水梨ルーツフォーラムのページ


  このページは、水梨のルーツをお互いの情報交換により探って見ようというページです。 ただ、実名や記録文書の内容等をそのまま出しますと知らず知らずのうちに全く関係の 無い見知らぬ人の人権を侵してしまう危険性があります。それゆえその類の掲出を差し 控えるを基本に致します。そのため事の真偽が定められず、このフォーラムの意義自体 が問われることになりかねませんがとにかく今は気楽に進めてみたいと思います。
 水梨
 青森県の三戸町を中心にかなり広い範囲に渡り名乗られている姓。
 系統的に調べ、整理された資料は有りや、無しや?。
 水無
 この姓をお持ちの方もおられます。水梨との関連有りや?。

分布数(電話帳 '97,1,17現在による)
地 域水梨水無備 考
青森県八戸市20
青森県名川町
青森県五戸町
青森県三戸町79
青森県南部町16 水梨子は4
青森県田子町
青森県新郷村 水梨子は1
青森県倉石村
青森県福地村
青森県南郷村
青森県下田町
青森県百石町
青森県階上町
青森県十和田市
青森県三沢市
青森県七戸町
青森県青森市
岩手県二戸市
岩手県軽米町
岩手県一戸町
岩手県盛岡市
秋田県鹿角市
秋田県小坂町
宮城県仙台市


三戸町内分布数(電話帳 '97,1,17現在による)
地 域水梨備 考
梅内8.8
在府小路1.3
二日町1.3
川守田3139.2
同心町1113.9
豊川11.4
沢田10.1
元才11.4
泉山1.3
目時1.3



・ 明治3年9月19日太政官布告 平民名字許可令について ・
 「自今平民苗氏被差許候事」
 明治維新政府が農民や町人にも苗字を名乗ることを許すという布告を発したのである。
 それまで百姓、町人すなわち一般庶民は徳川幕府が享保元年(1801年)に出した武士、公家 、神主、医師、学者(儒者)以外の「苗字帯刀」を禁ずるお触れよって刀を差すどころか苗 字さえ名乗ることが出来なかった。
 大和朝廷によって作成された戸籍や‘調’‘庸’等税の送付に使われ今に残る木簡等か ら推し量るに奈良時代以前、既に一般人にも苗字は有ったと言ってもそれほど言い過ぎで はあるまい。朝廷のもとに統一された国家においては庶民層のレベルまで苗字が必要にな ることを図らずも示している。
 庶民の苗字が取り上げ始められたのは室町時代からと言う。武士階級が台頭し、封建制 が進むにつれ本来符丁であるはずの苗字が身分意識の具現化のためへとその役割を変質し ていったのである。
 小国家的領主として土地と民を支配する各武士は自分の領地の生産の担い手である農民 や町民が苗字によって他に帰属意識を持ってはとの懸念も有ったであろうがむしろ、その 身はおろか意識まで土地に帰属させようとの意図が常に働いていたであろう。苗字を持た ない人々の数が増していったのである。このように長い間苗字を名乗ることが出来なかっ た農民や町人は破天荒に”許す”と言われ、戸惑い、怖れたと云う。江戸時代、「苗字御 免」の者として苗字を称することを許された農民、町人は居た。彼等には特に功労が有る というのは表向きでその多くは大金を上納した者達であった。それを見知っている一般農 民、町人が何事かあると身構えたのは至極当然と云えよう。この怖れは当っている。次に 出て来る戸籍法と相俟ってやがて税の他に徴兵令の施行、兵役が課されて来るからである。
 維新政府はこの布告によってどれほどの人が苗字を名乗ると見ていたであろうか。実際 に申し出た庶民の数は上述の理由から微々たるものであったと推測される。
 いずれにせよ明治8年に至り次次項の平民名字必称令が布告される。

・ 壬申戸籍について ・

・ 明治8年2月13日太政官布告 平民名字必称義務令について ・
 「平民苗字被差許候旨明治三年九月布告候處自今必苗字相唱可申尤祖先以来苗字不分明 の向は新たに苗字を設け候様可致此旨布告候事」
要約すると「去る明治三年九月維新政府はその寛大さと慈悲を持って農民、町民にも苗字 を名乗ることを許可した。しかし、その心を分かっておらん。したがってこれからは必ず 苗字を名乗ること。苗字の無い者は作れ」となろう。  一般民衆にとってはこれも又、晴天のへきれきである。

・ 水 梨 姓 考 ・                                 
  日本人が名乗る姓はその数、30万種類におよぶという。
  【参考】 「木梨、高梨、坂梨

青森県三戸町の川守田について
  この川守田地区に"水梨"が一番多い。最初の"水梨"はこの地に居たであろうか?。 川守田は河森田に由来し、川守田館が在ったと云う。三戸城址に建つ温故館の北北西750メ ートル、熊原川の左岸で大体今の熊野神社附近にあたる。 国道4号線三戸バイパスの開 通により館跡の大部分が失われその跡地を実感するのは難しい、特に神社の裏側は丸裸に なり、すぐ後ろを通る車から丸見えである。神社としては哀れとしか言いようがない。 しかし正面、すなわち町内を通る国道4号線側から石段を登ると空堀の址も一部に残り砦 の構えを十分に実感させられるから不思議である。   南部の一族、北氏が居住した。北家は南部藩きっての名門であり南部旧指録 に「三代時実公の三男、孫三郎宗実は三戸城の北に屋敷あり、世人北殿と称す」の記載あ りと云う。 北氏は南部家の宿老を務め戦功もあり、後に剣吉館に移る。北氏の別れには川守、乳井、 梅内、足沢があるという。剣吉館が在った名川町に「水梨」姓は分布していないので北家 の家臣等に"水梨"はいなかったと言えよう。 旧指録は川守田氏を相内、豊川、石沢、河内、津田氏らと共に三戸地士としていると云う。 天正の頃には川守田常陸入道が居たという記録が見られ、館持支配帳には川守田館四百石 川守田文衛門というのがあると云う。天文8年(1539年)、赤沼備中の放火による聖寿寺館 城館炎上焼失の際や南部晴継の葬儀の帰途、賊に襲われた時および九戸政実が乱を起した 時に城主南部信直が川守田館に難を逃れたり、利用した記録が残されており、川守田氏は 南部家にとって信頼のおける一族であると言えよう。この事と四百石の石高からして剣吉 館に移った北氏の別れが川守田氏を称したのではなかろうか?。

     〔熊野神社: 北緯 40°23′04″98、東経 141°15′53″46〕
     〔三戸城址: 北緯 40°22′43″50、東経 141°16′35″35〕


岩手県二戸市金田一水梨について
 古来、地名と姓名とは密接な相関を有する。しかし、青森県の三戸、五戸地方に'水梨' の地名を見いだすことは出来ない。実は、近くの岩手県二戸市金田一に'水梨'の地名を見 ることが出来る。青森県三戸町は岩手県に接する町である。その県境から岩手県側3Km のところにJR金田一温泉駅がある。この小一帯の地名が'水梨'である。ここから三戸町 の中心街は北北西8Kmの距離にあり極めて近いと云える。
 さて、盛岡の不来方城へ移る以前の南部氏は三戸城を居城としていた。この三戸城を南 から攻める者がいたと仮定しよう。
 馬淵川の流れに添いつ離れつしながら進軍して来たであろう軍勢はこの金田一の北に至 り、強烈に蛇行し方向を換える馬淵川に行く手を阻まれるのである。蛇行の大湾曲部はま るで人間の舌に似ているところから特に舌崎の地名がある。この舌崎の対岸は見上げるば かりの峻険な崖であり、ここから先の馬淵川も川底は深くその両岸は鋭く切り立っている 。攻め寄せる武士達が如何に豪胆であったとしても渡河は不可能と覚えるであろう。現代 の我々は県境であるこの川を'青岩大橋'や'鉄橋'により何らの苦労も無くあっと言う間に 対岸の目時地区に渡っている。しかし、当時の三戸城にとってこの自然の要害は大事な防 衛線であり、対岸の目時館には甲斐の国(現在の山梨県南巨摩郡南部町)以来南部氏に付き 従った甲州譜代七氏の一人と云われる目時氏を配していた。そこで、三戸城攻撃軍は唯一 の隘路、すなわち馬淵川が湾曲を始める釜沢の地より舌崎の崖上後方に這い上がる道に向 かわざるを得ない。もし、この道を利用しなければ大きな迂回は避けられず攻撃の効率お よび鋭さは一挙にその精彩を失うからである。ここは、すなわち古くから知られていた奥 州街道の難所の一つである。難所ゆえからか不気味な伝説(蓑ケ坂伝説)が有ると、かって 多くの旅人が書き残した道である。釜沢の釜沢館(古くは樺沢館)は三戸防衛の最も大事な 拠点であった。この釜沢館の館主が小笠原氏である。小笠原氏は南部家が最も信頼した甲 州譜代三管領の一族である。任はその地の利を生かし三戸を目指す敵軍を食い止めること にある。釜沢館は釜沢館(本城)と常楽寺館の二翼から成り、現在も小高い台地としてその 輪郭を留めており、その跡地に立つ人に往時の堅固さをひしと感じさせる。しかし、常備 兵力の小さな釜沢館における戦略の要は眼下500m先の馬渕川を渡河しようとする敵軍 を迎え撃つにある。だが、敵軍が均衡を欠く圧倒的兵力で押し寄せたとすると迎撃は効を 奏さずその北進を許すことになる。したがって、敵軍の規模を事前に把握し援軍を要請す る等三戸本城、目時館と密接に連係し事にあたる必要があったのである。それゆえ事前の 「斥候」すなわち「もの見」は最も重要視されたはずである。 (さて、ここから先の内容は現在のところ私個人の全くの仮説であることを予めお断りし ます)  この目的のため前方に前哨拠点を置くのが有効な常套手段であろう。その場所として現在 のJR金田一温泉駅付近は正に申し分ない場所となる。この地は地峡とは言い過ぎかもし れないがぐっと狭くなる地域の入り口にあたり、関所などを設けるには好都合な所なので ある。西側の山を背にせり出した台地を作ればちょっとした高さでも十分な眺望が得られ るうえ、地の利からして戦略的にも極めて有効なものとなる。この地で前哨の任を担った のが水梨氏であろう。(甚だかってながら明治24年の日本鉄道株式会社の鉄道建設、すな わち現在の東北本線の線路と駅舎工事のためこの地の様子が一変したであろうを良いこと に”館”の存在すなわち”水梨館”なるものを想像し愉しんでいる。) したがって、もしこの仮説が成り立つなら水梨氏は小笠原氏の有力家臣、若しくはその必 要性を認識した南部宗家が家格は低いが信のおける家臣として直接にその任を命じた者と なろう。甲斐の国より従って来たと云われる七十三氏の一人との可能性も出て来るのであ る。いずれにせよこれが最初の"水梨"ではなかろうか?[ いまだに私個人の勝手な仮説に すぎないが ]。
 天正19年(1591年)の九戸政実の乱は南部家家臣団に多くの亀裂をもたらしていた。
釜沢氏とも言われた釜沢館主小笠原氏(小笠原淡路守重清)はこの乱に直接参加はしなかっ たが九戸城落城一ケ月後の10月、南部信直に釜沢館もろとも討たれたと云う。
 九戸氏一族と小笠原氏一族との絆は極めて深かったであろうことは複数の史料が垣間見 せるところである。南部信直にしてみれば九戸勢と全面対決した長瀬の戦い等において重 清に背後を突かれる懸念があった訳で赦す事ができなかったであろう。乱の狭間に在って どちらにも兵を動かさなかった重清の苦悩と哀しさが察せられる。
仮説の水梨氏はどうなったであろう?。ただ、この頃には水梨氏は既に上記の地を去って いた可能性がある。というのはJR金田一温泉駅から1.5Km南、金田一町並みの西側 山手に四戸城跡がある。すなわち長寿寺と八坂神社が並んでいる裏の高台がその史跡であ る。四戸城は南部信直が九戸勢攻略の拠点とした所でもある。この史跡上に最近、墓が作 られはじめており史跡のたたずまいが急速に失われるかと思うと残念でならない。
金田一には三館(上館、中館、下館)の存在が伝えられるがその目的は二戸地方の有力者 には南部氏に同調しない面を持った者が多く、それら地士に対する抑えと牽制にあったと 思われる。その規模と力は時代と共に大きくなっていったのであろう。史跡は釜沢館等を はるかに凌ぐものであったことを示しており、城主四戸氏は南部氏の傍系で旧は四戸の郷 (五戸の南すなわち現在の青森県五戸町浅水地区が四戸である。)に居り3000石を領 していた。この四戸氏の配置と四戸城の規模から推して仮説水梨氏の役目は完全に終焉し たはずである。その後は新しい主従関係を作ったか土着したとも考えられるが釜沢の小笠 原氏に寄ったと見るのがごく自然であろう。重清と共に討ち死にした者もいたかもしれな い。手かがりは無い、仮想である。
 四戸氏もまた九戸氏と深い姻戚関係にあり政実の乱を機に在野に降っていったのである。
 天正20年(1592年)南部氏は蒲生氏郷により修復された九戸城に移り名を福岡城と改める がやがて不来方城(盛岡城)へと移る。九戸政実の乱の収拾とともに俗に400年と云われ る南部氏の三戸時代も終わったのである。

     〔釜沢館址: 北緯 40°20′08″10、東経 141°15′55″30〕
     〔JR金田一温泉駅: 北緯 40°19′14″88、東経 141°18′26″96〕
     〔四戸城址: 北緯 40°18′27″45、東経 141°18′16″96〕
     〔九戸城址: 北緯 40°15′51″03、東経 141°18′27″36〕


" 水 梨 清 水 " (暫定版)
  古城 標氏(東京都世田谷区)、浅井 保弘氏(愛知県日進市)のご厚意により" 水梨の清水 "をお教え 頂いたのは平成12年9月のことである。今や地図も粗な青森県の山中のことを東京と愛知県の人に教えて貰える。 大いなる感激である。
  しかし、この" 泉 "を訪れる事ができたのはほぼ1年後の平成13年8月である。
青森県五戸町浅水の集落より歴史の道百選に選ばれた旧奥羽街道を南部町方向へ辿ること3km、" 水梨清水 "は在った。湧き出し口には手が加えられ、右上には休憩所も設けられている。そこには平成9年に歴史の道ゆえ整備した旨の説明書きがある。だが、期待した名前の由来に関する記述は一切無し、未だに分からない。
それ故、" 水梨清水 "の由来を推定するとすれば次の三つになろうか。

1.水無坂から派生した。
  " 水梨清水 "から高山峠の方へ400mほど進むと" 水無坂 "の標木が立っている。
  暑い夏の日に坂を行く旅人の喉の渇きを思えば" 水無坂 "の名はごく自然と言える。
  この" 水無 "が清水までおよび" 水梨清水 "の名が生まれた。
  しかし、これにはどこか無理を感ずる。むしろ逆に二つは距離が近いこと水無坂は大
  層な坂でもないことから" 水梨清水 "が最初でそれを意識したうえで坂は"水無坂 "
  と名付けられたと考えた方が無理がない。

2.梨の木が有った。
  " 清水 "の左上、すなわち高山峠に向かう旧奥羽街道の左側に1ha〜2haと思われ
  る林檎畑が広がっていた。これは意外であった。人里離れた山中に孤立して存在する畑
  だからである。ここがリンゴ畑として適地のためというよりはかってここに人が住んで
  居り、その家の畑が基になり現在のリンゴ畑が存在すると考えた方が良いからである。
  今回、人家の痕跡を見出すことは出来なかった。しかし、清水のある街道沿いである。
  高山峠まで1.5Km、かって茶屋を営む人が住んで居たとして不思議は無い。リンゴは明
  治維新以降の果物である。それ以前は幾本かの梨が植えられていて、季節には旅人に供
  されたであろう。これが" 水梨清水 "の由来である。
  これ、はたして当たっているだろうか?

3.水梨氏が居た。
  " 水梨清水 "の存在を知った時少なからぬ驚きと衝撃を受けた。それが青森県五戸町浅水
  地区に存在したからである。かっての四戸郷である。" 水梨 は四戸氏の家臣なのではない
  か?" の想いが再び浮かび来たからである。前項の" 岩手県二戸市金田一水梨 "の項に
  書いた如くもし、JR金田一温泉駅付近に水梨氏が居て、その屋敷が有ったとするならば四
  戸城址からの距離は1.5Km、その屋敷は四戸氏家臣のものとして何らおかしいところが無
  い。それを敢えて釜沢の小笠原氏に結び付けたのは単純に次のような理由からであった。
  
          410年前、四戸氏宗家は九戸政実の乱に巻き込まれて没落し
          その史料等は極めて乏しい。前項を書いた当時、水梨との関連
          を示すものなど微塵も存在しなかった。小笠原氏との関連につい
          ても状況は同じであった。しかし、小笠原重清は南部信直に討た
          れたがその末息 和泉(いずみ)は南部家の菩提寺である聖寿寺
          の住職の献言によって命を助けられたと云う。1593年小笠原氏
          の領地は聖寿寺の寺領となりその初代代官は元服後の和泉(
          小笠原寿吉)であった。以来、小笠原家は代々代官を務め明治
          二年に至ったと云う。又、その時代は青森県南部町にあった聖寿
          寺も盛岡市に厳然と存続している(盛岡市北山二丁目:臨済宗
          聖寿寺)。両者には多くの資料が残されていると推定されそこから
          種々の事が判るだろうとの願いが有ったためである。

" 五戸町浅水 "に話を戻そう。
  この浅水をかっての四戸郷と前述したがこれには異論もある。だいいち、一戸から九戸に 至る地名の由来さえ諸説紛々である。私は郷土史家等諸先学の説を基に次のように考えて おります。
かってこの地方は北方の勢力下、つまりはアイヌの人々の文化圏に属した時代 が有った。これはほぼ確かであろう。" 戸 "はアイヌ語の川、すなわち" Pet "(ペッ)に由 来し北海道の遠別川、当別川、忠別川等々の" 別 "と同様の当て字と考えて良いのではなかろうか 。
東北にはアイヌ語の小さい川、沢を表す" Nay "(ナイ)は斗内、伊保内等々" 内 "の地名 として多く残るが北海道の" 別 "に相当するものは無いとの指摘がある。しかし、" 戸 " とこの地方を流れる馬淵川(まべちがわ)の" 淵 "はそのりっぱな痕跡でなかろうか。他の 地にその例を見い出せないのは北進して来た人々、すなわち和人には" Pet "(ペッ)は馴 染まなかったということであろう。北東北も時とともに南からの入植者によって占められ てしまうという北海道とは違う背景があったのである。一戸〜九戸という絶妙な一つのま とまりがあったからこそ今に残ることが出来たのであろう。
坂上田村麻呂の時代、 この地方にあったという" 爾薩体 "と" 都母 "の国はアイヌの人々の国であったかどうか 私には判らない。しかし、この二つの国に連なる小地域を" 川筋 "をもって言い表したとす る地名論には十分な説得力がある。" 爾薩体 "と" 都母 "は朝廷軍の攻撃を恐れ、警戒しそ の枢要部は高地集落や山地集落に暮らす人々の国ではなかったかと思う。それゆえこれら川 筋の里は生活物資の交易や情報交換の重要な場であり市もたったであろう。1の川、2の川 、3の川、----と数を付した呼び方が部分的に生まれていたとして不思議はない。しかし、 一戸〜九戸の定着に決定的役割をはたしたのはやはり文室綿麻呂とその参謀達であろう。
西暦811年征夷将軍に任ぜられた文室綿麻呂は坂上田村麻呂の後を引き継ぐ形で北東北のこの 二国を制圧したという。この戦いの前後の軍略上、統治上の必要性からこれらの地名に手を 加えより明解に、より把握し易い形にしたものと思われる。少なくとも八戸、九戸はこの時 に決められ付け加えられたものであろう。この地方は680年の長きに渡り南部氏が支配、統治 したがその以前に一戸〜〜九戸の地名は既に存在したようであり、南部氏に先だちこれだけ 広い地域を考慮に入れた者といえば文室綿麻呂以外にいないからである。
" 戸 "の由来が川筋とするとやはり四戸郷はかって鮭も遡上したであろう浅水川流域とする のが最も妥当となる。
四戸氏の祖は南部三郎光行の四男、四戸孫四郎宗朝と云い、在地名のこの" 四戸 "を名乗ったのである。

南部三郎光行は父の加賀美二郎遠光と共に1189年源頼朝の奥州藤原氏の討伐に加わり、功に より一戸〜九戸の地を含む陸奥糠部五郡を賜ったという。しかし、これには裏付けが無く南 部氏の創作であるとする説が大勢を占める。
南部三郎光行には六人の子があり、下記のごとく4人がこの地方、すなわち行朝が一戸、朝 清が七戸、宗朝が四戸、行連が九戸へ赴きそれぞれの在地名を名乗ったのである。この四人 は行朝以下全て庶子であろう。
          長男--行朝 -- 一戸氏の祖(妾腹の子、すなわち庶子ゆえ南部宗家を継げず)
          次男--実光 -- 南部宗家を継ぐ
          三男--朝清 -- 七戸氏の祖(六男説有り)
          四男--宗朝 -- 四戸氏の祖
          五男--行連 -- 九戸氏の祖
          六男--実長 -- 波木井南部氏の祖(三男説有り)
正室の子の方は兄の実光が南部家を継いだのは当然としても弟の実長には波木井南部家を興している。
波木井郷は現在の山梨県南巨摩郡身延町にあり日蓮宗総本山、身延山久遠寺がある。南部実長は日蓮
宗信者であり宗祖日蓮を庇護し、この身延山久遠寺を開基した。そのため波木井南部家の多くの事が後
世、即ち今日に伝えられる事となったのである。幕府に出仕のため鎌倉に度々長期滞在する実長と日蓮
がやりとりした書簡等から見て実長は日蓮との関わりによって幕府から疎んじられることは無かった、むし
ろ広く世に知られることとなったであろう。また、実長は余生を新たに開基した"鏡円坊"で過ごし、当時と
しては驚くほどの高齢を全うしたという。これらから推して波木井南部家の名声は実光の南部宗家を凌ぎ
南部氏の"顔"になっていたのではなかろうか。
さて、"実長"の記述が長くなったが要は彼が甲斐国内に分地、分家したという事実である。
これは南部氏が"陸奥糠部五郡"を賜っていなかったことを意味すると言えるであろう。
もし、"陸奥糠部五郡"が領地ならばその領地は甲斐から遠く離れているうえ、広大である。その経営は組
織的にも強固でなければならない。その取りまとめの中心人物に任ぜられるのは当然、実長であろう。甲
斐国内での分地、分家などあろうはずは無いと考えられるからである。
さて、南部氏が"陸奥糠部五郡"を賜っていないとしたら行朝、朝清、宗朝、行連の4人の兄弟は何故、未
開で闇の部分も多かったであろうこの北辺の地に赴いたのか?。そのキーワードはやはり"馬"であろう。
史上、最も有名な名馬は「宇治川の先陣争い」に登場する佐々木四郎高綱の"生喰(池月)"と梶原源太景
季の"磨墨"である。2頭とも奥州平泉の藤原氏より贈られた源頼朝の秘蔵馬であり、その産地は"七戸立
"(シチノヘダチ)、"三戸立"(サンノヘダチ)すなわち七戸の"蟻渡野牧"、三戸の"住谷野牧"の産と云う。
そのほか源義経の愛馬"太夫黒"、"青海波"に熊谷次郎直実の"権太栗毛"とその子小次郎の"西楼"そ
して和田義盛の"白波"の各名馬は悉くこの地方の産、すなわち後に云う"南部馬"であると云う。
歴史上の名馬の産地伝承は全国各地にありこれもその一つではある。
しかし、鎌倉時代以前からこの地方が他を圧倒する良馬を産したことは多くの史料が示唆している。特に
後年の"木曽馬改良計画"なるものにその確かな裏付けを見ることが出来る。寛文5年(西暦1665年)、第4
代木曽代官 山村甚兵衛が"南部馬"の雌馬30頭あまりを用い木曽馬の改良を図る。

          〔水梨清水: 北緯 40°26′53″00、東経 141°17′45″20〕
          〔高山峠: 北緯 40°26′23″22、東経 141°17′21″84〕
          〔三光寺: 北緯 40°24′42″03、東経 141°16′14″21〕
          〔聖寿寺: 北緯 39°42′56″25、東経 141°09′17″01〕


◆ [その他] ◆
1.郵便番号簿にみる"水梨"

  (1)宮城県気仙沼市赤岩水梨子(みずなし、と読む)
    旧赤岩村水梨子、赤岩村は明治8年の松崎村との統合による松岩村を経て昭
    和28年6月1日の気仙沼市との合併により気仙沼市赤岩となる。
    中央部を神山川が東へ流れ、市立水梨保育所、市立水梨小学校がある。


  (2)福島県耶麻郡北塩原村水梨原
                      

  (3)新潟県長岡市水梨町
    旧水梨村。JR上越線は信越本線と長岡のJR宮内駅で融合し一つに成るがこ
    の宮内駅の西方1.5Km、信濃川右岸地区が水梨町である。


  (4)新潟県東頸城郡松之山町水梨
    渋海(しぶみ)川の支流で北西流する水梨川の流域にあるかつての水梨村。



  【参考】 「水無はどうか?
都道府県市 区 町 村町 域備  考
北海道上磯郡上磯町水無
秋田県北秋田郡阿仁町水無
福島県南会津郡田島町水無
栃木県今 市 市水無
富山県婦負郡八尾町水無
富山県東礪波郡利賀村水無
愛知県瀬 戸 市水無瀬町
大阪府三島郡島本町水無瀬
熊本県人 吉 市赤池水無町


2.国土地理院発行 1/25000地図に認められる"水梨"
  1/25000地図上で"水梨"を冠した地名は全国で10ケ所在る。

   (1) 宮城県気仙沼市赤岩水梨子
      郵便番号簿の項に同じ

   (2) 新潟県長岡市水梨町
      郵便番号簿の項に同じ

   (3) 新潟県長岡市大積灰下町水梨町

   (4) 新潟県東頸城郡松之山町水梨
      郵便番号簿の項に同じ

   (5) 静岡県静岡市瀬名字水梨

   (6) 京都府綾部市水梨

   (7) 山口県柳井市水梨

   (8) 愛媛県伊予郡広田村水梨山
    (注記) この他、愛媛県には上浮穴郡の小田町と柳谷村に”水なし山”があ
         る。

   (9) 佐賀県鹿島市水梨

   (10) 熊本県八代郡泉村水梨
 

 【参考】(1) 「水無はどうか?
  水無に関連にする地名は全国の1/25000地図に144ケ所、記されている(みなし
  読みを含む)。
  ここにその全てを列挙できないので特徴的な事を次に示すに留める。
    (1) 水無・・・・・・・・・・全国で27ケ所
    (2) 水無川・・・・・・・・全国で36ケ所
    (3) 水無沢・・・・・・・・全国で26ケ所
    (4) 水無谷・・・・・・・・全国で 8ケ所
    (5) 水無神社・・・・・・岐阜県大野郡宮村
    (6) 水無権現・・・・・・愛媛県喜多郡内子町
    (7) 水無瀬神宮・・・・大阪府三島郡島本町
    (8) 水無鍾乳洞・・・・福岡県前原市
    (9) 水無海浜温泉・・北海道亀田郡椴法華(とどほっけ)村

 【参考】(2) ””を冠した地名
  梨ノ木、梨平等のように”梨”を冠した地名は全国の1/25000地図に140ケ所あ
  る。


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