、上記(1)で指摘した客観的で公正な検診結果は得られていない。
また、甲第2号証の上記診断書を作成したS医師も、本件申請者の診断内容について、「運動失調も認められれば診断書に記入していました。」と述べている(同医師の陳述書・甲第40号証)。
以上によれば、本件申請者については、A運動失調も認められないというべきである。
(1) 原告は、本件申請者について、甲第2号証の上記S医師作成の診断書により「四肢末端の鈍麻」が確認されており、かつ、同診断書に「歩行のゆらつきと」との記載内容や平衡機能障害の検査時に本件申請者が「頭がフラフラして気分が悪い」と訴えていたことから、四肢末梢優位の感覚障害、運動失調及び平衡機能障害の存在が確認されている旨主張する(原告第4準備書面3ぺ一ジ、同第10準備書面2ぺ一ジ、同第24準備書面8ぺ一ジ、同第25準備書面9ぺ一ジ等)。
しかしながら、同診断書のみでは不十分であることは前記2(3)のとおりであるから、同診断書に依拠する原告の上記主張は認められないというべきである。
(2) また、原告は、甲第164号証の二宮意見書や、疫学に関する甲第92号証の津田意見書及び津田証言を基に、本件申請者が水俣病と認定されるべきものである旨主張する。
すなわち、二宮意見書は、S医師の診断書について、「医師が検診にもとづいて作成したカルテと同等の意味をもつ」などとし(甲第164号証46ぺージ)、また、津田意見書は、当該地域(水俣に近い地域)において、「四肢末梢性の感覚障害を呈する患者は99%以上は・・・メチル水銀暴露による発症であることを示唆している」とし(甲第92号証67ぺ一ジ)、津田証言も同旨を述べるが、この疫学的見解から、何らかの結論を導くためには四肢末端優位の感覚障害が認められることが前提となる。
しかしながら、前記2(3)のとおり、S医師の診断書のみでは不十分であり、本件申請者にはその症侯が認められないから、原告の依拠する二宮首見書並びに津田意見書及び津田証言は、その前提を欠くものであって、本件申請者が水俣病と認定されるべきとの原告の主張を裏付ける関係にない。
したがって、この点でも原告の主張は認められないというべきである。
上記の主要症侯が単独で認められるからといって水俣病と診断できるものではないが、本件申請者については、以上のとおり、水俣病であることを示す症候が1つも認められないというべきである。
したがって、本件申請者については、水俣病であることを示す症侯の組み合わせを検討するまでもなく、救済法上の水俣病と認定されるべきではないといわざるを得ない。なお、水俣病であることを示す症侯が本件申請者に認められるか否かについての原告・被告双方の主張と、いわゆる52年判断条件により水俣病と認定される場合の組合せの関係は、別表のとおりである。
別表 症候に関する主張・立証と52年判断条件との関係
| 症候 | 主張・立証 | 52年判断条件により水俣病と認定される場合の組合わせ | ||||||
| @ | A | B | C | |||||
| 原告側 | 被告側 | ア | イ | ア | イ | |||
| 感覚障害 (四肢末梢優位) |
※認定申請の際に提出されたS医師作成の診断書(甲第2号証) ・「自覚的には四肢のしびれ感」、「四肢末端に知覚鈍麻を認める。」と記載 ↓
感覚障害あり
|
公的検診を受けておらず、データ無し
↓
感覚障害があるとはいえない
|
○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ |
| 運動失調 | 感覚障害及び平衡機能障害に関する証拠などから、運動失調あり |
公的検診を受けておらず、データなし
↓
運動失調があるとはいえない
|
○ | △ | △ | △ | ||
| 平衡機能障害 |
※認定申請の際に提出されたS医師作成の診断書(甲第2号証) ・「歩行のふらつき」と記載 ※視運動性眼振の垂直方向の検査 ・「頭がフラフラして気分が悪い」と訴え、検査の断念 ↓
平衡機能障害あり
|
※視運動性眼振パターン検査(乙第28号証の1) ・水平方向:データ不良 ・垂直方向:データなし(乙第23号証) ※眼振検査(乙第28号証の1) ・異常は認められず ↓
平衡機能障害があるとはいえない
|
○ | |||||
| 求心性視野狭窄(両側性) |
※ゴールドマン視野計による検査(乙第28号証の1) ・左右ともに視野狭窄及び視野沈下は認められない ↓
視野狭窄は認められない
|
○ | ○ | ○ | ||||
| 中枢性障害(眼科) |
※眼球運動検査(乙第28号証の1) ・滑動性眼球運動:軽度異常 ・衝動性眼球運動:異常なし ↓
中枢性障害は認められない
|
○ | ||||||
| 中枢性障害(耳鼻科) |
※純音聴力検査(乙第28号証の1) ・後迷路性難聴を示す聴覚疲労現象は認められず、語音聴力も正常範囲 ↓
水俣病にみられる中枢性聴力障害は認められない
|
○ | ||||||
| その他の症候の組合わせ | ○ | |||||||
・○は症候が認められる、△は症候の疑いがある場合をそれぞれ示す。
・赤字は、完全なデータが得られた検査を示す。
・個々の事例について、水俣病と診断し得るか否かは単純な当てはめだけでは決まらない。
・いずれの場合も、メチル水銀ばく露が前提。