森川展男 「公開講座」連載
平成15年9月27日(土)
近畿大学産業理工学部 開設記念 
公開講座第二回での講座を連載します。(今回でこの連載は終えます。9月からはコラムを連載する予定です)

HOMEDiary 「大学のありかたー教養教育」連載「作家と女性」―虚構と実在のジレンマ(1)(2)(3)(4)経営コミュニケーション学科学会・社会活動・研究テーマ文学と法経営工学専攻(大学院入試募集中6月、9月、3月)森川展男_特別研究(修士論文研究)・学部ゼミ紹介森川ゼミニュースいらっしゃいのぶりん ルーム近畿大学産業理工学部リンク経営ビジネス学科(平成20年名称変更)リンクエンジン01文化戦略会議リンク


 森川展男 連載「作家と女性」―虚構と実在のジレンマ(1)

【概要】
 作家が描く作品に登場する女性はその作家が実際に関わった女性であるか、作家が虚構の世界で創り上げた女性のどちらかである。そのどちらであれ、描かれる女性は作家自身の深層に潜む、癒せぬトラウマか、死してなお追い求める理想世界の写し絵でろう。太宰治は妻に裏切られた腹いせに自虐的な末期を遂げているし、川端康成の描く淡麗な美が反面、彼をして想像を超えた処女願望へと駆り立ててしまった。また、渡辺淳一が書く女性は美しくはあるが、哀しみを漂わせている。一般にはハードボイルド(非情)スタイルで知られているアメリカの作家、ヘミングウェーの作品には厳格なピューリタン教育を彼に強いた母親に対する反抗が、作品に登場する女性を通して語られている。日本とアメリカの現代作家を人とり上げ、女性の描き方をフィルターに作家のこころの中をのぞいてみる。

第1回
 仰々しく「作家と女性」というタイトルをつけました。私は以前から、作家が志半ばで亡くなっていく、いわゆる「夭折・自死」に興味を持っております。例えば、フランスの思想家モーリス・パンゲは『自死の日本史』の中で、古代ローマの政治家で、カエサルと戦い敗北し切腹自殺したカトーから、江戸時代の切腹や三島由紀夫の自決まで、<自死>について詳細な研究をしています。地域的な問題が作家に影響を与えていることにも大きな関心を惹かれます。アメリカを例にとりますと、中西部地域や、ニューイングランド地方で、多くの作家の自死が見られます。地域的要因だけで作家を自死に追いやるのか、他のいかなる要因があるのかを探ってきました。そこで、旧知のハワイ州立大学の先生方と共同で研究をすることにしました。ドイツでも作家の自死はあるけれども、自死自体の捉え方に違いがあり、死は自ら選ぶものではなく強いられるものであるという考えであります。強制収容所のガス室に入れられ、死を余儀なくされる選択肢のないものであったと研究者は言います。自ら選べる死とドイツでの政治的自死は違ったものだということであります。
 今日のテーマは、「作家と女性」ということですから、特に、作家に焦点を絞って考えていきたいと思います。そもそも、作家を死へと追いやるものが何であるのかと考えた時、大切なことは作家が辿ってきた生涯の中でも、特に、幼年期から青年期にいたる家庭環境、実体験に問題が凝縮されているのではないかと考えます。地域的な要因以外にさまざまな要素が作家の自死の原因に加わってくることが分かってきました。今日、「作家と女性、虚構と実像のジレンマ」というテーマでそのあたりに焦点を絞りながらお話させていただきます。
 第一に、男と女がどのような描かれ方をしているかという問題を示す時、それは単に、作家の作品論だけではなく、その作家がどのような生涯をおくったかに触れることは興味深いことでありますし、また大切なことであります。第二に、現在、作家といわれるに値する人がはたして存在するのかどうかにも触れていきたいと思います。
 最初に、室生犀星についてお話したいと思います。彼には『性に目覚める頃』という作品があります。主人公は17歳の少年であります。現在、17歳といいますと、犯罪年齢の比率が高い層でもあります。この作品は明治末期に書かれたものですが、17歳のお寺の少年である主人公が、お玉さんという少女に恋をします。お玉さんに色んなかたちで自分の気持ちを表わしていきます。例えば、お玉さんは賽銭箱から賽銭を盗みます。私(僕)はそれを分かっていて、あなたの行為は見られていますよというような手紙を賽銭箱に入れておきます。手紙を見てくれればあなたの行為は見られているのだということを相手に伝えるメッセージになると考えたからであります。つまり、この行為は、最初は、私がお玉さんに、お玉さんに対する気持ち、つまり、好きなのですという気持ちを伝えるコミュニケーションでもあります。しかし、その気持ちが高じていき、今度は、お玉さんの赤い雪駄を一足失敬することになります。もしこのような方法で好きな人に恋心を伝えれば、今の時代ならストーカー行為になり、刑事事件にされてしまいます。
 同様な行為でも時代が異なれば全く違った結果になります。少年の行動は明治、大正、昭和という背景にあっても、フィクションとは言え、ある種一定の自由は容認されていました。許容されていたと言っても差し支えないでしょう。しかしながら、戦後、そうしたことは制約を受けるようになりました。近頃では、違法な行為だと揶揄され、社会的制裁すら受けます。しかし、時代を問わず、好きな人に対して“つきまといたい”というのは少年少女、成人男女の素直な気持ちであることに変わりはありません。敢えてそうした感情に法的な制約を設けなければいけないというのはいささか奇異に思われます。
『性に目覚める頃』というのは自由な無垢な気持ちを表わした作品であります。現在では、それが出来なくなっています。((2)は6月1日に続く)


 連載「作家と女性―虚構と実在のジレンマ」(2)

 山口県が生んだ詩人に中原中也がいます。『汚れちまった悲しみに』を紹介します。
……汚れつちまつた悲しみに……

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……   
  (中原中也『山羊の歌』)

 この詩は中也が長谷川泰子という女性に恋をした時のことを想った詩とされています。彼女との出会いは中也がまだ十代の時であります。山口から京都、東京へと二人は恋の逃避行をしていきます。東京で落ち着いたころ、小林秀雄が二人の前に現れます。小林秀雄は、『考えるヒント』、『無常』などの著者で、『文芸評論』『文芸批評』に執筆している人であります。彼は最初、小説家を志していましたが、その才能が自分にないと知り、評論家に転じます。小林秀雄と泰子は非常に親密になり、恋に落ちていきます。中也はそれをじっと見守るしかなかったのです。泰子は小林秀雄の子供を身ごもります。小林秀雄は中也にその子の名付け親になってほしいと頼み、中也は喜んで、「わかりました」と言って名前をつけます。人情沙汰になるような三角関係であります。犯罪に繋がっているような状況かもしれません。中也は非常に寛容だったのでしょう。ある人を永遠に好きだという気持ちは不変だと思っていたのではないでしょうか。小林秀雄に寝取られたとしても中也の泰子への愛は変わりません。たとえ相手の気持ちが変わろうと自分は変わらない。おそらく、その時代の男女の捉え方と今の時代の捉え方が違っているのかもしれません。泰子は結局、小林秀雄に捨てられてしまいます。小林秀雄との関係が終わると、泰子はまた中也のところに戻ってきます。泰子にとって、中也は結婚の対象でなく心の支えになっていきます。残念ながら中也は夭折してしまいます。ここに取りあげた室生犀星も中原中也も人を愛することの意味を知っていたと思います。
 このように見てきますと、作家や詩人という人たちは、心の中にジレンマと言うか、葛藤を持っています。葛藤というのは自分の心の中のさまざまな劣等感―例えば、若くして親を亡くしてしまった時に持つ精神的な劣等感から身体的劣等感の反発から生じる美的憧れへの欲求など、いろいろなタイプの劣等感―を持っています。これらがトラウマになって彼らを自己愛に縛り付けていると言えます。自分と相手を対等の関係、距離を保って捉えているのが犀星であり中也であります。対等の関係でいたいという感情には相手への支配欲はありません。一度、支配してしまいたいと思うと、対等な関係ではなくなります。
 対等として相手を捉えていない作家の典型が太宰治ではないでしょうか。太宰は相手を支配したいという気持ちを強く持った作家であります。後で話します川端康成の場合も相手に対する支配欲が強く働いています。相手が女性であっても社会であってもいいのであります。支配したという気持ちがあれば支配者と被支配者(あるいは、差別する者と差別される者)のような関係が生じていきます。対照的に、もうひとりの作家渡辺淳一の場合はそうした支配欲は窺えません。作品の中で男女は対等な関係で描かれています。
 太宰の場合、彼の苦悩がどこから生まれたのかを考える際、彼の生まれた津軽の実家という風土からではないかと思います。これが一点、大切なところです。もう一点、父は多額納税者への恩典である貴族院議員であり、家業は金融業(金貸し業)であります。津軽の旧家を継いだ人であります。地元からは違った意味での尊敬を抱かれていました。明治42年6月19日、父源右衛門、母たねの10子6男として生まれます。本名、津島修二、後の太宰治であります。実母のたねは体力がなくひ弱だったため、乳母に育てられます。その乳母が自分(太宰)を捨てて出て行ってしまった。太宰が優しく庇護される感情を持ち得ず育ったのはこのためでしょう。このような家庭環境の中で太宰は成人していきます。       
 太宰は青森にある「べにや」という遊び場に通い芸妓紅子(本名小山初代)と若くして知り合います。早熟というかおませでもあったのですが、ここで、初代との出会いが生まれます。その出会いが後の太宰の人生に大きな影響を与えていきます。例えば、太宰は昭和23年の6月23日に亡くなりますが、それまで何度自殺未遂をしたかご存知ですか。彼は5度自殺を試みています。昭和2年7月、芥川龍之介が自殺した時、彼は衝撃のあまり、生きているのが辛く最初の自殺未遂を起こしています。二度目は同年11月、銀座のカフェーの女給田部シメ子(18歳で人妻)と鎌倉の七里が浜海岸で薬物心中を図り、シメ子は死亡します。太宰は自殺幇助罪に問われるが起訴猶予となります。同年12月、初代と仮祝言をあげています。3度目は、昭和10年3月、大学(東京帝大仏文科)卒業が出来なくなり、新聞社の入社試験を受けたが、採用まで到らず、鎌倉山で縊死を図るが未遂に終わっています。4度目は、初代の不倫を知り、谷川温泉の山の中で、初代とカルキチン(睡眠薬)心中を図るが未遂に終わる。4度の自殺(心中)未遂のあと、太宰は非常に自虐的になり、自分を責める気持ちが一層強くなっていきます。
 彼にとって故郷の津軽は希薄な存在であると同時に、彼の強烈な貴族意識を育む土地でもあったのであります。ことばを換えれば、本来、自分はここに生まれてくるべきではなかった、というような強迫観念が幼少の頃に出来上がってしまったということがひとつ、あげられると思います。上京し、東大の仏文に入っても、実家がお金持ちですから、手代さんを連れてきています。いわば、恵まれた環境(裕福な)の下、親の反対を押し切って結婚もします。彼は文学を目指しながら作品を書いていきますが、思うように認められません。檀一雄をはじめ、たくさんの文人と交流を持ちます。第一回芥川賞にノミネートされますが受賞には至りません。第三回芥川賞にノミネートされ、今度の作品こそ受賞すると自信を持っていたのですが、結果は駄目でありました。作家としてみた場合、社会的接点が全くないということが、自殺を考える要因のひとつになり得ます。
 何故、社会と接点を持たなければ作家は生きていけなくなるのでしょうか。これについては1996年『世界』(岩波書店)で、村上春樹と河合隼雄が興味深い対談をしています。村上春樹はベストセラー小説を多く出している作家です。村上春樹は、60年代、70年代前後の学生運動に対して、全くのディタッチメント(detachment)(無関心)の立場をとっていました。つまり、全く社会と切り離した傍観者でした。傍観者として自分を守りながら、社会の中で生きていきます。本は売れる。彼の創り上げた物語は、いわゆるフィクション(虚構の世界)です。読者が非常に喜んで読んでくれるという意味のストーリー・テラー作家です。村上春樹は自らを作家であるという認識を持っていますが、対談の中で、河合隼雄が、もっと社会にアタッチメント(attachment)(繋がり)していかないとだめだ。社会と関わっていかないと作家としての存在感、あるいは社会的なものの捉え方というのが出来なくなると、主張しています。村上春樹自身この対談の中で、自らの社会へのアタッチメント(attachment)(繋がり)を宣言しています。社会は時間と時間の繋がりの積み重ねで出来ていることを認めています。社会に対して攻撃的になっていくパターン(生き方)と、反対に、中に入って社会と深くかかわり合っていくパターンの二通りの生き方があると考えてください。太宰の場合、東大仏文に入った時、マルクス主義に傾倒し政治的活動をしています。それは社会的アタッチメント(attachment)(繋がり)の中の社会への攻撃性の表れでもあります。作家は社会に向かって何がしかの攻撃をしている時に、自分の存在感としてのアイデンティティ(identity)(自己同一)を確認できます。それは心に安心、安定を与えるのでしょう。幻想的なものであれ、美的なものであれ、社会の中に自分が参加している、つまり、、自分は生きているのだという確認を持てることが出来ます。、 
 太宰も同様、社会にアタッチメント(attachment)(繋がり)していきます。しかし、昭和7年、23歳の時、彼は青森検察局で、政治的転向を宣言します。作家を作家たらしめている要素は作家がつねにジレンマと対峙し乗り越えようとしながら生きているということであります。作家にとってのジレンマとは言い換えれば、“傷つきやすい”というのがであります。もう一つの要素は、“ナイーブさ”、つまり、“やさしさ“だと思います。この二つの要素を太宰にあてはめると、太宰は前に進んでも、後ろに返しても、どちらにしても自分を責めてしまう自分しか見い出せていない点であります。それでいいのだという答えはなかったのではないでしょうか。それは、今、申し上げた、”傷つきやすい“、あるいは、”やさしさ“”ナイーブさ“が作家の中にあります。そのため、太宰の生き方が、実は、内向性になっていきます。時間の経過と共に、次は初代という女性が問題化してきます。太宰はマルキシズム運動をしている最中に、睡眠薬を常用していましたし、その後、芥川賞にノミネートされるが、受賞を逸することで、もっと強い睡眠薬を服用するようになります。結局、精神的に壊れていくことになります。井伏鱒二の勧めもあってパピナール中毒治療のため武蔵野病院へ半強制的に入院させられます。入院中に、又、事件が起こってしまいます。初代が自分の従兄弟と情交を結んでいることを知ってしまう。身近にいる一番信頼したいと望む妻初代が不倫をしていた。この点については、実際に、太宰がその情交の現場を自宅で目撃をしたとも言われています。新潮社の元編集者で、太宰番をしていた野平健一の証言(『矢来町半世紀』野平健一、新潮社、1992)によると、太宰自らが目撃したと言っています。野平健一は、昭和23年6月19日、多摩川上水で太宰の死体を収容した「三人の若い男」のひとりです。太宰は初代の浮気で、更なる衝撃を受けてしまう。彼にとって、信じるものがもう何もなくなってしまう。その当時、太宰と関わっていた作家は瀬戸内寂聴、(当時の瀬戸内晴海)、井伏鱒二たちであり、太宰のよき理解者でしたが、こうした人達に励まされつつも、やはり、自分を責める点では変わりありませんでした。昭和22年に出版された『斜陽』と23年に出された『人間失格』の二作は太宰の心の微妙な動きと彼の人間的本質を表わしています。
 昭和23年6月12日、玉川上水に山崎富江と入水自殺。6月19日に遺体が発見。山崎富枝とはその年にはじめて知り合った女性であります。当時、太宰は武蔵野三鷹の下連雀に住んでおり、三鷹駅前に屋台がありました。その屋台で知り合った女性が富枝です。二人の話がはずみ、意気投合し「一緒に死なない?」「じゃあ、付き合ってやろう」といった軽い会話が太宰を死へと向かわせたのであります。非常に短絡的な話が現実に心中になっていきます。だから、評論家達の中には、山崎富江が太宰を無理やり殺したのではないかということばさえささやかれました。太宰の死に関しては諸説あります。当時、初代さんとは別れており、井伏も他界していたし、石原美智子とも関係を持ち結婚しておりました。山崎富江と情交関係にありながらも、太田静子と関係を持ち、静子は太宰の子供を身ごもる。その子は太田治子です。太宰にとって、女性というのは支配する相手であったのです。女性と自分との性が対等であれば、そういった相関関係は持ち得なかったでしょう。女性に対する漠然とした劣等感のようなものが太宰の中あったのでしょう。先に触れましたが、それがどこから生まれてきたのか意見は分かれます。遡っていけば、実母からの暖かい愛情が注がれなかったところに問題があるのではないかと考えられます。
((3)は7月1日」に続く)


 連載「作家と女性―虚構と実在のジレンマ」(3)

次に、川端康成について話しましょう。川端康成は、明治32年(1899年)、大阪で生まれます。芳子(よしこ)という4歳上の姉がいます。2歳の時に、父が亡くなり、3歳の時、母が亡くなります。その年、大阪の三島郡(現在の茨木市)の祖父母に引き取られていきます。明治39年、康成が7歳の時に、祖母が亡くなり、10歳の時に、4歳違いの姉が亡くなります。15歳の時に、今度は、祖父が亡くなってしまいます。15歳の時、康成は天涯孤独になってしまいます。父母を2歳−3歳で亡くしたため、孤独な人生を歩んでいくということになります。川端康成は昭和43年(1968年)ノーベル文学賞を受賞します。記念講演のタイトルは『美しい日本の私―その序説』です。川端文学の特徴はやはり「美」でありましょう。ここでは『伊豆の踊り子』と『雪国』の二作を取り上げ、康成の女性像を話してみます。
旅で知り合った男が、「私」を湯に誘い「私」と湯に入るシーンがあります。

「彼は、指さされて、私は、川向こうの共同湯の方を見た。湯気の中に7,8人の裸体が、ぼんやり浮かんでいた。暗い湯殿の奥から、突然、裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場の突鼻に川岸へ飛び下りそうな格好で、立ち、両手をいっぱい伸ばして、何か叫んでいる。手拭もない真裸だ。それが、踊り子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は、心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私達を見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で背いっぱいに伸び上がる程に子供なんだ。私は朗らかな喜びでことこと笑い続けた。頭が拭われたように澄んで来た。微笑がいつまでもとまらなかった。踊り子の髪が豊か過ぎるので、17,18に見えていたのだ。その上娘盛りのように装わせてあるので、私はとんでもない思い違いをしていたのだ。」(『伊豆の踊り子』より)

引用中、「子供なんだ」、「踊り子の髪が豊か過ぎるので、17、18に見えていたのだ」
は作家川端康成の心中を知るうえで大切なことばであります。“踊り子”というのは、太宰のところで触れました芸妓「初代」同様、支配、被支配という関係で捉えると、当時は、社会的に偏見を持たれている仕事であります。踊り子は社会的に差別される立場にあったとされております。康成のもう1つの作品、『雪国』の場合なら、芸者駒子です。駒子も、そういう意味では、非常に社会的な差別を受けている女性であります。康成の描く女性は社会的に非常に弱い立場に置かれている人であります。彼が女性に求めているものは純粋無垢な姿であります。踊り子にしろ、芸者にしろ、社会的な垢にまみれているという意識を彼は持っていました。これは彼の美学からは許されないことであります。彼は真っ白な、全く、汚れのないものしか受け入れられないところがありました。そんな女性を美しい日本語を駆使しながら描いた作家ではなかったかと思います。ただ、問題は美しいものと醜いものが非常に対照的に描かれているところであります。康成が15歳で中学に入った時、「16歳の日記」(原題は、「17歳の日記」)の中で、自分の祖父の死ぬ間際の状況を、彼はかなり醜い表現で描いています。その描き方からしましても、いわば、美は醜と対極に位置づけられています。対極手法を用い、どんどん醜いものを描き、自分は美しいものを追求しているという深層的部分を訴えています。本来的には精神的には貧しい部分を持った作家だと言えます。それゆえ、なんらかの形でそれを隠そうとするのであります。それを美しい文体や美しい文章で、自らの内面的な貧しさ、弱さをカムフラージュしようとします。実際、『伊豆の踊り子』の中で描かれているように、遠くから見れば踊り子は17、18才に見えていたが、次の朝、温泉から遠くから見たその姿は子供なんです。子供なのだと何度も繰り返して言うということ自体、彼の屈折した女性像を表わしています。
『雪国』では、島村と駒子、駒子の妹葉子を通して女性を描いています。島村はうだつのあがらない舞踏家で、下山の帰途、駒子に出会います。駒子は美しく、島村の好きなタイプの女性であります。彼は、三度、雪国(越後湯沢)に行きますが、その度に駒子に心を惹かれていきます。やがて、二人は肉体関係を持ちますが、島村という人物を設定したことについて、川端康成は、島村は自分自身の分身ではないとはっきり言っております。いろんな見方が出来ると思いますけれども、その島村は西洋舞踏の評論家として、登場しますが、特に、生計のために仕事をしなくていいほどの遺産があり、生活に困ることはありません。山歩きの帰り、この「雪国」に立ち寄り、踊りの師匠の娘駒子に出会う。島村は彼女に惹かれていき、駒子も島村に好意を持ち、二人は、結ばれます。もう一度何とか世の中に出て名を得ようとする時に、駒子に出会って、駒子の美しさに惹かれていくのです。しかしながら、踊り子だと思っていた女の子が、子供だったと同様、駒子の妹葉子も、全く、透明な女性として描かれています。駒子には許婚がいます。その許婚の親の借金のために芸者になったという事情を知ると、駒子への気持ちが徐々に薄れていき、島村の感心は葉子の方に向いてしまいます。行男が駒子の許婚ですが、亡くなってしまいます。亡くなった時、駒子は葬儀にも行きません。葉子が、「行ったら」と言っても行きません。駒子自身も行男よりも島村の方に接近していきます。そこに見られるのは純粋な恋愛関係ではなく、体と体が一緒になる、男女の愛だけであります。果たして島村にとって葉子はどういう存在であるのでしょうか。葉子は繭倉が火事になり、階上から飛び降りる時に、「助けて」と叫びますが、島村ではなく駒子が、葉子を抱えて助けます。葉子は亡くなりますが、葉子の方がむしろ島村に恋心を抱いています。康成はこうした描き方をして男女を見ていきます。男女間の屈折した心理の葛藤を描いています。これが、康成という作家が描く作品ではないかと思います。康成も幼い頃家族を亡くした体験がその後の作家人生に深い影響を与えています。室生犀星と中原中也そして太宰治と川端康成の話をしました。
最後に、渡辺淳一のことについて話します。彼はこれまで取り上げた四人の作家のうち、むしろバランスのとれた作家と言えます。渡辺淳一は、人間的にも、川端康成のようなある種の異常性もなく、自分自身と社会、自分と女性との間にも均等な距離を置いています。女性からすれば、非常に優しいジェントルマンシップな男性だというふうに捉えられます。確かに、彼についてのスキャンダラスな話はありますが、精神のアンバランスをもたらすようなものではありません。渡辺の場合、自殺未遂、心中事件を起こすといったようなことはありません。彼の代表作である『失楽園』のあらすじを交えて、作家渡辺淳一と女性のお話をしていきます。
『失楽園』に登場する久木祥一郎は出版社に勤めている中年サラリーマンですが、重役になる道を絶たれ、編集の一線から身を引き閑職についています。彼はカルチャースクールで書道講師をしている松原凛子と出会う。折り目正しいしとやかな凛子は久木の熱く強引な愛の力に身も心もまかせていく。週末毎、二人は逢瀬を重ねるうち、凛子はいつの間にか性の喜びにはまっていく。凛子の義父が亡くなった通夜の晩、夫や母親に知れず喪服姿のまま久木との愛の時間を持つ。激しい罪悪感がかえって凛子の久木への思いを強めていく。二人は、都内のマンションで密かに二人だけの生活の場を持つ。凛子の様子に不審を持った夫時彦は興信所に凛子の調査を頼み、二人の関係を知ることになる。しかし、夫は離婚しないと言う。凛子は別れてくれと懇願するが、夫はかたくなになる。久木の母文枝も二人の関係を知り、久木に離婚を迫る。ある時、久木の会社に久木と凛子の関係を暴露する手紙が送られ、久木は退職する。凛子も母や夫との縁を切り、久木の元に走る。「至高の愛の瞬間のまま死ねたらいい」と願う凛子。二人は、温泉宿に向かい、激しい愛の交わりを持つ。その後、毒の入ったワインを飲み、二人は死んでいく。二人の局部は結ばれたまま発見された。
何度も逢瀬を重ね、そして、愛を深めていきます。二人の死の状態が二人の心をシンボリックに表現していると思います。評論家の言を借りれば二人の心を“凍結”させてしまう。“凍結”させてしまうのにどういう方法があるか。“凍結”させてしまうのには心中しかないのです。生きておればどちらかが先に逝く。どちらかの心がうつろう。男女の不倫を小説だとの批評もありますが、渡辺純一がこの作品を通して伝えたかったことは今の男女、夫婦に久木と凛子のような強い男女愛があるかとの問いではなかったかと思います。そういう意味で、彼は世の中の男女に向かって、警鐘を与えているのではないかというのが、私自身正直な捉え方であります。 
太宰治も、川端康成も通った内面に潜むもうひとりの自分が誇大妄想の被害者であり、加害者であるのでしょう。作家にとってはそうした葛藤と闘い、負ければ自死しかないというのが宿命のように思われる。葛藤から抜け出すのには、愛を“凍結”させるしかなく、渡辺淳一は久木を凛子と心中させることによって愛を不遍化させたのでありましょう。平等で永遠の愛を保つひとつの方法かもしれません。『失楽園』に阿部 定が出てきます。渡辺淳一は阿部 定を、“凍結”させる愛への対極・批判として作中に出してきたと思います。阿部 定は好きな相手を殺してしまいます。渡辺淳一は、凛子に久木を殺させることはしないで、結末を心中へ持って行きました。自分の愛した人と“凍結”という形で愛を継続していく。自分が愛する相手を殺してしまいたいほど好きだからこそ、阿部 定がしたように男性の“一部分”を切り落とすという異常な行為を決して美しい愛とは考えていないからでしょう。その意味で、渡辺淳一は男女の愛を非常に綺麗に美しく描いています。
こうした渡辺文学の根源(源泉)はどこにあるのかは興味深いことであります。渡辺淳一は旧制札幌第一中学時代、高校二年生の時に忘れがたい恋愛をしています。高校二年生の時の加清純子との出会いであります。旧制札幌第一中学が男女共学になった年に入学した女性です。何ヶ月も同じクラスにいながら、全然話をすることすら出来ない。渡辺純一は非常にシャイで、女性に話しかける勇気もないほど気の弱い人だったようです。当時高校一年で加清純子は北海道道展に入選するすばらしい才能を持つ画家だと言われています。北海道の画家が集まる女流美術協会に入っています。つまり、若き天才画家です。加清純子は実在した女性であります。渡辺少年は彼女からラブレターをもらいます。二年生の一月のことです。クラスメイト全てが憧れるほどの女性から手紙をもらい、その中に、“私は、あなたをずっと好きだった。あなたは、私が、あなたのことを好きだと知らなかったでしょう。明日、喫茶店セコンドで待っています。”と、書かれてありました。(渡辺純一『雪の北国から』角川文庫、1982年から)渡辺少年は胸が激しくときめきます。渡辺淳一自身、後に語っていますが、自分はこのような男女の恋愛小説を多く書いていますが、当時自分は接吻すら知らない真面目少年だった。加清純子の方が多少、恋愛経験があったようです。翌日、二人は大通り公園を散歩しながら、加清純子は渡辺少年を家まで送って行きます。  
『寒に果つ』という作品では、加清純子が時任純子という名前で出てきます。もちろん、フィクションですから多少脚色はされているでしょうが、加清純子はそのデートの時、朱のコート、手袋、エンジのベレー帽を身に付けていたと、渡辺淳一は述べております。それが、一月のデートだったのですけれども、その後、二人は図書部員だったこともあり、図書館の中で放課後、ひそかに接吻をしたというラブストーリーです。その加清純子が、三年生になって、自殺をしてしまう。阿寒湖を見下ろす釧北峠の樹林の中で遺体が発見されます。その時彼女が身に付けていたのが、高校生の時、自分とデートしていた時と同じものです。渡辺少年からすれば、加清純子の死は非常に鮮烈な死ではなかったかと思います。彼は高校を失業し、大学生になっておりました。彼女の死は友人から聞かされています。太宰 治、川端康成は女性を屈折した形で描いていました。あまりにも純粋さを求め、結果的に、太宰の場合は自虐的な退廃文学の旗手になっていきましたし、川端の場合はナルシズム的美学に陶酔させてしまったのであります。対照的に、渡辺純一は男女という人間と人間との繋がりに愛を求め、真正面から社会とコミットしながら、愛を育てていく作家として位置づけられるのではないでしょうか。
体験の違いによって作家の描く作品も人物像も各々違います。渡辺淳一はたくさんの作品を世に出し、多くの読者を惹き付けています。太宰治も川端康成も共に日本文学史上、最も愛読されている作家であります。村上春樹も成功した作家の一人でしょう。『ノルウェーの森』をはじめ、たくさんすばらしい作品を書いていますけれども、社会とのコミットメントが乏しかったため、日常生活の範疇からは決して出ることのないミニマムな事象を描く(ミニマリズム)作家の中に入るのではないでしょうか。
((4)は8月1日に続きます)



 連載「作家と女性―虚構と実在のジレンマ」(4)

話しを少しそらしますが、川端康成も太宰 治も、今の心理分析にあてはめれば、なんらかの精神的問題に悩む人たちでなかったかと思います。平成14年7月に長崎市で幼稚園園児誘拐殺人事件がありました。精神鑑定書の中で加害者の中学一年生の少年はアスペルガー症候群という病名を患っていたとあります。アスペルガー症候群という機能発達障害は、自閉症を含む機能障害ですが、特に、自閉症の中でも非常に知能が発達している場合は広汎性自閉症といいます。その中でも、まだ、正常に近い思考能力を持っている場合には、アスペルガー症候群に分類されます。精神鑑定書というのはどういうものでしょうか。そのあり方に不自然さ、不平等さを拭いきれません。平成12年に名古屋で殺してみたいと言って、実際に、人を殺した事件がありますが、その加害者もアスペルガー症候群という範疇に入ってしまいます。神戸の少年Aの殺人においても、やはり、精神障害ありと診断されますが、そういう人達が14歳から18歳までの間に、もし罪を犯すことなく成長した場合、年を経ると非常に優れた文学的才能を発揮することが可能ではないかと考えられます。アスペルガーというのは精神的な疾患ですけれども、早期に治療すれば、治る病気でもあります。ビルゲイツも自閉症であるということを1996年の『タイム誌』で発表しています。アインシュタインもアスペルガーに悩まされた科学者であります。哲学者ビトゲインシュタインも同様の疾患を持っていたと言われています。ビルゲイツは同時代の人ですけれども、それ以外の人達は年代的には、現代とは違う時代の人達であります。長崎の中学1年生の少年にしろ、名古屋の事件の子供にしろ、太宰の時代に生きていたならば、代わった生き方が出来たかもしれません。犯罪は犯罪として罰せられないといけません。曖昧にしてはいけないと思います。ただ、心理学からの援助、刑事政策、予防法学が確立されているならその才能を引き伸ばすことは出来るのではないかと思います。少年を含む多くの刑事事件での中で、精神鑑定結果が出され、多重人格であるとか、学習障害であるとか、行動障害であるとか、いわば、形にはめていこうとされています。精神分析側の立場からは当然のことなのでしょうけれども、それを範疇に入れるということ自体、私は精神鑑定のあり方が間違っていると思います。被害者側、検察側を問わず、精神鑑定結果は通常、当事者側に有利なものしか出てきません。例えば、検察が出す鑑定書は明らかに、最初から結果ありきということで出てきますし、弁護側のも、弁護する立場として出しますから、客観性が乏しくなるということであります。フランスは中立的な第三者機関が鑑定を行っています。その機関の中で、犯罪者の生い立ちから犯行の動機まで、時間をかけて検証していきます。今回の長崎の事件の場合には、数ヶ月経たないうちに鑑定結果が出されています。もっと時間をかける必要があるにもかかわらず、鑑定を急いで出しています。鑑定の中立性が保たれるとは思われません。第三者機関を置いて、精神病理の先生だけではなくて、一般の人々、学校の先生、いろんな分野から人々が入り、その人の生い立ちから犯罪にいたる経緯を分析・検証し鑑定の結果を出す必要があります。アスペルガー症候群に通じている人は、専門家以外いないという判断から、専門家に依頼するのでしょうが、果たしてそれでいいかどうかです。罪を犯す人が、日本という人間関係を中心とする社会で、どうすれば更正出来るのかを考える必要があります。文学との関わりで言いますと、私が一番言いたいことは、太宰 治というのは、もし、今、生きていたら、早期にその文学的素養の芽は摘まれていたということであります。だから、太宰=小説家は、あり得なかったでしょう。川端康成もエクセントリックな女性に対する捉え方をしていますし、彼個有の処女性への考えもユニークであります。彼らの行為はより個別、具体的な形でいうところの犯罪行為として出なかっただけで、でる可能性は十分あったかもしれません。理性があればそれらの行為は抑えられるとよく言われます。もちろん自己抑制機能としての理性は最も大切なものであることは言うまでもありません。ただ、人間の心の一番深いところに潜むさまざまな欲望のすべてを理性という二文字で抑えられるのだと断言することも近代人の犯してきた罪であります。今の社会にそういったものを受け止めるだけのcapacityがあるかどうかは問題であります。彼らが無頼な行為をし、好き勝手な発言をすれば、今なら、ストーカー行為として扱われメディアの集中砲火を浴びることでしょう。戦前と戦後という大きな分け方をしても、あるいは、高度成長以降の作家とそれ以前の作家の違いという分け方をしても、capacityということは適切ではないと思います。capacityというのは単なる“能力”という問題であります。英語で“許容力”はtoleranceで表します。本来使うに相応しいことばはtolerance、“許容力”ではないかと思います。“許容力”の中には受け入れる限界点だけでなく、寛容さが含まれています。その意味では、社会が子供に対して寛容でなくなってきているのではないかと思います。社会が子供たちの成長に対してもっと懐が広く深くなければいけないと思います。今の社会はこうした子供たちを抱擁できる社会ではありません。学校教育では成果主義が先行しています。少年時に罪を犯した人々の多くは社会の作り出したシステムに乗せられ、施設で教育されます。更正・教育をした後にどうするかという具体的施策はありません。今の日本社会にそうした人々に対して、更正の道を歩めるようなシステムプランが出来上がっていないと思います。確かに時代が違うと言ってしまえばそれだけですが、問題はそう簡単なことではありません。今後、作家と称される人が生まれてくるのかというと、確信が持てません。確かに、太宰 治、川端康成、室生犀星、中原中也といった作家、小説家、詩人は、すばらしい作品を残していますし、私達に感動を与えています。しかし、一方では、夏目漱石、森鴎外といった作家の作品が学校の教科書から消えていくことは社会的にも大きな問題であります。想像の世界に入っていく手掛かりをつかめなくなります。IT社会での仮想現実と小説の虚構世界は全く異なった空間であります。今、こうした小説の世界を子供たちに教えない私たちが社会を動かしているのであります。社会のこうした流れに対して承認を出しているのですから、私たち、大人の責任も大きいのではないでしょうか。子供たちがそういった名作や名文に触れることなく、ひたすらゲームに興じ、パソコンの仮想社会でゲームをすると、どうした結末を生むのでしょうか。社会全体がいびつな構造になり、人間を許容する範囲が狭くなってきています。もちろん、教育の現場においてもそうであります。そういう意味で作家、小説家が、将来出てこないのではないかと不安を覚えます。作家、小説家が出てこない社会は殺伐とした社会であることは想像に難くないことであります。
永山則夫について少し触れます。昭和41年に4件の連続射殺事件を起こし、平成2年に死刑が確定し、平成9年8月1日に刑が執行されています。彼の残した『無知の涙』の中で、彼は、哲学、経済学をはじめ、様々なジャンルの学問を、専門家以上に勉強しています。その彼が辿った人生の軌跡は非常に悲しむべきものであります。死刑制度に関しては賛否両論ありますけれども、こういった形で刑が執行されてしまったことは残念であります。やはり、命をまっとうして、作品を世に出してくれれば、犯罪予備軍のような人たちに対しても救いの手が差し伸べられるのではないかと考えます。たとえ罪を犯した人でも社会から葬りさせているのも今の社会システムであります。非常に残念だという気がします。『無知の涙』の最後のところに感銘を受けたノートがあります。それを紹介してお話を終えることにします。
震えながら、冬の夜を過ごして 煙の溜息をはく
人生の意義について 今ならはっきり語れる
そのまえに もし 許されるものならば
最愛するものの側に 行きたい そこに眠りたい
四面(まわり)蒼い海しかない 幼い冒険のあれ そうだろうか
どこかで見た モナリザの笑みを思わせたあの人か
美しいものを愛する なぜならば 私の魂は汚穢の見本
最愛するものの側に行きたい そこに眠りたい
枯れ葉 散る 散って舞う 並木路の直ぐわきの
ブランコ ジャングルジム 好きだった砂場 思い出のある公園
私はベンチにすわり いちょうの葉のゆくえ目で追う
最愛するものの側に 行きたい そこに住(い)たい

(永山則夫『無知の涙』「愛するものの側に」河出書房新社 1990年、原文のまま)
                  (完)

 4ヶ月にわたり連載しました。9月から「コラム」連載の予定です。



HOMEDiary 「大学のありかたー教養教育」連載「作家と女性」―虚構と実在のジレンマ(1)(2)(3)(4)経営コミュニケーション学科学会・社会活動・研究テーマ文学と法経営工学専攻(大学院入試募集中6月、9月、3月)森川展男_特別研究(修士論文研究)・学部ゼミ紹介森川ゼミニュースいらっしゃいのぶりん ルーム近畿大学産業理工学部リンク経営ビジネス学科(平成20年名称変更)リンクエンジン01文化戦略会議リンク