筆者紹介(1955年当時)

新・野べら釣り(釣りの友社版)より 

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一之江鮒夫(いちのえ・ふなお)


戦前10年ほどは、東京でマブナ、ハゼ、ヤマベ(ハス)釣りを嗜み、釣之研究、
釣魚界、水之趣味の各誌(いずれも廃刊)等に毎号執筆。戦後、釣りの復活と共
に東京江戸川つり人会顧問、江戸川区釣友会連盟顧問。
昭和25〜26年頃からヘラブナ釣りに専念し、昭和33年、菊岡欣喜氏等と
「へら鮒の会・水藻クラブ」を結成して会長となったが、翌年、関西へ移住した。
ようやく関西でも野べら釣りが普及しはじめた頃である。
その間、狭山へら鮒センター(狭山市)を企画、設計し技術顧問となる。
昭和47年、推されて「へら研阪神クラブ」の会長となり、西日本の野べら専門
の会、16団体の連絡期間である、西日本へら鮒釣連合会の顧問となり、今日に
及んでいる。
過去に共著の著書2冊がある。現在「月刊へら」「つり人」(東京)等に執筆し、
「釣の友」には毎号”へらつり談義”を、好評連載中。
1907年東京生まれ。法大卒。大阪府箕面市在住。


すいせん文  鈴木魚心

釣りは「鮒に始まって鮒に終わる」といわれるが、これは、マブナのことでヘラ
ブナではないのである。
マブナは何処でも棲んでおり、釣り方も比較的容易なところから、親しみやすく
入門も楽である。
私も偶然だが、60数年前、マブナから釣りに入門した一人である。幼い頃に馴
染んだこの魚名は懐かしい思い出を運んでくれる。
一之江鮒夫さんの名も懐かしい音(ね)を伝えてくれる。
ペンネームの一之江とは、東京の江戸川尻にある地名で、鮒夫さんが病に倒れ、
闘病生活を送った所である。一之江や近くの三角という所は、昔からマブナの名
場所で、私も幼い頃、車夫の鶴八(わが家には人力車があって、そのお抱え車夫)
に連れられて探り釣りに通った釣り場なのであった。
鮒夫さんはここで、晴れればマブナやハゼを釣り、雨降らば原稿を書く、文字通
り「晴釣雨稿」の日を送り、病と闘って勝ち抜いたのである。
その後、一之江さんや私など、法大出身のOBや、在校の釣狂いを集め、法政フ
ィッシングクラブを結成、いずれは六大学釣りリーグでもやろうとしたが時期尚
早のため立ち消えとなった。
一之江さんは、なかなかの健筆家でもあり、「釣の世界」「つり人」「つり新聞」
「趣味の釣」等々の釣誌などに執筆しておられたから、お名前は古くから知って
いたが、同窓とは気づかなかった。
戦後、宇野千代女史のスタイル社に入社、編集長となったほどだから、文章は正
確そのもので知性に溢れていた。そして俳優の山村聡氏が銀座並木通りに「ポイ
ント」なる釣具と喫茶の店を開き、多くのヘラマニアが集まった。
一之江さんも勤めが近かったので、この店に来られ米地南嶺、増田逸魚、金子四
朗諸氏や私のようなヘラ狂の釣り談義に刺激され、ヘラに専念することになった
のだから、ヘラ釣りも古株である。
地元の江戸川つり人会顧問、後に都釣連江戸川区釣連盟顧問などに推され、昭和
33年には。菊岡欣喜氏らと、ヘラ鮒の会・水藻クラブを結成、これの会長にも
なった。
同35年、義兄さんの事業を継ぐべく大阪に移住し、関西の野べら釣りの若手と
「ヘラ研阪神クラブ」を結成、会長となる。
畏友、土井勝氏(料理の大家)と共に西日本へら鮒釣連合会(野べら専門の16
団体加盟)を設立、顧問となっている。
大阪に移られてからも再三、精進湖の小宅にご夫婦お揃いでおいで下さったり、
関西野べら会と神奈川へら研との懇親会が豊中で催された時なども、わざわざ池
まで挨拶に来て下さったりした。
これだけ長い経歴と豊富な内容の持主でありながら今まで単行本を出されなかっ
たのは、どうした事であろう。「そこが彼の奥ゆかしい処さ!」と簡単に割り切
っていたが、この一之江さんが、突然「単行本を出すから序文を書いてくれ」と
の電話である。
関東、関西を股に、ヘラブナを追い回していた一之江さんが−一体どんなことを
書くのだろか?−大きな興味と期待を抱いているのは私だけではなさそうである。
私は同氏のへら鮒釣りに対する情熱、魚に対する愛情の深さ、そして紳士的な釣
り態度をよく知っているが、本書の読者が一人でも、鮒夫氏のすべてを学びとら
れて、立派なヘラ釣人になって頂きたい、とお願いして筆を擱くこととしよう。
   

1979年 新緑の精進湖畔にて