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原田正純証人調書20080728

速記録(平成20年7月28日第2回口頭弁論)
事件番号 平成20年(行コ)第6号
証人氏名 原田正純

控訴人代理人(山口)

甲第264号証(意見書)を示す

001 先生の略歴と業績は、この意見書の後ろのほうに添付してあるとおりですね。

間違いありません。

002 これまで水俣病の研究で、不知火海沿岸の住民の健康調査というのは、大体どのくらい延べでされましたか。

ちょっと数えていないので分かりませんけれども、4000人,3000人か。もちろん重複してですけれども、それくらいはカルテがあると思います。

003 先生が水俣病に関心を持ち始めたきっかけというのはどんなことですか。

1960年に精神神経科の大学院を受けて大学院に入学したときから、最初から水俣病をやろうと思ったわけではないんですけれども、大学院に入ったときに、ちょうど水俣病のことで熊大は全学挙げてやっておりましたので、参加せざるを得ないということで参加しました。

004 それから50年近く研究を続けておられますけれども、その動機というかモチベーションというんでしょうか、どんなところにあるんですか。

いろいろあるんですけれども、考えてみると、水俣病事件というのは、世界で人類か初めて経験したような事件ですし、そういう事件と取り組めるということは、医学を志願した者としては、非常に、誤解されると困るんだけれども、運がよかったということで、これを私は一生の仕事と考えたわけです。

005 先ほど、被害を受けた地域住民約延べ4000人くらいを御覧になったということなんですが、先生がお会いになった本件の原告の溝口秋生さんから始まりまして、地域の住民の水俣病に対する思いというものを、どんなふうに先生は受け取られましたか。

要するに,水俣病というのは人間が作った病気ですね。私、一応医者ですから、治らない、治しきれない病気というのは山ほどあるわけです。しかし、水俣病は人間が作った病気ですね、しかも、なかなか神経がやられると治りにくい、そういうことがあって、神経精神医学を勉強する者としては、これを取り組まない法はないという、若かったし、そういうふうに思って水俣病と付き合ってきたわけです。

006 その研究を通じて、今度は患者さんのほうの思いというのは、どんなふうに先生は受け取られましたか。

患者は被害者なわけですよね。病気というのは、もちろん、洽らない病気もあるし、治る病気もいろいろあるわけですけれども、被害者の人たちというのは、一方的に何の落ち度もなく、ただ、その生活の場で日常的な生活をしておりながら、そして毒を食べた、食べさせられたわけで、これは本人というか、被害者には何の罪もないわけです。
一方的に環境が汚染されて、それを先祖伝来食べてきた魚の中に、あるいは貝の中に蓄積されたメチル水銀によって被害を受けた人たちですから、交通事故なんかの場合は、多少加害者、被害者の場合、お互いの落ち度というのはあるわけですけれども、水俣病事件に関しては、一方的に被害者には全く責任がないと、そういうふうに私はこの水俣病事件を考えております。

007 それでは、また後から被害者たちの意見とか思いを語っていただくとして、先生の研究を述べていただきたいんですが、余りにも膨大なものですから、ちょっと工夫をいたします。この訴訟で先生の著書を出してあるんですが、先生は論文165、著書119冊というふうに業績集に書いてありますけれども。その中で本件の法廷に出したものについて、ちょっとだけ先生の思いというか、コメントを語っていただけますと、先生の研究の1万分の1でも鮮やかになるんじやないかと思いましてお聞きしますが、甲第99号証の岩波新書、「水俣病」というのは、大変先生にとっても思いが深いものであろうと思いますが、どんな内容というか、どんなメッセージが込められたものだったんですか。

これは,もう30年、40年くらいになるんですかね。当時、水俣病の1次訴訟というのが起こって、その60年に、私東京にいたんですけれども、余りにも水俣病のことというのが世間に知られていない。環境汚染によって病気が多発するということは、その当時からすれば、将来、各地でいろいろな形で起こるであろうという予想ができたわけですね。しかし、当時、水俣病事件というものは、既に過去の、しかも一地方の風土病的な特別な事件だというふうに東京ではとらえられておりましたので、そういう思いがずっとあって、それこそ水俣病に取り組むようになったのは、ある意味では偶然だったんですけれども、その当時の神経精神科に入りまして、そこで水俣病と取り組むようになって、そして10年ほど水俣病と取り組んでいる中で、私の思いというか歴史というか、水俣病の事件そのものを何かに残さなきやいけないというふうに思っておりまして、たまたま岩波からそういう声がかかりまして書いたわけです。

008 同じく先生の著書で、甲第189号証、「水俣の啓示」という暑い本に収載されております先生の論文で、「不知火海有機水銀汚染の医学的追究」という本が、1976年にお書きになっておられますが、それに対する何か思いはありましたか。

これは,不知火海調査団というのができまして、それまでは、水俣病というのは病ですから、医学が主に取り組んでいたわけですけれども、このとき、いろいろな分野の学者たちが集まりまして、総合的研究をやろうということになって、その一員として参加して、もちろんその前もそういうチャンスは幾つかあったんですけれども、他分野、つまり医学以外の研究者たちと一緒にやったということは、私にとって非常に大きな収穫だった。それをまとめたものです。

009 挙げればきりがないので、もう一つだけ挙げます。甲第51号証、甲第112号証で、「裁かれるのは誰か」という先生の著書を出したんですが、1995年のものです。これはどんなものですか。ちょっと毛色が変わっているんじやないかと思いますが。

これは、患者の家族や患者の生活をずっと聞いて回っていて、どうしても医学のカルテに書ききれない部分というのがあるわけです。それは、むしろ水俣病事件としては大事な部分ですね。ところが、カルテというのは非常に限られたスペースがあって、そこにほんのちょっとしか書けない。したがって、私たちが患者から直接聞いたり体験した非常に大事な部分というのは、どうしても医学のカルテでは書ききれない。それを何とか残したいという、当時若かったし、そういう気持ちで、残したいという一心で書いたわけです。

010 川本輝夫さんという自主交渉派のリーダーの刑事事件の裁判の経緯も書かれておりますね。

はい。

011 話は変わりますが、今お手元にある甲第264号証の意見書の作成経緯ですが、時間がないので私のほうから申し上げますが、この裁判の弁護団の東弁護士と私山口が、先生のほうにお頼みしまして作ったものですね。

はい、そうです。

012 先生が原稿を書かれまして、先生の手間を省くために私どもがタイプを打ちまして作り上げたということですね。

そうです。

013 先生が原稿を書かれるにつきましては、ここにいる原告の秋生さん、それから、Nさん、それから、Tさんの、直接先生は診療をされましたね。

はい、そうです。

014 溝口家及びその周辺には何回も行っていらっしゃるわけですね。

はい。

015 大体何回くらい行ったか覚えていらっしゃいますか。

今度の裁判に関しては四、五回だと思いますけど、あの地区というのは水俣病多発地区ですから、それこそ1960年ごろからしょっちゅう行っていたわけで、あの地域の変遷というか、時代とともに変わっていく状態だとか、埋め立てていかれるところだとか、そういうところはずっと見てきております。

016 意見書を書くについては、チエさんの医学的資料、例えば、S先生の診断書とか、住民健康調査の結果とか、あるいは原告秋生さんの陳述書など、それと原判決も読んでいただきましたよね。

はい。

017 話は変わります。今、水俣病とか水俣病事件というふうに私は呼んでおりますけれども、水俣病事件というものを一言で表現するとしたら先生は何とおっしゃいますか。

まあ、いろいろな言い方があると思うんですね。医学的に言えば、環境汚染によって食物連鎖を通して起こった中毒事件と、これは人類が初めて経験した事件です。中毒というのは、有史以来、人類は経験しているんですけれども、それはほとんどが直接中毒、直接的に間違って食べたとか,あるいは職業的に化学物質を扱っていて浴びたとか、言うならば、中毒というのは、通常は直接毒物が人体に入ったもの、これが中毒なんですけれども、水俣病事件というのは、環境汚染を通じて、しかも食物連鎖を通して濃縮された水銀が人体に入って、そして、その地域ぐるみ影響を受けたという、非常に人類史上、初めて起こった事件だというふうに私はとらえております。それともう一つは、中毒というのは、いろいろな中毒がありますけれども、これは人造病なんですね。つまり人造病というのは人間が作った病気で、私たち医者は決して万能ではなくて、治しきれない病気というのをたくさん持っているわけです。しかし、一方では、科学が進歩したりいろいろなことでもって、新しい病気をどんどん作っているんですね。それが私たちの今の社会だと思うんですね。そういう意味で、理論的にはなくせる病気なんですね。ところが、そういう人造病といいますか、人間が作り出す病気というのを、一方ではどんどん病気を起こしている、それが水俣病の持つ特徴だというふうに私は思っております。

018 今おっしゃった人造というのは、先生のお言葉にもありましたように、人体の内蔵ではなくて、人間が作り出すという意味ですね。

そうです。

019 そうすると、先生としては、水俣病というのは食中毒事件で、それも特殊、世界で大変珍しい食中毒事件だったんだということなんですね。

はい。

020 食中毒事件というのは、甲第44号証にもありますように、厚生省も当時、「全国食中毒事件録」というのにも食中毒として載っておりますし、また甲第52号証の「熊本県水俣海産魚介類を多量摂取することによって起こる食中毒」事件というふうに、事件の当初は、行政のほうも食中毒事件というふうに,大変的確な指摘をしていたんですね。

はい。

021 さて、その結果起こった人体に影響を与えた水俣病というのを、一言で言えば、何というふうに説明できるんですか。

一言ですか。

022 大変難しいですか。じゃあ、例えば、メチル水銀中毒による中枢神経の疾患であるというふうに、取りあえずは定義してよろしいですか。

その前に、環境汚染によって食物連鎖を通して起こった有機水銀中毒です。そうしないと、有機水銀中毒というのは水俣病以前にも人類は経験しているんですね。しかしこれは、職業病とか間違えて食っちゃったとか、直接有機水銀を人体が摂取した中毒を有機水銀中毒として、大体19世紀の終わりくらいから報告がぽつぽつとあるわけです。ところが、同じ有機水銀中毒でも、環境汚染によって、しかも食物連鎖を通じて起こった、しかもその地域に荏む何十万という人たちが,濃度の差はいろいろあったにしても、一様に汚染された事件というのは、有史以来、水俣病が最初なんですね。そういう意味で、有機水銀中毒と病名を変えろという意見もあるんですけれども。私は、有機水銀は有機水銀中毒なんですけれども、起こり方、発生のメカニズムが特異であると、しかも人類が初めて経験したという点で、水俣病でなければいけないというふうに主張しておるわけです。

023 水俣病の機序とか病像につきましては、2001年の関西水俣病大阪高裁判決が、すっきりとした形で判示しておりますね。

はい。

024 以下、判決で認められている点を、時間がどんどんどんどんたっていきますので、私のほうから申し上げたいと思うんですが、特に中枢神経で損傷されるところが大脳と小脳ですか。

そうです。

025 以下、細胞とか組織がやられる場合を損傷と呼び、機能がやられる場合は障害ということで分けたほうがいいと思いますのでそう申し上げます。メチル水銀で特に損傷される中枢神経の部位というものは、更に詳しく言えば,大脳の中でも頭頂葉、側頭葉、後頭葉、それと小脳ということですね。

はい。

026 中枢神経のうちの、更に組織として水銀が親和性をもって損傷されるところは、大脳皮質及び小脳の顆粒細胞の損傷と言っていいですね。

はい。

027 で,メチル水銀で損傷される大脳皮質中心後回はどういう認識をするかというと、末梢神経が受けた感覚刺激が、末梢神経から脊髄、視床を経由して、大脳に到達する部位と言えばいいですね。

感覚の中枢ですね。

028 先生は、その関係を大変分かりやすく書いた図として、ホムンクルスの図というのを御存じですね。

見ました。

029 一言で言うとどんなものですか。

体の各部位の感覚が脳に投影されているわけですね。ちょうど、人形さんが逆立ちしたような形で大脳皮質の感覚領域にその中枢があるということです。

030 例えば、手で感じた感覚の刺激というものが、脳のどの辺でそれを認識するかということが、大変分かりやすく絵になっているものですね。

そうです。

031 そして、人間の人体の体の表面の広さと、脳のどのくらいの区域、地域が、その認識する部位として占めるかという、体の部位と脳の広さを大変分かりやすく書いた図と言ってもいいですか。

そうです。

032 これは、甲第218号証、二宮第2意見書の添付資料、熊大ホームぺージの中に戴っているものですが、それを見ると、そうすると、四肢末端の感覚の刺激が大脳のほうの中心後回に到達するということが分かるわけなんですね。

そうです。

033 人間の表皮、体の表面における感覚障害というのは、四肢末端とか口の周囲と、あるいは、例えば、背中とか胸とかでは、感覚の鋭敏さは違いますね。

そうです。

034 一言で言うと、どんなふうに違うんですか。

昔から手八丁口八丁と言うように,手の部分とか顔、口の部分というのは、その支配領域というか、それを感じる部分というのが広くなっております。

035 確かに、手八丁口八丁と言いますね。今私もよく納得いたしました。で、そういうことから、中心後回がメチル水銀でびまん性に損傷されますと、今言ったように過敏なところである四肢末端と口周辺に強い感覚の低下が生じると、そんなふうな機序というか、生理になっているんですね。

そうです。

036 今、障害された大脳皮質中心後回の損傷を検査する方法としては、昔から教科書にも出ているように、舌とか指先の二点識別覚の検査というものがあるんですね。

まあ、そんなに昔からではないと思いますけれども、あります。

037 それで、二点識別覚に代わるものとして、感覚の、表在感覚を検査する方法もありますね。

二点識別と表在とは同じものではないんですけれども、一般的な感覚障害の検査として、表在知覚の検査というのはあります。

038 表在知覚というのは、感覚能力を三つに分ける、深部感覚、複合感覚、表在感覚といって、その中の一つなんですよね。

そうです。

039 表在感覚というのは、触覚、触るもの、それから、痛覚などが入るんですね。

はい。

040 それを総合して、一般的に医学の実務と言っていいんでしょうか、感覚障害と呼んでいるのは表在感覚の障害ということでよろしいですか。

いいです。

041 話は変わります。先生は水俣病をそれだけ診断されてきたと思うんですけれども、先生が水俣病を診断する場合、特に注意する点というか、思い付くような方法、工夫というのがあると思うんですが、どんなふうに水俣病診断というものは考えたらよろしいんでしょうか。

まず、患者の訴えをきちんと聞くということが前提ですけれども、慢性になりますと、患者が自覚しない障害というのが案外あるんですね。そういう意味で、そういうことがあるということを前提に診察をしております。それから、もう一つは、慢性に症状が進行する場合に、本人が自覚しないので、周りの人は分かるんだけれども、本人は余り自覚していないことだとか、そういういろいろなことがありますので、なるべくなら生活の場といいますか、生活の場でみるようにしたい。それから、患者の訴えそのものを非常に注意深く聞くと。これは当たり前のことなので、別に特別水俣病だからということじゃない、ごく当たり前のことなんですけれども、その当たり前のことを当たり前にやるということです。

042 障害を自分では患者さん自身が自覚しないというのは、ちょっと聞くと奇妙な気がするんですが、具体例を挙げていただけますか。

例えば、私が最初に水俣病に取り組んだのは、胎児性水俣病かまだ胎児性と認定されていないころからなんです。そのころ、胎児性の水俣病というのは、有史以来、まだ人類は経験していなかったわけですから、それを証明するのにどうやったらいいかということを非常にみんな、私だけじゃなくて、熊本大学の医学部は全員そのことを悩んでいたんですね。そういうとき、やっぱりお母さんを診察するというのか一つのヒントになるわけで、お母さんを診ようとすると、あるお母さんは、私はどうもない、どうもないと言うわけですね。そう言わんで子供さんの参考になるのだから是非診せてくださいとお願いして、そして診察すると、針で刺して血が出ても本人は感じない、そこで初めて本人は、自分の感じが鈍くなっているということに気が付くわけですね。つまり、自然と、しかも、じわっと、そういう感覚障害なんかが来た場合には、本人が自覚しない場合もあり得るということですね。本人が気が付く場合ももちろんありますし、いろいろですけれども、一例を挙げますと、胎児性のお母さんなんかは、最初のころはほとんど感覚障害を自分では訴えなかった。だけど、検査をしてみると明らかに鈍いというようた例があったわけで、それで私は、ちょっと感覚障害の調べ方を工夫したければいけないなと、何べんも何べんも聞かなければ駄目なんだなというふうに思うようになったんです。それが1960年の後半くらいだと思います.

043 それに加えて、水俣病の場合は、認定されるのに、自分で申請する本人申請主義がありますので、自分の気が付かないままに申請を出さないということも随分あるんでしょうね。

もちろん、それもありますけれども。自分が水俣病であるということを知らないことがあります。しかし、それだけではなくて、水俣病というのは、さっき申し上げたように、極めて社会的た事件なわけで、いろいろな形の、それは分類できないくらいにいろいろなケースがあって、社会的なコントロールというか、社会的な抑制、あるいは家族内での抑制、そういったいろいろなものに二重三重に、何というんですかね、複雑な抑制機構があって、それで申請が非常に遅れまして、それともう一つ大事なことは、これは私たちや行政の怠慢ですけれども、魚を食べた人は当時20万くらいいたということは分かっていたわけですから、その20万に対してきちんとした調査をやらなかったと。もちろん、水俣病の原因が分かったときに、簡単なアンケート調査をやって,約1000人くらいのアンケート調査はやっておりますけれども、そんなことじゃなくて、もっときめ細かい新潟でやられたような検査は水俣ではやられなかったということが、今日いろいろな問題を残しているんだというふうに私は思っております。

044 特に本件のチエさんの場合がそうであるように、死んでしまった被害者というのも随分いるはずですよね。

そうです。むしろ、水俣病の原因が分かったというのが1960年、まあ59年から60年ですけれども、そのとき簡単なアンケート調査をやっております。しかし、その後、一切やっていないわけですから、その後、水俣病事件というのが表面化して、潜在患者がまだいるということが分かるまでに、約10年間のブランクがあるわけで、この10年間にたくさんの重症な患者が既に死んでしまったと思っています。例えば、あるおじいさんが、縁側に立ってげたを見付けるのに、かにの横ばいみたいに歩かないと、げたが見付からないんですね。明らかに視野狭窄なんです。それを見た、検査に来た医者が、おじいちゃん、あなた用心せんと水俣病になるよと言っているんですけれども、もうなっていたわけですよね。それで、そういう患者、例えば、私自身も、名前を言って悪いんですけれども、SSさんという胎児性の患者がいまして、その人の家にしばしば私は訪ねていきました。そして、おばあさんが寝ているんですね。ばあちゃんどうしたのと言うと血圧がと言って、ああそう、大事にと言って帰っていたんです。しかし、今考えてみると、あの言葉、あの状態、水俣病だったなと思うけれども、もう亡くなっておられるし、ずっと前に亡くなられたわけだし、もちろん申請もしてないし、もちろん調査もしていない。そういう人が一体どれくらいいたかと思うと、これは行政の怠慢でもありますけれども、私たちの怠慢でもあったというふうに思っております。

045 チエさんの場合がそうなんですが、死んだそういった人たちの健康状態とか、水俣病であるかないかを調べるについての何らかの方法というのは、先生はお考えになられましたか。

通常は、よほど亡くなった人の解剖をするとか、入院して精密検査を受けているとか、そういう当時の生前のデータがない限り、診断をするということは無謀なんですね。しかし、幸か不幸か水俣病というのは、さっきから話しているように、環境汚染によって、しかも、食物連鎖を通して起こった中毒ですよね。そうすると、本人はもう亡くたられていても、そういう環境汚染によって、しかも、食物連鎖によって起こった中毒であるがゆえに、例えば,同じものを食べた家族だとか、あるいは家族でなくても同じものを食べた地域の人だとか、そういう人たちが今どういう状態なのかということを調べることによって、ある程度の判断というのはできるというのが、また水俣病の特徴でもあるわけですね。それは、環境汚染によって、しかも食物連鎖によって起こった中毒という点において、それが可能であって、それは、ほかのものも全部そんなことができるわけではないんですけれどもね。だから、そういう意味では、水俣病というのは、家族や、その地域、あるいはその汚染の状況とか、そういう情況証拠を幾つか集めることによって診断が可能な特異な病気であるというふうに私は思っております。

046 お手元にある甲第264号証の先生の意見書というのは、チエさんに対して、そのような先生のお考えで調査、研究、診断をされた上の判断ですね。

それは、もちろん、いきなり亡くなった人について水俣病かどうか判断してくれと言われて、これは本当は、通常なら非常に無謀なことなんですね。だけど、水俣病に関しては、幸いというか不幸というか、そういう情況証拠を集めることによって浮かび上がってくるわけですね。ある程度の確率というか診断が可能であるという。極めて例外中の例外というんですかね。それが水俣病の逆に言うと特徴なんですけれども、そういう意味で、私はこの意見書をまとめてみたわけです。

047 今先生が意見書を読み返して、間違えているところは、文中の「魚介類」という漢字を私どもがタイプを打ったんですけれども、それは「魚貝類」というのが正しいということですね。

まあ、大したことじやないかもしれないけれども、私かこだわっているのは、「魚介類」というのは海産物すべてを言うわけですね。私はやっぱり水俣病の最大の原因は魚と貝だと思う。そういう意味で、私は長年、あえて「魚貝類」と書くんですけれども、こういう言葉はないと思って「介」に変えられたと思うんですけれども、そんなにこだわる必要はないけれども、私は水俣病の原因は魚と貝が主であるという点で、「魚貝」と書いております。

048 それと、もう一つは、先生が特に裁判所に出すことで注意してほしいと言ったのは、先生の意見書の中の添付資料のF−1,F−2が地図になっておりまして、それは協力する皆さんに調べてもらって、患者さんの人名が出ているので,取扱いには是非注意してほしいという御意向ですね。

これは私の力ではなくて、現地の人たちが本当に足で稼いだ貴重なデータです。これを見ると、いかにこの地区が全員魚貝類に汚染されていたかということが、一目りょう然です。ただし、この1軒1軒に名前が付いておりまして、プライバシーの問題があって、これは是非この裁判の場だけで使っていただきたいというふうに、私から代理人の方に申し上げた次第です。

甲第264号証の添付資料F−1を示す

049 これは、原告の溝口秋生さんの住んでいるところ、すなわち、チエさんがずっと一緒に住んでおられた場所と、それから、チエさんの生まれた家を示して,私が加えているんですが、この地図で言うと右の下のほうに、「原告の父原告の自宅」という黒い点をつけたところが、今溝口さんのお宅で、チエさんも住んでいたところですね。

そうです。

050 同じ地図の左側の上のほうに、「正しくはKK」と書いて、それの下を見ると「NK」と書いてある。この「NK」というのは、本当は正しくはKKさんの家であって、KKさんというのはチエさんの弟で、チエさんの生家、生まれて育ったところ,「神川」というところですね。

そうです。

051 で、早速、前提として、先生がおっしやった、チエさんの親族とか地域の調査の問題を確認されたと思うんですが、チエさんの喫食歴とか既往歴とか、そういうものの確認はどのようにされましたか。

御家族から聞くしかないわけですよ。

052 ここに座っておられる溝口秋生さんと、Nさんのお話をよく聞いていたということですね。

はい。

053 ちょっと気になる点が、チエさんの発症の時期を、昭和34年ごろとか又は47年ごろといって、ちょっと開きがある記載があるんですけれども、こういうそごというのは、水俣病の実際の調査をする上においてはどんなふうに解釈したらよろしいですか。

そんなことはいつもある、いつもと言うといかんですけれども、私たち臨床をしていればしょっちゅうあることで、患者さんの思い違いというのは非常にあるわけです。私たち自身も、正確にある病気をした時期がいつだったかというのは、例えば、孫が生まれたとか、あるいは家族がどうしたとか、よほどそういうものに引っ掛けないと間違いが多いんです。しかも、10年も20年もたっているわけですからね。だから、間違うのが当然という言い方はおかしいんですけれども、私はそういう経験はしばしばあるので、それは何べんも聞いたり、あるいは思い出すようにいろいろなことを、その村でみんなが共通した記憶とか、あるいはもっと言えば日本の国でもいいですが、みんなが思い出す、あるいは共通して共有しているような記憶を基に聞き出していかなければいけない。だから、病歴をとるということも一つの技術でして、ちょっと違ったからこれはうそだというふうにはならない。例えば、ある患者さんなんて、あなた、これはいつからしびれるのと言うと,5年くらい前と言われるから、ちょっと待てよ、5年くらい前のカルテがあったなと思って5年くらい前のカルテを見ると、そこでもやっぱり5年くらい前と言っているというような例もあります。私自身でさえ、いつからこういう症状が出たかと言われたときに、正確には覚えていないことが多いわけです。それは、決して患者のマイナスに使うんじゃなくて、そういうことを口実に患者のマイナスに使わないことだと思います。そうしないと、几帳面につけている人ももちろんいますけれども、普通は、自分たちのことを考えても、そんなにいつごろからとは、それは、入院して手術したとか、そういうことがない限りは、なかなか発症時期というのははっきりしない。したがって、水俣病研究班も、昔はいつ発病というのをずっと記録しているんです。ある時期から全然書いていません。書いていませんということは、当てにならんということではないんですけれども、要するに、はっきりしないと、本人の記憶が不確かだということで書いていないんですよ。それは、2次研究班だって、大体いつごろだろうということで統計は取っていますけれども、いつ発病したかというのはなかなか難しいというふうに今思っております。

054 それでは、具体的に溝口秋生さんの診察についてお聞きしますが、秋生さんについてはどんなふうな診察をされましたか。

特別ということじゃなくて、通常、水俣病で私が検診しているやり方をやったわけです。

甲第264号証の添付資料@を示す

055 感覚障害の検査は、どんな器具を使って先生はとられましたか。

筆と針です。

056 それに加えて二点識別覚も試みてはいらっしやるんですね。

そうです。最初のころはやっていないんですよね。最近、二点識別覚の障害というのが水俣病では非常に重視されるようになってきたんで、今回はやってみています。しかし、認定審査会でも、実はやっていないですね。

057 先生が試してみたのは、フォン・フライ・フィラメントという器具というんでしょうか、それを使ったんですね。

はい。

058 フォン・フライ・フィラメントというのは、軸の先に硬さの違う毛が伸びているものと表現すればよろしいでしょうか。

そうですね。私なんかも、いろいろ筆で、筆全体でやってみたり、あるいは筆の先の毛を半分くらいにしてやってみたり、あるいは二、三本にしてやってみたりするんですけれども、それはいかにも古くさい方法でして、今はその筆というか、毛に大きさがあって、番号が付いていて、より客観的に検査ができるということなんですけれども、私なんかはずっと筆一本でやってきたものですから。

059 50年間、筆と針でずっと通して、原則としては、それで、それこそ何千人という方を診ておられるわけですね。

はい。進歩が余りないと言われそうなんですけれども。ほかには、なかなか感覚障害の客観化というのは難しいんですね。本人の感じ方ですから。だけど、これは患者さんがこう言ったからこう書いたということではないんで、感覚障害があるかないかということ自体が一つの診断なんですね。だから、そこを強くしてみたり軽くしてみたり、さっき言ったように筆の先を2本にしてみたり、いろいろなことをやりながら判断するわけですから、感覚障害は本人が言っただけというんじやなくて、やはり一つの診断なんだと私は思っています。

060 審査会も、やはり針と筆ということですよね。

審査会というか。要するに,県の検診もそうです。

061 そこの図の中に、お人形さんの一番左側のお人形さんの辺りに分数で10分の10と書いてあるんですが、これは痛覚の比較の意味なんでしょうかね。

これは書かなくてもよかったんだけれども、要するに、一番はっきりするところを10として患者さんに聞くわけですよ。先が鈍いと言うからですね。さっきよりは,ここが10としたらここは幾つくらいで、大ざっぱでいいからどうねという聞き方をするわけですね。そうすれば、半分くらいと言えば5くらいになるし、半分よりもちょっと強いとか、ちょっと弱いとか、まあ、6くらいだろうとか、これはまあ患者さんとの共同作業です。

甲第264号証の添付資料@を示す

062 一番下のお人形さんの一番左側のお人形さんの頭の左側に書いてある、10グラムですかね。「10gr」というのは、痛覚検査の、重さなりを変化させる器具があって、その重さを示しているわけですね。

原則として、私は筆と針でやっているわけですけれども、やっぱりそれに対して、最近、感覚障害に対する研究が進んで、いろいろな、もうちょっと巌密にやる方法というのが出てきたというか、そういうのが使われるようになったんで、私も、この場合は、たまたま10グラムのやつでしてみたら、今までと大体同じバターンが出たと。そういう意味に解釈していただいて結構です。

m 063 同じお人形さんの真ん中のお人形さんの頭から点線が打ってありまして、「4.56」というふうに書いてありますが、これが先ほど言ったフォン・フライ・フィラメントの大きさですね。

はい。

064 太さと言ってもいい。

はい。

065 もう一つ同じ資料の中で、右の一番上の脊髄のX線所見には何の記載もないんですが,これは検査しなかったという意味ですね。

そうです。

066 このような検査をされて、先生は、秋生さんについてはどんなふうに診断をされましたか。

水俣病だと診断しました。

067 その経緯というんでしょうか、少し先生の思い、お考えを述べていただけますか。

このような感覚障害というのは、ほかの病気で絶対ないとは言いませんけれども、水俣にいて、水俣の魚貝類をたくさん食べて、そしてこのような特徴のある感覚障害があるということは、有機水銀の影響と考えずにほかに何を考えますか。私は、これはもう、水俣病であると。もちろん、障害の強さというのはいろいろありますけれども、この場合は、じゃあ、ほかに何を考えるかということですね。私は水俣病だと考えたわけです。

甲第264号証の添付資料Aを示す

068 添付資料のA、Nさんの診断について、何か気が付かれること、及び診断の理由等はいかがでしょうか。

全く同じような所見があるわけですから、当然と言えば当然。同じものを食べているわけですから、当然と言えば当然ですね。そういう家族の症状から、亡くなったチエさんの症状を、通常はできないことなんですけれども、水俣病に関しては可能だということをお示し申し上げているわけです。

069 Aの資料の中の一番下のお人形さんの図の真ん中の左手の下のほうに「A」と印が書いてありますけれども、これはどういう意味なんでしょうか。

これは、アナルゲシア、つまり感覚脱失ですね。痛みですけれども、痛みをほとんど感じないというアナルゲシアのAです。

裁判長

070 その上は何と書いてあるんでしょうか。

「辛じてわかる」か。

甲第264号証の添付資料@を示す

071 添付資料@の下の絵の真ん中のところ、これは何と書いてあるんですか。「変らない?」ですか。

「変らない」ですね。上と下と変わらないという意味です。

控訴人代理人(山口)

甲第264号証の添付資料B−1,添付資料B−2,添付資料Cを示す

071 BCの資料を見ながら、Tさんの症状と診断について述べてください。

この方は、私、何べんか診ているんですけれども、感覚障害があるのかないのか分からないんですね。分からないから、正直に「?」と書いているんです。なぜかということですけれども、この世代は、実は胎児性世代なんですね。胎児性世代というのは、感覚障害か証明できない人もいるわけです。これは、従来は感覚障害がないというふうに考えていたんですけれども、本当にないかどうかは、比べるものがないから、まあ、ゼロじゃないわけですね。胎児性の患者でも、痛いのは痛いと言います。ただ、生まれつきにそういう状態ですから、私たちの感じと胎児性の患者さんとの感じが同じかどうかというのは全然比べようがなかったわけです。したがって、胎児性に関しては、感覚障害はないものというふうに考えていたわけです。そのことは、環境庁の胎児性の判断条件の中にも、胎児性の場合は感覚障害が証明できないことがあるというふうに入っています。そのように胎児性世代というのは、なぜか分かりませんけれども、感覚障害が大人みたいにきちんと証明できない人が多いんですね。ただ、水俣病というのは非常に特異な中毒ですね。それは、おなかの中でも汚染され、生まれてきてから、そして、おっぱいならおっぱいからも汚染され、そして、離乳食から子供のときまで、ずっと汚染されてくるわけですから、どの時点で非常に強い汚染を受けたかによって症状が多少変わってくるわけですね。そういう意味で、胎児性、仮に胎児性と言っている世代は、感覚障害を証明することができないことが多いわけです。しかし、最近の研究では、全体が落ちているんだという意見もあるんですけれども、私、多分そうだろうと思うんですけれども。少なくとも大人にあるような感覚障害の検査では引っ掛かってごないことが多いんです。非常に重症な患者でも、針でちょっとつつくとぱっと逃げますから、分かっているんだなということは分かるんですね。しかし、それが私たちの感覚とどうなのかということは比べようがないわけですね。そういう理由です。このTに関しては、何べんも感覚障害をやったんですけれども、よく分かりません。正直なところ、あるのかないのか、ちょっとよく分かりませんけれども、これか逆に言うと、体内で汚染を受けた患者さんの特徴でもあるというふうに私は考えております。

073 B−1、視野図の視野狭窄はいかがですか。

これは明らかに視野狭窄があるんですけれども、これは私がやったデータではなくて、私は眼科の専門家じゃないですから、協立病院の眼科の専門家にしていただいたデータをお借りしたんです。

甲第264号証の添付資料Dを示す

074 これはどんな検査であるか、どんな意味を持つかを簡単におっしゃっていただけますか。

これは、若い人にとってはちょっと酷な言い方ですけれども、一見見たところ、そう障害があるように見えないわけです。あるいは、学校、登校拒否みたいなのがありました。単なる登校拒否なのかというと、そうではないんですね。そして、学校の成績を見ますと、非常によくできているところもあるわけです。例えば、国語の書き取りなんていうのは非常にいい成績を取っているわけです。ところが、目で見てそれをこっちに移すというようなそういう作業は、脳の一部、今、高次脳機能障害という言葉で言われておりますけれども、脳の大脳皮質が全休じゃなくて部分的にやられたときに、そういう症状が出てきます。この方は、目でこっちのやつをこっちに移すということができないんですね。ところが、書き取りをさせると、「札幌」なんて難しい漢字を書けるんですね。この凸凹、アンバランス。これが高次脳機能障害と言われる、いわゆる大脳皮質の虫食い型の障害の特徴なんですね。そういう意味で、Tは、大脳皮質の虫食い型の障害があるということが言えるわけです。一見見てそんなに症状があるように見えないんですけれども、話も普通にします。だけど、こういう作業をやらせると、かぽっと症状が出てくるわけですね。これは、じゃあ、何によって起こってくるのかということですけれども。家族が魚貝類をたくさん食べ、そして、水俣病の症状がたくさん家族にあるということから考えれば、普通に考えれば、やはりこれもメチル水銀による大脳障害の一つであるというふうに私は判断したわけです。

(以上林恵子)

甲第2号証、甲第111号証(各診新書)を示す

075 いずれも、S医師の診断書です。先生は、チエさんの今回の診断にあたりまして、S医師の診断書あるいは陳述書、また、そこに動めていたSKさんの陳述書、住民健康調査結果、あるいは、審査会の資料等も見ていただきましたよね。

はい。

076 S医師の診断書について、「自覚的には四肢のしぴれ感」、他覚的所見としては「歩行のゆらつき、流涎」、血圧、「四肢末端に知覚鈍麻」が確認できますというような趣旨が書かれていますね。

はい。

077 これについては、原判決が、こういうものは自覚的なものであって、症状として確認できないという趣旨の結論になっているんですが、医者である先生としては、どんなふうにお考えになりますか。

さっき申し上げたように、自覚症状と他覚症状は別なわけで、しかも、感覚障害というのは、確かに、本人が協力しなければできないことは事実ですけれども、飽くまでも、さっき申し上げたように、それぞれの医師がいろいろな工夫をしながら、針と筆を使って証明するんです。そのこと自体が診断なんですよね。だから、感覚障害は、本人がしびれていると言う、もちろん、しびれているというのは自覚症状ですけれども、感覚障害という異常は、これは診断なんです。これは、S先生であろうと,私であろうと、少なくとも、感覚障害と書いた以上は、それは、患者が感じないと言っているだけではなくて、医師として、所見として、感覚が障害されているということを意味するわけです。それじゃなきや,診断書の意味がない。

078 先生は、S先生にお会いになったことがありますよね。

会ったことはあります。

079 さっきも申しました水俣病の自主交渉派のリーダーである川本輝夫さんの紹介で2度ほど会っているというふうにおっしゃいましたね。

はい。

080 だれか患者さんを連れていかれたんですか。

そうじゃなくて・・・。ちょっと記憶がはっきりしないんですけれども、あのころ、水俣の開業の先生たちは、だれも申請の診断書を書いてくれないんですよ。そのころ、S先生は書いて・・・。まあ,書いてくださった方が何人かいて、その書いてくださった方のところに川本さんが連れていったような気がするんですけどね。

081 行かれたときは、診察室にお入りになられて、S先生の診察されているところでお会いになったんですよね。

もう、時間が余りなったからですね。

082 私は、この間、S先生に何度か御連絡を取りまして、会っていただきたいというふうな申入れをしたんですけれども、先生が高齢で、軽いうつ病と、それから、御主人の看護等で、お会いできないというふうな御返事をいただきました。これは、甲第270号証、今日出した分なんですが、先生は、最近、S先生にお手紙を出していただきましたね。

はい。

083 御返事はありましたか。

やはり、S先生の話をするのに、御本人に全く連絡をせずにやるというのは失礼だと思って、出しました。

084 S先生のこれまでの経歴というのは、女子医専を出て、水俣保健所に勤められ、水俣市立病院で働いた後、水俣市で開業されたということは御存じですよね。

はい。

85 保健所では、伊藤蓮雄さん、よく、水俣病の事件史なんかに出てこられますけれども、伊藤蓮雄所長。それから、市立病院では三嶋功先生、水俣病の現場の先端におられた方。その下でお働きになった方ですよね。

はい。

086 先生に、あらかじめ、S先生の診断書とか三嶋先生の診断書のつづりを見ていただきましたけれども、そういうところから、S先生のこの診断というものが、どんなふうな意味を持つかということを、更に御説明いただけますかね。

要するに、感覚障害があったということは、はっきり言えるんじゃないかと思います。

087 ところで、知覚鈍麻という言葉は、患者本人が訴えた言葉ではなくして、医学用語ですね。

はい。

088 原判決はそこを混乱していると思うんですが、感覚障害には、自発的な感覚障害、すなわち、じんじんとか、びりびりとかいうものと、それから、被刺激、何か刺激を与えたときに感覚の異常が起こるという、2つのはっきりした区別がありますね。

はい。

89 感覚鈍麻というのは、被刺激的な感覚異常を示す医学用語ですね。刺激を受けて、それに対する認知の能力が低下しているとか消失しているという意味ですね。

はい。

090 したがって、これは、医学的な診断としていいわけですね。

そうです。

091 それぞれ、自発的な感覚障害と被刺激時の感覚異常については、ジステジアとかパレステジアといって、区別をしていますよね。

はい。

092 ところで、先生も、他の医師の診断書を読んで私の質問に答えるのはなかなか難しいと思うんですが、先生は、他の医師の診断書とかカルテというのは、相当よく見ておられるんではありませんか。

相当よくというと・・・。

093 数のことです。

まあ、見ているほうかもしれません。

094 例えば、水俣病の医学の研究とか、それから、日常の診療において他の先生からの照会を受けるとか、そのときに、他の医者の診断書とかカルテを読むことがあるんじゃありませんか。

それはあります。

095 それから、審査会においても、審査資料に診断書が添付されていますよね。

はい。

096 そうすると、先生は、今まで、他のお医者さんが書いた診断書というのは、何枚くらい見ていますか。これも膨大な数だと思うんですけれども。

分からないですね。

097 4000人以上、4000枚くらい見ていますか。

そんなに見てないです。自分が診た人はそれくらいいるかもしれないけれども。

098 しかし、審査会でも、かなりの数を。先生は、8年間、審査委員としてやっておられて、見ておられるから。

ああ、そういう意味の・・・。だけど、審査会の診断書というのは、あれは、御承知と思うけれども、手続だったんですからね。で、なかなか診断書がもらえなかったんで、熊本県は何でもいいと。風邪も貧血でも何でもいいから、とにかく診断書を付けてくれと指導したわけですか、ほとんど参考にならないわけですよ。

099 先生は、熊本水俣病の第2次訴訟の一審で医学鑑定をされていますよね。

ええ。あれはチッソの申請です。

100 椿先生と、相鑑定と昔うんですか。別々に医学鑑定をされたんですよね。

はい。

101 何人くらいされたか覚えていらっしやいますか。

11人だ、たと思います。

102 14人じゃなかったすか。

14人だったですかね。

103 その中には、既に死亡された方もおられましたか。

いました。

104 そうすると、それは、診断書とかカルテを御覧になりながら。

意見書を。ただ、彼女、女の子だったんですけれども、彼女の場合は、入院していて、詳しい所見がありました。

105 椿先生と先生との鑑定の結果というのは、どんなふうになりましたか。

細かいことはちょっと忘れたんですけれども、私は、全員水俣病、つまり、有機水銀の影響ありという判定で、椿先生は5人だったと思うんですけれども、ちょっと数が確かではないんですけれども、5人か4人かは水俣病だけれども、あとは関係ないという判断だったと思うんです。しかし、それでも、これは、全部、水俣病審査会が水俣病でないと言った患者ですから、たった5人だったけれども、やっぱり、椿先生が水俣病と診断したということは、本当は大変なことなんですね。水俣病の熊本の審査会が水俣病でないと言った人を、椿先生が、鑑定で、5人だったか4人だったかはともかく、水俣病と言ったこと自体が大変なことだったたわけで、これは、ちょっと、後でいろいろな影響が出てくるんですけれども、私は、全員水俣病だというふうに診断をしたわけです。

106 結果としては、1979年3月28日の判決で、原告14人中12人が水俣病と認められましたよね。

はい。しかし、そのとき否定された1人は、解剖によって水俣病と逆転されたんですね。だから、そんなに間違ってなかったなというふうに思っています。

107 原判決が言っているのは、この診断書で病名が不詳であるということで、いわゆる医者としては水俣病として認められないということを言っているんではないかと言っているんですが、それは、当時の診断書の書き方としては、どうだったんでしょうか。

それは、事情を御存じないんですね。当時、先ほどもちょっと言ったように、患者が申請する診断書を一からもらうということが大変だったんです。今は違いますよ。そのために、県は何でもいいと。それこそ、極端に言えば、風邪でもいいという指導をしたんですけれども、その中で、このS先生は不詳と書いておられるんですけれども、中身は水俣病と書いてあるわけですよ。この内容を見るとですね。だから、私も、申請の段階では、一応、水俣病というのは審査会が決めるということで、遠慮しているわけじゃないけど、水俣病の疑いとして診断書は出しています。

108 実質的には水俣病と書いてあるのだという趣旨をおっしゃられたんですが、結局、この診断書の中には、水俣病の5大症状をとろうという診察が見えるということをおっしゃっているんですか。

結局、水俣病かどうかということを、水俣病をターゲットと言ったらおかしいんですけれども、意識して診察されたことは間違いないですね。

109 流涎という項目もS先生は書かれているんですが、これは、自覚的所見というんですか。他覚的所見というんですか。

S先生が書かれた以上は、他覚的所見です。

110 流涎と水俣病の関係というのは、どんなふうに考えられますか。

難しいんですけれどもね。しかし、水俣病は、口の周りの感覚障害というのが非常に特徴なんで、まあ、よだれが出ても分からないという症状の一つである可能性は大きいですね。

111 口周囲の感覚鈍麻というか、感覚障害が推測されるということですか。

その可能性も考えられるということですね。

112 S先生と三嶋先生とI先生、先生は、この人たちは御存じですね。

知っています。

113 甲第259号証は、当時の先生たちの診断審のつづりなんですが、いずれも「病名不詳」というような記載になっているんですが、それは、さっき先生がおしゃったような意味ということですね。最終的には審査会が決めるというか、そういう意味なんでしょうかね。

・・・それは書いた人じゃないと分からないですね。

114 この中で、S先生は,5ページと7ページだけ、「水俣病の疑」というふうに書いているんですが、はっきり歩行障害があると診断書の中に書いてある場合に疑いというふうな記述をしているんですが、これは、やっぱり、ハンター・ラッセル症候群を意識したというふうに普通はみるんですか。

・・・それは、よほどはっきりしていたんでしょうね。だけど、それは、私は何とも言えないですね。

115 ところで、S先生の感覚障害のとり方等については、先生が最近御連絡を取った御返事として、何かそれに対してのS先生の御意見とか記憶などが書いてありましたか。

それよりも、やっぱり、医者が感覚障害と書いたら、それは、少なくとも,ちゃんと感覚障害を検査してやっているわけですよ。だから、どうやったこうやったという話じゃなくて、少なくとも、診断書に、病名はともかくとして、感覚障害と書かれた以上は、それは、S先生のやり方で検査をされて感覚障害という判断をされたんであって、患者が言ったから書いたわけじゃないということは言えると思います。

116 乙第94号証の4の住民健康調査結果で、チエさんがしびれがあると言っているんですが、そのしびれが軽いという欄にチェックされているので、原判決というのは、まあ、これは、はっきりした症状ではないというふうに言っているんですが、これは、当時の住民健康調査に先生も参加された思うんですが、いかがでしょうか。

参加したかな・・・。

II7 住民健康調査で、しびれがありますかという質問がありますよね。アンケート調査で。

はい。

118 それで、ひどいというのもありますけれども、軽いという答えもあるんですよ。

はい。

119 軽いというふうに書いてあったので、原判決は、これは、はっきりしたものとは言えないんだというふうに見ているんですが。第2次研究班の軽いというアンケートの結果を、そういうふうに無視してもよろしいんでしょうかね。

・・・それは何とも言えんけれども、大体、一般的な話をしますと、感覚障害というのは、さっき申し上げたように、本人が自覚される場合もあるけれども、自覚されていない場合もあるわけです。だから、そこを、医師が診て、どう判断するか、つまり、この場合だったら、S先生が診たときにどう判断するかが問題なんであって、本人がどう答えたかということは、無視はできないんですけれども、あんまりそれに引きずられることはないと。

120 ただ、軽いと答えた方は、第2次検診まで進めなかったというんでしょうかね。第2次検診に進んだ人たちは著しい人たちという。

いや、そんなことはないですよ。要するに、当時の判断として、四肢の感覚障害、ないしは視野狭窄、ないしは運動失調の疑いのある人は、全部、次に上げたわけですから。1次調査の精度、1日何百人も診た日もあるわけですから、もちろん、精度の問題はありますけれども。何か、その辺、ちょっと僕は質問がよく分からないんですけれども。

121 ただ、チエさん自身は2次検診に行ってないようですけれどもね。

引っ掛からなかったわけでしょうね。

122 そうすると、先生の今の記憶だと、軽いというふうな結果だったから行かなかったんじゃないだろうということですか。ほかの理由があったんじゃないかということですか。

それは分からないです。

123 チエさんに関する審査会資料、乙第28号証で、眼科で、滑動性追従運動異常が確認されているんですが、これまた軽いということで原判決は無視しているんですけれども、水俣病の関係で、こういうふうに、検診の結果を無視するということは許されるんでしょうか。

それは、もし、水俣病かどうかということを真剣に検討するんであれば、水俣病にみられる軽い症状があれば、当然、それは、重視すべきだというふうに私は思いますけれどもね。

124 水俣病にみられる症状として、滑動性の異常、眼球異常というのは、どうでしょうか。

だから、水俣病にみられる症状の一つですから、それは、当然、軽かろうが重かろうが、水銀の影響があるかどうかという判断の場合は、参考にするのが普通ですよね。

125 乙第98号証の4の住民健康調査結果で、チエさんに心臓疾患と腎障害と高血圧があるんですが、チエさんの感覚障害、S先生の確認されるところの感覚障害等を考える上において、この心臓疾患とか、腎障害、高血圧などは。

関係ないです。

126 関係ありませんか。

はい。

127 どうして関係ないかを、ちょっと御説明いただけますか。

それは,心臓疾患で感覚障害が来るわけないです。しかも、水俣病にみられる感覚障害というのは、非常に特徴があるわけですから。

128 四肢末端。

はい。

129 腎障害のほうは、どうでしょうか。

関係ないですね。

130 高血圧。

関係ないですね。

131 全く関係ない。

はい。

132 以上、チエさんに関する診断として、チエさんの同居親族及び住民、それから、直接診たS先生の診断書等、全部を総合して、先生は、チエさんの健康障害については、どんなふうな診断をされますか。

人の残された診断書あるいは検査所見というのは、それ以上でもない、それ以下でもないわけで、それでもって判断しろというふうにはならないんですけれども、私が前に申し上げたように、ほかの面、ほかの視点から、例えば、家族の問題だとか、地域の問題だとか、そういう問題から水俣病であると言っているわけですから、ほかの人がこう言ったから水俣病と言っているわけではないです。

133 先生の直接のそういった審査、調査においては、チエさんはどういうふうに診断されますか。

だから、調査というのは、要するに、ここにある資料しかないわけですから、その資料を裏付けるために、家族の症状なんかを診たわけですから、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

134 結論としては、水俣病であるというふうに診断されるわけですね。

はい。

135 審査会の問題についてお聞きいたします。先生は、1974年、昭和49年の11月から、1982年、昭和57年の10月に至るまで、最初は専門委員、後ほど審査委員となられて、約8年間、審査会の審査をされていましたね。

はい。

136 先生が専門委員になられるころというのは、審査会の内外をめぐって、大変動きの多い時期でしたね。

そうです。

137 先生の記憶を喚起するために申し上げますが、1974年3月には九州大学の黒岩先生が座長となって認定業務促進検討委員会、それから、1974年4月には武内会長の任期切れで再任がなかったり、いわゆる第3水俣病の問題がありました。それから、1974年、先生がなられるころですが、集中検診の問題があったりしたわけですよね。

はい。

138 立津先生が委員に推薦されたんですけれども、お断りになって、先生を推薦されたという経緯でしたね。

はい。

139 先生が審査会の委員になるについては、沢田県知事自身が先生のところにおいでになって、説得というか、なってくださいというふうな依頼を受けたということですね。

はい。

140 先生が専門委員になられて、審査会に出られるんですが、当時の審査会の基準というのは、いわゆる、46年次官通知を基準にしていたころですよね。

まあ、時間的にはそうですけれども、内容はそんなに変わってなかったと思います。

141 昭和46年の次官通知の根本というのは、そのちょっと前に、佐々委員会が出した結論に基づいてなされていたということでよろしいですか。

あんまり意識してなかったと思いますけれどもね。

142 先生は、佐々委員会の内容というのは、後天性水俣病についてはハンター・ラッセル症候群を原型として、筋電図とか末梢神経の生検を必須検査としておって、末梢説に立っていたということを御存じですか。

知っています。

143 そうすると、先生がなられた当時は、いわゆる、四肢末端の感覚障害の責任病巣としては、末梢神経という言葉であったわけですね。

はい。

144 先生がなられたころは大変動きが激しかったということで、ちょうど、1974年に熊本地方裁判所に提訴された不作為違法確認訴訟が、76年に判決が出て、いわゆる遅滞しているんだということが指摘されたころですね。

はい、そうです。しばらく開けなかったです。

145 そんなことから、県知事と審査会は、石原環境庁長官に対して、要望書を提出していますね。

はい。

146 そんなこともあって、昭和52年に、いわゆる52年判断条件というものが環境庁から指示されたということですか。

何年。

147 昭和52年、1977年に、判断条件というのができましたよね。

いや、それができたのは、むしろ、第3水俣病事件がきっかけですよ。

148 その経緯について、一言言っていただけますか。

第3水俣病事件が起こって、これが否定されるわけですね。第3水俣病事件というのは、有明地区、有明海にその患者が出ているという疑いだったわけですけれども、それを否定する過程で、診断基準の見直しみたいなことが起ってくるわけです。本来、関係ないんだけれども、関係づけられたわけですね。つまり、第3水俣病があるかないかという話と、いわゆる不知火海の水俣病事件というのは、全く無関係じゃないにしても、事件は違っていたのに、第3水俣病が否定されることによって、その第3水俣病に絡んだ審査委員が全部罷免されまして、罷免というか、再任を拒否されまして、そして、九大とかよその大学の神経内科の医者を入れて、新しく再編成をしたと。ところが、それは、患者の反発があって、なかなか開けなかった。それを開く説得材料として私が選ばれたというような形に結果的になって、それで、私が参加することによって審査会が開けたわけですね。そのときに、判断基準うんぬんという話は、内部では出ないんですよ。従来どおりやってくださいという話なんだけれども、一方では、そういう52年通知というのを出されることによって基準が巌しくなったというふうに言われているんですけれども、具体的にどこかどう厳しくなったのか、中にいる我々でさえ知らなかった。ただ、その通知をきっかけに、棄却患者がわあっと増えたことは間違いないです。

149 ただ、46年の次官通知と52年の判断条件を比べてみれば、明らかに違うことは、組合せというものが52年判断条件では強調されていますよね。

はい。

150 先生が今おっしやったことは、52年判断条件が出たけれども、先生が入っている熊本の審査会としては、それ以前と同じような基準でやっていたと、こういうことをおっしやったわけですか。

もっと言うならば、その前の46年の基準でも、あんまり変わってないんですよ。46年通知が出たから、たくさん患者が救済されたという話でもないわけですけれどもね。ちょっと、そこのところは外から見えにくいところだと思うんですけれども、別に、通知が出て、審査会の中が、それでぐるぐるっと変わったというわけじゃなくて、一貫して厳しい基準でやってきたんですよ。

151 基準となったのは、水俣病の汚染地域でよく出ている四肢末端の感覚障害の病巣が末梢神経だという、そのベースに立って、やっぱり、ハンター・ラッセルの組合せをとろうと。それが確かなんだというようなお考えですよね。

いや、末梢も中枢も、要するに、感覚障害というのがベースにあって、それに、運動失調あるいは視野狭窄という中枢性の症状がプラスされるかどうかですよ。運動失調と視野狭窄と中枢性の聴力障害ですかね。そういう基準は、ずっとずっと来たわけですね。

152 四肢末端の感覚障害の原因というか、病気というのは、当時は、多発性神経障害とか多発性神経炎というふうにお考えになっていたんですよね。

そういうふうに考えていた人が多かったけれども、しかし、そのことで判断条件が広くなったり狭くなったりはしてないんですよ。ただ、感覚障害の説明が、例えば、中枢性であれば、腱反射、腱をたたいたときにぽっと反射するようなやつですね。いわゆる末梢説に立てば、そういうものがあっちゃ困るわけですよ。末梢神経がやられた感覚障害であれば、腱反射が弱くなるか、又は、なくなるはずだと。ところが、実際、患者たちは、みんな、腱反射が亢進したり、あるいは、正常であったりしたわけですね。だから、感覚障害があてにならないという、口では言わないにしても、感覚障害が問題なんだということで、感覚障害プラス何かの症状があれば水俣病と認めていいんじゃないかという議論になったわけですね。ところが、いや、あの腱反射は中枢説なんだよ、中枢が病変なんだよというふうになれば、それは、症状が動こうが、腱反射が亢進しようが、何しようが説明がつくということになって、本当は、そこで広がらなきゃいけなかったんですね。

153 広がる。

広がるというか、要するに、感覚障害だけの水俣病は信頼できないというか、信頼できないとは言わないにしても、説明ができないということで、症状組合せ論があったわけですよ。だから、それが中枢性の病変だとすれば、全剖説明がついたわけですよ。そうすれば、組合せ論がそこで破綻したはずですよね。そういう意味があるんですよ。だから、最初のころ、中枢だったから、あるいは末梢だったから、棄却が増えたとか、そういうことじゃないんですね。

154 先生は、当時、四肢末端の惑覚障害というのを、やはり、多発性神経炎というふうにお考えになっておられませんでしたか。

いや、僕はそう思っておりました。それはなぜかと言うと、病理所見とかそういうもので診たと言われると、我々は何とも言えんから、やっぱり末梢神経がやられたんだというふうに、ずっと考えていたわけです。

155 今の点をもう少しお聞きしますけれども、病理所見というのは、当時の武内先生とか衞藤先生が病理の専門家であられて、水俣病と認定された人たちの末梢神経を採ってみたところ、そこに損傷があるというふうな顕微鏡写真等を、審査会又は学会等でよく示されていたと、こういうことですね。

そうです。それと、臨床的にも、要するに、手袋足袋様の感覚障害というのは、一般的には、末梢性の多発神経炎でよくみられる症状ですから、それと病理が結び付いて、長いこと、いわゆる末梢神経がやられるんだという説が有力であったわけです。

156 ところで、今から考えて、又は、関西水俣病大阪高裁判決を前提にして考えてみますと、そうした武内先生や衞藤先生の病理所見というのは、どうも事実と違っていたんではないかと思われますよね。

はい。

157 どんな点が、その武内先生たちの研究には欠けていたというか、違っていたんでしょうか。

それは、研究というのは、時代とともに、いろいろな批判が出てくるのは当然なんで、恐らく、最初のころ、末梢神経を、運動神経と感覚神経とを比較されて。運動神経よりも感覚神経のほうが傷害されているという判断をされたと思うんですね。ところが、今考えてみると、運動神経と感覚神経というのは、そもそも、違うんですよね。同じ大きさとか同じあれじゃなかったわけで、そもそも、運動性の末梢神経と感覚性の末梢神経を比較すること自体が、実は、今考えてみると、間違っていたわけで、そこに一つの落とし穴があったというふうに考えていいと思います。

158 そういうことは、同じものを比べて、正常なときと、被曝した人体の同じ部分をとるという意味で、正常なものを必ずとるというのは、コントロールをとるというふうに言っていいんですか。

そうです。

159 そうすると、武内先生たちの研究というのは、コントロールのとり方がなかったというふうに言っていいんでしょうね。

コントロールを運動神経にしちゃったというところに問題があったんじゃないでしょうか。

160 末梢神経説に立つ先生たちの御意見もあるんですけれども、それはともかくとして、当時、先生と並んでと言ってもいいのかもしれませんが、新潟大学の椿先生のお考えというのは、どうだったんですか。

椿先生から、むしろ、僕らは、感覚障害が手袋足袋様の感覚障害というのは、末梢神経の傷害が非常に特徴的だからということで学習したわけですね。だけど、どうも、晩年は、末梢神経じゃ説明がつかないというふうに考えておられたような節があります。

161 逆に、末梢説を否定するというか、末梢説をもう一度考え直すきっかけになったような研究も随分あるんですが、時間がありませんので一つ二つだけ出しますが、熊大の神経生理の専門家の永木譲治先生が、1970年代に正しいコントロールをとって、自分自身の末梢神経や、奥様、御母堂の神経を生検して,研究されたものかあったんじゃありませんか。

ありました。

162 先生は,永木先生とは。

親しくしておりました。

163 永木先生の研究というのは、一つの、大脳説、中枢説をとる研究のきっかけとはならなかったんですか。

ならなかったですね。

164 それは、なぜなんでしょうか。

僕に聞かれても分からないです。

165 多発神経炎、多発神経障害というものを、最初、四肢末端の感覚障害から推定するということなんですが、実際は、多発神経障害というのは、四肢末端が同一に出るのではなく、下肢、神経が一番長い先から、だんだんだんだん冒されてくるという形ではないんですか。

そうだと思いますよ。

166 そうすると、その病歴と言うんでしょうか、障害の変化をみていっても、多発性神経障害ではないということも、一つ、推測というか、考えられたのではありませんか。

いや、だって、当時みたときは、何年もたっている。つまり、慢性水俣病。それは、水俣病の始まりをみていたらそうかもしれないんですけれども、大体、10年とか20年たってみてますからね。どっちから早く来たかというのは、もちろん、患者さんの訴えもありますけれども、それは、水俣の場合は、なかなか、それは気が付かなかっただろうと思いますよ。

167 別の観点なんですけれども、そもそも、多発性神経障害というものの発症頻度というのは、非常に低かったんではありませんか。

非常に低かったから、水俣ではあんなにたくさん出ているから、これは明らかに有機水銀のせいだと、当時、みんな考えたわけですよ。

168 だから、通常の神経障害の発症頻度というのは、いろいろな統計があるんですけれども、厚生省の資料などでは10万人に22人くらい、アメリカのM・ウォーリンの神経疫学では人口10万人当たり40人とか、大体、そんな程度の発症率ですよね。

そんな程度の発症率が、水俣ではたくさんいたから、水俣のいわゆる汚染の影響だというふうに考えたわけです。そうでしょう。だって、本当はものすごくまれなものですから、そのまれなものが、水俣地区では、さっきの溝口さんじゃないけど、家族を診たら、診た人みんなあるという、それで、みんなびっくりしたわけですからね。本来は少ないのに、たくさんあるから、これは水俣病のせいだというふうに当時考えたし、また、それは正しかったと。責任病巣が違ったにしても、それは正しかったわけです。

169 責任病巣が違ったという、そこのところを確認しておきたいんですけれども、いわゆる多発性神経障害というのは、末梢がやられるということでの病気ですよね。

はい。

170 そうすると、そんなに珍しく発生するものを鑑別しなければならないということになるんですか。今度は鑑別の問題なんですけれども。

・・・・・。

171 水俣病の地域であったとしても、いわゆる水俣病以外の多発神経障害というのは非常に少ないわけでしょう。さっき言った10万人に40人とか。先生だって、幾ら診ているといっても、何千人、4000人という単位ですよね。そうすると、10万人の中でも40人とか、そういう数だとすると、純粋な多発神経障害というものは少なくて、それを鑑別するということに大変大きな労力を費やしたように思うんですが、今から考えると、どうですか。

そんなことないですよ。みんな、末梢神経と思い込んでいたから。

172 例えば、多発性神経障害の原因として、先生の近くにいるお医者さんたちが、大変な種類の病気があるんだ、そういった四肢末端の障害というのが出てくる、だから、鑑別を厳密にやらなければならないというふうにおっしゃったような先生たちというのは、おられませんか。

裁判で、それはありました。

173 具体的に思い出されますか。

だから、多発神経炎を起こす病名を一杯書いて、こういう病名が一杯あるから鑑別が難しいんだというのを主張されたんですけれども、例えば、糖尿病でよく知られているんですけれども、しかし、糖尿病かどうかというのは、患者が目の前にいるわけですから、調べれば分かるわけで、そんな、机の上で、こういう病気もある、こういう病気もある、こういう病気もある、だから、感覚障害だけでは水俣病かどうか分からないという理屈は、全く成り立たないわけですよ。

174 先生の検査結果をみても、全身に感覚障害があったという方を先生はみておられますよね。

(うなずく)

175 こんなときは、やっぱり、四肢末端で多発神経障害というふうな診断では、ちょっと、実質、違うんじやないかというような思いがありませんでしたか。

ありました。

176 それから、口周辺の感覚障害というのも、多発神経障害では出てきませんよね。

だけど。実際、現実には、口の周りの障害というのは、かなりたくさんいましたからね。事実、そういう患者はたくさんいるということを受け入れるしかなかったわけですよ。

177 ハンター・ラッセルという水俣病の原因を明らかにした外国論文でも、中枢説をとっていて、末梢神経がやられていないという論文も出ていますよね。

知っています。

178 外国論文では、圧倒的に、四肢末端の障害、水銀汚染というものが中枢説であるということは、確定していた事実ですね。

そうですね。そんなにたくさんないですからね。私が知っているのは、イラクの例。ただ、あのときの説明も、イラクというのは、非常に短期間に濃縮にばっと食べちやったと。水俣の場合は、何年にもわたってじわじわと食べちゃったと。その違いかなとか、いろいろな考察はあったんですけれども。水俣とイラクは、同じ有機水銀でも、違いますからね。その違いかなというふうに、みんな解釈していたんじゃないでしょうかね。

179 そういうふうな今までお話しになった水俣病の考え方とか。症状の理解とか、基準とかによって、判断の困難な事例というのは,随分多く出たんですよね。

そうですね。

180 昭和53年、1978年から、1992年までの間に、審査会の先生たちが、判断困難事例集というのを作って、約14年間くらいですかね、正確な冊数は分かりませんけれども、新潟の方々も持ち寄ったりして、研究をされていますよね。

はい。

甲第218号証(意見書(その2))を示す

181 35ページを示します。これは判断困難事例を集約したもので、この中で、判断困難事例というのは、約180人くらいだったたというのは覚えていらっしゃいますか。

覚えてないです。

182 その中で、127人くらいか四肢の感覚障害あるいは全身障害。全身というのは、四肢と口周辺の感覚障害があったと。かなりの、約70%くらい、そういう方々がおられたと。判断困難事例の中でもおられたという感じはどうですか。御記憶ありますか。

溝口さんとどう関係あるか分からないですけれども、この困難例の勉強会というのは結構なことだということで、たくさんの人か参加したんですよ。ところが、僕は、2回目か3回目に何かのことで椿先生に大変怒られて、それで参加してないんですよ。なんで怒られたかはまた別ですけれども。その中に、溝口さんか入っていたわけじゃないでしょう。

183 この中に入っていたわけではないということと、先生は詳しくその内容は分からないと。

研究会があったことは知っていますし、最初の2回か3回は参加したんですけれども、すごく怒られて、私はそれから行かなくなっちゃったんです。

後出の甲第265号証の1、2、3(認定審査会資料手作り手控え)を示す

184 これは、どういうものですか。

これは、私の私的なメモです。

185 私的なメモで、例えば、甲第265号証の1、後ろから古い順にだんだん新しくつづってありますね。

そうだったですかね。

186 先生手作りの手控えとおっしやるんですか、これは、先生が審査会に出られるときにこういうものを作って、審査会で議論をするときの手控えとして用意されていたものですね。

審査会の前に、それぞれの科がカルテを整理して、審査会に提出するわけです。そのときに、どういうものを提出したか分からなくなるから、メモとして取っていたわけです。

187 審査会の前に連絡があるというのは、大体、1回の審査会で100人とか、そういうリストが熊本県の公害部から先生のところに来て、次回の審査会は。

こういう人をかけますというのが来るから、そのカルテを集めて、そして、その症状の要約を書いて提出すると。そのときのメモです。

後出の甲第265号証の1を示す

188 書式は、ほとんど同じですよね。各欄、大体、この3冊は同じですよね。

はい。

189 一番上の欄をずっと読んでみますと、「氏名」「住所」がありますけれども、これは、コピーとしては伏せてあります。「共同運動」「眼科」「耳ビ料」「精神」、それから、発作何と読みますか。発作状態。

「発作性症状」。

190 それから、「合併症」「判定」というふうになっていて、この欄の中の眼科と耳鼻科は、先生が審査会に出たときに、眼科と耳鼻科から言われたというんでしょうか、検診での報告を書き加えたと、そういうものですか。

はい。

191 問題は、先生の精神神経科の申請者に対する検診として、この。

前の部分。

192 前の剖分ですね。「知覚」から「共同運動」くらいまでのものを、カルテに書いてあったものを先生が整理のために写していると、こういうことなんですね。

そうです。

193 細かい分析はそのうちやりますけれども、大体、四肢末端の感覚障害のある方々が、8割くらいはいますよね。

そうですね。

194 「反射」という欄で、プラス2と書いてあるのは、亢進という意味ですね。

そうです。

195 反射が消失する、減弱するというのは、マイナスで書かれているわけですね。

はい。

196 それから、何も書かれていないのは、特に問題がなくて正常という意味ですか。このお人形さんの。

書き忘れじゃないでしょうか。普通は、プラスが正常ですよ。

197 甲第265号証の1のNo.1を示します。何も書いていないお人形さんが一杯あるんですけれどもね。

これは正常ですね。しかし、普通は、プラスが正常ですね。

198 先生の手控えとしては、お人形さんに。

異常しか書かなかったということです。

l99 これもざっとなんですけれども、異常のない方のほうが圧倒的に多いですよね。

そうですね。

200 それから、「判定」の欄に「B」とか「C」というふうに書いてあるんですが、Bというのは、どんな意味があるんですか。

認定相当です。

201 Cは。

棄却です。

202 この判定というのは、先生が手控えとして書いて、先生の評価なんですか。それとも。

審査会の最終結論です。

203 最終結論をここに書き込んだという意味ですか。

はい。

204 それ以外に、BとかCとか書いていない空欄であるところが随分多いんですが、この方々は保留ということになるんですか。

そうです。

205 保留という方々も圧倒的に多いですね。

そうですね。あのころは、大体、認定が1回に四、五人で、棄却が10人くらいですかね。保留が圧倒的に多かったです。

206 大体、1回には何人くらい。

大体、100人前後だったと思うんですけれどもね。

(以上、曽我淳子)

207 話は変わりまして、水俣病審査会の実態についてなんですが、審査委員の正規の委員というのは10名、専門委員が10名で議論されていたんですよね。

僕のときは専門委員は10人はいなかったと思いますけど。

208 何人くらいですか。

4人か5人だったと思うんですけどね。数えれば分かるんですけれども。名前を挙げて。

209 じやあ、大体十四、五人で議論をされていたということですね。

はい。

2l0 専門委員と審査委員は全く同じような権限でお話しされていましたよね。

はい,そうです。

211 ただ、熊本県の条例では、委員は10人ということだったと思うんですが,実態はそういうふうな14人で議論されていたと。

はい。

212 それで、決議、いわゆる棄却するか認定するかについては全員一致でしたよね。

大体全員一致です。

213 これも条例では多数決ということだったんじゃありませんか。

そうかもしれませんけれども、何となくそうなっていました。

214 そうしますと、先生の体験された審査会の実態というのは、だれか一人が異論を述べますと、結局は保留になってしまったわけですね。

そうですね。

215 したがって、保留は非常に多くなった、さっきお聞きしましたけれどもね。

はい。

216 それで、審査の先生たちがやるやり方というのは、県の担当職員が検診結果を整理した資料を持ってきて、皆さんに同じ資料を渡して検討するということですね。

そうです。

217 したがって、直接申請者に会っていない審査会の委員というのが、ほとんどということなんですか。要するに,審査委員が申請者を直接診ていたか診ていないか。

みんな診ているわけないんじゃないですか。

218 そもそも、先生は8年間もやっているから、いろいろな方が審査委員とか専門委員になられたと思いますけれども、実際にその中で水俣病を特に研究された人とか研究されていない人という感じで言いますと、どんなふうな割合だったんですか。皆さんが水俣病の大家だったんですか。

何か大家かということですけれども、まあ、水俣病の論文を書いていない人もいたでしょうね。

219 中には水俣病というものを実際に診ていない方もいらしたんじゃありませんか。

そうですね。よその大学の人はそうでしょうね。

220 いわゆる他県の大学。

はい。

221 慶應とか九州大学とか。

慶應はいなかったと。

222 じゃあ、九州大学。

九州大学はそうですね。

223 それで、当時は神経料と神経内科が、それぞれ神経所見をとっていたんですね。

はい。

224 先ほども、先生の教室の神経科の所見というのは分かりましたけれども、神経科の所見と神経内科の所見というのは一致するのが普通だったんですか。それとも、いろいろ審査のずれなどはありましたか。

所見のとり方は、しばしば違った場合がありましたね。

225 そういうことになりますと、結局は保留になってしまうという結果になるんですか。

そうです。

226 先生がおられたころの審査会の出来事とか内容につきましては、乙第111号証でかなり詳しく出ておりまして、時間を掛けて聞きたいと思いましたけれども、これは省略いたします。先生の体験として、未検診死亡者の取扱いについては何か区分があったというふうにお聞きしましたけれども、どんな区分だったんですか。

あんまり記憶が定かでないんですけれども、つまり、検診を受けずに亡くなった方というのが、どんどんたまってくるわけですよね。審査会もこれを何とかしなければいけないということなんですね。それで、しょうがないじゃないかと、亡くなってしまったんだから、もう新しく所見はとれないから、あらゆる所見を集めて、そこで判断しようじゃないかという話になったんですね。それで、資料を集めて、そして判断をする会議にかけたわけですけれども、そのとき、やっぱり非常に厳密にみられる方は、自分たちが実際診ていないのに、書類だけで審査できるかというような意見が出たりしまして、結局、そこは、ただし書をつけて、例えば、検診資料でみたら水俣病相当であるとか、あるいは一般のカルテを集めた結果、水俣病であるとかないとかですね。何かそういうランクを3つか4つ作って、そして答申するということをやったことがあるんです。ところが、当時の背景として、この患者が水俣病じゃなかろうかなと思って診た病院と、全然そのことは考えずに、例えば、胃が痛いというのは胃の病気として診る病院と、いろいろな病院がありまして、どこの病院で受診したかによって、随分大きな差が出てきたわけですね。それはもう仕方がないことで,水俣病と疑って診察したか、胃が痛いと言ってきて胃の治療をしたかというのは当然違うわけで、そこですごい不公平が起こるという意見か出まして、それで結局、1回認定して、たしか2回目か3回目からはやめちやったという記憶があるんですけどね。その後どうなったか、今度は私がやめちやったから分かりませんけれども、多分そのままだったんじゃないでしょうかね。

227 話は変わりまして、当初、審査会で分からないと、申請者の主治医を呼んできてお話を審査会で聞くということも、実際になさったことがありますよね。

ええ。私も何回か立ち会ったことがあります。

228 これは、その後、やめてしまいましたけど、なぜやめてしまったんですか。

それは、開業の先生たちは忙しいですよね。その忙しい先生を審査会に呼んで、いちいちあのときはどうだったかこうだったかと。それはやっぱり開業の先生だちからは、もう嫌だという意見が出たと思いますよ。それは審査委員がみんなで、これはどうだったこうだったと追究するわけですからね。開業の先生だちが、もう勘弁してくれということだったというふうに記憶しています。

229 そんなこともあって、なかなか審査がはかどらないので、保留の方が多くなったと思うんですが、いったん保留されますと、大体どのくらいで、次の審査会で、再び審査がやっていただけるものだったんですか。

それは僕よりほかの人がよく知っていると思うんだけれども、どれくらいでしょうか。とにかく幾つかに分けていました。緊急に再検、それから、とにかく急がないと駄目だというのと、順番、3つくらいに分けていましたかね、同じ保留でも。

230 急がない、いわゆる最後のランクの方々というのは、いったん保留にされると通常は何年くらい待たされたんですか。

時期によって違うと思いますけれども、ひどい場合は、それこそ5年も6年もたって。それで、あのころ胃が痛かったのは、ちょっとここのところが不正確だから保留というと、そうすると、今度は何年か後になっちゃうわけですよ。何年か後に回ってきたら、前に検査したのが、これは古くなっているからといって、また保留になったりして、ちょっとあれは胃が痛かったですね。そんなことがあって、慎重にしようというのは分かるんだけれども、医学界じゃなくて、要するに、行政処分なのに、厳密というか、医学論議をやるものですから、なかなかはかどらなくて、大量の保留患者を出したということです。

231 先生が審査会で人体の健康の判断をするのに5年とか6年保留にするということは、今からお考えになってどんなふうにお考えですか。

大体、まず、これは僕は行政に責任があると思うんですよ。まず、水俣病が起こった時点で、あの汚染地区には10万人以上の人が住んでいたと。その人たちがどうなるかということを責任をもって迫及しておけば、そんなに混乱しなかったと思うんですけどね。第二には、水俣病問題が表面に出てきて、きっかけは川本さんの行政不服とかそういういろんな事件が、裁判が起こるとかいろいろなことがあるんですけれども、一つの要素じゃないんですけれども、申請者が増えてきた、その時点で、もうちょっと検診を簡略化すればよかったと思うんですよね。それが体を診るのも、神経内科が診て、精神神経料が診て、耳鼻科の検査も、予備検査をして、医者が検診して、そしてまた眼科も予備検診して、医者が検診して、それからレントゲンを撮ったり、いろいろなことをするから、ものすごく時間が掛かっちやうわけですよね。だから、もっと思い切って簡便化できたはずなんですよね。それをしないものですから、どんどんどんどんたまっちやって、本当に当時の知事も、私のときは沢田さんだったんですけれども、何とか急いでもらえんかということをおっしゃていたんだけれども、なかなか切替えか悪くて、どんどんどんどんたまっちやって、どんどん遅くなっていったんですね。その間にどんどん亡くなっていくし、亡くなった人を解剖すれば、そこに何かそれなりの証拠が残るんだけれども、解剖もしない、人もどんどん増えてくる。それは大変なことになっていったわけですね。

232 今、解剖という話か出たので一点だけ聞きますが、当時水俣病の地域においては、解剖というのはどんなふうに思われていたんですか。

なかなか家族も、解剖まで踏み切るというのはよほど勇気が要ったし、解剖するということになると熊大から解剖する人を呼ばなければいけなかったし、なかなかそんなにみんな解剖するというわけにはいかなかったですよ。だって数も多いし、それから大学のスタッフにしても、そのことだけをしているわけじゃないですからね。教育あり研究あり、その間に解剖しなければいけないわけですから、そこでどんどんどんどんたまっちやったんですね,

233 先ほどお話が出た沢田県知事なんですが、1979年6月29日、第69回の認定審査会では、沢田知事が非常に積極的に民間資料を導入して分からないものについては自分か判断するということかあったということを、さっきちょっと先生がお話しになろうとされたんですね。

第何回だったか覚えていないんですけど、沢田さんも、やっぱりものすごくたまっちやって、何とかしなければいけないというのは政治的にもそうだったと思うんですね。審査会に対して、先生たちが何べん診ても分からんというのは否定できないということだから、それは認定の方向で答申してくださいとまでおっしゃたんですけれども、なかなか審査会の内部で意見の調整がつかなかったんですね。そういうことで、結局、せっかくそうおっしゃってもらったんだけれども、なかなかうまく処分できずに、どんどんどんどんたまる一方だったわけです。

234 私が言った1979年の69回のときは、認定が20人、棄却が46人ということで,沢田県知事の手腕でされたわけですよね。

それは病理所見じゃないですか。亡くなった人じゃないですか。

235 いや,それだけじゃないと思いますか。

そうですかね。ちょっと記憶が確かじゃないです。

236 いずれにしろ、沢田県知事が、何度も診ても分からないのは否定できないんだからという、その考え方は、その後は続かなかったんですよね。

沢田知事も私もやめちゃったから。

237 ただ、やめるまで、細川知事になるのが1983年ですから、かなりの時間があったんでしょう。

そうだったですかね。とにかく沢田知事は、ものすごくたくさんの滞留している申請者を何とかしなければいけないと一生懸命だったことは、私は知っています。

238 乙第111号証の資料などを見ますと、そういう考え方に対して、県の公害部がかなり強い圧力をかけて、診断書を使ってしまうと8割が認定になってしまうとか、そうした考え方は、さっき先生がおっしゃったけれども、公的資料と民間資料で不公平が生じるじゃないかという話が出て、そんな圧力で沢田知事も立ち行かなくなったということではありませんか。

その辺の事情はよく分かりませんけれども、審査会では不公平が起こるという意見が出て、しばらく考えようと。考えようということは何もしないということでしょうけれども、保留になっちゃったという記憶はあります。

239 話は先はどの検診に戻りますが、先生がおっしゃったように簡略化すべきだということなんですが、実際は、血液とか、尿とか、肝機能検査とか、レントゲンとか、いろいろなものをとりましたね。

そうです。

240 問題は、四肢末端の感覚障害か水俣病であるかどうか分からないと審査会でなったときに、そうしたそれ以外の医療情報を使って鑑別するということはしたんですか。要するに、水俣病でなければ一体何なのかということについて、検討とか鑑別というものはされましたか、そういった血液とか尿とか肝機能障害を使って。

一応、肝機能とか血圧とか首の骨の写真とかをとったわけですけれども、私に言わせれば、水俣病かどうかという判断にそれは要らなかったと思うんですね。治療じゃないわけですから。治療なら、確かに糖尿かあるかどうかとか、血圧が高いかとか、いろいろなことをする必要が当然あるわけですけれども、これは有機水銀の影響があるかどうかという判断をすることが主な目的ですから、そんなに全身いろいろなことをやる必要はなかったと思います。

241 もう一度聞きますが、必要はなかったんですけど、更に、私どもの調査では、そういった保留にされた方は、本来は他の情報を使って水俣病でないならほかの病気というものを鑑別するべきだったんではないんですか。

べきだったかもしれないけれども、そもそも認定審査会というのは何のためにあるのかというと、水俣病かどうか、水銀の影響があるかどうかを判断するという任務ですから、だから、もっとさっさとできたはずですよ。

242 話は変わりまして、病院調査の問題についてお聞きしますが、先生は先ほどもおっしゃられたように、民間のカルテ、診断書というのは、大いに活用すべきだと思いましたね。

はい。

243 それから、そういうものが、医療機関では、原則として保存期間は5年間だったということも御存じですね。

はい。

244 それから、52年判断条件の第4項に、いわゆるそういった医療資料を大いに集めなさいということが指定されたことも御存じですよね。

はい。

245 それから、新次官通知には、そういうものを探してもなければ棄却しなさいというふうに、促進の方向でいっていましたけれども。というのは、新次官通知でも資料は調べるべきだということをやっぱりうたっていたんでしょう。

そうと思います。

246 でも、実際は、病院調査というのは、例えば、チエさんの場合には20年間されていないんですよね。その辺りで審査会の委員が県職員に対して、やっているかとか、例えば、電話一本もかけておけとか、そんなことは審査会の意向として、県職員に言うということはできなかったんですか。

それは何百人という人ですからね。そして、私たちにはそういう情報というのは全くないわけですよ。だから、もちろん資料が出てきた時点で、これは何でこんなに長くほっておったのかとか、そういう意見は審査委員の中から出たことはありますけれども、全体を見ているわけじゃないですから、だれがどんなに遅れているのかなんて、そんなのは審査会は知らないです。

247 しかし、再検の場合は、何年前に審査があったとか。

それはもちろんあります。何でこんなに時間が掛かっているのかというのはあります。

248 そういう審査会の意向に対して、県の担当職員たちはどんなふうなお答えをされていたんですか。

当時の県の職員も、ある意味じゃ、一生態命だったと思うんですよね。問題ははむしろ審査会ですよ。これは、もうちょっとこんなふうにやれと言わなければ、県のほうは言われたことをやっているわけですから、だから、むしろ審査会が、もう少し主導権というか、イニシアティブをとって、時間が掛かりすぎるからこうやるべきだとか、こういうのは省略すべきだとか、いろいろやるべきだったんですね。ところが、よく考えてみると、審査会自身にもあんまり権限がないところがあるわけですね。例えば、基準だとか、そういうのは環境庁が決めて下ろしてくるわけですから、そういう意味では、審査会自身も遠慮しているというか、おっかなびっくりというか、突っ込まなかった部分もあると思うんで、職員というよりも、それを決定する審査会に遅れた責任があったと思います。それは私も参加していたので、私も含めて審査委員会に責任があったというふうに思います。

249 最後の質問ですが、そうしたことから、保留の患者が多くなり、事実チエさんも21年間たって棄却の処分を受けたというような状況になったんですけれども、そういったもろもろの理由があったたと思いますけれども、こういった結果に対して、審査委員の一人として、どんなふうに今はお考えになっておられますか。

それはやっぱり言い訳はするでしょう。数が多かったとか、短期間に処分できなかったとか、いろいろな言い訳はあるかもしれないけれども、しかし、患者の一人にとってみれば、審査会や県からすれば何千人の中の一人ですけれども、本人や家族にしてみればたった一人ですからね。そこのところに思いをはせなければいけなかっただろうというふうに思いますね。自分がそういう立場だったらどうなんだろうということを考えれば、もうちょっと何かいい知恵があったんじゃなかろうかと。これはもう、ここ何年という話じゃなくて、そもそも水俣病事件が起こって、原因が分かって、それから長い歴史の中でそれが蓄積していったわけですから、まあ、当たり前のことなんですけれども、自分の親が、あるいは自分の家族がというふうに審査委員も行政も考えたら、こんなに長いごとほっちらかしておいて、そしてカルテが見付からないと言ってすまされなかっただろうというふうに思います。

250 特に原告の溝口秋生さんの場合は、御母堂の命日が来ますと、必ず県のほうに連絡を取っていたということでも、21年掛かってしまったということなんで、先生の今おっしゃることが身にしみるわけですけれども、最後に先生として、患者さんの立場や、今のお話、本当に大変深いものですけれども、法廷で何か言い残したことがあればおっしゃってください。

まあ、これは、今、えらい医学論争をしましたけれども。医学論争じやないと思うんですよ。一人の家族がお母さんを申請して、結果がどうだろうというのをずっと待ち統けて、そして亡くなって、その亡くなった後も、ずっとそのまま放置されていたということが問題なんで、何と何の症状があれば水俣病であったかという以前の問題じゃないかと思うんですね。本当に、水俣地区の人たちみんなが水銀に汚染されたわけですよ。症状は、もちろんひどい人から軽い人まで千差万別ですけれども、しかし、水俣に住んで、しかも水俣の魚を食った人たちは、みんな何らかの形で水銀の影響があると考えていいわけですね。そういう中で、じゃあ、行政はどうすればよかったかということを、これを教訓に考えていただかないと、チエさんは浮かばれないんじゃないかと思うんです。それから家族の無念さというのは、自分がその立場に立ってみたときに、診断もつかない、そのまま検査も終わらない。だって、申請してから検査が終わらないで、3年幾らたっても検査が終わっていないというのは、そんなのは医療じゃないですよね。そういう状況の中で亡くなっていったその家族の思いというのを、私たちは教訓として次に生かさないと、そういう人はチエさんだけじゃないですよ、もっとたくさんの人がいますよ。そういう不幸なことが今後起こらないように私たちは考えていかないと、チエさんの死が全く無駄になっちゃうというふに私は思っております。余計なことかもしれませんけれども、そう思っています。

控訴人代理人(東)

251 チエさんは1974年8月に申請をされるんですが、翌年の75年6月に市立病院に入院されます。そして、その市立病院でそのまま2年後、1977年7月に亡くなられるわけですね。市立病院に入院期間中、2つの科目だけ公的検診がなされるわけですけれども、そもそも公的検診をされた場所は、水俣市立病院の近くなんですか。

隣です。同じ建物の敷地の中です。

252 申請から3年で亡くなられております。しかも、そのうちの2年は入院されていて、たった2回しかできないような本当に大変な状況だったんでしょうか。

それは大変な状況だったと思うんだけれども、検診ができたはずですよ。だから、専門家がそういう情報を得れば、それは入院されているわけですから、神経所見を診るくらいはできたはずですよ。それをしてないんですから。

253 水俣市立病院の院長先生は三嶋先生だと伺いましたけれども。

三嶋先生は審査委員ですよ。多分三嶋先生には情報が入っていないんじゃないですか。

254 三嶋先生はチエさんの主治医だったんですね。

それなら、神経症状くらい診ておられたんじゃないでしょうかね。申請されたのを知らなかったんでしょうかね。

255 しかも、この病院で、高齢でもあって亡くなられているわけですけれども、ぴんぴんされている、今日、明日じゅうにどうにかなるという人とは違って余命いくばくもないような患者さんに対して、何ら検診をしてないということは、通常考えてもおかしいと思うんですけれども、先生の立場ではどうでしょうか。

審査会も、非常に重症な人については特別にチェックしていたんですね。だから、例えば、重症な人は早く繰り上げて診なければいけないというようなことを一応配慮していたんですけれども、それは今申し上げたように、数がとにかく多いものですからね。ただ、チエさんの場合、何でそれか上がってこなかったか、しかも、市立病院に入院していて、どうしてそれが上がってこなかったのか、私は分かりません。それから、普通申請して、何の裁判だったですかね、何かの裁判のときには、2年以内くらいには処分しなさいという判決が出ているんですね。だから、もちろん緊急でないから、すぐ全部診なければいけないということはないにしても、やっぱり裁判所が言うように、2年くらいの間には、申請してから症状をつかみなさいというのは僕は妥当だと思うんですね。そういう意味では、二重三重にミスをしているわけですよ。この責任は僕は大きいと思うんですね。

256 特にチエさんの場合は、亡くなられていることから見ても、ほっておけば亡くなられる可能性は高いわけですから、急いで検診をするというようなことは、当然あってしかるべきだということでしょうか。

例えば、それは重症で運動検査はできなかったにしても、少なくとも感覚障害とかその他のことはできたはずですからね。恐らく、悪意ではなかったにしても、僕はこれは、そういう情報が行ってなかったんだと思うんですよ。だから、同じ市立病院に入院していて、何メートルも先に検診センターがあるのにやっていないというのは、恐らく情報が行ってなかったというふうに思います。

(以上林恵子)

福岡高等裁判所第5民事部
 裁判所速記官 曽我淳子
 裁判所速記官 林恵子

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