ナースィレ・フスラウ著『旅行記』訳註(II)

          森本一夫監訳、北海道大学ペルシア語史料研究会訳


※以下は、『史朋』36 (2003). 24-47に掲載された訳註 (II) の本文です。註釈と本文中の転写は略してあるのでご注意下さい(ただし、(II)には省略すると意味が通じなくなる転写があり、それは略していません)。また、その他にも適宜変更が加えてあり、かならずしも雑誌掲載分そのままではないことをご了解ください。引用なさる際には必ず『史朋』を参照し、そちらにもとづいていただけるようお願いします。

※『史朋』の当該号は北海道大学東洋史談話会によって、随時販売されています。1,500円だそうです。入手に関しては、こちらをご覧ください。

※訳註本文の当サイト掲載を快諾して下さった『史朋』編集委員会に感謝いたします。


監訳者序

アッカ

タバリーヤ

ラムラ

エルサレム

エルサレム(岩のドーム)

最初の巡礼

ティンニース


監訳者序


 以下に訳出するのは、ナースィレ・フスラウ『旅行記』のうち、前号掲載の訳註 I に続く、量にして全体の1/4ほどに当たる部分である。訳註の作業が進むにつれてナースィルの語りも佳境に入ってきた。今回掲載分では、エルサレムを詳しく描写した後、ついにカイロに到着する。

 今回掲載分の下訳を作成した輪読会参加者は、今野毅、長峯博之、亀谷学、野宮恵子、宮腰祥子、伊藤玄、岡本和也、山畑倫志、工藤健、井上あいの、大渕裕美、黒田賢治、中門英生、山下文平、渡邉郁恵である。もちろん森本も訳文のチェックを一緒に行った。

 輪読会の運営と公刊用原稿作成の両面において今回も中心的な役割を担ったのは、長峯博之であった。連載二回目ということもあり、今回は下訳を直す段階から様々な作業を効率化することができた。しかし、長峯の貢献にはなお多大なものがあったことを特記しておきたい。

 訳註(I を発表してから後、多くの方々から励ましの言葉をいただき、また教えを受けた。厚くお礼申し上げたい。また、そのような教えを今回の訳註に活かすことができていればと念願する次第である。

 そのような教えのうち、特に次の点はここに記し、読者と共有する必要があるであろう。「凡例」に関することである。この訳註では、テクスト中に見られる人名がそのままカナ転写するには長すぎると思われた際には、適宜簡略化した形をカナ転写した上で括弧を開き、そこにテクストの記述をそのままローマ字転写している(ただし、ローマ字転写は初出時のみ)。この方式を「訳注(I)」の「凡例」に記していなかったのは手落ちであった。ここで追加させていただきたい。

 なお、註で典拠を表示するに当たり、「訳註(
I)」で利用した文献については改めて書誌を示すことをしなかった。紙数の関係で不便をお願いすることになるが、ご理解いただきたい。また今回掲載分の訳註作成にあたっては、訳註(I)の「解題」で述べた先行の諸訳に加えてA.R. Fuller tr., "An Account of Jerusalem Translated for the Late Sir H.M. Elliot from Persian Text of Nasir ibn Khusru's Safarnamah," Journal of the Royal Asiatic Society, 1872, pp. 142-164 を参照した。また、サクストンの英訳に関しても、ペルシア語原文と英訳を見開きの左右に載せた新版(W.M. Thackston, Jr. tr., Nasir-i Khusraw's Book of Travels (Safarnama): A Parallel Persian-English Text, Costa Mesa, California: Mazda Publishers, 2001)を入手することができたので、以後こちらを利用することにした。

 最後に、輪読会が回を重ねるにつれメンバーのペルシア語読解力が着実に上がってきていることを、やや自慢まじりに記しておきたい。1年半前には3時間で15行という気の遠くなるようなスローペースでしか進まなかったこの会も、今では、2時間半ほどで慣習的なノルマである130行を進むという「許容範囲内」のペースを維持できるようになった。もちろん、大事なのはそうして読めるようになった史料を用いて個々のメンバーが何をするかなのではあるが、これはこれで喜ばしいことであろう。(森本一夫)


訳註


 町は高台にあって、ある部分は斜面になっており、残りは平らである。海水の猛威と海岸に打ち寄せる波を恐れて、高台のないような海岸には町は造られない。金曜モスクは町の中央にあり、町のどこよりも高く、柱はすべて大理石である。キブラに向かって右側の外に預言者サーリフ――彼に平安あれ――の墓がある。モスクの中庭は、石畳の場所もあり、草が植えられている場所もある。アダム――彼に平安あれ――がそこを耕していたといわれている。

私が町[の大きさ]を測ると、長さ2000アラシュ、幅500アラシュであった。非常に堅固な壁をもち、西側と南側は海に面しており、南側には港がある。海岸にある町の多くには港がある。それは船を守るために造られるもので、厩舎のようなものである。町を後ろにして[二つの]壁が海にのび、[その間に]50ガズの壁のない入り口が設けられている。ただし両方の壁の間には鎖が渡してある。船を港に入れようとする時は、鎖は海中に沈むまで緩められ、船はその上を通る。それから、よそ者が港内の船を襲うことができないように再び鎖を張る。

東門のところ、左手側に泉がある。水にいたるには、26段降りなければならない。それは牛の泉といわれている。その泉を発見したのはアダム――彼に平安あれ――であり、自分の牛にそこから水を与えたといわれている。その理由でこの泉は牛の泉と呼ばれている。

このアッカの町から東の方角に行くと山があるが、そこには預言者たち――彼らに平安あれ――のマシュハドがある。この場所はラムラに向かう道から少し外れたところにある。

私は、それらの祝福に満ちた参詣地を訪れ、神――称えられ崇高たれ――からの祝福を求めようと思い立った。アッカの人々は「そこでは、道中に悪党がいて、よそ者とみると危害を加える。そして、もし持ち物があれば奪ってしまう」と言った。私は手持ちの路銀をアッカのモスクに置き、438年シャアバーン月23日土曜日(1047222日日曜日)、東門から町の外に出た。最初の日、町の創設者であるアックの墓を詣でた。彼は、信仰正しき人々、偉大な人々の一人であった[という]。私には道を知る案内人がいなかったので、困っていた。神――称えられ崇高たれ――の恩恵によって、まさにその日、突然アジャムの男と一緒になった。彼はアゼルバイジャン出身であった。彼はすでにそこを訪れたことがあったが、再び参詣を果たそうとそこに向かっていたのである。私はその恩恵に対し神――崇高にして称えられたれ――に感謝して2ラクアの礼拝を捧げ、私が決意を守れるように道連れを与えて下さったことに感謝の跪拝を行った。

 それから、バルダと呼ばれる村に着いた。そこで私はエサウとシメオン――彼らに平安あれ――の墓に詣で、そこからある小さな洞窟に着いた。その洞窟はダームーンといわれており、そこにも私は詣でたのだが、ズー・アル=キフル――彼に平安あれ――の墓だといわれていた。そしてそこから、イーブリーンと呼ばれる別の村に着いた。フード――彼に平安あれ――の墓がそこにあるといわれていた。彼を詣でた。聖域の中に桑の一種の木があった。そこには預言者エズラ――彼に平安あれ――の墓があった。そこに詣で、南へ向かった。ハズィーラと呼ばれる別の村に着いた。この村の西には谷があり、その谷にはきれいな泉があり、岩から湧き出ていた。泉の向かいの岩の上にモスクが建てられている。そのモスクの中には二つの建物/部屋があり、石造りで、石の屋根が架けられており、そこに男がようやく通れるくらいの小さな扉がつけられていた。二つの墓が隣り合ってそこに置かれており、一つはエテロ――彼に平安あれ――のもので、もう一つは彼の娘で、モーセ――彼に平安あれ――の妻[であった人物]のものであった。その村の人々は、掃除をしたり明かりを置いたりなどして、このモスクと参詣地をとても大事にしている。

 そこからイルビルと呼ばれる村に着いた。その村から見てキブラ側には山があるが、山の中には聖域があり、その聖域の中には四つの墓があった。それはヤコブ――彼に平安あれ――の子供たち、すなわちヨセフ――彼に平安あれ――の兄弟たちのものであった。

そこから出発した。丘が見えたが、その丘の下には洞窟があり、その中にモーセ――彼に平安あれ――の母の墓があった。そこを詣でた。そこから進むと谷が現れた。その谷の終わりには小さな湖が見えた。タバリーヤの町がその湖岸にある。その湖の長さは推測するに6ファルサングで、幅は3ファルサングであろう。この湖の水は素晴らしく、美味しい。町は湖の西側にある。町の浴場の水と下水はすべて湖に流れ込んでいるが、この町と湖岸にある地方の人々は、皆この湖の水を飲んでいる。聞くところによると、ある時あるアミールがこの町に来ていたが、汚物と汚水の下水道を湖から閉じるよう命じた。すると、湖の水は飲用に適さないほど悪臭を放つようになった。そこで再び全ての下水道を開けるように命じた。するとまた湖の水はよくなった。

この町には堅固な壁があり、湖岸からはじめて、町のまわりをめぐらせてある。湖の側には壁はなく、多くの建物が水の中にある。湖の底は岩である。水中に立てられた大理石の円柱の上に見晴らし台が造られている。その湖には魚がたくさんいる。町の中央には金曜モスクがある。モスクの外には泉があり、その泉のところには浴場が造られている。水は非常に熱くて、冷たい水を混ぜないかぎり体にかけることができないほどである。その浴場はダビデの息子ソロモン――彼に平安あれ――が建てたといわれている。私はその浴場に入った。

このタバリーヤの町の中にジャスミン・モスクと呼ばれるモスクがある。町の西側にあり、清らかなモスクである。モスクの中央には大きな壇があり、その上にはミフラーブが造られている。その壇の周りにはジャスミンの木が植えられており、モスクの名のもとになっている。東側に柱廊があり、ヨシュアの墓がそこにある。その壇の下にはイスラエルの民に殺害された70人の預言者たち――彼らに平安あれ――の墓がある。

町の南にはロトの湖がある。その水は苦い。[これは]タバリーヤの南にあるロトの湖のことであるが。タバリーヤの湖水がロトの湖に流れ込んでいる。ロトの町はこのロトの湖の岸にあるが、何の痕跡も残っていない。

ある人から聞いたところによると、苦い[水の]湖、すなわちロトの湖には、糞のようなものがあるという。湖の泡から生じる黒いもので、糞の姿をしており、石に似ているが硬くはない。人々はそれを取って砕き、方々の町や地方へ持っていく。その断片を木の下にほどこすと、その木の下には虫が決してわかず、そこで木の根に害を与えることはない。庭は地面の下の虫や昆虫による害を受けないのである。[この話の真偽の]責任は、私にこの話を伝えた者にある。そして[またその人が]言うには、薬種屋もまた[これを]買う。薬にわくヌクラという虫がいるが、それを駆除するといわれている。

タバリーヤの町ではむしろが作られており、礼拝用の敷物は、そこで5マグリビー・ディーナールで売られている。そこには西に山がある。その山には一片の岩があり、それにはヘブライ文字で、それが書かれた時に、すばるは白羊宮にあったことが記されている。アブー・フライラの墓はそこ[=タバリーヤ]にある。町の外で、キブラの方角にあるが、誰も参詣することができない。それはそこの人々がシーア派で、誰かが詣でようとすると子供たちが騒ぎ立て、困らせて、石を投げるからである。そのため私はそこを詣でることができなかった。

私はそれらの場所への参詣から戻り、カフル・カンナと呼ばれる村に着いた。この村の南方に小さな丘がある。その丘の上には立派な僧院が建てられており、[その僧院には]堅固な扉が据えられている。預言者ヨナ――彼に平安あれ――の墓がその中にある。僧院の外には井戸があり、きれいな水を湛えている。その参詣をすまし、私たちはそこからアッカに戻った。そこからアッカまでは4ファルサングであった。そして私たちは一日アッカに滞在した。

その後そこを去り、ハイファと呼ばれる村に着いた。この村に到着するまで、道中には砂がたくさんあった。それはアジャムの金細工師たちが用い、メッカの砂と呼んでいるものである。この村ハイファは海岸に面しており、そこにはやし園や果樹園がたくさんある。そこには船大工たちがおり、彼らは大きな船を造っていた。その海船は、そこではジューディーと呼ばれていた。

そこから1ファルサングのところにあるカニーサと呼ばれる別の村に行った。そこで道は海からそれて東に向かって山に入った。荒野や岩場が続いたが、[その辺りは]ワニの谷と呼ばれていた。12ファルサング行くと、道は再び海岸に出た。私たちはそこで海の生き物の骨をたくさん見た。それらは土や泥に混ざっており、多くの波によって打ち砕かれ、石のようになっていた。

私たちはそこからカイサーリーヤと呼ばれる町に到着した。アッカからそこまで7ファルサングであった。やし園、だいだいやシトロンの木々、堅固な壁、そして鉄の門をもつ良い町で、町の中には水の湧き出る泉がいくつもあった。良い金曜モスクがあり、[その素晴らしさといえば、]そのモスクの中庭に座ったままで海を見て楽しむことができるほどである。そこには大理石の大きな壺があり、それは中国の陶器のように薄くつくられていて、100マンもの水が入るほどであった。

シャアバーン月末日土曜日(1047228日)、私たちはそこから出発した。1ファルサングほどメッカの砂のところを行くと、再びいちじくとオリーブの木々が多く見えた。道中はずっと山や荒野であった。数ファルサング行くとカフル・サーバーともカフル・サッラームとも呼ばれる町に着いた。その町からラムラまで3ファルサングであり、前述のように道中にはずっと木々があった。

ラマダーン月1日日曜日(104731日)、私たちはラムラに到着した。カイサーリーヤからラムラまで8ファルサングあった。それは大きな町であり、石と漆喰でできた堅固な壁がある。[その壁は]高くて頑丈であり、鉄の門が据えつけられている。町から海岸までは3ファルサングであり、彼ら[=住民]は雨水を用いている。屋敷はそれぞれ雨水を受けるための水槽をもち、常に水が貯えられている。金曜モスクの中央にもいくつかの大きな水槽があり、水が満ちていれば、欲しい者は誰でも取り、持っていく。そこのモスクは300歩かける200歩の広さである。スッファの正面に「425年ムハッラム月15日(10331220日)、ここで大地震が起き多くの建物が壊れたが、皆無事であった」と書かれていた。

この町には大理石がたくさんあり、人々の屋敷や住居のほとんどは豪華に大理石で飾られており、模様が組み出されている。大理石は歯のない鋸で切られる。メッカの砂がそこにほどこされ、鋸は石柱(`amud)の横方向ではなく縦方向に挽かれる。あたかも木から板が作られるように岩から板が作られる。私はそこで、多色、緑、赤、黒、白、そしてあらゆる色の、様々な種類や色の大理石を見た。そこには、それに勝るものはどこにもないような種類のイチジクがある。それはそこから四方へ運ばれる。このラムラの町は、シリア地方やマグリブではパレスティナと呼ばれている。

ラマダーン月3日(104733日) 、私たちはラムラを出発し、ハートゥーンと呼ばれる村に到着した。そこからカルヤ・アル=イナブと呼ばれる別の村に行った。道中、私たちは、山や平野に自生しているたくさんのウンコウを見た。この村で、私たちは岩から湧き出す心地よい泉を見た。そこには厩が造られており、[立派に]造営されていた。そこから坂を登っていった 。私たちはこの山を登って反対側に下りると町があるのだろうと思 っていた。少し登ると、一部は岩でまた一部は土の広大な平原が現れた。山の上にエルサレムの町がある。海岸にあるトリポリからエルサレムまで 56 ファルサング、バルフからエルサレムまで 876 ファルサングである。

438 年ラマダーン月 5 日(1047 3 5 日)、私たちはエルサレムに入った。家を出てから太陽暦で[ちょうど]一 年であった。その間はずっと旅をしており、ゆっくり滞在したりくつろいだりすることはなかった。

エルサレムは、シリアやその方面の人々にはクドゥスと呼ばれている。それらの諸地方の人々のうち巡礼に行けない者は、その時期にクドゥスに赴き、慣行にしたがってウクーフ儀礼を行い、犠牲祭の供犠を行う。ズー・アル=ヒッジャ月の初旬に2万人以上がそこに集まる年もある。彼らはそこに子供たちを連れて来て、割礼を行う。ルーム地方や他の土地からも多くのキリスト教徒とユダヤ教徒がそこに行き、そこにある教会とシナゴーグに巡礼する。この地の大教会はしかるべき箇所で描写しよう。

エルサレムの後背地とルースタークはすべて山地であるが、すべて耕作地である。オリーブ、イチジク、その他の樹木は全て天水で栽培されており、産物は豊かで安価である。有力者の中には、5万マンのオリーブ油をいくつかの井戸や水槽に貯え、そこから諸国諸方に運ぶ者もいる。シリアの地に飢饉はかつてなかったといわれている。信頼できる人々から聞いたところによれば、ある長老が預言者――彼に平安と祝福あれ――を夢で見たという。彼は言った、「おお神の預言者よ。我々が暮らしを立てるのを助けたまえ」と。すると預言者――彼に平安あれ――は答えて言った、「シリアのパンとオリーブ油は私に任せなさい」と。では、エルサレムの町の描写をしよう。

[エルサレムは]山の上にある町で、雨水以外に水はない。ルースタークには泉があるが、町にはないのである。というのも町は岩の上にあるからである。大きな町で、私たちが見た時には2万の男がそこにいた。素晴らしい市場と高い建物がいくつもあった。町一面は石の板で舗装されている。山や丘であったところはならされ平坦にされているので、雨が降ると一面は綺麗に洗い流される。この町には職人がたくさんおり、それぞれの職種ごとに市場がある。そこ[=エルサレム]の集会モスクは東側にあり、町の東側の壁は集会モスクの壁でもある。集会モスクを通過すると、大きく、非常に平坦な野原があり、サーヒラと呼ばれている。人々が語るところによれば、そここそ復活の起こる野原であり、[その時]人々はそこに集まるのだという。そのため多くの人々が世界の諸方からそこにやって来て滞在している。それは、この町で死を迎え、神――偉大にして崇高たれ――の定められた時が訪れた際に約束の地にいるためである。神よ、かの日にあなたとあなたの赦しが僕たちの避難所でありますように。アーメン、万世の主よ。

この野原の横には大きな墓地があり、[そこには]人々が礼拝を行い嘆願すると、神――偉大にして崇高たれ――が彼等の願いを聴き入れる偉大な場所がたくさんある。神よ、我々の嘆望を聴き入れ、我々の罪を赦し、あなたの慈悲をもって我々に慈悲を垂れたまえ。おお、最も慈悲深き者よ。

 集会モスクとこのサーヒルの野の間にはとても深い谷がある。その谷はあたかも堀のようであるが、そこには古代の人々の様式でつくられた数々の大きな建物がある。私は、[一つの岩から]削りだされ、建物の上に据えられたドームを見た。これほど驚くべきものはない。それをどうやって持ち上げたのだろうか。それはファラオの家であり、またその谷は地獄の谷であるといわれていた。私は「この呼び名は、誰がこの場所につけたのですか」と尋ねた。人々は「ウマル・イブン・ハッターブ――神が彼を嘉したまいますように――がカリフであった頃、サーヒルの野に軍営を置いた。彼はこの谷を見て、『これは地獄の谷だ』と言った」と述べた。また庶民は「あの谷の縁に行った者は皆、地獄の住人の声が立ちのぼってくるのを聞くのだ」といっている。私はそこに行ったが、なにも聞こえなかった。

町から南に半ファルサング行き、坂を下ると、泉が岩から湧き出しており、スルワーンの泉と呼ばれている。泉のほとりには多くの建物が建てられている。その泉の水はある村へと流れる。その村には建物が多く建てられており、果樹園が造られている。そして、誰でもその泉の水で頭と体を洗うと、長年の痛みや持病が消えるといわれている。その泉にはワクフが多く設定されている。

 エルサレムには素晴らしい病院があり、ワクフを多くもっている。[そこでは]多くの人々に薬や水薬が与えられており、ワクフから給料を受け取っている医者がいる。その病院と金曜モスクは(町の東端にあり、モスクの壁の一つは)地獄の谷に面している。モスクの外側から谷に面しているその壁を見ると、[高さは]100アラシュである。その壁は大きな岩でできており、土も漆喰も使われていない。モスクの内側から見ると、壁の頂上は全てまっすぐである。そこにあった聖なる岩は、神――偉大なれ――がモーセ――彼に平安あれ――にそれをキブラとするように命じたものである。この命令が下り、モーセはそれをキブラとしたが、長くは生きず、早く死んでしまった。ソロモン――彼に平安あれ――の時代になると、この聖なる岩がキブラであったため、それがモスクの中心にくるように、そして人々のミフラーブとなるように、モスクが聖なる岩の周りに建てられた。そして、我々の預言者ムハンマド・ムスタファー――神よ彼と彼の一族に祝福を与えたまえ――の時代にいたるまで、それがキブラとされ、礼拝はそれに向かってなされていた。それから神――称えられ崇高たれ――は、カアバの館がキブラとなるように命じられた。カアバの館はしかるべき場所で描写する。

私はこのモスクを測ろうと思った。まずその外観と配置をよく見知り、それから測ろうと考えた。しばらくの間、私はモスクの中を歩きまわり、見物していた。すると、モスクの北側のヤコブ――彼に平安あれ――のドームの近くで、アーチの石に、「このモスクは、王のガズで縦に704アラシュ、横に455アラシュである」と書かれているのを見た。王のガズとはホラーサーンで王様ガズと呼ばれているものであり、それは1.5アラシュ弱である。

モスクの敷地には石が敷かれており、石の隙間は鉛で埋められている。また、モスクは街と市場の東にある。それゆえ市場からモスクに行く時は東の方角に進むことになる。とても素晴らしい門が高さ30ガズ、幅20ガズの大きさで造られており、二つの翼が開けられている。門、翼の正面、そして門のイーワーンは、全て漆喰に埋め込まれた多色のガラス[・モザイク]によって自在につくられた模様で飾られており、目がくらむほどである。銘文もまた同様に、ガラス[・モザイク]による模様でその門の上につくられており、エジプトのスルターンの称号が書かれている。それは陽光がさすと反射して、見る者の理性を惑わすほどである。この門の上には巧みに加工された石で造られたとても大きなドームが架けられている。また[この門には]豪華な2枚の扉がとりつけられている。扉の表面は純金と見まがうようなダマスクス産の真鍮で覆われ、多くの模様がほどこされている。[2枚の扉は]それぞれ、高さ15ガズ、幅8ガズである。この門は、ダビデ――彼に平安あれ――の門と呼ばれている。

この門から中に入ると、右手に二つの大きな柱廊があり、そのそれぞれは、多色の柱頭と基部をもつ29本の大理石の柱からなる。石の継ぎ目は鉛で埋められており、柱頭の上には石でできたアーチが架けられている。アーチは土や漆喰なしに積みあげられており、せいぜい45個の石のみからなる。この柱廊はマクスーラの近くにまでいたる。門から入っていくと、左手に、それはつまり北であるが、64のアーチからなる長い柱廊が伸びている。それらのアーチは全て大理石の柱に支えられている。この壁にはまた別の門があり、それは地獄の門と呼ばれている。モスクの長さは南北に長いが、南にキブラがあるのでそこからマクスーラの幅の分が割かれる結果、中庭は正方形になっている。北辺には、さらに隣りあわせに二つの門がある。それぞれ幅7ガズ、高さ12ガズで、この門はイスラエル諸支族の門と呼ばれている。この門を通りすぎると、東にのびているモスクの短辺に再び大きく壮麗な門がある。諸支族の門[の各々の門]と同じ大きさの三つの門が隣りあわせて造られている。全て鉄と真鍮によって豪勢に飾られ、それよりも素晴らしいものは稀なほどである。この門は諸門の門と呼ばれているが、それは他の場所では門は対になっているのに、この門は三つの門からなるからである。

北辺にあるこの二つの門の間、柱(pilpayahha)に架かったアーチをもつ前述の柱廊の中にドームがある。それは高い柱(sutunha)で支えられ、燭台やランプで飾られている。それはヤコブ――彼に平安あれ――のドームと呼ばれ、彼が礼拝をした場所である。

 モスクの[北側の]短辺には柱廊があり、その壁には門がある。その門の外には二つのスーフィーの修道場があり、そこには礼拝の場所と、素晴らしいミフラーブが造られている。スーフィーの一団が常にそこにいて、タクビールの声が聞こえるようにモスクに赴く金曜日を除いては、礼拝もそこで行う。

 モスクの北側の角には素晴らしい柱廊と、大きく素晴らしいドームがある。このドームには「これは預言者ザカリア――彼に平安あれ――のミフラーブである」と書かれている。彼は絶えずここで礼拝をしていたといわれている。

東の壁の中ほどに立派な門があり、巧みに加工された石でとても手をかけて造られているので、あたかも一枚岩から削り出されているかのようである。[門の]高さは50ガズ、幅は30ガズであり、模様や彫刻がほどこされている。その門には、柱(pilpayah)一本[分]のみの間隔で、二つの素晴らしい扉がとりつけられている。扉は、鉄とダマスクス産の真鍮で非常に豪勢に飾られており、輪と飾り釘が打たれている。この門は、ダビデの息子ソロモン――彼に平安あれ――によって、彼の父のために造られたといわれている。東を向いて門に入るとすると、二つの扉のうち右手にあるものは慈悲の門と呼ばれ、もう一つは悔悛の門と呼ばれている。神――偉大にして崇高たれ――がダビデ――彼に平安あれ――の悔悛を受けいれたのはこの扉においてであったという。この門に接して素晴らしいモスクがある。それはかつて通廊のようなものであったが、[その]通廊をモスクにし、様々な種類の敷物で飾ったのである。そのモスクは独立した組織の職員をもつ。多くの人々がそこに赴き礼拝し、神――称えられ崇高たれ――に近づこうとする。ダビデ――彼に平安あれ――の悔悛がそこで受けいれられたので、すべての人々が希望を抱き、罪を悔い改めるのである。ダビデ――彼に平安あれ――が足を敷居から内側に踏み入れた時、啓示が下り、神――偉大にして崇高たれ――が彼の悔悛を受けいれられたという吉報が伝えられたという。彼はそのままそこに留まり神への勤めにいそしんだ。私ことナースィルはその場所で礼拝し、神――偉大にして崇高たれ――に、私が神への服従を果たせるように、そして罪から遠ざかっていられるように願った。神――偉大にして崇高たれ――よ、すべての僕が神の満足したまうことをなせるようにしたまえ。そして罪に対しては悔悛を与えたまえ。ムハンマドとその清浄なる一族にかけて。

東の壁が南の角に達するところ、――[ちなみに]キブラは南辺にあるのだが――そして北向きの壁の前に、地下モスクがある。そこへは多くの階段を降りなければならない。その縦横は20ガズと15[ガズ]であり、石造りの天井が大理石の柱に支えられている。イエス――彼に平安あれ――の揺り籠がそこに置かれている。それは石造りの大きな揺り籠で、人々がその中で礼拝することができるほどである。私もそこで礼拝をした。それは床に固定されていて、揺れ動くことはない。それは、イエス――彼に平安あれ――が幼い頃、その中にいて人々と会話をした揺り籠である。揺り籠は、このモスクではミフラーブの代わりに置かれている。マリア――彼女に平安あれ――のミフラーブはこのモスクの東側[の壁]にある。ザカリア――彼に平安あれ――のものである別のミフラーブもそこにある。ザカリアとマリアに関するクルアーンの章句も、そのミフラーブに記されている。イエス――彼に平安あれ――はこのモスクで誕生したといわれている。このモスクの柱のうちの一つには二つの指の跡をもつ石があり、それはあたかも誰かが2本の指で掴んだかのようである。人々が言うには、分娩の時にマリアがその柱を2本の指で掴んでいたのである。このモスクはイエス――彼に平安あれ――の揺り籠[のモスク]として有名であり、夜毎灯すために、真鍮や銀の燭台がたくさん吊るされている。

このモスクの入り口を過ぎ、東の壁に沿ってさらに進み、大きなモスクの角にいたると、もう一つの非常に素晴らしいモスクがある。イエスの揺り籠のモスクの二倍の大きさであり、アクサー・モスクと呼ばれている。そこは神――偉大なれ――がムスタファー[=ムハンマド]――神よ彼に祝福と平安を与えたまえ――を昇天の夜にメッカから連れて来たところであり、[彼が]そこから天国へと昇っていったところである。そのことはクルアーンにおいて「ああなんともったいなくもありがたいことか、[アッラーは]その僕を連れて夜[空]をゆき、聖なる礼拝堂から、遠隔の礼拝堂まで旅して」[Q17:1]という章句で述べられているとおりである。このモスクの建築は非常に豪華なもので、きれいな敷物が敷かれている。職員は独立した組織をもっており、常にそこの業務を行っている。南の壁に引き返すと、その角から200ガズほど屋根がなく、中庭になっている。マクスーラがある大きなモスクの建物部分は南と西の壁に接している。この建物部分は長さ420アラシュ、幅150アラシュであり、280本の大理石の柱をもつ。柱の上には石でできたアーチが架けられており、柱頭と柱身の全てに模様がほどこされている。柱の継ぎ目は鉛で埋められており、堅固なことこの上ない。柱の間隔は6ガズであり、[床は]全面に多色の大理石が敷き詰められていて、その隙間は鉛で埋められている。マクスーラは南の壁の中央にある。それは非常に大きく、16本の柱がある。とても大きなドームがあり、以前に述べたようなガラス[・モザイク]で模様がほどこされている。そこにはマグリブ産のむしろが敷いてあり、燭台とランプが個別に鎖で吊り下げられている。また大きなミフラーブが造られており、全面にガラス[・モザイク]で模様がほどこされている。ミフラーブの両端にはルビー色の大理石の柱がある。マクスーラの腰板は全て多色の大理石である。右手にはムアーウィヤのミフラーブがあり、左手にはウマル――神よ彼を嘉したまえ――のミフラーブがある。このモスクの天井は模様がほどこされた豪華な木材で覆われている。

中庭に面しているマクスーラの二つの壁には十五の入り口があり、豪華な扉が備えつけられており、それぞれ高さは10ガズで幅は6ガズである。そのうち十の入り口は[前述の]420ガズの壁にあり、五つは150ガズの壁にある。それらの扉のうち一つは真鍮張りであり、金と見まがうばかりに大変豪華に素晴らしくつくられていて、銀で模様がほどこされている。カリフ、マアムーンの名前がそこに記されている。[この扉は]マアムーンがバグダードから送ったといわれている。すべての扉が開かれると、モスクの中はあたかも屋根のない中庭であるかのようにとても明るくなる。しかし、風や雨で扉が開けられない時は、明かりは小窓のみによる。この建物部分の四方には、シリアとイラクの諸都市それぞれの櫃が置いてあり、滞在者が座っている。それはまるでメッカ――崇高なる神よそれを高貴なものとしたまえ――のハラーム・モスクの中のようである。建物部分の外側の前述の大きな[=金曜モスク全体を囲う]壁に沿って42本のアーチをもつ柱廊があり、そのすべての柱は多色の大理石でできている。この柱廊は西側の柱廊とつながっている。建物部分の内部には、水[の便]のために地面に水槽がある。もしそれに蓋をしたならば、地面と同じ高さになるであろう。これは、雨が降った時に、そこに水が流れ込むようにするためである。南の壁には扉があり、そこには沐浴場と水がある。沐浴が必要になった人はそこへ行き、新たに沐浴を行う。モスクが大きいため、もしモスクから出ると礼拝に間に合わず、礼拝が無効になってしまうからである。屋根は全面が鉛で覆われていた。モスクの地面には水槽がたくさんあり、[それらは]地面に掘られていた。モスクは[その全体が]一様に岩の上にあるからである。それによって、どんなに雨が降ろうとも、水が[モスクから]流れ出ることはなく、無駄になることもない。[水は]すべて水槽に流れ、人々は[その水を]使う。[屋根の]水を地面に導くために鉛製の雨どいがつくられている。雨どいの下には石でできた水槽が置かれている。その[水槽の]下部には穴があり、水はその穴から水路に流れて、汚れることも害されることもなく[前述の]水槽にいたる。

町から3ファルサングのところに、山から流れてくる水が貯められる大きな水槽を見た。そこには、町の集会モスクへといたる水路が造られている。町全体の中で水が豊富なのは集会モスクの中である。一方、すべての屋敷には雨水を貯める水槽がある。というのも、そこでは雨水以外には水はないからである。人々は自分の[屋敷の]屋根[に降る雨]水を貯めるのである。浴場やその他あらゆるもの[の水]はすべて雨水である。集会モスクにあるこれらの水槽は決して修理を必要とすることはない。なぜなら岩でできており、もし[もともと]裂け目や穴があったとしても、とてもしっかりと塞がれているので決して壊れないからである。人々が語ったところによれば、これらはソロモン――彼に平安あれ――によって造られたという。これらの水槽の蓋は、竈や井戸の蓋のような[形状で]、各々の水槽の上に石でつくられている。そこに何も落ちないようにするためである。この町の水はどこの水よりも素晴らしく、清らかである。少々の雨が降れば、二、三日後まで雨どいから水が流れ続ける。空が晴れ、雲が去っても、まだ雨の雫が滴るのである。

前にも述べたように、エルサレムの町は山の上にあり、その土地は平らではない。しかし、モスクの敷地は平坦である。モスクを外から見ると、場所によって[壁の高さが違い]、地面が低いところでは高くなっている。それは、壁の基部が低いところにあるためである。逆に地面が高いところでは壁は低い。そのため、低いところにある町や街区のところでは、モスクの門はあたかも地下道のように掘られ、モスクの中庭につなげられている。そのような門の一つに、預言者――神よ彼に祝福と平安を与えたまえ――の門と呼ばれる門がある。この門はキブラの方向、すなわち南の方にある。その幅は10ガズであるが、高さは[内部の]階段に応じて異なる。すなわちその通路の天井はある箇所では5ガズの高さであり、また別の箇所では20ガズの高さである。その[=通路の]上にはモスクの建物部分がある。その通路の頑丈さはといえば、あれほどの大きさの建物がその上に建てられているのに、それ[=通路]にはいかなる影響も見られないほどである。そこには、人が運ぶことができるとは理性では信じられないような[巨大な]岩が用いられている。それを造ったのは、ダビデの息子ソロモン――彼に平安あれ――であったといわれている。また私たちの預言者――神よ彼に祝福と平安を与えたまえ――は、昇天の夜にその通路を通ってモスクに入った。この門はメッカへいたる道の方向にあるのである。門の近くの壁の岩に、大きな盾ほどの模様がある。人々がいうところによれば、使徒――神よ彼に祝福と平安を与えたまえ――のおじ、ハムザ・イブン・アブドゥルムッタリブが、盾を背負い、壁を背にしてそこに座ったのであり、これは彼の盾の跡だという。

この通路が造られているモスクの門には二枚組みの扉が据えつけられている。モスクの壁は、外側から見ると50ガズ近くの高さがある。この門が造られた目的は、モスクのこの辺に面する街区の人々が[モスクの]中に入ろうとする時に、他の街区に入ってはならないからである。

モスクの外の右側の壁には、高さ15アラシュ、幅4アラシュの岩がある。このモスクにはこれより大きな岩は一つもない。だが4ガズや5ガズの岩で、地面から30ガズから40ガズもの高さで壁に用いられているものはたくさんある。

モスクの[南側の]短辺には東側にも門があり、それは泉の門と呼ばれる。この門を出て坂を下ると、スルワーンの泉に出るからである。同じように地面に掘られた別の門があるが、それは赦しの門と呼ばれている。この門は、神――偉大なれ――がイスラエルの民に、そこからモスクに入るように命じた門であるといわれている。[その際の]崇高なる神の御言葉は、「門から入る時、跪いて『お許しを』と言うのだぞ。さすれば我らは汝らの罪をことごとく赦し、善行者にはますます[恵みを]与えるであろう」[Q2:58]であった。

また別の門があり、サキーナの門と呼ばれている。この門の通廊にはたくさんのミフラーブをもつモスクがある。その第一の扉は閉じられたままで、人が入れないようになっている。神――称えられ崇高たれ――がクルアーンで、天使たちが運んでくると述べておられるサキーナの櫃はそこに置かれたという。

エルサレムの集会モスクにある門は、地下にあるものも地上にあるものも含め、ここまで描写してきた九つで全てである。

[では、]集会モスクの中庭の中央にある壇の描写[をしよう]。イスラーム出現以前にキブラとされていた聖なる岩がその壇の中央にある。壇は、聖なる岩が高くて覆いをかけることができなかったので、基礎として造られた。[この壇は]縦横が330アラシュと300アラシュで、高さは12ガズである。その壇の床は平らで、大理石が見事に貼られている。壁も同様である。[大理石の]継ぎ目は鉛で埋めてある。壇の四方は大理石の板で囲われている。この壇は、そのために造られた通路による以外はどこからも登れないようになっている。壇に登るとモスクの屋根を見渡すことができる。水槽がこの壇の真ん中の地下に造られている。壇に降る雨水の全ては、水路を通ってこの水槽にいたるのである。この水槽の水は、このモスクにあるどの水よりも清らかで素晴らしい。

 この壇の上には四つのドームがあり、最も大きいものが、かつてキブラであった岩のドームである。

 岩のドームの描写。モスクの建物は、中庭の中央に壇が、壇の中央に岩のドームが、岩のドームの中央に[聖なる]岩がくるように配置されている。これ[=岩のドーム]は正八角形の建物であり、各々の辺の長さは33アラシュである。四つの扉が、四方、すなわち東、西、北、南につくられている。[つまり]二つの扉によって[正八角形の]一辺が挟まれる格好になる。壁はその全面が、削り出された石でできており、高さは20アラシュである。聖なる岩の周囲は100ガズで、正方形や円形というような整った形はしておらず、山の岩のようにいびつな形をしている。聖なる岩の四方には4本の正方形の柱(sutun)が立てられており、その高さは前述の建物の壁と同じである。4本ある柱(sutun)のそれぞれの間に2本の大理石の柱(ustuwanah)が立てられており、その高さも柱(sutunha)と同じである。それら計12本の柱(sutun)と柱(ustuwanah)の上に聖なる岩を覆うドームがある。[ドームの]周囲は120アラシュである。

建物の壁とこれらの柱(sutunha)と柱(ustuwanahha)の間には、[ちなみに]ここでいう柱(sutun)とは正方形で[石を積み上げて]造られているものであり、柱(ustuwanah)とは一つの岩から削りだされた円形のものであるが、さて、これらの柱(sutun)と建物の壁の間には、巧みに加工された石で造られた別の6本の柱(sutun)がある。それらの柱それぞれ2本の間には、多色の大理石でできた3本の柱(`amud)が等間隔で立てられている。すなわち、第一の列では、2本の柱(sutun)の間には2本の柱(`amud)があったが、ここでは2本の柱(sutun)の間に3本の柱(`amud)がある。柱(sutun)の頂部は四つに枝分かれしており、それぞれアーチを支えている。また、どの柱(`amud)も頂部が二つに枝分かれしており、各々の柱(`amud)は二つのアーチを、そして各々の柱(sutun)は四つのアーチを支えるようになっている。ところで、この壮麗なドームは、聖なる岩に近い12本の柱(sutun)の上にあるが、1ファルサング[離れたところ]から見ると/見ても、山の頂のように望見することができる。なぜなら、ドームの基部からドームの頂点までは30アラシュであり、20ガズの壁と柱(sutun)の上に造られているからである。さらにこれは建物の壁のことであり、建物はまた12ガズの高さをもつ檀の上に造られているのである。つまり、モスクの中庭の地面からドームの頂点までは62ガズである。

 この建物の屋根と天井は大工仕事で覆われている。柱(sutunha)と柱(`amudha)の頂部と壁は、他にはあまりないような技巧で覆われている。

聖なる岩は、地面より人の背丈分ほど高い。誰も触れることができないように、大理石の囲いが周りにほどこされている。聖なる岩は青みがかった色の岩で誰も足をその上に置いたことがない。キブラの方向には傾斜になっている場所があり、あたかも誰かがそこに上って、足が岩にはまった[かのような跡がある]。まるで軟らかい泥であったかのように足の指の跡がそこに残っている。七つのこのような足跡がある。聞くところによると、アブラハム――彼に平安あれ――がかつてそこに来た際、幼子であったイサク――彼に平安あれ――がそこに上り、これらの足跡はその時のものであるという。

 この聖なる岩の建物には、常に、その場の功徳に与らんとする人々や勤行に励む人々がいる。建物は絹などでできた美しい敷物で飾られている。そして建物の中央、岩の上には、銀製の燭台が銀の鎖で吊るされている。この建物には銀製の燭台がたくさんあり、どの燭台にもその重量が書かれている。それらの燭台はエジプトのスルターンがつくったものである。計算してみると1000マン分の銀器がそこにあった。私はそこで、長さが7アラシュで太さが3シブルもある非常に大きなろうそくも見た。それは樟脳のように白く、竜涎香が混ぜられていた。毎年エジプトのスルターンがろうそくをたくさんそこに送るが、それにはこの大きなろうそくが一本含まれている。それにはスルターンの名が金で書かれている。

ここは神――偉大にして崇高たれ――の第三の家である。というのも、ウラマーの間では有名なことであるが、エルサレムで行われる1回の礼拝は25千回の礼拝と認められ、預言者――神よ彼に祝福と平安を与えたまえ――の町[=メディナ]では礼拝1回が5万回と数えられ、偉大なるメッカ――崇高なる神よそれを高貴なものとしたまえ――でのそれは10万回の礼拝と認められるのである。神――偉大なれ――よ、すべての僕がこれらのことをなせるように計らいたまえ。

 前にも述べたが、屋根とドームの表面には全面に鉛が張られている。建物の四方にはチーク材でできた二枚組の大きな扉が据えつけられており、それらはずっと閉じられたままである。

この建物の次には、鎖のドームと呼ばれるドームがある。これは、正当な権利の持ち主以外は誰も触れることができず、圧制を行うものや不当に権利を主張する者には触れることができなかったというダビデ――彼に平安あれ――の鎖が掛けられている場所である。このことはウラマーの間では有名である。このドームは、8本の大理石の柱(`amud)と6本の石の柱(sutun)に支えられている。ドームの側面には壁がない。しかし、キブラの側だけは上まで壁があり、素晴らしいミフラーブが造られている。

この壇の上にはまた、4本の大理石の柱(`amud)で支えられた別のドームがある。それもキブラの方向は壁で閉ざされており、そこに素晴らしいミフラーブが造られている。それはガブリエル――彼に平安あれ――のドームと呼ばれている。このドームには敷物は無く、床は平たく削られた石が剥き出しになっている。昇天の夜にブラークがここに連れて来られ、我々の預言者――神よ彼に祝福と平安を与えたまえ――が乗ったといわれている。

 その次には、使徒――神よ彼に祝福と平安を与えたまえ――のドームと呼ばれる別のドームがある。このドームとガブリエルのドームとの間は20アラシュである。このドームも4本の大理石の柱(sutun)で支えられている。次のようにいわれている。昇天の夜に、使徒――神よ彼に祝福と平安を与えたまえ――は最初、岩のドームで礼拝し、手を聖なる岩の上に置いた。[使徒が]外に出ようとすると、聖なる岩は彼の偉大さに打たれて起き上がった。そこで使徒――神よ彼に祝福と平安を与えたまえ――は、手を[再び]聖なる岩の上に置いた。すると[岩は]再びもとの場所に戻って静まったのである。それはいまだに半分だけ浮き上がっている。使徒――神よ彼と彼の一族に祝福と平安を与えたまえ――はそこから、彼にちなんだ名で呼ばれるこのドームへ来てブラークに乗った。このドームに対する尊崇はそのためである。

 聖なる岩の下には大きな穴があり、常にろうそくが灯されている。それについてはこういわれている。岩が起き上がろうとして動いた際、その下が空洞になった。[岩が]静まっても、それがそのまま残ったのである。

モスクの中庭から壇に登る階段の描写。壇に上がる道は六箇所あり、それぞれに名前がある。キブラの方向には二つの道があり、階段になっている。壇の[南]辺の真ん中に立つと、それらの階段のうち一つは右手に、もう一つは左手にある。右手にあるものは預言者――神よ彼に祝福と平安を与えたまえ――のお立ち所と呼ばれ、左手にあるものはグーリーのお立ち所と呼ばれている。預言者のお立ち所は、昇天の夜に預言者――神よ彼に祝福と平安を与えたまえ――がその階段から壇に上がり、そこから岩のドームへ入ったことからそう呼ばれている。[そして確かに]ヒジャーズへの道もまたその方向にある。この階段は幅が20アラシュある。階段の一段一段は一個あるいは二個の、四角く削りだされて巧みに加工された石でできており、望めば動物に乗ってそこに上がることができるようにされている。階段の上には緑の大理石でできた4本の柱(sutun)がある。この大理石は、様々な色の斑点が多くあることを除けばエメラルドに似ている。それぞれの柱(`amud)の高さは10アラシュであり、太さは男二人で腕がまわるくらいである。この4本の柱(`amud)の上には三つのアーチが架けられている。一つは階段に正面しており、残りの二つは両側にある。アーチの上は平らにされ、胸壁が造られており、[全体として]四角く見える。この柱(`amud)とアーチにはすべて、この上なく素晴らしく金とガラス[・モザイク]で模様がほどこされている。壇の囲いはすべて斑点がある緑の大理石でできており、あたかも牧草地に花が咲いているかのようである。

グーリーのお立ち所では、一箇所に三つの階段がとりつけられている。一つは正面から壇に向かい、二つは壇に沿っている。それで、人々は三箇所から登ることができる。ここでも同様に三つの階段の上に柱(`amud)があり、それらの上にはアーチが架けられ、胸壁が造られている。階段もまた、前述したように削りだされた石でできており、それぞれの段は二個あるいは三個の長い石からなる。イーワーンの前面には、「アミール、ライスッダウラ・ヌーシュタギーネ・グーリーが建設を命じた」という金字の優美な銘文がある。人々が語るところでは、このライスッダウラはエジプトのスルターンの下僕であり、この通路と階段は彼が造ったのである。

壇の西側も二箇所に階段がとりつけられ通路とされており、別のお立ち所について述べたように、豪華な造りになっている。

東側にも同じく豪華な造りの通路があり、[そこにも]柱(`amud)が立てられ、アーチが造られ、胸壁が置かれている。それは東のお立ち所と呼ばれている。北側には、シリアのお立ち所と呼ばれる、より規模の大きな通路があり、同じく柱(`amud)とアーチが造られている。

私が見積もるところでは、[ここに]造られている六つの通路には10万ディーナールが費やされたであろう。

壇の上ではなく、モスクの中庭には、北側に小さなモスクほどの場所がある。それは削り出された石によって囲いのように造られており、その壁は男の背丈を越えるほどで、ダビデのミフラーブと呼ばれている。囲いの近くに男の背丈ほどの岩があり、その上は小さなむしろが敷けるほどの広さである。これは凸凹のある岩で、ソロモンの椅子であったといわれている。人々が語ったところによれば、モスクが建設されていた時、ソロモン――彼に平安あれ――がそこに座っていたという。以上のことを、私はエルサレムの集会モスクで見て、写生し、そこで、携帯していた日記帳に書きとめた。珍しいことに、私はエルサレムのモスクでクルミの木を見た。

エルサレム[を見た]後、私は神の友アブラハム――彼に平安あれ――を詣でることにした。438年ズー・アル=カアダ月1日水曜日(1047429日)のことであった。エルサレムからそのマシュハドがある場所まで6ファルサングである。道は南へ向かい、道沿いには多くの村々、農地や庭園があり、天水で育てられたぶどう、イチジク、オリーブ、スーマックにいたっては無数にある。

町から2ファルサングのところに四つの村がある。そこには泉と多くの果樹園があり、その快適さから楽園と呼ばれている。エルサレムから1ファルサングのところにキリスト教徒にとってとても大事な場所がある。そこには功徳を求める人が常におり、多くの参詣者がやって来る。そこはベツレヘムと呼ばれ、キリスト教徒はそこで犠牲を捧げる。ルームから多く[のキリスト教徒]がやって来る。私は町を出た日、そこで一夜を過ごした。

[神の]友[=アブラハム]――彼に平安あれ――のマシュハドの描写。シリアやエルサレムの人々はこのマシュハドをハリールと呼んでおり、村の名前では呼ばない。その村の名前はマトゥルーンである。他の多くの村々とともにこのマシュハドのためのワクフにされている。この村には岩から湧き出る泉がある。水はわずかで、長い水路でひかれており、[その水路は]村の近くで[地面に]出る。村の外には蓋で覆われた水槽が造られている。水は、無駄にならないように水槽の中に集められ、村の人々や参詣者たちを充たす。

 マシュハドは村の南側の縁にあり、[村の]南東に位置する。マシュハドは削りだされた石を積んで造られた四つの壁をもっていて、それは、高さ80アラシュ、幅40アラシュ、壁の高さは20アラシュである。壁の頂部は2アラシュの厚さになっている。この建物の短辺はミフラーブとマクスーラにされており、マクスーラには素晴らしいミフラーブがいくつか造られている。マクスーラには二つの墓が置かれており、彼ら[=墓の主]の頭はキブラの方を向いている。どちらとも削りだされた石でできており、人の背丈ほどの高さがある。右手のものはアブラハムの息子イサクの墓で、もう一方は彼[=イサク]――彼に平安あれ――の妻のものである。二つの墓の間は10アラシュほどである。

 このマシュハドの中は、床も壁も、高価な敷物やマグリブ産のむしろで飾られており、[それらは]錦よりも素晴らしいほどである。私はそこで礼拝用のむしろを見た。それはエジプトのスルターンの下僕である総司令官が送ったものであるという。その礼拝用の敷物は、エジプトで30マグリビー・金ディーナールで買われたといわれており、もし同じ大きさのルームの錦ならばそんな値段はしなかったであろう。私は、あれほどのものはどこにおいても見たことがない。

 マクスーラから外に出ると、マシュハドの中庭の中央に二つの建物があり、ともにキブラに対面している。右側の建物の中には[神の]友アブラハム――彼に平安あれ――の墓がある。それは大きな建物で、内部にはもう一つの建物があるが、その周囲を回ることはできない。四つの窓があり、参詣者たちは建物の周囲を回り、それらの窓から墓を見るのである。建物の地面や壁には錦の敷物が敷きつめられており、墓は石造りで3ガズの高さがある。銀の燭台とランプが、多く吊るされている。

キブラの左手の建物の中にはアブラハム――彼に平安あれ――の妻であったサラの墓がある。そして、二つの建物の間には通路がある。二つの建物の扉はともにこの通路に面しているので、[通路は]通廊のようになっている。そこにはまた燭台やランプがたくさん吊るされている。この二つの建物の両方を通りすぎると、互いに近接した別の二つの墓がある。右手には預言者ヤコブ――彼に平安あれ――の墓があり、左手にはヤコブの妻の墓がある。次に、アブラハム――彼に神の祝福があらんことを――が接客に用いたいくつかの建物がある。このマシュハドには六つの墓がある。壁の外には窪地/下り坂があり、そこにはヤコブの息子ヨセフ――彼に平安あれ――の墓がある。素晴らしいドームが架けられ、石造りの墓が造られている。ヨセフ――彼に平安あれ――のドームとこのマシュハドとの間は野原になっているが、[そこには]墓地がつくられている。さまざまな場所から死体がそこに運ばれ、埋葬されている。マシュハドにあるマクスーラの屋上には、来訪客のために小部屋が造られている。このマシュハドに対して村々やエルサレムの賃貸物件が多くワクフとされている。この一帯[で育てられているの]は大部分が大麦で、小麦は少ししかなく、オリーブがたくさんある。来訪客や旅人や参詣者たちにパンとオリーブが与えられる。そこには、毎日騾馬や牛を使って粉を挽いている臼がたくさんある。そして、毎日パンを作る女奴隷がいる。彼女らのパンは11マン[の重さ]である。そこに着く者は誰でも、毎日1個のパンと、オリーブオイルで調理されたレンズマメ一椀を与えられ、干しぶどうもまた与えられる。この慣習は、神の友[=アブラハム]――彼に平安あれ――の時代から今のこの時にいたるまで続いてきた。500人もの人々がやってくる日もあるというが、みながその供応に与ることができるという。

このマシュハドには最初扉がつくられておらず誰も入ることができなかったので、イーワーンから、つまり外から参詣していたという。マフディーがエジプトの王位についた時、このマシュハドに扉を開けるように命じた。多くの調度、敷物や壁掛けが置かれ、大規模な造営事業が行われた。マシュハドの扉は北側の壁の中ほどにあり、地面から4ガズ上にある。石段が二方向から造られており、一方は上り口で、他方は下り口である。小さな鉄の扉がそこに据えつけられている。

 その後、私はそこからエルサレムへ来た。そしてエルサレムから、ヒジャーズに向かう一団とともに徒歩で進んだ。案内人は屈強な男で、健脚であった。彼はアブー・バクル・ハマダーニーと呼ばれていた。438年ズー・アル=カアダ月15日(nimah:1047513日)、エルサレムを出発し、3日でアルアルと呼ばれる所に着いた。そこにも流れる水と木々があった。次いでワーディー・アル=クラーと呼ばれる別の宿場に着いた。そこから別の宿場に着き、そこから10日でメッカに着いた。その年、巡礼のキャラバンはどこからも来なかった。食糧が調達できなかったのである。それから私は、預言者――神よ彼に祝福と平安を与えたまえ――の門の向かいにある薬種商小路に下り立った。月曜日には私たちはアラファートにいた。人々はアラブ[=ベドウィン]を恐れていた。アラファートから戻ると二日間メッカに滞在し、シリアへの道をエルサレム方面へ戻った。

 ヒジュラ暦439年ムハッラム月5日(104772日)、私たちはエルサレムに到着した。最後の巡礼のところで詳述するつもりなので、ここではメッカと巡礼のことを詳しくは述べなかった。

 キリスト教徒たちは、エルサレムにビーア・アル=クマーマと呼ばれる教会を持っている。その教会はとても崇敬されている。毎年、ルームからたくさんの人がそこに参詣に来る。ルームの王もまた、誰にもわからぬように密かに訪れる。エジプトの王がハーキムであった時代、ルームの皇帝がそこを訪れていた。ハーキムはそれを知っていた。従者を彼のもとへ派遣し、彼[=従者]に「エルサレムの集会モスクにこれこれの外見・容貌の男が座っている。彼のもとに行って、次のように言え」と指示した。すなわち、「私はハーキムの命令でお前のもとに遣わされてきた。彼[=ハーキム]は、『私がお前のすることを知らないと思うな。しかし、手出しはしないので安心しろ』と言っている」と。そしてまたハーキムは、命じてその教会を略奪させ、[基礎を]掘り返させ、破壊させた。[その結果教会は]しばらくの間、破壊されたままになっていた。その後、皇帝は贈り物を持たせた使節を派遣し、大いに礼を尽くし、和議を求め、執りなした。そこで教会を修理する許可が与えられ、[教会は]再建された。

 この教会は8000人を収容することができるほどの広い場所である。その全体は多色の大理石や絵でとても贅を凝らして造られ、飾られている。教会の内部はルーム産の錦で飾られ、絵が描かれており、たくさんの純金が使われている。ロバに乗ったイエス――彼に平安あれ――の肖像画がいくつかの場所に描かれている。アブラハム、イシュマエル、イサク、そしてヤコブとその子どもたちなど、他の預言者――彼らに平安あれ――の肖像画も描かれ、[その上には]サンダラク・ニスが塗られている。それぞれの肖像画の大きさに応じて薄いガラスがつくられ、肖像画の表面に置かれている。[このガラスは]とても透明なので、絵を隠すことはない。それは、塵や埃が肖像画の上に積もらないように置かれているのである。毎日このガラスの表面を職員が掃除する。これ以外にも、全て贅を凝らされた他の幾つかの場所がある。[しかし、]その解説を書くと長くなってしまうであろう。

 この教会に、天国と地獄を模して造った二つの部分からなる場所がある。一方には天国の住民と天国の描写があり、他方には地獄の住民と地獄、およびそれに類するものの描写がある。それは、まさに世界に類を見ないような場所である。その教会にはたくさんの司祭や修道士がおり、福音書を読み、礼拝し、日夜勤行している。

エルサレムの後、私は海路エジプトに向かい、そこから再びメッカに向かうことを決意した。逆風のため海路で行くことは難しく、陸路で行き、ラムラを通過した。アスカラーンと呼ばれる町に到着した。[その町は]海に面していて、大きな町で、良い市場と集会モスクがあった。そこで古いアーチを見た。モスクであったそうである。それは石のアーチで、とても大きく、それを壊そうとするならば多くの費用をかけなければならないであろう。

 そこから出発し、道中では多くの村や町を見たが、それらの描写は長くなってしまうので簡潔にした。ティーナと呼ばれる所に着いた。そこは船が着く港であった。そこからティンニースへの便があったので、ティンニースまで船で行った。

 このティンニースは島で、素晴らしい町であり、陸地から遠く、町の屋上から対岸が見えないほどであった。町は建物でいっぱいで素晴らしい市場もあった。そこには二つの集会モスクがあり、おそらく一万軒の店があり、百軒は薬種商である。そこでは夏には市場でカシュカーブを売っている。暑い町で、病気が多いからである。

そこでは、色物の亜麻布でターバンやウィカーヤ、そして女性が着るような物が織られている。ティンニースのものに匹敵するような色物の亜麻布はよそでは織られていない。白いものはダミエッタで織られているが。スルターンの工房で織られるものは、誰にも売られないし、与えられることもない。聞くところによれば、ファールスの王が一揃いの特製の衣服を買うために2万ディーナールをティンニースに送り、[彼の使者は]数年そこに留まったが、買うことはできなかった。そこには特製の衣服を織る有名な織工たちがいる。聞くところによると、そこである人物がエジプトのスルターンのターバンを織ったところ、[スルターンは]それに対して500マグリビー・金ディーナール[の支払い]を命じたという。私はそのターバンを見た。人々は、4000マグリビー・ディーナールの価値があると語っていた。

このティンニースの町では、世界の他のどこにもないカメレオン布が織られている。それは一日のいつ見ても違う色に見える色物の布である。その布はティンニースから東方にも西方にも運ばれる。聞くところによれば、ルームのスルターンが人を送り、エジプトのスルターンに、「彼[=ルームのスルターン]の王国の百の町を取り、ティンニースを彼に与える」ように願い出た。しかし、[エジプトの]スルターンは承諾しなかった。ルームのスルターンがその町を望んだのは、亜麻布とカメレオン布のためであった。

 ナイルの水が増加すると、海の苦い水はティンニースの周りから遠ざけられ、町の周りでは10ファルサングのところまで海の水が良くなる[=真水になる]。さて、この島と町には大きな水槽が地下に掘り下げられており、しっかりと固められている。人々はそれをマスナウと呼んでいる。ナイルの水が卓越し、塩辛く苦い水が遠ざけられると、この水槽は満たされる。水路が開かれると海の水がこの水槽やマスナウに入ってくるようになっているのである。この町の水は、ナイルの増水時に満たされたそれらのマスナウからのものであり、次の年までそこから水を汲み、使っている。水をたくさん持っている人は他の人々に売る。ワクフとされているマスナウも多い。旅人に[水を]与えるためである。

このティンニースの町には5万の男がおり、いつも千隻にのぼる商人たちの船が町の周りに繋いである。スルターンの船も多くある。この町には何もないので、必要なものは全て[外から]持ち込まなければならない。[その上]島であるため、全ての取引は船で行われるのである。そこには、十分な装備の軍隊が警戒のために駐屯している。フランクやルーム[の国]から誰もそこを攻めたりしないためである。私が信頼できる人々から聞いたことには、定められた額として、毎日1000マグリビー・ディーナールがそこからエジプトのスルターンの財庫へと届けられている。その金は、不足したりすることがないように、町の人々から一人の徴収者に決まった日に引き渡され、彼が財庫に届ける。

誰からも何かが強制的にとられることはない。官庁やスルターンが職人に対してまともな支払いをしようとしない他の地方と違い、人々がスルターンの仕事を喜んで行うように、スルターンのために織られる全ての亜麻布とカメレオン布にはたっぷり対価が支払われている。らくだ用の輿に使う布と馬の鞍敷きが、カメレオン布でスルターンのために特別に織られる。その町の果物と食糧はエジプト/カイロのルースタークから運ばれる。そこでは鋏やナイフなどのような鉄の道具がつくられている。カイロでこの島から運ばれた鋏を見たが、その値段は5マグリビー・ディーナールであった。この鋏は留め金を引き抜くと二つに別れ、留め金を差し込むと使えるような仕組みになっていた。ここの女性たちは、時々病気になるが、[その時には]てんかん患者のように23回叫び声をあげたあとに意識が戻る。私はホラーサーンで、女性たちが猫のように叫び声をあげるようになる島があると聞いたことがあった。それは、まさに今書いたような具合である。

 ティンニースからコンスタンティノープルまで船で20日の道のりである。私たちはエジプト/カイロへと向かった。海岸に着くとすぐに、船はナイル川を溯り始めた。ナイル川は海に近づくと枝分かれして海に注ぐ。私たちが溯っていた支流はルーミシュ(?)と言われていた。船で川を上り続け、サーリヒーヤ呼ばれる町に着いた。それ[=サーリヒーヤ]は、豊かで食糧豊富な村である。船が多く造られ、それぞれ[の船]に200ハルワールの荷が積まれ、カイロに運ばれる。船は食料品屋の戸口まで行くのである。そうせずにあの町の食糧を駄獣で運ぶのは、町の雑踏からいって不適当であろう。私たちはこのサーリヒーヤで船を下り、その夜、カイロ近郊へ行った。

 439年サファル月7日日曜日(104783日月曜日)、昔のイラン暦シャフリーヴァル月1日、私たちはカイロにいた。(つづく)


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