Vol.29
2004/12/11 上温湯隆のこと 5


ここにもう一冊、生前の上温湯隆に会ったことがあるという人の本があります。1997年の発行ですから、上温湯隆の死後20数年たってから発行された本で、1971年にサハラ砂漠で上温湯隆に出会ったと書いてあります。




アフリカ縦断 3万キロ
土屋光明

GARA出版 ¥2500
1997年6月17日

フジテレビの『なるほど ザ ワールド』がバラエティ仕立てでヒットしたことは記憶に新しい番組です。その『なるほど・・・』以前に日テレから放送されていた『すばらしい世界旅行』という紀行番組は、派手さを抑えたどちらかというと地味〜な学術的番組でした。『アフリカ縦断3万キロ』の著者土屋光明は、この『すばらしい世界旅行』の制作スタッフだった人でした。1971年に放送された、アフリカ大陸最北端アルジェリアのカプ・プランからアフリカ大陸最南端南アフリカのアグルハス岬までを車で縦断するという取材中、サハラ砂漠で上温湯隆に出会っているのです。
  世界放浪の日本青年
   1971年4月23日(金)
出発準備に手間取り、アガデス(ニジェール)を出たのは午前11時を回っていた。
街外れで給油していると、日本人旅行者に会う。何台か止まっていたトラックの陰から、飛び出して来て、「何か、食べ物を持ってませんか?」と声をかけられた時は、まさか砂漠の真ん中で、日本人に会うとは予想もしていなかったので、びっくりしてしまった。
話を聞くと、世界放浪生活をしており、トラックのヒッチハイクで、サハラ砂漠を横断するという。もう1週間近く水ばかりで、何も食べていないらしい。米とニシンの燻製を分ける。町田工業高校を中退とか、花松カメラマンと同窓で、上温湯君という。
後日、この上温湯君は、ラクダを使って、再度のサハラ横断を試みるが、途中でラクダに逃げられ、砂漠の真ん中で餓死した。ご冥福を祈る。
上温湯隆についての記述はこれだけ。
日付から判断できるのは、私と出会う3年くらい前にサハラ砂漠で上温湯隆に出会っていること。会社の看板背負って旅行している立場の人間が、貧乏旅行者に向ける冷めた視線がよく表れている書き方です。

この著者は、会社から給料もらい仕事で行った1971年の取材旅行のことを、26年後に1冊の本にまとめて自費出版することにどんな意味があったのだろうと思ったら、どうやら日本テレビを定年退職するにあたっての記念出版らしい。なるほど、それで1937年生まれで1997年の出版だったのかということで納得。

上温湯隆が1971年4月にテレビクルーに物乞いしていたという記述を読み、なぜそこまで倹約して旅を続けなければならなかったのかと、わびしさを感じます。



言わずもがなかもしれませんが、このサイトで紹介したそれぞれのアフリカ体験記録は1970年代から80年代までのもの。これらの本や資料を図書館で探してきて、“アフリカ〜サハラの旅”に思いを馳せるのは楽しいことです。しかし、これらのデータが通用した時代はとっくに終わっています。現在このルートは(アフリカに限らず)過酷な自然環境との戦いの他に、もう一つ、別種の紛争に巻き込まれる可能性もある非常に危険なルートになっている現実を知らなければなりません。

最近の新聞はイラク一辺倒だけれど、西アフリカの政情不安は恒常的だし、アフリカ内陸部のチャド・スーダン国境付近でのアラブ系住民とアフリカ系住民の紛争はこの30年間で200万人のアフリカ系住民が虐殺されたといわれます。その30年前というのは、正に私がトラックに乗りその地帯を東へ走っていた時期だったのです。

かつての東西冷戦下、世界各地で紛争は起きていたけれど、米ソというタガが効いて、一般の市民・旅行者までが巻き込まれ犠牲になることは少なかったように思います。ところが米ソの重しが機能しなくなった現在では、リゾート地でバカンス愉しんでいても爆発事故に巻き込まれるし、国の政策と一旅行者の命が量りにかけられる時代です。

現在テレビなどで見ることのできる冒険旅行と称するものは、安全確認後テレビクルー従えた「疑似」だったり、極地探検でも、人工衛星に位置確認されながら、イザというときには救援物資投下の態勢がとれている、いわば“それらしく”構成されているようなもの。茶の間で面白がって見た番組の、「困難の先には感動が待ち構えている」などというテーマに副った台本を真に受けてはいけません。

私の子供世代にあたる香田青年の事件は悲惨ニュースでした。
もちろん、今のこの時代だからこそ現場を体験したいという気持ちは貴重だし尊重したいけれど、明らかに紛争地帯であることが分かる場所に安易な観光気分で出かけて行くと重いツケ払わされることになりそうです。

この私でさえ、“貧乏旅行”といっても、それはできるだけ節約するということだけ。ある程度の旅行資金はポケットに入っていたし、イスラエルのスタンプ押したパスポートでアラブ諸国に入る危険性や、今では考えられないことだけど、台湾から中国に入国する場合のスタンプの押し方など、最低限の情報はリサーチしていたのです。

だからといって香田青年を「軽率だ!」と分別クサイ顔で諌めたり、「自分探しの旅の果て」などと揶揄することは私にはできません。なぜなら香田青年に私の30年前の姿を見たからです。我々の時代は、無鉄砲な旅行者をも許容できるほど社会に余裕があったけれど、いまでは世の中すべてが綱渡り状態で、手に持った竹竿でかろうじてバランスとってるようなもの。そんな情勢の違いが香田青年を死に追いやったような気がします。


彼の「すみません・・・」という声を聞いて、この場面で、オレだったらあれほど落ち着いた声は出せるだろうか、、、、、。
そういう点では、私たちは良い時代に旅ができたのかもしれません。


たぶん、再び会うことはないだろうと分かっていても、儀礼的に住所交換していたのでしょう。旅の行程を記録した手帳に書いてあった上温湯隆の住所を訪ねてみました。

ラゴスのYMCAで話したときには団地だといってたけれど、なにしろ30年前に聞いた住所ですから今でもその団地が残っているとは思えません。バブル期の再開発で取り壊され高層住宅に変わっている可能性があります。それでも、彼はどんな環境で暮らしていたのだろうという興味から訪ねてみました。その住所は現在私の住んでいる所からそれほど遠くない場所だったのです。

まさか残ってるとは思わなかったその団地は現在も実在して、広大な敷地に約10棟ほどの建物が余裕をもって並んでいます。 団地入り口の案内図から彼の住んでいた号棟は簡単にみつかり、彼が書いてくれた部屋番号も存在し、驚いたことに郵便函にはなんと「上温湯」の名札が貼ってあります。

お母さんが亡くなったのが1984年ですから、それから20年の間この部屋は住む人のない空き部屋になってるのだろうか、それとも、名札はそのままで別人が住んでいるということだろうか。とにかく部屋のある階まで上がっていくと、部屋入り口にもやはり「上温湯」の名札。あッ!そうか!彼にはお姉さんがいると言ってたから、お姉さんが住んでるんだなッ。

それだったら、不思議な出会いのあった彼のためにお線香を上げさせてもらおうと、呼び鈴押してもベルの鳴る音もしないし、ドアをノックしても反応がありません。日を改めてまた訪ねてみようと、その号棟を出てからフト思いつき、通りかかった女性に「30年前この団地に住んでた人のことを知りたいんですが、管理人さんはどこでしょうか?」と訊ねる。「管理人って特にいないけれど、Hさんだったら古いから知ってるかも」の言葉を頼りに、そのHさんを訪ねれば、さっき私が出てきた上温湯隆の住んでいたのと同じ号棟。

「以前ここに住んでた上温湯隆さんの家を訪ねて来た者ですが、今あの部屋にはどなたが住んでるんでしょうか?」
「あなた、隆ちゃんの同級生?」
「イエ、僕は隆さんとアフリカで会ったことがあるんですよ、それで懐かしくなって来てみたんです」

小窓の奥から訝しげに見つめる年配の女性とこんなヤリトリをしているうち警戒心を解いたらしくドアチェーンを外し外へ出てきました。

「お母さんが亡くなった後あそこには妹さんが住んでいるのよ」
「あ〜、そうだったんですか?ボクはてっきりお姉さんが住んでると思っていたのですが、隆さんの妹さんですか〜」
「違うのよ、隆ちゃんのお姉さんのハルエちゃんはとっくに川越に引っ越して孫もいるのよ。ここにはお母さんの妹、つまり隆ちゃんの叔母さんにあたる人が住んでるのよ」
「あぁ、そういうことだったんですか」

「隆さんが亡くなって30年が経ったし、お母さんが死んでからも20年経ちましたね〜」
「そうそう、アフリカからお骨がきて、隆が帰ってきた!隆が帰ってきた!って大喜びしてたのに、それからすぐにお母さんの幸子さんもあとを追うように亡くなってしまったものねぇ。確か寒い朝だったわ。私が最初に見つけたのよ〜。」

「エッ!? 新聞配達の人が発見したと聞いていましたが?」
「そうよアタシが見つけたのよ。アタシ、今はやってないけれど、あのころSK新聞配ってたの。そのとき部屋の中に倒れているのが見えて、『お父さん!お父さん!大変よ!』と主人を呼んできて、主人がドアチェーン切って、それは大騒ぎしたのよ」
「そうだったんですか、SK新聞をね〜」
「幸子さんは、熱心に活動した方で、この辺りも随分増えて、ブロック長も大喜びしてたんだけどね〜」

「いやぁ、アフリカを旅行しているときに隆さんと出会って、、、その時に住所交換したメモが最近出てきたもんで、懐かしくなって来てみたんです。まさか建物はないだろうと思ったのに、ちゃんと残って、郵便受けに上温湯という名札があるし、亡くなったお母さんの第一発見者にも偶然出会えたし、人間はどこでどうつながっているかわからないものですね〜。

「叔母さんは今日は部屋にいないみたいでしたけど」
「イヤ〜、お部屋の中にいるのよ・・・・。以前は自治会の行事なんかには率先して出てきたりしたこともあったんだけど、、、今では、私たちが部屋の中に声をかけても返事もしないし、出てこないのよ。私たちにもよく分からないのよ・・・・・・」

偶然にも上温湯隆のお母さんの遺体第一発見者の女性に出会い、なおかつ部屋を引き継いだ叔母さんの存在を知り、できれば線香あげたいと思ったけれど、その叔母さんの世間との関係を拒否しているような暮らしぶりを知って、これ以上あの部屋を訪ねても接触することは難しいようです。

「いつか叔母さんを見かけることがあったら、隆さんにお線香をあげたいというヤツが来たと伝えてください」
私の住所電話番号を書いたメモをHさんに託したのです

サハラで死んだ上温湯隆は9年後に母親のもとに遺骨で帰ってきて、その3ヵ月後に、今度は母親がSK新聞配達員の女性によって死後3日の状態で発見。さらに上温湯家族が住んでた団地の部屋には、上温湯隆には叔母にあたる母の妹が留守番をするように入居。しかも、現在80歳くらいだというその妹さんは引きこもり状態で生活しているといいます。「お姉さんのように“3日後に発見”などということにならなければよいが」と思ってしまったのです。

Hさんと別れて、帰る前に再び上温湯隆の部屋を訪ねてノックし声をかけたけれどやはり反応ありません。昔セールスマンやってた習性よみがえり、電気メーター覗いてみると、一般家庭だと冷蔵庫が動いているから少しはメーター回ってるものだけど全く動いていません。

あきらめてその号棟を出ると、自転車のオマワリが近づいてきやがった。「ここで日本語分からないフリしたらどうなるだろう。オマワリからかってやろうか?」一瞬思ったけれど、私はこれ以上できないというような友好的笑顔装って、先手を打って声をかけたのです。
「変なヤツがウロチョロしてるとでも連絡行きましたか〜?」
「ンッ?・・・そんなことはないんですが、ここに住んでらっしゃるんですか?」
「・・・ここの上温湯さんを訪ねてきたんです」
「その人とはどういう関係なんですか?」
「・・・職務質問?、、、。オマワリさんは知らないかも知れませんが、ここの隆さんという人は30年前にサハラ砂漠をラクダで横断してて死んじゃったんですよ〜。ボクは彼とアフリカで会ったことがあって、それで、、、お線香あげさせてもらおうと来てみたんですが、、、誰もいなかったんでまた出直そうと帰るところです。ボクの本籍地現住所言いましょか?」
「イエイエ結構です結構です。そうでしたか、会えると良いですね〜」
オアマワリあっさりと引き下がって行ってしまった。

さっきのHさんによれば、上温湯隆のお母さんはSK学会の熱烈信者でこの一帯の教宣にはずいぶん功績があったそう。そのせいかどうか、この団地にはSK新聞の読者、つまりSK学会の信者がかなりいるという口ぶり。それにしても、私の知ってるSK学会員は、自分の信仰を隠したがるけど、さっきのSさんは実にアケスケでした。それも、周囲が皆信者だという安心感からくるのかな。

絶妙のタイミングで現われたオマワリの後姿見ながら、「この団地には、もしかするとSK学会ネットワークが張りめぐらされていて、見知らぬヤツが入り込むと連絡いくようになってるんじゃね〜か?」。SK学会ともKM党とも関わり合いになりたくないという私は、そんなことを思いながら上温湯隆宅訪問から帰ってきたのでした。


ラゴスで出会った時事通信支局長の長沼さんはどうしているだろう。
ラゴスの後はどこか別の場所に赴任したものだろうか。それとも日本に戻ったのだろうか。私より数歳年長の印象だったから、あのまま時事通信に在職していれば、一般的にはそろそろ定年退職のはず。

消息を知りたいと思い時事通信社に電話して尋ねれば、長沼さんは2年前に退職したとのこと。「30年前ラゴスで会ったことのある者だが連絡先を教えてほしい」と言うと、「退職者の個人情報を教えることはできないが、本人に取り次ぐことはできます」という人事部としての真っ当な返事。

その夜、自宅でパソコンやりながら「アッ!そうか!ネットというテがあったか!」。インターネットで調べれば何か長沼さんの情報が入るかもしれないと思いつき、本名で検索エンジンにかければ、何と2000件以上の項目がヒットし、その中には長沼さんが発信しているサイトもあります。

周辺のサイト書き込みを読むと、在職中から組織の一員というより、ジャーナリストとしての良心を貫こうとしたために会社とは軋轢があったらしいことが伺われます。それでも定年まで勤め上げ、退職後はフリージャーナリストとして社会の諸問題について発言していることが理解できます。なるほど、組織の枠にはまりきれない人だったからこそ、放浪者の上温湯隆に興味を持ち7ヶ月も寄食させることができたのか。

何ら根拠も無く、「定年退職後は悠々自適の生活・・・」と思い込んでいただけに、こうして現役で活躍していることが嬉しくて関連サイトを読んでいると電話が鳴りました。

30年前に一度だけ数時間話しただけだったけれど、私はその声を記憶していて、上温湯隆を交えたあの夜の場面ををまざまざと甦らせることができたわけです。上温湯隆のこと、私のラゴス以降の経路などをひとしきり喋ったあと「長沼さん、死んじゃいかんよな〜、死んじゃダメだよな〜」と自分に言い聞かせるようにして電話を切ったのです。

1974年9月12日にラゴスで出会った上温湯隆とはその後話すこと叶わないけれど、あの場にいた長沼さんとは30年ぶりにこうして話すことができたわけだ。あのとき、「旅の先々から何かレポートを送ってくれ」と支局の住所を手渡されて別れて以来ちょうど30年経過しています。あの夜受け取った、メモ用紙にゴム印押した支局の住所は、上温湯隆の住所を書いてあった手帳に挟んでありました。
まさか、こんな形で報告することになるとは思いもしなかったことです。


“上温湯チルドレン”が上温湯隆の死後発行された本に影響され、アフリカに足を踏み入れた人たちとすれば、私の場合は上温湯隆が生前テレビ出演した姿を見てアフリカに入り、しかも、その本人にアフリカで出会ってしまったという“上温湯チルドレン”の変り種かもしれません。

今まで、あの旅は自分にとってどんな意味があったのだろう?単なる現実逃避だったのだろうか?と30年も思い続けてきました。今夏偶然出てきた旅のメモを読んでいるうち、各種の新聞記事を思い出し、国会図書館や都立図書館で縮刷版めくり、雑誌のバックナンバーを閲覧。上温湯隆に関する資料を探し出す作業をしながら、周辺の記事を拾い読みするのはまるで上温湯隆の軌跡をたどりながら私自身を見つめ直すような気分でした。それは自分の中に昇華されず残っていたツブツブを掬い上げるようなものだったのです。

2回くらいで終わるものと思っていた上温湯シリーズも、Vol.25からVol.29まで5回にもなってしまったのは予想もしなかったこと。初めはサハラ砂漠へ単身挑んだ同世代の勇敢な青年と位置づけて、“我らの教祖”に接するような気持ちで上温湯隆のことを書いてきたけど、「彼は“ただのヒッチハイカー”でしかなかったんじゃないか?」と、上温湯隆に対する評価が徐々に変わってきたのが分かります。


やはり、、、死んじゃダメ、、生きつづけなくっちゃ。
サハラ砂漠を渡るなどという、そんなことは大したことではないんだよ。要はそれからどう生き続けたか?ということじゃないか。オマエとサハラで会ってから30年経って、そのことの方が余程困難なことだとオレは気がついたよ。少なくとも22歳で死ぬようなことしたら絶対ダメだよ。死んじゃったらな〜んにもならんじゃないか。