中納言は疎遠にならぬように吉野山の峰の雪を踏み分けて通ったが、そんな中納言に対する右大臣の恨みは解ける間もなく月日は儚く過ぎ去り、ついに四の君の出産が間近となった。右大臣は娘の出産を危惧し、絶え間なく読経・修法《ずほう》を行わせた。左大臣も不審に思いながらも、世間から不審に思われないようにと祈祷を始めた。
邸内に満ちる程まで祈祷を行った効験か、かねてから気分が優れず苦しんでいた四の君であったが、予想以上に安産で可愛らしい女の子が生まれた。望み通り末は后になるのではと思われる程の美しさであったので右大臣は大喜びし、産屋の儀も善美を尽くし、その支度も慣例以上のものであった。左大臣も湯殿《ゆどの》の儀まで配慮をし、度が過ぎる程であった。
右大臣邸の人々が甲斐甲斐しくあやしている赤子の顔を見た中納言は、間違いなく宰相中将に似た顔立ちだったので、「やはりそうか」と胸がつぶれてくる。昔から隔てなく親しく付き合ってきた相手だけに、さぞかし自分の事を奇妙で愚かだと思っているに違いない――恥ずかしさと情けなさに胸が痛くなる思いだった。
出産の名残で綿などを頭に被り窮屈そうに包まれて伏している四の君のところに近寄り、「少し聞きたい事がある」と声を掛けた。程なく四の君は目を覚まし中納言を見上げた。何でもない時でさえ立派で顔を合わせにくいのに、心中に思うところがあるのでよけいに目線を合わせる事が出来ずにいると、中納言は微笑を浮かべながら、「この歌をどう思いますか」と前置きをした。
この世には人のかたみの面影を我が身に添へてあはれとや見ん
(この世にある限りは、他人の面影を宿した子を、我が子として見続けなければいけないのでしょうか)
四の君は恥ずかしさに何とも言えず、黙ったまま夜具に顔を隠してしまったが無理もない。
ともあれ、このまま生き長らえるのならいざ知らず、世間の人があれこれ取り沙汰する言葉が四の君の耳に入る事はそれほど気にならない。だが自分が世間並みでないのが原因で、あれこれ考えても言葉にしても悩みは尽きず涙が零れた。こんなに大騒ぎしている時に縁起が悪いと思われるのは煩わしいと中納言は四の君の傍を離れたが、残された四の君の心中は苦しくて死んでしまいたい程であったが、他人にはどうしてその苦しみが分かろう。
右大臣の北の方が産湯の役、左大臣の北の方が迎え湯の役などをして喜び騒いでいるのに、中納言の様子が無関心すぎると目を留める人もいるが、「人柄が物静かなので自分を抑えているのだろう」と見なしていた。
七日の夜は大将(三の君の夫)の産養《うぶやしない》で行われた。上達部《かんだちめ》や殿上人《てんじょうびと》がこぞって参集したのに、宰相中将だけが病気の為に参上しなかった。宰相中将は、四の君の出産をどうなるかと人知れず案じ、無事であるようにと祈っても他人事として聞くだけで遠くから見ているしかないもどかしさに、左衛門の部屋までやってきた。
「これほどの契りを分からないはずはあるまい。今宵、少しの間だけでも」
宰相中将はそう言って左衛門を責めた。「とても無理な事」と左衛門は思うが、あまりに気の毒なので四の君の部屋に伺ってみると、女房達は皆、席を外していた。年配の女房は台盤所《だいばんどころ》であれこれ指示をし、四の君の母君は自分の部屋で禄を確認しており、四の君は今夜は湯浴みなどをした後で、かえって人が少ない状態で横になっている。これはまたとない好都合だと、左衛門は明かりをあれこれ工夫して宰相中将を招き入れた。四の君は「折が悪い時に……」と思いながら、強引に結ばれてしまった契りは心に染みて逃れる事が出来なかった。
それほど暗くない灯影に小柄でほっそりとした美しい人がいた。隈なき白の肌で、白い着物に包まれ、頭に菊の着せ綿のように綿が乗せられている。豊かで長い髪を引き結んで垂らしている様子を見ながら、宰相中将は「本当に美しい方だ」と思った。全てが匂いに満ち、一層、心惹かれる思いがする。
あらゆる女性を様々に口説いて我が物とする抜け目のない宰相中将が、自分になびいて欲しいと言葉を尽くす態度に四の君も拒む事が出来ない。ただ心弱く泣く様子に、宰相中将は立ち分かれる気がしなかった。
外では中納言が拍子を取って「伊勢の歌」を歌う声が興深く聞こえる。
「なぜだ。これほどの女を思いのまま妻としながら、どうして疎遠なのだ。あれほど容貌も美しくたおやかで優美なのに、ひどく生真面目で奇妙なくらいに身を慎み、いつも深刻に悩んでいるのは、どれほど重大な事を思い詰めているのだろう」
宰相中将は不思議に思うのだった。
中納言はまだ宴が終わっていないうちに衣服を禄として脱ぎ与えてしまい、ひどく寒くなったので、密かに着替えようと四の君の部屋に紛れるように入った。すると帳台の中で慌てふためく気配が妙なので覗いてみると、起きかかった男は帳台から外に逃れ出たがひどく慌てていたらしく、扇や畳紙《たとうがみ》などを落としたままであった。四の君は狼狽して隠す事すら忘れている。中納言はそっと近寄り、枕元に落ちていた扇を取り上げて灯火の下に近づけて見ると、赤い紙に竹に雪が降っているところを描いた絵が塗骨《ぬりぼね》に張ってあり、裏には気の聞いた言葉などが手習い風に書き散らしてある。その筆跡は宰相中将のものに相違なかった。
やはりそうだったのかと中納言は納得した。こうして忍び入ろうとしたので祝宴には来なかったのだ。普通ならば激しい嫉妬を感じるべきところだが中納言にはそういう感情は沸かなかった。
「男というものはこういうものなのだろう。だが、女は産後で深く考える事が出来ない折とはいえ、あまりにはしたない。宰相中将との関係は今に始まった事ではないのだから、仲介の女房も知らなかった訳ではあるまい。予めこちらに来る事を連絡してあったはずだ。こんな時にも偲んで来るくらいだから、並ならぬ愛情なのだろう。あの宰相中将は思い通りに事が進んで嬉しく思いながら、自分が恥じ入るほど奥ゆかしい人に憧れているようだから、相手に幻滅を感じているに違いない。私がいない、もっとゆっくりとした折々もあるのに、こんなに騒がしく取り込んでいる時に気を許して逢っていては見咎める人もあろう。人目についてしまっては私にとっても四の君や宰相中将にとっても都合が悪い。それにしても一体どうしたものか。このようなことがあるからといって、夫婦の縁を切るというのも世間体が悪い。だからといって今のように二人が人目もはばからず密会しているのに、そ知らぬ振りを続けるのも心苦しい……」
その夜は管弦の遊びや何かと宴は続いたが、思い乱れて心から楽しめなかった。
それからしばらくして出産の事が落ち着いたので、中納言はまたいつものように吉野山に心を寄せて、万事に付け慰めとした。