九月十五日の月明の夜、内裏での遊宴に出た後、そのまま宿直《とのい》をした中納言は、特に興味があった訳ではないが、梅壺の女御が帝の寝所に上がってくるのを、藤壺へ通る塀の辺りに隠れて見ていた。
夜更けの月が隈なく澄み渡っている中、濃い衵《あこめ》に透いて見える薄物の汗衫《かざみ》を羽織り、髪を美しく垂れ掛からせた女童が、火取り香炉を持って歩み出て来る。女房達も皆、砧《きぬた》で打って艶を出した衣の上に薄物の唐衣を脱ぎ掛けたように着ており、その様が今宵の空のように優美に見えた。続く女御は、御几帳《みきちょう》を麗しくさし巡らし、大層かしずかれた様子が奥ゆかしく見事であった。
「ああ、私も人並みの身や心であったならば、きっとこのようにかしずかれて帝の許を出入りしていたであろうに。人前に顔を晒した上に男の姿をして世間に出ているとは、全く正気の沙汰ではない」
そんな事を考え続けていると目の前が暗くなってくる。
月ならばかくてすままし雲の上をあはれいかなる契りなるらん
(もし月であったならば雲の上で澄んでいられるのに。どうしてこのように辛い宿命なのであろうか)
「私は拙い宿命の為にこうなってしまったが、せめて姫君だけでも人並みにこうした宮仕えが出来ればどんなに嬉しかろう。我が身の不幸を嘆くのは構わないが、せめて姫君が世間並みであったのならば、退出・参上の世話をする事も出来るだろうに――」
自分の身の上の事を考え続けているうちに、ここから抜け出して深い山に姿を隠してしまいたいという気持ちになってくる。女御を見送り、先ほどの独り言を思い返していると、「蓬莱洞《ほうらいとう》の月」の句が自然に口をついて出てきた。
その声は例えようもなく美しく、空へと澄み登っていくのであった。
宰相の中将も今宵の宴遊に参加していた。今はただ一途に大殿の姫君に恋焦がれ、いつものように嘆いていた。
「無駄であっても、中納言に恨み言でも言い、世にまたとない容貌・仕草を見たい気持ちを慰めよう。帰った様子もないが、どこの物陰で隠れているのだろうか」
姫君を訪ね歩いていたところ、詩を口ずさむ声が聞こえた。慌てて尋ね探したところ、やがて中納言を見つけた。織物の直衣《のうし》・指貫《さしぬき》の上に紅の艶やかな打ち衣を肩脱ぎにし、とても小柄に見えるが、若い上に美しく、月の光に輝くばかりに素晴らしく見えた。
いつもよりしんみりとした気配で、涙に濡れた袖の辺りから、いつもとは違った珍しい香が匂ってくるので、「男の身である自分でさえも魅せられるのに、まして女が中納言から声を掛けられたら、知らぬ振りをする事は出来まい」と羨ましく思う一方で、自分が情けなく感じた。
宰相の中将が中納言を引き止めて理不尽な恨み言を言う様が、実に艶やかで風情があり、好ましい様子であった。
どんな場合でも他人に対して打ち解けて話をせず、酷くよそよそしい態度他人とで接してきた中納言であったが、宰相の中将だけは突き放しにくく哀れに思った。
「そこまで言われるのは心外です。言葉巧みな貴方の心こそ、露草のように移り気で心配です。私としても貴方の事が気の毒とは思っていますが、私の思い通りになる事ではありませんので、本当に申し訳ないです」
そうため息をついて答えた。
我が身の不幸を悩んでいた名残から、ひどく思い沈んだ様子の中納言に、宰相中将は考えた。
「これほど悩みのなさそうな身分なのに、どんな不満があって悩んでいるのか。あまりに身を謹んでいるのも何か思いがあっての事であろうか。結婚した四の君に対しても不満があると聞いていないが、四の君に見慣れてどれほど素晴らしい女性に思い悩んでいるのだろう。最近、東宮になった方(女一の宮)だろうか。いやそれだとしても、この人ならば叶えられぬ話ではない。――それにしても、心に秘密のある人は風情のあるものだ」
色々ととりなして、中納言に言った。
「悩み事があるのなら、私の身に代えても散り計らって、先方を説得して願いを叶えて差し上げましょう。分け隔てなく私に相談して下さい」
中納言は軽く笑った。
「私の身になり代われば、簡単に解決出来るとお考えですか」
その事と思ふならねど月見ればいつまでとのみものぞ悲しき
(何か理由があって嘆いている訳ではないですが、月を見ているといつまで生きられるのか、悲しくなってしまいます)
とても艶やかで親しみ深い感じの声であったので、宰相の中将はほろほろと涙を流して、返歌を詠んだ。
そよやその常なるまじき世の中にかくのみものを思ひわぶらん
(本当にそのような無常な世の中で、どうしてこれほど思い悩まないといけないのでしょう)
「私も罪深いと思い知らされていますので、あなたの悩みを見定めた上で、私も深山に籠もって身を隠そうと思っています」
「もしそう決心した時は私も連れて行って下さい。このままこの世にいたくないという気持ちが、年月と共に強くなっていますが、決心出来ずにいるので……」
心の中を打ち明け、しみじみと夜を明かした。
それぞれ別れた後も宰相の中将は、慕わしい気持ちがした。
「この中納言は万事が立派で優れている中でも、際立って繊細な雰囲気がある。女として世話をしたいと思うほど美しい」
益々、姫君の事を思いやるのであった。
院は、今は東宮とれている為に親しく世話をする事も出来ない上に、乳母といってもしっかりと気の利く人も仕えておらず、また自身も幼く頼りないので、心もとなく不安に思っていた。そんな時、左大臣家の姫君が婿取りや入内を考えていないと耳にし、「それでは東宮の後見人にしよう」と思い付き、ある日、左大臣が参内した折に、あれこれと話をするついでに尋ねてみる事にした。
「中納言の妹はどうするつもりなのか?」
左大臣は「まだ側に召すつもりなのか」と驚き、泣きながら答えた。
「……正直、どうするか決めかねています。親である私にさえもあきれるほど恥ずかしがり、顔を合わせると汗をかき気分が悪くなるような者ですので、いっその事、尼などにして仏の道を進ませようかと、考えているところです」
それを見た院は本心から出家させるつもりではないのだと、気の毒に思った。
「それはよくない。実は東宮にはしっかりした人が側におらず、自分も離れて暮らしているので色々と心配なのだが、――どうだろう、東宮の遊び相手として参内させてみては。ともかく世間に留まっていれば后にもなれるだろうから」
左大臣は中納言の事を思い出し、「姫君もしかるべき運命なのだろう。確かにその程度の宮仕えならば可能だ」と、嬉しい気持ちで心が乱れた。
「一応、母親と相談して参ります」
左大臣はそう答えて退出した。
姫君の母親にこの旨を伝えると、首を横に振って答えた。
「どうすればいいか私には分かりません……」
左大臣は、「中納言の様子を見ていると、姫君も宮仕えに出すのがよさそうだ。院の仰せの通り、本当に后の位につく事もあるかもしれない。そうなれば、思いの外、めでたい事であろう」と想像するだけで胸が騒ぎ、あれこれと祈祷をしたりするのであった。
「同じ事なら早く」
院からの仰せにより、左大臣は十月十日頃に姫君を参上させた。支度は万全で、女房四十人、女童・下仕え八人を美しく着飾って付き添わせた。また通常の宮仕えではないが、名目なしに仕えるのもおかしいという事で尚侍《ないしのかみ》として参内した。東宮は梨壺《なしつぼ》にいるので、尚侍の私室は梨壺の北西にある宣耀殿《せんようでん》に儲けられた。
しばしば夜伽に参上して一つ御帳の内で寝ていると、東宮の若々しく上品でゆったりとした気配や肌触り、そして無心に打ち解けた可愛らしい様子が愛しくなり、あれほどひどく恥ずかしがって内気な性格であったのに、自分を抑える事が出来なくなった。そして夜伽を重ねる内に、次第に大胆な行動をするようになっていった。
東宮は尚侍が男だと分かり驚いた。だが見た目や雰囲気は少しも嫌な所はなく、美しく穏やかな人柄なので、何か訳があるのだろうと察し、騒いだりはしなかった。それどころか、いい遊び相手としていつも側に置いているのを、尚侍もいじらしく感じていた。
姫君は夜に引き続いて昼間も東宮の部屋にいて、手習いをしたり絵を描いたり琴を弾いたりし、起き伏し共に暮らして相手をした。万事が気後れして恥ずかしいと閉じ篭っていた頃と比べると、何事も気が紛れる心地がするのであった。
宰相中将は、中納言の妹が尚侍《ないしのかみ》となった今でも恋心を禁じられている訳ではないので、離れず機会を窺っていた。左大臣家の厳しい監視下にあった時は近づく術もなかったが、こうして宮仕えに出るようになったのを嬉しく思い、夜も昼も宣耀殿《せんようでん》の辺りを離れず様子を窺っていた。気高く振舞う様子や世間の評判が素晴らしいので、いつになったら自分の恋は叶うのだろうと、そればかりを思っていた。
その年の五節《ごせち》に中院の行幸があった。人々は皆、小忌衣《おみごろも》姿で参列していたが、その中で宰相中将と権中納言の青摺《あおずり》の衣が、一際素晴らしく見えた。宰相中将は背が高く、きりっとした姿でありながら、それでいて優美で風情があり、色めいた雰囲気が素晴らしく見える。中納言は華やかでいつまで見ていても見飽きないほど艶やかで、こぼれるばかりの愛敬は比類ない。身のこなしや様子も男装こそしているが柔らかくしなやかで、目も眩しい程である。後宮の女房達はその姿に見惚れていた。
宰相中将は少しでもいい女がいそうな所は素通りせず、必ず立ち止まっては言葉を掛ける。だが中納言は見掛けとは異なり、宰相中将がなかなか先に進めず止まりがちであるのを横目で見ながらどんどんと先に進んでしまう。女房達は、ここが檜隈川《ひのくまがわ》ならば――と恨めしく思った。
笹の隈檜隈川に駒とめてしばし水かへかげをだに見む(古今集)
(檜隈川で馬を留め水を飲ませてやって下さい。せめてその間だけでも貴方の姿を見ていたいのです)
見送った人々の中に、中納言の事を強く慕う一人の女性がいた。
一人の随身が遅れて来た。何か申し上げたそうにしているので、中納言は何事かと尋ねた。
「実は麗景殿《れいけいでん》の細殿《ほそどの》の一の口で呼び止められまして、これを主人にと言付かってきました」
そう前置きして風情のある手紙を取り出した。中納言は身に覚えがないのを不審に思いつつ、手紙を開けてみた。
逢ふ事はなべてかたきの摺衣《すりごろも》かりめに見るぞ静心《しずこころ》なき
(逢う事が難しい貴方の青摺の衣を偶然に目にし、私の心はひどく乱れています)
実に見事な筆跡で書いてあるのを見ながら、「誰だろう」と微笑んだが、落ち着かない場所なので返事をしないでおいた。だが冷たくつれない態度は気の毒だと、人々が寝静まった後、夜更けの月が明るく澄んでいる時分に、麗景殿の細殿の辺りを佇みながら歌を詠んだ。
逢ふ事はまだ遠山の摺目にも静心なく見ける誰なり
(逢う事はまだ先だとしても、遠目に青摺衣を見て心乱れた人が誰だか知りたい)
だが返事はない。誰もいないのだろうと思っていると、手紙を渡されたという一の口で声がした。
めづしと見つる心はまがはねど何ならぬ身の名乗りをばせじ
(貴方を美しいと見た心に偽りはありませんが、つまらぬ身の上ですので、名は申し上げません)
その様子に興味をそそられて、中納言は近寄って歌を詠んだ。
名乗らずは誰と知りてか朝倉やこのよのままも契り交はさん
(名乗ってくれなければ誰だか分かりませんので、現世で契りを交わせないではないですか)
「名乗れないという事が、『かたきの摺衣』の理由なのですね」
取りとめのない冗談を言いながら近づくと、一段と美しく愛敬がある女の様子に、中納言は自ら恥ずかしくなるほど心乱れてきたが、世間の男のように無作法に押し入るような事は出来ない。女は麗景殿の女御の妹にあたる人らしい。普通の身分の人ではないと分かったので、冷たくはしない程度に語り合った後、人々がやってくる音がしたのを機にひっそりと別れた。
このように中納言を一目でも見た人で、心を込めて待っている妻がいる事も、冷淡な人だと噂している事も構わず言葉を掛けてくる女性は大勢いた。だが相手の身分が相当で気をそそるような場合は、つれなくならない程度に言葉を交わし、身分が低い場合は知らぬ顔で聞き流し、よそよそしく身を慎んでいるのを、玉に瑕だと不満に思っている人もいた。一方、宰相中将がどんな人でも見逃さず言い寄り、様子を伺っているのを風流だと思っている人も多かった。