森本一夫監訳、長峯博之解題、北海道大学ペルシア語史料研究会訳
※『史朋』の当該号は北海道大学東洋史談話会によって、随時販売されています。1,500円だそうです。入手に関しては、こちらをご覧ください。
※訳註本文の当サイト掲載を快諾して下さった『史朋』編集委員会に感謝いたします。
ウェブ版目次
訳註
以下に訳出するのは、11世紀後半に著されたペルシア語文献、ナースィレ・フスラウ著『旅行記』の、最初の七分の一ほどに当たる部分である。ナースィレ・フスラウの人となりや『旅行記』の概要などは解題で述べられるので、ここではこの訳註の作成作業のあらましを記しておきたい。
森本と、北海道大学の大学院生・学部生有志からなる北海道大学ペルシア語史料研究会は、2002年4月から週に一回のペースで『旅行記』の輪読会を行ってきた。この輪読会では、担当者が作成してきた註釈つきの下訳に対し皆で意見を出し合い、共同の改訂訳を作成している。今回発表する訳註(I)は、この輪読会の9月末までの成果である。
今回発表分の訳註作成に際して実際に下訳の作成を担当したのは、今野毅、長峯博之、亀谷学、野宮恵子、宮腰祥子、岡本和也、山畑倫志、工藤健、井上あいの、小野春香、黒田賢治である。また、今回は下訳を作成するにはいたらなかったが、輪読会には、伊藤玄、大渕裕美、中門英生、山下文平、渡邉郁恵*も参加した。もちろん森本は輪読会には全て出席し、以下の訳註全文の検討に参加している。訳註の責任表示を森本一夫監訳、北海道大学ペルシア語史料研究会訳としたのは、このような経緯を踏まえてのことである。
この他に、連載初回に当たって長峯博之による解題を付した。長峯は、輪読会の運営と訳註原稿作成の両方に関しても、実務的に中心的な役割を果たしている。
輪読会を始めて日が浅いこともあり、今回は充分な量を訳出することができなかった。しかし我々は、今後もこの重要文献の訳註作業を続けていく予定である。読者諸賢のご批判をお願いするしだいである。
最後に、参考文献収集に多大な御協力をたまわった菊地達也氏、ならびに、我々の質問に親切にお答えくださった青木健、太田敬子の両氏に謝意を表したい。
(森本一夫)
*渡邉郁恵さんの「ナベ」の字は、本当はこれではありません。ワープロで出ないので、失礼ながら代用させていただきました。なお、『史朋』の方では正しい字を用いています。
1. ナースィレ・フスラウ
ナースィレ・フスラウは、11世紀の著名なペルシア語詩人、散文家そして旅行家であり
、ファーティマ朝イスマーイール派のダーイー としても知られている。彼の人となりに関しては非常に多くの伝説的な逸話がのこされており
、現代の研究者によっても様々な説が提示されている 。しかし、彼の生涯に関する一次的な情報は『旅行記』やカスィーダ(頌詩)に散見する記述のみであり、その著名さに比すると不明な点が多い。以下、先行研究に依拠しながら、彼の生涯を概観したい
。
a. 旅立ちまで(1003-4年から1045年)
ナースィレ・フスラウは394年(1003-4年) にバルフ近郊、アム川流域にあるクバーズィヤーンに生まれた
。彼には二人の兄弟が知られている。一人は彼の旅に同行し 、もう一人のアブー・アル=ファトフ・アブドゥルジャリールはセルジューク朝に出仕していた
。
彼が生きたのは、9〜10世紀にサーマーン朝(873〜999)治下で近世ペルシア語が成立した後の時代であり、フィルダウスィー(934〜1025)が『王書』を著すなど、いわゆるペルシア文学の開花期であった。そうした時代において、おそらくは官僚・地主層の比較的富裕な家柄に生まれた彼は、クルアーンやイスラーム神学をはじめ、文学、哲学、数学などの広範な分野に関して十分な教育を受けたと考えられる 。当然アラビア語の素養もあったであろう 。また宗教的には、少なくとも表面的にはスンナ派であったと考えられる 。
当時、バルフはガズナ朝(977〜1187)の支配下にあり、ナースィレ・フスラウはマフムード(位998〜1030)やその息子マスウード(位1031〜40)のもとに出仕したようである
。マフムードの生存中(1030年以前)であるから、ナースィレ・フスラウが26〜27歳以前のことであろう
。この時期ナースィレ・フスラウは、ガズナ朝治下のインドなどの各地を訪れている
。しかし、トゥグリル・ベグ(位1038〜63)、チャグリー・ベグ兄弟らの指揮するセルジューク朝(1038〜1194)軍がアム川を越えて侵攻し、1040年のダンダーナカーンの戦いでガズナ朝軍に大勝してホラーサーンの支配権を確立すると、ナースィレ・フスラウは、マルヴを拠点としてホラーサーンを統治したチャグリー・ベグに書記として仕えるようになった
。こうして、437年(1045年)の旅立ちまで、ナースィレ・フスラウはセルジューク朝の書記官僚の地位にあった。
b. 旅(1045年から1052年)
437年(1045年)のある夜、啓示的な夢を見たナースィレ・フスラウは、『旅行記』で語られるおよそ7年間の旅に出ることになる。旅の概要は後述することとしたい。
この旅の中でも、およそ3年間にも及ぶ彼のエジプト滞在は、諸研究が大きな関心を寄せるところである。当時エジプトは、ファーティマ朝ムスタンスィル(位1036〜94)治下にあった。ファーティマ朝は、シーア派の一派であるイスマーイール派を奉ずる王朝であり、当初からアッバース朝カリフの権威を否定していた。カイロに滞在したナースィレ・フスラウはそこで、ダーイーの長であったムアイヤド・シーラーズィーを師とし、その深い影響を受ける 。そして彼は「フッジャ」 の称号を得て、ホラーサーン地方に教宣するイスマーイール派の中心人物となったのである。
ただし、以上のような展開の前提となる彼の改宗の時期については、大きく三つの説が提示されている。すなわち、1.
ファーティマ朝治下エジプト滞在の途中に改宗したという説 、2. 旅立ちの時点ですでに改宗していたという説
、また、3. 彼の改宗はホラーサーン帰還後に起こったという説 、である。現在では2.の説がほぼ定説化されつつあるといってよいであろう。
c. ホラーサーンでの教宣活動(1052年から1061-2年以前)
1052年にバルフに帰還したナースィレ・フスラウは、活発なイスマーイール派教宣活動を開始した。彼の教宣活動は、ホラーサーンにとどまらず、マーザンダラーン(あるいはトハーリスターン)においても成果を挙げたという
。しかし、スンナ派セルジューク朝治下での教宣活動はスンナ派のウラマーたちの反発を招き、彼はニーシャープールのスウルーキーのもとに身を寄せるなどするが
、ついにはバルフを離れざるを得なくなる。彼がバルフを去った年代は定かではないが、453年(1061-2年)以前であろうとされている
。
d. ユムガーンでの隠遁生活(1061-2年以前から1072〜77, 1088-9年)
バルフを追われたナースィレ・フスラウは、最終的にバダフシャーン山中ユムガーン
のイスマーイール派地方領主、アリー・イブン・アル=アサドのもとに身を寄せた
。ここでの長い隠遁生活 において、彼は苦難を嘆きながらも執筆活動に専念するとともに、教宣活動を続けた。彼の没年に関しては、465年(1072年)〜470年(1077年)もしくは481年(1088-9年)といった説があり定かではないが、いずれにせよ没後は同地に葬られたという
。
e. 著作一覧(既刊のもののみ。それぞれの主要な刊本のみを挙げている)
[Diwan] Nasr Allah Taqawi et al. eds., Tehran: Kitabkhanah-yi Tihran, 1304-07Kh./1925-28; M. Minuwi & M. Muhaqqiq eds., Tehran: Danishgah-i Tihran, 1353Kh./1974; H. Taqi-zadah preface, M. Minuwi ed., 3rd ed., Tehran: Dunya-yi Kitab, 1372Kh./1993-4.
[Gushayish wa Rahayish] S. Nafisi ed., Bombay: Matba`at Qadimi Paris, 1950, revised ed., Tehran, 1340Kh./1961; F.M. Hunzai ed. & tr., Knowledge and Liberation : A Treatise on Philosophical Theology, London & New York: I.B. Tauris in association with the Institute of Ismaili Studies, 1998.
[Jami` al-Hikmatayn] H. Corbin & M. Mu`in eds., Tehran & Paris: Institut Franco-Iranian, 1953.
[Khwan al-Ikhwan] Y. al-Khashshab ed., Cairo: L'Institut Francai d'Archeologie Orientale, 1940; A. Qawim ed., Tehran: Barani, 1338Kh./1959.
[Shish Fasl] W. Ivanow ed. & tr., Six Chapters, or Shish fasl also Called Rawshana'i-namah, Bombay & Leiden: E.J. Brill, 1949.
[Wajh-i Din] M. Ghani-zadah & M. Qazwini eds., Berlin: Kawiyani, 1343A.H./1924; G.R. Aavani ed., Tehran: Imperial Iranian Academy of Philosophy, 1356Kh./1977.
[Zad al-Musafirin] M. Bazl al-Rahman ed., Berlin: Kawiyani, 1342A.H./1923.
2. 『旅行記』
a. 『旅行記』の概要
『旅行記』は、ナースィレ・フスラウのおよそ7年間の旅の記録である。ホラーサーンを出発して西はエジプトまで旅行した彼は、『旅行記』の中で、訪れた場所、出会った人物、見聞したことに関して非常に鮮明な記述を残しており、『旅行記』は11世紀のイスラーム世界を伝える興味深い書であると同時に、貴重な歴史史料ともなっている 。文章は平易であり、思想的色彩はほとんど感じられない 。以下『旅行記』の概要を述べたい。
437年(1045年)ラビーウ・アーヒラ月、官庁の仕事のためにマルヴを離れていた彼は、ある夜の啓示的な夢によりメッカ巡礼の旅を志す。当時彼は40歳前後であったという。マルヴに戻った彼は職を辞し、ついに兄弟の一人、インド人奴隷の少年とともにメッカ巡礼へと出発した。437年シャアバーン月23日(1046年3月5日)であったという。ニーシャープール、タブリーズ、アレッポそしてイェルサレムと、カスピ海南岸、地中海東岸を通って、彼は438年(1047年)に一回目のメッカ巡礼を行った。そこから彼はエジプトに向かう。439年(1047年)にカイロに到着した。ここで彼はファーティマ朝ムスタンスィル治下のエジプトの繁栄を称えている 。彼のエジプト滞在はおよそ3年間に及び、その間二回目(439年1048年)、三回目(440年1049年)のメッカ巡礼を行った。441年(1050年)に彼はカイロを離れた。四回目のメッカ巡礼(442年/1050-1年)を行ってから、アラビア半島を横断し、イスファハーンを経由して、444年ジュマーダー・アーヒラ月26日(1052年10月23日)、ついに彼は50歳でバルフに帰還した。こうしておよそ7年間に及ぶ彼の旅は幕を下ろした。全行程2220ファルサングであったという。
『旅行記』の執筆年代は残念ながら定かではないが、帰還後、旅行中の記録
をもとに、比較的早いうちに執筆されたと推測されている 。また、ナースィレ・フスラウ自身によるテクストは完全な形では伝わっておらず、現存するテクストには第三者の手が加えられている可能性が高いという
。
b. 『旅行記』の刊本
Charles Schefer ed., Paris, 1881, repr., Amsterdam: Philo Press, 1970.
Delhi, 1299A.H./1882. (lithograph)
Mirza Muhammad Malik al-Kuttab ed., Bombay, 1309A.H./1891-2. (lithograph)
Zayn al-`Abidin al-Sharif al-Safawi ed., Tehran, 1312A.H./1894-5. (lithograph): ナースィレ・フスラウの他の著作との合本。
Zayn al-`Abidin al-Sharif al-Safawi ed., Tehran, 1312A.H./1894-5. (lithograph): 『旅行記』のみで刊行。
M. Ghani-zadah ed., Berlin: Kawiyani, 1341A.H./1922.
M. Dabirsiyaqi ed., Tehran: Zuwwar, 1330Kh.
M. Dabirsiyaqi ed., Tehran, 1341Kh.
M. Dabirsiyaqi ed., Tehran, 1344Kh.
Tehran: Farahani, n.d.
Nasir-i Khusraw, Safarnoma: kniga puteshestviia, Dushanbe: Irfon, 1970. (a Cyrillic transcription)
N. Wazin-pur ed., Tehran: Kitabha-yi Jibi, 1350Kh./ 1972.
M. Dabirsiyaqi ed., Tehran: Anjuman-i Asar-i Milli, 1356Kh./1977.
訳註で使用している底本M. Dabirsiyaqi ed., Tehran: Zuwwar, 1373Kh./1994-5は、基本的に上記のAnjuman-i
Asar-i Milli版のリプリントである。
c. 『旅行記』の訳本(*印を付したものは、本訳註作成にあたって参照したものである)
・ フランス語
*Charles Schefer ed. & tr., Sefer nameh: relation du voyage de Nassiri Khosrau, Paris, 1881, repr., Amsterdam: Philo Press, 1970.
・ 英語
A.R. Fuller tr., "An Account of Jerusalem Translated for the Late Sir H.M. Elliot from Persian Text of Nasir ibn Khusru's Safarnamah," Journal of the Royal Asiatic Society, 1872, pp. 142-164.
*Guy Le Strange tr., Diary of a Journey through Syria and Palestine by Nasir-i Khusrau, in 1047A.D., London: Library of the Palestine Pilgrims' Text Society, 1893.
*W.M. Thackston, Jr. tr., Naser-e Khosraw's Book of Travels (Safarnama), New York: Bibliotheca Persica, 1986.
・ ドイツ語
*Seyfeddin Najmabadi & Siegfried Weber trs., Naser-e-Khosrou, Safarname: Ein Reisebericht aus dem Orient des 11. Jahrhunderts, Munchen: Diederichs, 1993.
*Uto von Melzer tr.; M. Mayrhofer ed., Safarname: Das Reisetagebuch des persischen Dichters Nasir-i Husrau, Graz: Leykam, 1993.
・ ロシア語
*A.E. Bertel's tr., Nasir-i Husrau, Safar-Name: Kniga puteshestviiya, Moskva & Leningrad, Academia, 1933.
・ アラビア語
*Yahya al-Khashshab tr., Safarnamah: Rihla Nasir Khusraw, Cairo, 1365A.H./1945, 3rd ed., Beirut: Dar al-Kitab al-Jadid, 1983.
・ ウルドゥー語
M. Sarwat Allah tr., Nasir-i Khusraw, Safarnamah (Selected Works of Nasir-i Khusraw), Lucknow, 1937.
・ トルコ語
*A. Tarzi tr., Nasir-i Husrev, Sefername, Istanbul: Milli Egitim Basimevi, 1950, 2nd ed., 1967.
・ タジク語(あるいはロシア語か?)
A. Adaris et al. trs., Khisrou Nosir: Izbrannoe, Starinabad: Gosd. Izd-vo Tadjikskoi SSR., 1949, repr., 1964.
・ デンマーク語
Gudrun S. Jakobsdottir, "Nasir-i Khosro's beretning om Jerusalem i Safarnameh,
'Rejsedagbog',"
E. Keck, S. Sondergaard & E. Wulff eds., Living Waters: Scandinavian
Orientalistic Studies, Presented to Frede Lokkegard on His Seventyfifth
Birthday, January 27th 1990, Kopenhagen, 1990, pp. 129-146.
3. 関係年表
969:ファーティマ朝がエジプト征服。新首都カイロを建設開始
977:ガズナ朝成立
1003-4:マルヴ近郊のクバーズィヤーンに生まれる
1010:フィルダウスィーが『王書』を著す
1038:トゥグリル・ベグらがニーシャープールに入城。セルジューク朝の成立
1040:セルジューク朝がダンダーナカーンの戦いでガズナ朝軍を撃破し、ホラーサーンの支配を確立
1045〜52:『旅行記』に描かれるおよそ7年間の旅に出る
1052:旅から帰還。ホラーサーンでの教宣活動を開始する
この頃、マーザンダラーン(あるいはトハーリスターン)における教宣活動
1061-2:以前バダフシャーンのユムガーンに移る
1061-2:『旅人の糧』執筆
1070 :ユムガーンの庇護者に『二叡智の集合』を献じる
1072〜77, 1088-9:ユムガーンにおいて没する
(長峯博之)
・ 底本にはNasir Khusraw, Safarnamah, M. Dabirsiyaqi ed., 5th ed., Tehran: Zuwwar, 1373Kh.を用い、訳出に際しては解題で*印を付した諸訳を適宜参照した。
・ 註釈においては、大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店, 2002に大いに依拠し、同辞典に記されている内容に関しては特に出典を表示しなかった。
・ ヒジュラ暦の西暦換算にはチューリヒ大学東洋学研究所のウェブサイト(http://www.ori.unizh.ch/hegira.html)を利用した。原文で曜日が併記されている日付の換算に当たっては、原文の曜日と換算結果の曜日が一致した場合には曜日を省き、一致しなかった場合にのみ明記した。
・ ヤズドギルド暦の換算には、以下の方法を用いた。まず、ヒジュラ暦と併記されている日付について、その西暦での日付を得た。次いで、そうして得られた西暦による日付の間の日数を数え、それと原文のヤズドギルド暦による日付表示の間に矛盾がないことを確認した。最後に、こうして得られたヤズドギルド暦と西暦の対応表にもとづき、ヒジュラ暦の併記がない日付の換算を行った。以上のような経緯から、ヒジュラ暦と併記されている日付については、換算結果を改めて表示していない。
・ ペルシア語、アラビア語のローマ字、カタカナ転写に際しては、『岩波イスラーム辞典』の方式に若干の変更(ペルシア語のローマ字転写において黙音のhを表記することや、ワーウを表すためのvのwへの変更など)を加えたものを採用した。ただし、地名などで慣用的な表記が一般的になっているものは適宜それを採用した。
・ 註釈で用いる略号EI2はEncyclopaedia of Islam, new edition, Leiden: E.J. Brill, 1954-を、EIrは、E. Yarshater ed., Encyclopaedia Iranica, London & Boston: Routledge & Kegan Paul Intl., 1982-を指す。
・ [ ]内の語句は文意の理解を助けるために訳者が付したものである。
・ クルアーンの章句は[Q章番号: 節番号]で表した。章・節の番号は標準エジプト版によっている。また、クルアーンの章句の訳出に際しては、井筒俊彦訳『コーラン』3巻, 岩波文庫, 1964を参考にした。
慈悲深く慈愛あまねき神の御名において
ナースィレ・フスラウ――神が彼[の罪]をお見のがし下さいますように――は、かく語る。私は書記をなりわいとする男で、スルターンの財産や業務を管轄する者たちの一人であった。官庁の様々な仕事にたずさわっていた。しばらくの間その職業に従事して、朋輩のあいだで名声を得ていた。
437年ラビーウ・アーヒラ月(1045年10月16日〜11月13日)、当時ホラーサーンのアミールはチャグリー・ベグであったが、私はマルヴから官庁の仕事のために出立した。そして、マルヴッルードのパンジュ・ディーフに逗留した。まさにその日、昇交点と木星との合があった 。その日は、神――崇高にして神聖たれ――があらゆる望みを認めるといわれている。私は片隅に行き、2ラクア の礼拝をし、神――称えられ崇高たれ――に、「私に真の富を与えたまうように」と祈った。仲間のもとに戻ると、一人がペルシア語の詩をそらんじていた。彼にそれを詠んでくれるように頼もうと、ある詩が私の心に浮かんだ。「この詩を詠んでくれ」と彼に渡すため、紙に書きつけた。すると、まだ彼に渡しもしないのに、彼はまさにその詩をそのまま[詠み]始めた。私はそれを吉兆とみなし、「神――称えられ崇高たれ――が私の望みを認めなさった」と思った。
その後、私はそこからジョウズジャーナーンに行った。一ヶ月近くそこにいたが、ぶどう酒を絶えず飲んでいた。預言者――神よ彼に祝福と平安を与えたまえ――は「真実を語りなさい。たとえあなたたち自身についてであっても」と仰せになっている。
ある夜、夢の中で私に語りかけるものがあった。「叡知を人々から消し去るこのぶどう酒をどれほど飲むのか。知性を保っている方が、より良いであろうに。」 私は答えた。「賢者たちは、これ以外に浮世の悲しみを減らすことができるものを作ることができなかったのだ。」彼は答えた。「忘我と知性の亡失には何の安楽もない。人々を知性の亡失へと導く者を賢者と呼ぶことはできない。そうではなくて、叡知と知性を増すような何かを求めなければならない。」私は言った。「私はそれをどこから手に入れようか。」彼は言った。「求めれば得られるであろう。」そしてキブラ の方向を指し示し、他にはなにも言わなかった。
目が覚めると、そのことはすべて私の記憶にあり、私の心を打った。私は「昨夜の夢から覚めた。今、四十年の夢からも覚めなければならない」と考えた。私は、自分の行為と行動をすべて変えない限り救いは得られないと思った。
437年ジュマーダー・アーヒラ月6日木曜日(1045年12月19日)、ペルシア人のダイ月の半ば、年はヤズドギルド暦414年に、私は身を浄め、集会モスク へ行って礼拝し、私が、神――偉大にして崇高たれ――が命ぜられたごとくに、義務を行い、禁じられたことと不適当なことから手を留め置くことができるように、神――称えられ崇高たれ――に助けを乞うた。その後そこからシャブールガーンに行き、その夜はバールヤーブの村で過ごした。そこからサマンガーンとターリカーンを通って、マルヴッルードへと行った。それからマルヴへ行き、私が引き受けていた職務を解いてくれるよう願い、私にキブラへの旅をする意志があることを告げた。その後、貸し借りの精算を行い 、ほんの少しの必要なものを除いて持てる限りの浮世のものを捨てた。シャアバーン月23日(1046年3月5日)にニーシャープールを目指して出発し、マルヴからサラフスへいたった。それは30ファルサング の道のりである。また、そこからニーシャープールへは40ファルサングである。
シャウワール月11日土曜日(1046年5月3日)、私はニーシャープールに着いた。この月末の木曜日 に蝕 があった。時の支配者は、チャグリー・ベグの兄弟トゥグリル・ベグ・ムハンマドであった 。彼は鞍具工の市場の近くにマドラサ の建築を命じており、人々はそれを建てていた。彼自身は領土獲得のため、初めてイスファハーン[遠征]に行っていた 。ズー・アル=カアダ月2日(1046年5月11日)、私はニーシャープールからスルターンの宰相であるハージャ、ムワッファク とともに出発し、カワーンを経由してクーミスに到着した。そして、シャイフ・バーヤズィード・バスターミー ――神が彼の魂を聖なるものとしたまいますように――の墓を詣でた。
ズー・アル=カアダ月8日金曜日(1046年5月17日土曜日)、私はそこからダームガーンに行った。437年ズー・アル=ヒッジャ月1日(1046年6月9日)、アーブフリーとチャーシュトハーラーンを経由して、セムナーンに着いた。私はそこにしばらくの間滞在し、学のある者を探した。アリー・ナサーイー師と呼ばれる男が示されたので、私は彼を訪れた。彼は若い男で、ダイラム人の話すようなペルシア語を話していて 、蓬髪で、彼のそばには人が集まっていた 。ユークリッドを読んでいる者たちもいれば、医学を学んでいる者たちも算術を学んでいる者たちもいた。彼は話の合間に「私はアブー・アリー・スィーナー師 ――彼に神のお慈悲がありますように――からこのように学び、彼からこのように聞いた」と言っていた。彼の目的はまさに、彼がアブー・アリー・スィーナーの弟子であることを私が知ることであった。私が彼らと議論を始めると、彼は、「私は軍事に関することは知っている。算術を学びたいと思う」と言った 。私は驚いて、退出し、「何も知らないのに、何を他人に教えるのだろうか」と思った。
私はバルフからレイまで350ファルサングと計算した。また、レイからサーヴェまでは30ファルサング、サーヴェからハマダ−ンまでは30ファルサング、レイからイスファハーンまでは50ファルサング、アーモルまでは30ファルサングあるという。レイとアーモルのあいだにはドームのようにダマーヴァンド山があり、人々はそれをラワーサーンという 。その山の頂上には井戸があり、そこから塩化アンモニウムがとれるという。また、硫黄もとれるという。人々は牛皮を持っていき、塩化アンモニウムでいっぱいにし、道をおろすことができないので山頂から転がす。
438年ムハッラム月5日(1046年7月12日)、ペルシア人の暦では415年ムルダ−ド月10日、私はカズウィーンの方へ出発し、クーハの村に着いた。そこは飢饉の最中であり、大麦パン1マン が2ディルハム で売られていた。そこから出て、ムハッラム月9日(1046年7月16日)、カズウィーンに着いた。果樹園がたくさんあったが、それらは塀も茨垣ももたず、入るのに何の障害もなかった。私はカズウィーンを良い町であると思った。町は堅固な壁をもち、胸壁がその上にあり、市場も良かった。しかし、そこの水は少なくて地下のカーリーズ に限られていた。その町の長はアリー家の人であった 。また、その都市のすべての職人のうち靴職人が最多であった。
438年ムハッラム月12日(1046年7月19日)、私はカズウィーンを去り、カズウィーンのルースターク であるビールとカパーンの方へ向かった。そこからハルザウィールと呼ばれる村へ、私と私の兄弟と、私たちと共にいたインド人奴隷の少年で到着した。私たちはわずかな食糧しか持っていなかった。私の兄弟は食料品屋から何か買うために村へ入った。「何が欲しい。食料品屋は私だが」と声をかける者がいた。[私の兄弟は]言った。「何でもかまわない。私たちはよそ者で、旅の途中だから。」[しかし、私の兄弟が]食べ物の名をどんなに挙げても、[その人物は]「持っていない」と言った。その後、どこでもこのような話しをする者がいると、私は「ハルザウィールの食料品屋だ」と言っていた。そこを出ると急な下り坂があった。3ファルサング行くと、ターラムの税区である村があり、バラズ・アル=ハイル と呼ばれていた。暖かい所で、ざくろとイチジクの木がたくさんあって、大部分は野生であった。そして私はそこから去った。シャーフルードと呼ばれる川があった。その川のほとりには村があり、ハンダーンと呼ばれていて、大アミール ――彼はダイラム人の王の一人である――のために通行税 が徴収されていた。その川はこの村を通過すると、セピードルードと呼ばれる別の川に合流し、二つの川は一緒になると、ギーラーンの山の東方にある谷に下っていく。そしてこの川はギーラーンに流れカスピ海へとたどりつく。千四百の川がカスピ海に注いでいるといわれている。また、カスピ海の周囲は1200ファルサングといわれていて、その中には島々が存在し、そこには人々が多く住んでいるという。私はそのことを多くの人々から聞かされた。さて、ここで[旅の]話に戻ろう。
ハンダーンからシャミーラーンまでは3ファルサングの小さな荒地であり、石ばかりである。それ[=シャミーラーン]は、ターラム地方≠フ中心都市である。その町のわきには、岩に基礎を据えた高い城砦があり、その周りには三つの壁がめぐらされている。川から水を引き入れ城砦へと導くために、カーリーズが城砦の真ん中に掘り下げられ、川のほとりまでつづいている。その地方の有力な家柄の者たちのうち千人の男たちが、誰も犯罪や反乱を起こすことができないようにするために、その城砦に駐屯している。また、その[=この地の]アミールはダイラム地方の中に多くの城砦を持っており、全き公正さと安全があるといわれている。それは、彼の領土ではどんな者も他人から何をも奪うことができず、金曜モスクに行く人はみな、靴をモスクの外に置くが、誰もその人たちの靴を盗むことがないほどであるという。このアミールは、自分の名前を、文書に「ダイラムのマルズバーン、ジール人の中のジール人、アブー・サーリフ、信徒たちの長のマウラー」 と書く。彼の名はジュスターネ・イブラーヒーム である。
シャミーラーンで私はあるすばらしい男に出会った。彼はダルバンド出身で、その名前は、哲学者、アブー・アル=ファドル・ハリーファ・イブン・アリーであった。彼は有能な人で、我々にさまざまな寛大さを示した。我々は討論をし、我々のあいだに友情が芽生えた。彼は私に「どんな計画ですか」と尋ねた。私が「キブラの旅をするつもりです」と言うと、彼は「帰りにぜひここを通りなさい。また会いましょう」と言った。
ムハッラム月26日(1046年8月2日)、私はシャミーラーンを出発した。サファル月14日(1046年8月20日)、サラーブの町に着いた。そしてサファル月16日(1046年8月22日)、私はサラーブの町を出発し、サイーダーバードを通り、438年サファル月20日(1046年8月26日)、昔のシャフリーワル月25日、タブリーズの町に到着した。その町はアゼルバイジャンの中心都市で繁栄している。その縦横を足で測ると、ともに1400歩ずつであった。アゼルバイジャン地方の王はフトバにおいて、「至大なるアミール、王朝の剣、宗教共同体の名誉、アブー・マンスール・ワフスーダーン・イブン・ムハンマド、信徒の長のマウラー」と呼ばれていた 。
私に語られたところによると、434年ラビーウ・アウワル月17日木曜日(1042年11月4日)の前夜、この町に地震が起きた。それは閏日 のことであり、夜の礼拝のあとのことであった。町では崩れてしまっているところもあり、被害にあっていないところもあった。四万の人々が亡くなったという。
タブリーズにおいて、私はカトラーン という名の詩人に会った。彼はすぐれた詩を詠んでいたが、ペルシア語をよく知らなかった 。彼は私を訪ねてきた。モンジークの詩集とダキーキーの詩集を持ってきて、私の前で読んだ。彼は、難しくて理解できなかったところをすべて私に尋ねた。私は彼に教え、彼はその説明を書きとめ、自分の詩を私に詠んだ。
ラビーウ・アウワル月14日(1046年9月18日)、私たちはタブリーズを出発し、マランドを経由して、アミール、ワフスーダーンの軍隊とともにホイまで行った。そこから使節とともにバルクリーまで行った。ホイからバルクリーまでは30ファルサングである。ジュマーダー・ウーラー月12日(1046年11月14日)、私たちはそこに到着した。そこから私たちはヴァンとワスターンに着いた。そこの市場では、豚肉が羊肉と同様に売られていた。そこでは女も男も慎むことなく腰掛けの上に座り、ぶどう酒を飲んでいた。そこから私たちはアフラートの町に到着した。ジュマーダー・ウーラー月18日(1046年11月20日)であった。この町はムスリムとアルメニア人の境であり、バルクリーからここまでは19ファルサングである。そこにはアミールがいて、ナスルッダウラと呼ばれていた。彼の年齢は百歳をこえ、多くの息子たちがいて、それぞれに領土を与えていた 。
このアフラートの町ではアラビア語、ペルシア語、アルメニア語の三つの言語が話されている。「アフラート」がこの町の名前になっているのはこの理由によると私は考えている 。そこでの取引は銅貨で行われており、彼らの1ラトル は300ディルハムに相当する。
ジュマーダー・ウーラー月20日(1046年11月22日)、私たちはそこから出発し、あるリバート に到着した。たいへんな雪で、非常に寒かった。町の手前の平原では、道の一部で地面に木の棒が立てられていた。雪や吹雪の日に、人々がそれを目印にこの道を移動できるようにするためであった。
そこから私たちは、ビトリースの町に到着した。それは谷の中に位置していた。そこで私たちは蜂蜜を買った。私たちが買った時の値段では、100マンで1ディーナール であった。この町では、1年に皮袋 で三百ないし四百袋分の蜂蜜をとる者がいると聞いた。
私たちはそこを発ち、キフ・ウンズル、すなわち「止まれ、見よ」と呼ばれる城砦を見た 。そこを通過してから、ある場所に到着した。そこには、ウワイス・カラニー ――神が彼の魂を聖なるものとしたまいますように――が造ったといわれるモスクがあった。私はその付近で、山を歩きまわっては糸杉のような木を切っている人々を見た。「これをどうするのか」と私は尋ねた。彼らは、「私たちはこの木の一方の端を火にくべる。すると、もう一方の端から滴がしたたり落ちてくる。すべてを穴に集め、そこから容器に集める。そして色々な所に運んでいく」と言った。
アフラートのあとで、ここでは要約しながら述べたこれらの諸地方は、マイヤーファーリキーンの税区である。
そこからアルザンの町へ行った。繁栄している良い町で、流れる水、果樹園、良い市場があった。そこでは、ペルシア人たちのアーザル月には、200マンのぶどうが1ディーナールで売られており、それは「アルマーヌーシュ のぶどう」と呼ばれていた。そこから私たちはマイヤーファーリキーンに到着した。アフラートの町からマイヤーファーリキーンまで28ファルサングであった。バルフからマイヤーファーリキーンまで、私たちが通った経路では、552ファルサングであった。そして時は、438年ジュマーダー・ウーラー月26日金曜日(1046年11月28日)であった。その時まだ木々の葉は緑であった。[マイヤーファーリキーンの町は、]500マンほどの白い石で築かれた立派な壁をもっていた。そして、やはり今述べたこの白い石からなる立派な塔が、50ガズ ごとに建てられていた。壁の頂には全面に胸壁が配置され、あたかも今日親方が仕事を終えたかのようであった。この町には西方に門が一つある。それは石造りのアーチを有する立派な門で、木材を使っていない鉄の扉が据えられている。また金曜モスクがあるが、それは、その描写をしたならば本が長くなってしまうであろうほど素晴らしいものである。もっとも著者は、きわめて詳細な解説を書いているのだが 。例をあげるならば、そのモスクの便所 は四十の部屋を備えている。二つの大きな水路がすべての部屋をめぐっている。一つの水路は表に出ていて、利用される。もう一つは地下に隠されており、汚物を流し、穴をきれいにする。城内区の外の城外区 には、隊商宿や市場があり、浴場や、そこでも金曜日に礼拝が行われるもう一つの集会モスクがある。そして、北の方には新街区と呼ばれる、別の壁[に囲まれた地区]があり、これまたよく整えられた市場や集会モスク、浴場がある一つの町である。
その地方のスルターンはフトバで「至大なるアミール、イスラームの力、信仰の僥倖、王朝の助け手、宗教共同体の名誉、アブー・ナスル・アフマド」と呼ばれる 。彼は百歳の男である。少なくとも私はそう聞いた。そこでの1ラトルは480ディルハムの重さである。このアミールはマイヤーファーリキーンから4ファルサングの所に町を作り、それをナスリーヤと名づけた。アーミドからマイヤーファーリキーンまでは9ファルサングである。
昔のダイ月の6日(1046年12月11日)に私たちはアーミドの町に到着した。その町の礎は、一枚岩に置かれていた。町の長さは、測ると2000歩であり、幅も同様である。それの周りには、黒い石で壁がめぐらされている。その石は、100マンから1000マンの大きさに四角く切られたもの である。この石の正面はお互いにぴったりと合わせられており、土や漆喰はまったく使われていない。壁の高さは20アラシュ であり、幅は10アラシュである。100ガズごとに塔が建ててあり、その円周の半分は80ガズである。胸壁もまたこの石からできている。壁の上に行くことができるように、町の内部から、多くの場所に石造りの階段が取りつけられている。それぞれの塔の上には戦うための場所が造られている。この城内区には四つの門があり、すべて鉄製であって木は使われていない。それぞれが世界の四つの方角の一つに向いていて、東門はティグリス門、西門はルーム門、北門はアルメニア門、南門は丘の門と呼ばれている。この壁の外にはもう一つの壁があり、これもまた件の石からできている。それの高さは10ガズで、壁の頂上には全面に胸壁があり、胸壁の内側には通路が造られていて、完全武装の人が容易に通り、立ち止まり、戦うことができるようになっている。この外側の壁にも鉄製の門が、内側の諸門とはずらして設置されている。そのため、最初の壁の門から入っても、第二の壁の門へ達するまでに、防塁の中を一定の距離進まなければならない。防塁の幅は15ガズである。町の中には泉があり、岩≠ゥら出ており、五つの石臼を回す水量をもつ。極めて良い水であるが、誰もそれがどこから来るのか知らない。この町にはその水でつくられた果樹園がある。この町のアミールと統治者は、前述のナスルッダウラの息子である。私は、世界の色々な所で、つまりアラブ人、アジャムの人々 、インド人、トルコ人の国々において町や砦をとても多く見たが、これほどの威容を誇るアーミドの町のような町はどこでも見たことがない。また人が「このような別の場所を見た」と言うのを聞いたこともない。
集会モスクもまたこの黒い石で造られていて、これよりも整っていて堅固なものはありえないかのようだ。モスクの中には二百余りの石の柱が建てられていて、すべての柱は一個の岩でできている。柱の上には全体が石でできたアーチが架けられている。そして、アーチの上にさらに柱が建てられており、それは下の柱よりも短い。こうして、大きいアーチの上には、アーチがもう一列建てられている。このモスクの屋根はすべて切妻屋根で覆われており、全面に見事な大工仕事がなされ、彫刻がほどこされ、模様がつくられ、金が塗られている。モスクの中庭には大きな岩が置かれている。非常に大きく、円形で石造りの水槽がその岩の上に作られており、その高さは男性の身長ほどで、その周囲は10ガズである。水槽の中央からは真鍮製の管が出ていて、そこからは澄んだ水が噴出している。それで、この水がどこから水槽に入りどこから出るかはわからないようになっている。非常に大きく、この上なく素晴らしく造られた沐浴場もある。ただし、マイヤーファーリキーンの石は白いのに対して、建物に用いられているアーミドの石はすべて黒い。モスクの近くにはとても豪華な教会があり、同じく石から造られている。教会の床は大理石張りで模様がつくられている。教会のドームはキリスト教徒の祈りの場所であるが、私はそこで格子のほどこされた鉄製の扉を見た。私は、どんな場所でもあのような扉を見たことがなかった。
アーミドの町からハッラーンまでは二つの道がある。一つはまったくひらけておらず40ファルサングある。もう一つの道はひらけていて多くの村がそこにあり、その住民の多くはキリスト教徒である。それは60ファルサングである。私たちは隊商とともにひらけている方の道を行った。とても平坦な荒野であったが、駄獣が石のないところに脚を下ろすことができないほど石があった。
438年ジュマーダー・アーヒラ月25日金曜日(1046年12月27日土曜日)、私たちはハッラーンに到着した。ダイ月の22日であった。そのときのそこの気候はちょうどホラーサーンのノウルーズの気候と同じくらいであった 。そこから出てカルール という名の町に着いた。寛大な人が私たちを自分の家に招いてくれた。彼の家に入ると遊牧民のアラブ人が入ってきて私に近づいてきた。六十歳であった。彼は「私にクルアーンを教えてくれないか」と言った。私は彼に「言え、『おすが縋り申す、人間の主に』」[Q114:1]を教え、彼は私について暗誦した。「ジン妖霊からも人々からも」[Q114:6]と私が言うと、彼は「『人々を見たか』も言おうか」と言った。それで私はこう言ってやった。「この章にはこれより先はない。」それから彼は言った。「『薪の運び手』の章はどれだろう。」[神は]「腐ってしまえ」[Q111:1]の章で「薪の運び手」ではなく「薪の担い手」[Q111:4]と仰っていることを彼は知らなかったのだ。その晩に私は繰り返し彼に教えたが、彼は「言え、『おすが縋り申す、人間の主に』」の章を覚えることができなかった。六十歳のアラブの男は 。
438年ラジャブ月3日土曜日(1047年1月3日)、私たちはサルージュに来た。二日目にユーフラテス川を渡ってマンビジュに着いた。シリアの町々の中での最初の町である。昔のバフマン月1日(1047年1月5日)であったが、そこの気候はとても快適であった。町の外には建物は一切なかった。そこからアレッポの町へと行った。マイヤーファーリキーンからアレッポまで100ファルサングである。
私はアレッポを良い町だと思った。立派な壁をもち、私はその高さを25アラシュと推測した。立派な砦があり、それは全体が岩の上に置かれている。[アレッポの町は]推測するところ、バルフと同じくらいの大きさであり、町中が栄えていて、建物は互いに接して建てられている。またこの町は、シリア、ルーム、ディヤールバクル、エジプト、イラクの諸国のあいだにあり、通行税が徴収されている。これらの諸国すべてから商人たちがそこを訪れる。四つの門がある。すなわち、ユダヤ教徒の門、神の門、庭園の門、アンティオキアの門である。そこの市場の重量単位であるザーヒリー・ラトル は、480ディルハムに相当する。
そこから南へ20ファルサング行くとハマーがあり、その後ホムスがあり、ダマスクスまではアレッポから50ファルサングである。アレッポからアンティオキアまでは12ファルサングあり、トリポリの町へも同じくらいである。コンスタンティノープルまでは200ファルサングであるという。ラジャブ月11日(1047年1月11日)、私たちはアレッポの町を去った。3ファルサングでジュンド・キンナスリーンと呼ばれる村に着いた。翌日、6ファルサング行くと、サルミーンの町に到着した。壁はなかった。もう6ファルサング行くと、マアッラ・アン=ヌウマーンがあった。石造りの壁をもち、繁栄した町であった。私は町の門の上に石の円柱を見た。それにはアラビア文字とは異なる文字で何かが書かれていた。私は「これは何ですか」と人に尋ねた。その人は「蠍よけのお守りです。この町に蠍がいたり、来たりしないように。もし誰かが外から持ち込んで放しても、逃げ出して、町にいつづけないようにするのです」と言った。私はその柱の高さを10アラシュと推測した。市場はたいへん賑わっていた。町の金曜モスクは町の中央にある丘の上に建てられている。それで、どの側からモスクへ入ろうとしても、13段登らなければならない。彼らの耕作物はすべて小麦で、豊富である。イチジク、オリーブ、ピスタチオ、アーモンド、ぶどうの木が多い。町の水は雨と井戸とによっている。
その町には、アブー・アル-=アラー・マアッリーと呼ばれる人物がおり、彼は盲目であった 。町の長は彼であった。彼は多くの財産と下僕と使用人をもっており、町の住人全体が彼の下僕であるかのようであった。しかし彼自身は禁欲の道をとっていた。粗衣を身に纏って家にこもり、半マンの大麦パンを自分に割り当て、(彼は一昼夜一塊のパンで満足する) それ以外は何も口にしない。そして私が聞いたところによると、彼の屋敷の門は開かれており、意見が彼に求められるような重大事を除いては、彼の代理人たちと従者たちが町の業務を行っている。彼は、自分の財産を誰に対しても惜しまず、自身は継続的な断食を行い、夜の間中ずっと眠らずにいる。そして浮世のどのような仕事にも従事しない。また、この人物は詩や文学ということに関しては、シリア、マグリブ、イラクの有識者たちが、彼に比肩する者はこれまでにいなかったし、今もいないと認めるほどである。彼は『文節と末端』という名の本を著した 。その本では謎めいたお話や、正しくかつ奇想天外な言葉で書かれたたとえ話を書いたので、僅かな部分を除いて人々はそれを理解できず、彼にそれを学ぶ人々もまた同様であった。その結果彼に対し、「お前はクルアーンに対抗しようとしてこの本を作った」という嫌疑がかけられた。彼のもとでは、常に色々な所からきた二百人以上の人々が文学や詩を学んでいる。そして私は、彼には十万以上の詩行があるときいた。ある人が彼に「神――称えられて崇高たれ――はこれほどの富や財産をあなたにお与えになった。なぜ人々に与えてしまい、自分では食べないのか」と尋ねた。彼は「自分が食べる以上のものは[もともと]私のものではない」と答えた。私がそこに到着した時、この人物はまだ生きていた。
438年ラジャブ月15日(1047年1月15日)、私たちはそこからクーイマート に行き、そこからハマーの町に行った。アースィー 川の岸辺にある、栄えた良い町である。その川はルームの方向へ流れていくのでアースィーと呼ばれている。イスラームの国から無信仰の国へと流れるので反逆者なのである。この川には多くの水車が作られている。
そこから先、道は二つに分かれている。一つは海岸、すなわちシリア西部の方に向かい、もう一つは南に向かい、ダマスクスへといたる。私たちは海岸の道を行った。山の中で私は泉を見た。人々が語るところによれば、毎年シャアバーン月半ばを過ぎるとそこから水が流れ出し、三日間流れ、その三日の後には次の年まで一滴も流れなくなる。人々はそこに詣で、神――偉大にして崇高たれ――に近づこうとする。そこには建物と水場が造られている。
そこを過ぎると私たちは野原に着いたが、そこには一面に水仙の花が咲いていて、あまりの水仙の多さに、その野原全体が白く見えるほどであった。私たちはそこから出発し、イルカと呼ばれる町に到着した。イルカから2ファルサング行くと、海岸に到着した。そして海岸沿いに南の方角に5ファルサング行き、我々はトリポリの町に到着した。アレッポからトリポリまで、私たちが通った道で40ファルサングであった。
シャアバーン月5日火曜日 (1047年2月4日)、私たちはそこに到着した。町の周囲はすべて耕作地と果樹園であり、サトウキビと、だいだい、シトロン、バナナ、レモン、ナツメヤシの木々がたくさんあった。ちょうどサトウキビの糖蜜がとられていた。トリポリの町は、その三方が海水に面するように造られているので、海水が波打つと、波が町の壁をせり上がる 。陸地に面している一方には大きな堀がつくられ、堅固な鉄門が置かれている。壁の東側は削られた石でできており、胸壁も戦うための場所も同様である。投石器が壁の頂に置かれている。彼らが恐れるのは、船でそこを襲撃するルームの人々である。町の大きさは1000アラシュ四方であり、すべて[の建物は]四、五階建てであり、また六階建てもある。街路と市場は素晴らしく、きれいで、あたかもそれぞれが贅を尽くした宮殿のようである。私がアジャムの地で見たことのある食材、果物、食料品はすべてそこにあった。それどころか比べ物にならないほど豊富であった。町の中央には、とてもきれいで、素晴らしく装飾され、しっかりした造りの金曜モスクがある。モスクの中庭には大きなドームが造られ、ドームの下には大理石でできた水槽があり、その中央には真鍮製の噴水管が出ている。その基部 には水汲み場が造られ、5本の管から水がたくさん出ている。人々は[水を]汲み、残りは地面へと流れ、海へといたる。人々が語ったところによると、この町には二万人の男性がおり、周辺には農業地帯が広がり、多くのルースタークがある。そこでは、サマルカンド紙のような、いや、より素晴らしい紙が作られている。この町はエジプトのスルターンに属していた 。人々が語ったところによると、ルームの無信仰者たちの軍隊がやって来ていたとき、この[=トリポリの]ムスリムたちはその軍隊と戦い、それを打ち破ったので、エジプトのスルターンはこの町のハラージュ を免じた。そこには常に、スルターンに属する、一人の司令官に率いられた軍隊が、町を敵から守るために駐屯している。そこには通行税徴収所があり、ルーム、フランク、アンダルス、マグリブの諸方面から来る船が、ウシュル をスルターンに支払う。軍隊の俸給はそれで賄われている。スルターンはそこに船を持っており、それらはルーム、シチリア、マグリブに行き、交易をする。この町の人々はみなシーア派である。シーア派の人々はどこででも素晴らしいモスクを建てている。そこではリバートのような建物が建てられているが、誰もそこに逗留しない。それらはマシュハド と呼ばれている。トリポリの町の外には、このような二、三のマシュハド以外には、何の建物もない。
その後、私はこの町からそのまま海沿いに南へ向かった。1ファルサングのところで、カラムーンと呼ばれる砦を見た。泉がその内部にあった。そこからタラーブルズンの町へ行った。トリポリからそこまで5ファルサングであった。そして、そこから私たちはジュバイルの町に到着した。それは三角形の町であり、その角の一つが海に面している。その周囲にはとても高く堅固な壁がめぐらされている。町の周囲はすべてナツメヤシの木々やその他の暖かい地方の木々である。咲いたばかりの赤と白の薔薇を手に持った子供を見た。その日はアジャムの暦で415年の、昔のイスファンダールマド月5日(1047年2月8日)であった。そこから私たちはベイルートの町に到着した。石造りのアーチを見たが、それは、道がその中央を通るようなものであった。そのアーチの高さを50ガズと推測した。そのどの面にも白い石の板が積み上げられており、それぞれの石は1000マン以上であった。この建築物は煉瓦によって20ガズ持ち上げられている。その頂には大理石の円柱が建てられ、それぞれ8ガズ[の高さ]で、太く、二人の男が一緒になってようやく腕がまわるほどである。これらの柱の頂にはアーチが二方向に架けられていた。すべて正確に加工された石で作られており、いかなる漆喰も土もそのあいだには詰められていない。それから、それらのアーチの上に大きなアーチが、中央に建てられており、高さ50アラシュである。このアーチに使われている石の板一枚一枚が、長さは8アラシュ、幅は4アラシュと推測された。そのそれぞれが[重さ]約7000マンと見積もられる。これらの石すべてに素晴らしい彫刻、意匠がほどこされており、それは木材においてもこれほど素晴らしいものが作られるのはまれなほどである 。
このアーチを除き、その周囲に他の建物はのこっていない。私は、「ここは何の場所ですか」と尋ねた。人々は、「これはファラオの庭園の門であったもので、とても古いものと聞いています」と言った。その地区の原っぱのあたり一面に大理石の柱、柱頭、基部があり、すべて円形、四角形、六角形、八角形の彫刻がほどこされた大理石でできている。石は、鉄が刃が立たないほど、とても頑丈であった。そして、その周囲には、そこから[石が]切り出されたと考えられるようなどんな山もなかった。別の石もあって、練り物のように見えた。[前述の]他の石と同じように鉄より硬かった 。
シリアの諸地方には、五十万以上の、柱もしくは柱頭・基部があり、それが何であったのか、あるいはどこからもたらされたものであるのか、誰も知らない。
その後、私たちは、同じく海に面しているサイダーの町に到着した。サトウキビが多く栽培されていた。堅固な石の壁、三つの門と立派な金曜モスクがある。[そのモスクは]とても安らいだ場所で、モスク全体に、模様の入ったむしろが敷きつめられていた。良く飾られた市場があり、私がそれを見た時に、スルターンの御幸のために町を飾っているのか、あるいは吉報が届いたのかと思ったほどである。[しかし]私が質問すると、人々は「この町では、いつもこうなのです」と言った。この町の果樹園は、あたかも王が情熱を傾けて庭園を造り、そこに宮殿を建てたかのようであった。木々の多くはよく実を結んでいた。
そこから5ファルサング行き、私たちはスールの町に到着した。海岸にある町であった。一人の長老がおり、そこにその町を建てた 。町の壁は、陸地に面する部分は100ガズしかなく、残りは海水の中であった。壁は削られた石でできており、その合わせ目は海水が入らないように瀝青でふさがれていた。町の大きさを、1000[歩?/アラシュ?]四方と推測した。[建物は]すべて五、六階建てで、互いに接している。多くの噴水が作られている。素晴らしい市場があり、物が豊かであった。この町スールは、シリアの沿岸の町々のなかでも富裕さで知られている。住民の多くはシーア派である。
そこにいたあるカーディー は、スンナ派の人物で、アブー・アキールの息子と呼ばれていた。美しい容貌で富裕な男であった。町の外にマシュハドが建てられており、そこには多くの敷物、金銀のランプ、燭台が置かれていた。
町は高みに位置しており、水は山から引かれている。町の外に一連の石のアーチ[=水道橋]が架けられており、水はそのアーチの上を通って町に引かれている。その山には町の向かいに谷があり、東方に向かうと、18ファルサングでダマスクスにいたる。私たちはそこから7ファルサング行き、「マディーナ・アッカー」とも書かれるアッカの町に到着した。
(つづく)