ナースィレ・フスラウ著『旅行記』訳註(IV)
森本一夫監訳、北海道大学ペルシア語史料研究会訳
※以下は、『史朋』38 (2005). 23-50に掲載された訳註 (IV) の本文です。註釈と本文中の転写は略してあるのでご注意下さい(ただし、一部省略すると意味が通じなくなる転写があり、それは略していません)。また、その他にも適宜変更が加えてあり、かならずしも雑誌掲載分そのままではないことをご了解ください。引用なさる際には必ず『史朋』を参照し、そちらにもとづいていただけるようお願いします。
※『史朋』の当該号は北海道大学東洋史談話会によって、随時販売されています。1,500円だそうです。入手に関しては、こちらをご覧ください。
※訳註本文の当サイト掲載を快諾して下さった『史朋』編集委員会に感謝いたします。
目次
監訳者序
メッカ
ハラーム・モスクとカアバ神殿
カアバ神殿の扉を開くこと
ターイフ
ラフサー
バスラ
アッラジャーン
イスファハーン
カーイン
帰郷
2003年2月刊行の第35号から4号にわたって『史朋』に連載してきたこの訳註も、今回掲載分でついに完結する。短めのテクストであるとはいえ、とにかく一つの史料を最初から最後まで訳し通したことは立派な達成である。森本の苛斂誅求にもめげることなく毎週の輪読会に参加し続けてくれた北海道大学ペルシア語史料研究会のメンバーに、まずはお祝いと慰労の言葉を捧げたい。また、この間には少なからぬ数の方々にさまざまなご意見や励ましをいただいた。改めて御礼申し上げる次第である。
訳註(III)の監訳者序にも記したが、森本は昨年度の前期一杯で所属を東京大学に移し、今年の2月下旬には札幌を離れた。したがって、今回連載分の訳文は2月までの輪読会の成果ということになる。例年は7月までの成果を夏休みにまとめるというスケジュールをとっていたので、大体同じ量のテクストを2月までに読み終えるのには、「ちょっとした」無理が必要であった。なかでも昨年9月に一日9時間の読書会を3日にわたって行ったことは、今となっては良い思い出である。今回、その強行軍に落伍することもなく下訳作成を行ったのは、長峰博之、亀谷学、山畑倫志、工藤健、黒田賢治、山下文平、高野悠の各君であった。
今回掲載分はメッカに関する詳細な記述に始まり旅の終わりまでを含むが、我々の旅行者の姿がこれまでになく前面に出てくるのが一つの特徴であると言えよう。苦難に満ちたアラビア半島横断行では、同行のベドウィンたちが食べるトカゲをどうしても食べることができない様が、またバスラでは、あまりのみすぼらしさに入場を断られた公衆浴場に懐具合が良くなった後でわざわざ行ってみるという子供じみた行為が、記されている。旅の終わりに兄弟に再会するシーンにおいても、心浮き立つ一行の様が目に浮かぶようである。読者におかれても、まずは難しいことを横に置いて、この波乱万丈の旅の記述に浸っていただければ幸いである。
さて、『旅行記』の最後は、
我々は終わりのあるこの旅を行くことにしよう
終わりのない旅が始まる時まで
という詩行で飾られている。メンバーが終わりのない旅に出るのにはまだ早すぎるように思われるが、森本と北海道大学ペルシア語史料研究会の旅はこれで無事に終えることができた。キャラバンはここで解散して、これからはそれぞれの旅路を行くことにしたいと思う。
(森本一夫)
訳註
メッカ−崇高なる神よそれを高貴なものとしたまえ−の町の描写。メッカの町はそう高くはない山々に囲まれている。どの方角から町へ向かっても、到着するまではメッカを目にすることはできない。メッカの近辺で最も高い山はアブー・クバイス山である。それはドームのように丸く、[高さはといえば、]麓から矢を放てば頂上に届く程度である。この山は町の東に位置しており、ダイ月にハラーム・モスクにいると、太陽がその頂上から昇ってくる。頂上には石で造られた柱がある。アブラハム−彼に平安あれ−が造ったと伝えられている。山に囲まれた空間が町になっているが、縦横の長さはどちらも弓の射程距離二つ分を越えてはいない。ハラーム・モスクはその平地の中央にある。ハラーム・モスクの周囲は全て町となっており、小路や市場がある。山の全ての切れ目には壁が造られ、門が据えられている。町の中には樹木はまったくないが、唯一、ハラーム・モスクの西側のアブラハム門と呼ばれている門のそばの泉のところには何本かの高い木があり、よく育っている。ハラーム・モスクの東面に沿って大きな市場が南北に伸びている。市場の南端にはアブー・クバイス山がある。アブー・クバイス山の山裾はサファーである。サファーでは山裾が大きな階段のようにされ、岩が整然と敷いてある。人々はそれらの段に登り祈願するのである。「サファーとマルワを行う」と呼ばれているのがそれである。市場の北端にはマルワの丘がある。それは少し高い。その上には多くの家屋が建てられており、[サファーとの]間は町になっている。[サアイの際には]この市場を端から端まで走り抜けるのである。ウムラをしようと遠くから来る者のためには、メッカから半ファルサングの[距離に当たる]随所に、ウムラに向けて斎戒する場所として柱やモスクが建てられている。斎戒に入るというのは、縫い目のある服を脱ぎ、腰布を巻き、別の布もしくは覆い布を体に巻いて、大声で「あなたの御前に参りました。神よ。あなたの御前に参りました」と言うことである。[それから]メッカへと向かうのである。すでにメッカにいる者がウムラを行おうとする場合には、これらの柱のところに行き、そこで斎戒し、「あなたの御前に参りました」と唱えてから、ウムラをしにメッカに入る。
町に着くと、ハラーム・モスクに入る。カアバ神殿に近づき、[向かって]右側に、すなわちカアバ神殿が左手にあるようにして回る。黒石のある角に行き、石に接吻し、そこを通り過ぎる。同じように回って、再び石のところに行って接吻すると、タワーフの1周分となる。このようにして7周する。3周は急いで走り、4周はゆっくりと行く。タワーフを終えると、カアバ神殿の正面にあるアブラハム−彼に平安あれ−のお立ち所のところへ行き、お立ち所がカアバとの間に来るようにお立ち所の後ろに立って2ラクアの礼拝を行う。これをタワーフの礼拝呼んでいる。それからザムザムの井戸の建物に入り、そこから水を飲むか[水を]顔にすりつける。そして、モスクの門の一つであるサファー門からハラーム・モスクを出る。そこから外に出るとサファーの丘があるので、その丘の段に登り、カアバ神殿の方を向いて、よく知られた祈願を唱える。唱え終わると、[サファーから]下り、市場の中を南から北へとマルワに向かって行く。その市場の中を行くと、ハラーム・モスクの諸門の前を[次々と]通ることになる。その市場の中には、使徒−神よ彼と彼の一族に祝福を与えたまえ−がサアイをして早駆けし、また他の者たちにも早駆けするように命じた50 歩分ほどの場所がある。この場所の両端の両側に、[都合]四つの柱がある。サファーの丘から[片側の]二つの柱の間まで来た人々は、そこから市場の向こう側の別の二つの柱の間まで駆ける。そのあと、マルワの丘までゆっくりと行く。段まで行くと、そこに登り、よく知られた祈願を唱えてから戻る。再度その市場の中に入り、そうして4度サファーからマルワ、3度マルワからサファーへ行く。つまり、7度その市場を通ることになる。マルワの丘から下ったところに市場があり、20軒の店が向かい合っている。すべてに吸角師がおり、ウムラを終え聖域から出てきた[者たちの]頭髪を剃る。東にあり、薬種市場と呼ばれているこの大きな市場には素晴らしい建物があり、すべて薬種商である。
メッカには二つの浴場があり、砥石にも使われる緑の石が床に敷かれている。私は、メッカには住民は2千人以上はおらず、残りの500人近くは旅人か聖地滞在の人々であると推定した。そのときはちょうど飢饉で、小麦16マンが1マグリビー・ディーナールし、一部の人々がそこを去っていた。
メッカの町の中には、ホラーサーン、マー・ワラー・アン=ナフル、イラクなどのくにぐにの各都市の人々のための宿があったが、その多くは荒廃し崩れていた。バグダードのカリフたちが多くの素晴らしい施設と建物をそこに建設したが、私たちが到着したときにはその一部は壊れ、一部は私物化されていた。
メッカの井戸水はすべて塩辛くて苦く、飲むことはできないほどである。しかし、それぞれに1万ディーナールほどが費やされたであろう大きな水槽やマスナウがたくさん造られている。当時、それらは谷から注ぎ込む雨水で満たされるようになっていたが、私たちが滞在していたときには空であった。アデンのアミールであったシャード・ディルの息子と呼ばれる人物が、多くの財を費やして地下水道を掘り、水をメッカにもたらしていた。[しかし、]アラファートでその水を用いて農耕を行い、またわずかな水がメッカに届く以外は水を堰き止めてメロン畑をつくっていたので、水は町までは届いていなかった。[そのため、]その水を貯める水槽が造られ、水売りたちはその水を汲み、町に運んで売るのである。ブルカに向かって半ファルサングのところには、禁欲者の井戸と呼ばれる井戸があり、そこには素晴らしいモスクがある。その井戸の水は良い水で、水売りたちはそこからも水を町に運んで売る。
メッカの気候は大変暑い。そこでは、昔のバフマン月の最後に、新鮮なきゅうり、バードラング、なすを見た。私がメッカに行ったのはこれが4度目であり、442年ラジャブ月1日(1050年11月19日)からズー・アル=ヒッジャ月20日(1051年5月5日)まで聖地に滞在した。昔のファルワルディーン月15日には、実ったぶどうがルースタークから町に運ばれ、市場で売られていた。ウルディービヒシュト月1日には、たくさんのハルボゼ瓜が実っていた。そこでは、冬でもあらゆる果物が見られ、なくなることはない。
アラブとイエメンの地の描写。メッカから南へ行くと、一つの宿場を経てイエメン地方に到着する。海岸にいたるまでのすべての地がイエメン地方である。イエメンの地とヒジャーズの地は隣接しており、二つの地方ではともにアラビア語が話される。イエメンの地は慣用的にヒムヤルと、ヒジャーズの地はアラブと呼ばれる。この二つの地の三方は海であり、島のようになっている。まず、東はバスラの海である。西は前述の湾、紅海であり、南には大海が広がる。イエメンとヒジャーズからなるこの島の長辺はクーファからアデンまでであり、南北に約500ファルサングある。短辺は東西にオマーンからジャールまでであり、約400ファルサングである。アラブの地はクーファからメッカまでであり、ヒムヤルの地はメッカからアデンまでである。アラブの地では集住地は少なく、人々は荒野や沙漠の民であり、駄獣や家畜を飼い、天幕に住んでいる。ヒムヤルの地は三つの部分からなる。一つ目はティハーマと呼ばれる。それは西側が紅海に面する海岸地帯であり、サアダ、ザビード、サヌアなどといった町や集住地がたくさんある。これらの町は平野にある。この地の王は、シャード・ディルの息子に属するエチオピア人の僕であった。ヒムヤルをなす別の部分はナジュドと呼ばれる山地である。そこには荒れ地や寒冷地、そして山峡や堅固な砦が見られる。三つ目の部分は東部にあり、ナジュラーン、アスル、ビーシャなどの多くの町がある。この地域は多くの地区に分かれており、それぞれの地区に王や長がいる。そこには絶対的なスルターンや支配者はおらず、不羈の民で、その大部分は泥棒や人殺しや強盗である。この地域はおおよそ200ファルサングかける150ファルサング[の面積]である。さまざまな種類の多くの住民がいる。グムダーンの宮殿はイエメンのサヌアと呼ばれる町にある。宮殿の跡はいま、町の中央で丘のようになっている。そこでは、この宮殿の主は全世界の王であったといわれている。また、その丘には多くの財宝が眠っているが、スルターンであろうと臣民であろうと誰も手を出すことはないといわれている。このサヌアの町ではめのうを加工している。それは山から採掘される石であり、砂に包まれ平鍋に乗せられて火にかけられる。さらに、砂に包まれたまま太陽光のもとで熟成させられたあと、回転式研磨機で整形される。私はミスルでイエメンからスルターンのもとに剣が送られてきたのを見た。その剣の柄と鍔はルビーのように赤い一個の赤めのうでできていた。
ハラーム・モスクとカアバ神殿の描写。すでに述べたように、カアバ神殿はハラーム・モスクの中央にあり、ハラーム・モスクはメッカの町の中央にある。その[=ハラーム・モスクの]縦は東西方向であり、横は南北方向である。
しかし、モスクの壁は直線ではない。隅が曲がっているので、[全体として]円に近い形である。というのも、モスクで礼拝が行われるとき、すべての方向から神殿を向かなければならないからである。モスクの最長部分は、アブラハム−彼に平安あれ−の門からハーシム家の門までであり、424アラシュである。横は、北の合議門から南のサファー門までであり、その最長部分は304アラシュである。[横幅とは言っても、]円くなっているために、短く見える場所と長く見える場所があるのである。モスクの周囲には三つの天蓋つきの柱廊がある。大理石の柱で支えられており、建物の真ん中[の中庭部分]を四角形に区切っている。モスクの中庭の方にある天蓋の縦の長さはアーチ45個分であり、横幅はアーチ23個分である。大理石の柱は全部で184本である。これらの柱はすべてバグダードのカリフたちがシリア方面から海路で運ぶように命じたものであるという。また、この柱をメッカに送るときに船と荷車の中で結ぶのに使われて千切れていた綱を売ったところ、代価として6万マグリビー・ディーナールが得られたという。その柱のうちの一本が合議門と呼ばれるところにある。赤い大理石の柱である。この柱は同重量のディーナール金貨で買われたというが、その柱一本で3千マンはあろうと推定された。
ハラーム・モスクには十八の門があり、そのすべてが大理石の柱に支えられたアーチでできている。どの門にも閉じることができるような扉は取りつけられていない。東側には四つの門がある。北の角には預言者の門があり、三つのアーチからなるが、閉じられている。南の角にも別の門があり、これもまた預言者の門と呼ばれている。この二つの門の間は100アラシュ以上ある。また、こちらの門は二つのアーチからなる。この門から外に行くと、薬種市場がある。使徒−神よ彼に祝福と平安を与えたまえ−の家はこの街区にあった。彼はこの門を通ってモスクに礼拝に来ていたのである。この門を通り過ぎると、また東側の壁にアリー−彼に平安あれ−の門がある。信徒たちの長アリー−彼に平安あれ−が礼拝のためにモスクへと通った門である。この門は三つのアーチからなる。この門を通り過ぎると、モスクの角、サアイの場所に面して柱がある。ハーシム家の門のところにある柱からここまで早駆けしなければならない。この柱も、前述の四つの柱の一つである。モスクの縦にあたる南側の壁には七つの門がある。第一[の門]は半円状にされた角のところにある粉屋門であり、二つのアーチからなる。少し西側に行くと二つのアーチからなる別の門があり、ファッサーニーン門と呼ばれている。同様に少し行くと、サファー門と呼ばれる門があり、五つのアーチからなる。この真ん中のアーチが最も大きい。真ん中のアーチの両側には二つずつの小さなアーチがある。神の使徒はサファーに行き祈願を行うためにこの門から外に出たのである。この真ん中のアーチの敷居は巨大な白い石である。かつては黒い石であったが、使徒−神よ彼に祝福と平安を与えたまえ−が祝福された足を置くと、その石に彼の祝福された足跡が残された。足跡は黒い石から切り出され、つま先がモスクの中を向くようにその白い石にはめ込まれた。巡礼者の中には、祝福を受けるためにその足跡に顔をつける者もいれば、足をつける者もいる。私は足跡に顔をつけることがよりふさわしいと思った。サファー門から少し西側に行くと、二つのアーチからなるトゥワー門がある。そこから少し行くとナツメヤシ屋門に着く。二つのアーチからなる。それを過ぎると、二つのアーチを持つ工房門がある。その向かいにアブー・ジャフルの屋敷があるが、今は便所である。
モスクの横に当たる西側の壁には、三つの門がある。一つめは南の角にあり、絆門と呼ばれ、二つのアーチからなる。辺の中央には三つのアーチを持つアブラハム−彼に平安あれ−門がある。モスクの縦に当たる北の壁には、四つの門がある。西の角にはアーチ一つの中央門がある。その門から東に行くと、急ぎの門があり、一つのアーチからなる。それを過ぎると北辺の中央にアーチ二つの合議門がある。その門を過ぎると相談門があり、アーチ一つである。こうしてモスクの北東の角に着くと門があり、シャイバ家の門と呼ばれている。
カアバ神殿はモスクの中庭の中央にあり、長辺は南北、短辺は東西に向く長方形である。長辺は[17アラシュ、高さは]30アラシュ、短辺は16アラシュである。神殿の入口は東側にある。神殿に入ると、イラクの角が右手に、黒石の角が左手にある。南西の角はイエメンの角と呼ばれており、北西の角はシリアの角と呼ばれている。
黒石は壁の隅にあり、大きな石にはめ込まれて設置されており、上背のある男性の胸の高さくらいのところにある。
黒石の長さは1バダスト4アングシュトであり、円い形をしている。黒石から神殿の入口までは4アラシュである。黒石と神殿の入口の間はムルタザムと呼ばれている。入口は地面から4アラシュの高さにあり、上背のある男性が地面に立つと敷居に届くくらいである。木の階段がつくられており、必要なときに入口の前に置かれる。人々はそれを上り神殿に入る。階段は10人の男が横に並んで上ったり下りたりできるほどの広さである。神殿の床はすでに述べた高さである。
カアバ神殿の扉の描写。カアバ神殿の入口はチーク材でできた一対の扉からなる。扉の高さは6アラシュ半である。扉の幅はどちらも1と4分の3ガズであり、二枚の扉を合わせると3ガズ半になる。扉の表面には下から上へと重なるように銘文が書かれている。円や銘文を描き出したその銀細工の上に模様が象嵌され、金字の銘文が書かれ、銀が這わせてある。そこには「人々のために建てられた最初の聖殿はバッカにあるあれだ」[Q3:96]というクルアーンの章句が最後まで書かれていた。ガズナから送られてきた大きな銀製の輪が、それぞれの扉の、誰の手も届かないほどの高さのところに取りつけられている。またそれより小さい別の銀製の輪が、それぞれの扉の、誰の手でも届く高さのところに取りつけられている。入口を閉じるための銀製の大きな錠前が小さい方の二つの輪に通されている。その錠前が外されない限り入口が開くことはない。
カアバ神殿内部の描写。壁の幅、すなわちその厚さは6シブルである。神殿の床にはすべて白い大理石が敷かれている。神殿の中には[市場の中の]店に似た三つの小さな部屋がある。一つは入口の向かいにあり、二つは[それぞれ]南側と北側にある。神殿の中にある天井にいたる柱はみな木製である。一本の丸い柱を除けば、みな四角く削られており、チーク材でできている。北側には地面に敷かれた細長い赤大理石の板がある。使徒−神よ彼と彼の一族に祝福を与えたまえ−がそこで礼拝したといわれている。それを知る者は皆そこで礼拝しようと努める。神殿の壁は全て色とりどりの大理石の板で覆われている。西側には銀製のミフラーブが六つあり、壁に釘で留められている。みな男性の背丈ほどであり、金細工と黒ずんだ銀によって大変豪華に飾られている。これらのミフラーブは床から離して高く設置されている。神殿の壁は床から4アラシュほど上までは飾り気がない。しかしそれより上は、四つの壁すべてに、天井にいたるまで彫刻と模様が施され、ほとんどが金で覆われた大理石が貼られている。既に述べたように、神殿には三つの部屋がある。一つはイラクの角のところ、一つはシリアの角のところ、一つはイエメンの角のところにある。どの隅にも二枚の木板が銀の釘で壁に留められている。これらの板はノア−彼に平安あれ−の船のものである。どの板も長さ5ガズ、幅1ガズである。黒石の後ろにある部屋の中には赤い錦が掛けてある。神殿の入口から中に入ると、右手に当たる神殿の角に四角形の囲いが造られている。3ガズ四方ほどの大きさであり、そこには神殿の屋根につながる階段がある。一つの扉からなる銀製の戸がそこに据えられており、慈悲の門と呼ばれている。それには銀製の錠前がつけられている。屋根に上がると、[よくある]屋根の戸のように揚戸となっている別の扉がある。その扉の両面は銀で覆われている。神殿の屋根は木で覆われているが、全面に錦がかぶせられており木は全く見えない。正面の壁面には、[屋根の]木の高さほど[のところ]に金の銘文が留められている。メッカをアッバース家のカリフたちの手から奪ったミスルのスルターンの名がそこに書かれている。そのスルターンとはムイッズであった。
また、同じ寸法の四つの大きな銀の板があり、それらも神殿の壁に銀の釘で留められている。それぞれにカイロのスルターンたちの一人の名が書かれている。それは、彼らが自らの治世にその板を送ってきたからである。
柱の間に、三つの銀製のランプが吊り下げられている。神殿の背面は、あたかも水晶であるかのようなイエメン産の大理石で覆われている。神殿には四つの小窓が四隅にあり、どの小窓にもガラス板がはめ込まれている。それによって神殿は明るく、また雨が降りこむこともない。神殿の雨どいは北の辺の真ん中にある。雨どいの長さは3ガズであり、端から端まで金で銘文が書かれている。
神殿を覆う布は白く、二箇所に銘文の帯がある。銘文の帯の幅は1ガズであり、二つの帯の間は約10ガズである。[また、二本の銘文の帯の]下と上も[白地の部分が]同様[の幅]である。つまり、神殿は二本の銘文の帯によって大体10ガズ幅の三つの部分に分けられていた。布には四方に多色のミフラーブが織り出され、金糸で模様が美しく縫いとられている。それぞれの壁には三つのミフラーブがあり、大きなものが中央に、小さなものがその両脇に置かれている。つまりこの神殿には、四方の壁に十二のミフラーブがある。神殿の北側の外には、1ガズ半ほどの[高さの]壁が建てられている。この壁は半円のように弧を描いており、その両端は神殿の[二つの]角の近くまできている。この壁の中央部分は、神殿の壁から約15ガズ離れている。この場所の壁と地面には、多色で模様つきの大理石が貼られている。この場所はヒジュルと呼ばれており、神殿の屋根の雨どいの水はこのヒジュルに流れ込む。雨どいの下には、ミフラーブの形をした緑の石板が置かれており、雨どいの水はそこへ落ちる。その石は、人が礼拝することができるほどの大きさである。
アブラハム−彼に平安あれ−のお立ち所はカアバ神殿の東側にあるが、それはアブラハム−彼に平安あれ−の二つの足の跡がある石である。それは別の石の中にはめられ、この上なく素晴らしい細工によって、人の背丈ほどの木の囲いで四方を囲われている。銀の太鼓がそこに取りつけられている。その囲いは、人が[お立ち所に]手を出せないように、二箇所を鎖で大きな石につながれ、その鎖には二つの錠が掛けられている。お立ち所とカアバ神殿のあいだは30アラシュである。
ザムザムの井戸もまたカアバ神殿の東側、黒石の角の側にある。ザムザムの井戸とカアバ神殿の間は46アラシュである。井戸の大きさは3ガズ半かける3ガズ半である。その水は塩辛いが、飲むことができる。井戸の縁には、白い大理石の板で囲いがめぐらされており、その高さは2アラシュである。ザムザムの井戸の建物の四方には水場が造られており、人々はそこに水を注ぎ、沐浴を行う。ザムザムの井戸の建物の床は、木で格子状に造られており、こぼれた水が流れ落ちるようになっている。この建物の入口は東側にある。
ザムザムの井戸の建物の向かいの東側には、ドームが乗せられた別の四角形の建物があり、巡礼者の水飲み場と呼ばれている。その中には水甕が置かれており、巡礼者たちはそこから水を飲む。この巡礼者たちの水飲み場の東側には、三つのドームが乗せられた別の長い建物があり、油庫と呼ばれている。その中にはろうそく、油、ランプがある。カアバ神殿の周囲には多くの柱が立てられている。柱二本ごとに木が渡されており、それには精巧な彫刻が施され模様が描かれている。この木からは輪や鉤が下げられており、夜にはろうそくやランプをそこに置き、またランプをそこに吊るす。それは灯火台と呼ばれている。カアバ神殿の壁といま述べたこの灯火台のあいだは150ガズであり、タワーフの場所となっている。ハラーム・モスクの中庭にある建物は、至高なるカアバ神殿−崇高なる神よそれを高貴なものとしたまえ−を除けば、三つですべてである。一つはザムザムの井戸の建物であり、もう一つは巡礼者の水飲み場、またもう一つは油庫である。モスクの周囲の建物部分の壁際には、マグリブ、ミスル、シリア、ルーム、両イラク、ホラーサーン、マー・ワラー・アン=ナフルなどの各都市の櫃がある。
メッカの北、4ファルサングのところに、ブルカと呼ばれる地区がある。メッカのアミールは自分の軍を連れてそこにいる。そこには流れる水と木々がある。その地区は縦が約2ファルサングであり、横も同じくらいである。
私はその年、ラジャブ月1日(1050年11月19日)から聖地に滞在した。そこではいつも、ラジャブ月には毎日カアバ神殿の扉を日の出とともに開ける慣わしになっている。
カアバ神殿−崇高なる神よそれを高貴なものとしたまえ−の扉を開くことの記述。カアバ神殿の鍵はシャイバ家と呼ばれるアラブの一団が保持している。彼らは神殿への奉仕に従事しており、ミスルのスルターンから月給と賜衣が与えられている。彼らには長がおり、鍵は彼の手にある。彼が[神殿に]来るときには、他に五、六人が随行する。彼らがそこに着くと、巡礼者が十人行って、前述の階段を取り、持ってきて、入口の前に置く。長老はそれに登って、敷居に立つ。また別の二人がそこに登り、扉の布と錦を取り去る。一人が一方の端を、もう一人がもう一方を取り、長衣のようにして、扉を開いている長老を隠す。長老は錠を開いて輪から取り外す。多くの巡礼者が神殿の入口の前に立って[待って]いる。扉が開かれると彼らは[胸の前に]手を上げて祈願する。メッカにいる者はみな、巡礼者たちの声を聞くと聖域の扉が開かれたことを知り、一斉に大きな声で祈願を行う。こうしてメッカに大音響が起きるのである。その後、長老が中に入るが、くだんの二人は布を持ち続けている。長老は2ラクアの礼拝を行って出てくる。そして両方の扉を開けて敷居の所に立ち、大きな声でフトバを行い、神に神の使徒−神よ彼に祝福と平安を与えたまえ−と彼のお家の人々への祝福を求める。それから長老と彼の配下の者たちは神殿の入口の両側に立ち、巡礼者が中に入り始める。彼らは神殿に入り、各々2ラクアの礼拝を行い、外に出てくる。これが正午近くまで続けられる。神殿で礼拝を行うときには入口の方を向くことになっているが、別の方向でもよい。それ以上入る余地がないほど神殿が人で一杯になったときに数えてみると、720人がそこにいた。
巡礼にやってくるイエメンの人々は、一般に、インド人のように腰巻きを巻き、髪をざんばらにし、顎髭を編んでいる。また、インド人のようにカティーフ製/風の短剣を腰に差している。インド人の起源はイエメンにあり、[短剣を表す]カターラ(katarah)[という語]はもともとカターラ(qatalah)であったものがアラビア語化されたのだといわれている。シャアバーン月、ラマダーン月、シャウワール月の間は、月曜日、木曜日、金曜日にカアバ神殿の扉が開かれる。ズー・アル=カアダ月に入ると、もうカアバ神殿の扉は開かれない。
ジウラーナ[から]のウムラ。メッカから北に4ファルサングのところに、ジウラーナと呼ばれる場所がある。ムスタファー[=ムハンマド]−神よ彼に祝福と平安を与えたまえ−は軍隊とともにそこにいた。ズー・アル=カアダ月16日、そこで斎戒してメッカに向かい、ウムラを行った。そこには二つの井戸がある。一つは使徒の井戸と呼ばれ、いま一つはアリー・イブン・アビー・ターリブ−彼ら二人に神の祝福があらんことを−の井戸と呼ばれる。どちらの井戸の水もとても良く、二つの井戸の間は10ガズである。慣習は今も守られており、その時期にウムラが行われる。井戸の近くに山があり、そこの岩には碗のようなくぼみがある。預言者−神よ彼に祝福と平安を与えたまえ−がそれらのくぼみで自ら小麦粉をこねたといわれている。そこに行く人々は、それらのくぼみで前述の水を使って小麦粉をこねる。その地には木々が多い。それから薪が作られ、パンが焼かれ、祝福のために他の地方に運ばれる。そこにはまた高い山があり、ビラールがそこで礼拝の呼びかけを行ったといわれる。人々はそこに登り、礼拝の呼びかけを行う。私がそこに行ったときには大勢の人がおり、1千頭以上の輿つきらくだがいた。他は推して知るべきである。
ミスルからメッカまで、今回の道程では300ファルサングであった。メッカからイエメンまでは12ファルサングである。アラファートの野は丘のような低い山の間にある。野の広さは2ファルサング四方である。この野にはアブラハム−彼に平安あれ−が建てたモスクがあった。現在は日干し煉瓦でできた壊れたミンバルが残っている。正午の祈りの時間になると、ハティーブがミンバルに登り、フトバを行う。それから礼拝の呼びかけがなされ、旅人に対する決まりに従い2ラクアの礼拝が集団で行われる。そして、すぐに[また]礼拝開始が告げられ、さらに2ラクアの集団礼拝が行われる。ハティーブはらくだに乗り、皆で東に向かう。1ファルサング行くと、慈悲の山と呼ばれる低い岩山がある。太陽が沈むまでそこに立ち、祈願を行う。
アデンのアミールであったシャード・ディルの息子は遠く離れた地から水をひき、多くの財を費やした。[メッカをとりまく]山からアラファートの野に水をひき、そこに水槽を造り、巡礼者に水が充分あるようにするため、巡礼の時期には満たされるようにした。またこのシャード・ディル[の息子]は、慈悲の山の頂上に壮大なドーム建築を造った。[巡礼者が]アラファート[に滞在する]昼夜には、そのドームの上で多くのランプとろうそくが灯され、それは2ファルサング先からも見ることができる。メッカのアミールは彼から1千ディーナールを受け取り、そのドームの建設許可を与えたといわれていた。
442年ズー・アル=ヒッジャ月9日(1051年4月24日)、神−崇高たれ−のおかげで4度目の巡礼を成し遂げた。太陽が沈むと、巡礼者とハティーブはアラファートから戻り、マシュアル・アル=ハラームまで1ファルサング進んだ。そこはムズダリファと呼ばれている。マクスーラのような良い建物が建てられており、人々はそこで礼拝をし、ミナーで投げる石を拾う。その夜、つまり犠牲祭の前夜はそこで過ごし、朝に礼拝を行い、日の出とともにミナーに行くのが慣わしである。巡礼者はそこで供犠を行う。そこには大きなモスクがあり、そのモスクはハイフと呼ばれている。その日、ミナーで犠牲祭のフトバと礼拝を行う慣わしはなく、ムスタファー[=ムハンマド]−神よ彼に祝福と平安を与えたまえ−も命じていない。10日にはミナーに留まり、石を投げる。その解説は巡礼の儀礼[を説明した書物]で述べられている。12日になると、帰路につく者は、みなそこから[そのまま]去っていく。メッカに留まろうとする者はメッカに行く。
その後、あるアラブ[=ベドウィン]からラフサーまでらくだを借りた。彼らは、メッカからラフサーまで13日で行けると言っていた。神−崇高たれ−の館に別れを告げた。442年ズー・アル=ヒッジャ月19日金曜日(1051年5月4日土曜日)、昔のフルダード月1日、私たちはメッカから7ファルサング行った。牧草地があった。そこから山が姿を現した。山道に入ると、平野があり村々があった。フサイン・イブン・サラーマの井戸と呼ばれる井戸があった。そこの気候は寒かった。道は東に続いていた。442年ズー・アル=ヒッジャ月22日月曜日(1051年5月7日火曜日)、ターイフに到着した。メッカからそこまでは12ファルサングある。
ターイフは山頂にある地区である。メッカではハルボゼ瓜が豊富に出まわっていたフルダード月に、日向にいなければならないほど寒かった。ターイフの中心都市は小さな町である。堅固な壁を持ち、小さな市場と小ぢんまりとした金曜モスクがあり、流れる水とザクロとイチジクの木が豊富であった。アブドゥッラー・イブン・アッバース−神が彼を嘉したまいますように−の墓が町の近くにある。バグダードのカリフたちはそこに壮大なモスクを建設させ、墓を、ミフラーブとミンバルから見て右手の角にくるようにさせた。人々はそこに家をつくり、住むようになった。
私たちはターイフを発った。道中には山と峡谷があった。いたる所に小さな城砦と小さな村があった。峡谷の中にある荒廃した城砦を見せられた。アラブ[=ベドウィン]たちは、これはライラーの家であると言った。彼らの話は途方もない。私たちはそこから、ムタールと呼ばれていた城砦に着いた。ターイフからそこまで12ファルサングであった。そこからスライヤーと呼ばれる地区に着いた。そこには多くのナツメヤシ園があり、井戸と揚水車の水で耕作が行われていた。その地区には、どんな支配者もスルターンもおらず、いたるところに独立した長や長老がいるといわれていた。彼らは盗賊にして人殺しであり、毎日戦い争いあうのである。
ターイフからそこまでは25ファルサングとのことであった。私たちがそこを過ぎると、ジャズウと呼ばれる城砦があった。半ファルサングほど行く間に、四つの城砦があった。その中で最も大きいものに私たちは滞在したが、それはヌサイル族の城砦と呼ばれていた。[そこには]ナツメヤシの木が少しあった。私たちがらくだを借りていた人の家はこのジャズウにあった。私たちはそこに15日間滞在した。というのも、先に進むのに必要な保護者がいなかったからである。その地のアラブ[=ベドウィン]には、どの集団にも家畜に草を食べさせることができる縄張りがあり、よそ者はそこに入ることはできない。というのも保護者がいない者は、捕まえられて身ぐるみはがされるからである。それなので全ての集団には保護者[となる者]がおり、その縄張りを通ることができるようになっているのである(保護者とは護衛のことであり、案内人とも呼ばれる)。私たちの進路にいたサワード族と呼ばれるアラブ[=ベドウィン]の長がたまたまジャズウに来たので、私たちは彼を保護者とした。彼はアブー・ガーニム・アブス・イブン・バイールと呼ばれていた。私たちは彼とともに行った。一団の者たちが私たちに向かってきた。彼らは獲物を見つけたと思ったのである。彼らはよそ者を見ると獲物と呼ぶのである。しかし、彼らの長が私たちと一緒にいたので、何も言わなかった。彼がいなかったら私たちは殺されていたであろう。そうして私たちは、彼らの間にしばらく滞在した。先に進むのに必要な保護者がいなかったからである。そこから他の集団のところへ行くのに保護者を二人雇い、各々に10ディーナール与えた。これまでの人生でらくだの乳以外何も口にしたことがないと、70才の老人が私に語るようなアラブ[=ベドウィン]の集団がいた。というのも、その荒野にはらくだが食べる塩気のある草以外は何もないからである。彼らは全世界がそのようであると思っていたのであるが。
私は[ベドウィンの]集団の間を渡り歩いたが、どこもが危険と脅威に満ちていた。しかし、神−称えられ崇高たれ−は、私たちが無事にそこから出られるように望んでくださっていたのである。峡谷にあるサルバーと呼ばれる場所に着いた。各々がドームのような形をした山々があった。私はそのようなものはどの地域でも見たことがなかった。高さは矢が届かないほどではない。また、卵のように滑らかで堅く、裂け目や凹凸はまったく見られなかった。私たちはそこを通り過ぎた。私たちの同行者たちはトカゲを見つけると殺して食べていた。また、どこで見かけたアラブ[=ベドウィン]も、らくだの乳を搾っていた。私はトカゲもらくだの乳も口にできなかった。道中の灌木に豆のような実がなにがしかあるのを見るといくつか採って、それで満足していた。私たちはさまざまなことを経験して苦労し、大変な苦難を経た後、サファル月23日(1051年7月6日)にファルジュに到着した。メッカからそこまで180ファルサングであった。
このファルジュは荒野の真ん中にある。大きな地区であったが党派抗争によって荒廃してしまった。私たちが着いたとき、人が住んでいるところは[長さ]半ファルサング、幅1ミールほど[の広さ]であった。それだけのところに十四の城砦がある。[そこに住む]輩は盗賊や悪党であり無知である。この十四の城砦は二つの集団に分かれており、両者の間では争いや敵対が絶えなかった。「私たちはラッスの民の末裔である」と彼らは言った。ラッスの民とは、神−崇高にして神聖たれ−によってクルアーンで言及されている人々である。そこには四つのカーリーズがあり、その水はすべてナツメヤシ園に流れていた。彼らの農地は高い場所にあり、水はほとんどが井戸からとられていた。農地は牛ではなく、らくだで耕されていた。というのも私はそこでは牛を見なかったのである。彼らの農業はあまり盛んではない。どの男も一日10スィールの穀物のために働きに出る。それだけの量でパンを作り、日没の礼拝から次の日没の礼拝にかけて、ラマダーン中のように、少し食べる。しかし日中はナツメヤシを食べる。私はそこでとても素晴らしいナツメヤシを見た。バスラなどのものよりもよい。ここの人々は大変貧しく不運である。貧困にもかかわらず、彼らは毎日、争いや敵対や暴力沙汰を起こしている。そこにはマイドゥーンと呼ばれるナツメヤシがあり、一つ10[重量?]ディルハム[の重さ?]であった。その種は1ダーング半をこえない。20年間放置しても腐ることはないと聞いた。彼らはニーシャープールの金貨で取引を行っていた。最悪の状態の中、私はこのファルジュに4ヶ月滞在した。浮世のものは何一つ私のもとにはなく、ただ二箱分の本だけがあった。彼らは飢えて裸で無知な人々であった。礼拝に来る者はもちろんみな盾と剣を持ってきていた。書物を買いもしなかった。
モスクがあり、私たちはそこに滞在した。私は、朱と瑠璃の顔料を少し持っていたので、そのモスクの壁に[詩の]一対句を書き、隙間に枝や葉[の模様]を這わせた。彼らはそれを見て驚嘆した。城砦のすべての住民が集まり、見物にやって来て、私に言った。「もしこのモスクのミフラーブに模様を描いて下さったならば、あなたに100マンのナツメヤシを差し上げましょう。」100マンのナツメヤシは、彼らにとっては一財産である。というのも、私がそこにいる間に、アラブ[=ベドウィン]の一軍がやってきて、彼らに500マンのナツメヤシを要求したが、彼らは受諾せず戦った。城砦の住人が10人殺され、1千本のナツメヤシが切り倒されても、彼ら[=城砦の住民]は10マンのナツメヤシさえ与えなかった。彼らが私に[この]条件を示したので、私はそのミフラーブに模様を描いた。この100マンのナツメヤシは私たちにとっては救いであった。というのも食べ物を見つけることができず、生き残る望みを失っていたからである。どの方角であれ人の住んでいる所にいたるには200ファルサングの恐ろしい死の沙漠を横断しなければならなかったので、私たちはその沙漠から外に抜けられると想像することもできなかったのである。また、その4ヶ月の間には小麦が5マン集まっているのでさえ見たことがなかった。やがてついに、ヤマーマから、なめし革を手に入れラフサーに運ぶために隊商がやって来た。なめし革はイエメンからこのファルジュに持ち込まれ、商人たちに売られるのである。一人のアラブ[=ベドウィン]が、「俺がお前をバスラに運ぶ」と言った。しかし、私には運賃として渡すものは何もなかった。そこからバスラまでは200ファルサングであったが、らくだの借り賃は1ディーナールであった。良いらくだの値が2ディーナールや3ディーナールだったからである。私には現金がなく、後払いということになったので、彼は「バスラで30ディーナールくれればお前を連れて行く」と言った。仕方なく私は受け入れた。しかし私はそれまでバスラを見たことさえなかったのである。
それから、そのアラブ[=ベドウィン]たちは私の本をらくだに積み、私の兄弟をらくだに座らせ、私は徒歩で熊座の昇る方向に向かって進んだ。山も丘もない平らな土地で、地面が固いところには雨水が溜まっていた。どこにも道の跡が見えないところを、耳だけを頼りにして昼夜進んだ。不思議なことに、何の道標もないのに、突然水のある井戸にたどり着くのであった。そうして、4昼夜で私たちはヤマーマに着いた。
ヤマーマには大きくて古い城砦があった。城砦の外には町と市場があり、そこにはあらゆる種類の職人たちがおり、素晴らしい金曜モスクがあった。そこのアミールたちは古くからアリー家の人々であり、誰もこの地区を彼らの手から奪ったことはなかった。強力なスルターンや王がその近くにはいなかったからである。またこのアリー家の人々も、300や400の騎兵を出撃させることができるくらいの力を持っていたからである。彼らはザイド派であった。礼拝開始の呼びかけにおいて、「ムハンマドとアリーは最善の人である。最善の行いのために来たれ」と言う。人々が語るところによれば、その町の人々はシャリーフィーヤである。この地区にはカーリーズで引かれた流れる水があり、やし園がある。ナツメヤシが出回ると、1千マンで1ディーナールであると聞いた。
ヤマーマからラフサーまでは40ファルサングとされていた。冬は所々に溜まった雨水が飲めるので行くことができるが、夏はない。
ラフサーは沙漠にある町で、どの方角からそこに行こうとしても、広大な沙漠を横切らなければならない。スルターンのいるムスリムの町でラフサーに一番近いのはバスラである。ラフサーからバスラまで150ファルサングである。バスラには、ラフサーを襲撃しようとするスルターンはこれまでいなかった。
ラフサーの描写。ラフサーの町では、すべての後背地とルースタークが壁に囲まれている。硬い土からなる四重の強固な壁が周囲に造られているのである。二つの壁の間はそれぞれ1ファルサング近くある。町にはいくつかの大きな泉があり、それぞれ五つの水車を回す水量がある。その水はすべてその[町の]周辺地帯で使用され、壁の外に出ることはない。大きな町にあるようなすべての施設を備えた立派な町がこの壁の中心にある。町には2万以上の兵がいる。その地のスルターンはシャリーフである一人の男で、彼はそれらの人々をムスリムたることから遠ざけ、「あなたたちはもう礼拝と断食をしないでよい」と言っていた。また彼はそれらの人々に「私を除いてあなたたちに拠るべき者はいない」と[言って]教宣を行っていた。彼の名はブー・サイードであった。その町の人々は「あなたはどの宗派ですか」と聞かれると、「私はブー・サイード派です」と言う。彼らは礼拝も断食も行わないが、ムハンマド−神よ彼に祝福と平安を与えたまえ−とその預言者位は認めている。ブー・サイードは彼らに「私はあなたたちのもとに戻ってくる」と言っていた。すなわち死後に[戻ってくる]ということである。彼の墓はラフサーの町の中にある。素晴らしいマシュハドが彼のために建てられている。彼は子孫たちに、「私が戻るまで、私の子孫のうち六人の者が常にこの王位を保ち、公正と正義によって臣民を守るように。またお互いに反目しないように」と遺言した。彼らには現在、彼らの王宮である大きな宮殿がある。また一つの玉座があり、六人の王はその玉座に一度に座り、お互いの同意のもとに命令と裁決を下す。また六人の宰相がいる。そうして、この六人の王は一つの玉座に座り、六人の宰相はまた別の一つの椅子に座るということになる。あらゆる物事は互いの相談でなされる。その時、彼らのもとには金で買われた3万人のザンジバル人やエチオピア人の僕がおり、農業や園芸に従事していた。彼ら[=六人の王たち]は、何についても臣民から十分の一税を取ろうとしなかった。誰かが貧しくなったり借金を抱えたりしたときには、彼の状況がよくなるまで面倒を見ていた。また誰かが別の人に金銭を貸している時には、彼[=借り手]の財産より多くのものを求めることもなかった。その町に来たよそ者が何らかの技芸を知っている場合には、生計を立てるに足りるだけの資金を与え、よそ者は彼の技芸に使う道具や設備を買っていた。そして、都合に合わせて、受け取ったのとちょうど同じ額を彼らに返していた。ある人の私有地や水車が荒れ果て、持ち主に復興する力がないときには、彼らは自分たちの僕たちを指名してそこに向かわせ、その私有地と水車を復興させていた。そして私有地の持ち主からは何も求めなかった。ラフサーにはスルターンの所有する水車もあり、そこでは民のために穀物を挽くが、代償は取らない。水車の建造費と水車番の賃金はスルターンの財産から支払われる。そのスルターンたちは御主人衆と呼ばれ、彼らの宰相たちは御意見番衆(?)と呼ばれている。
ラフサーの町には金曜モスクがなく、フトバも礼拝も行われていなかった。ただ、一人のアジャムの男がそこにモスクを建てていた。アリー・イブン・アフマドという名の、ムスリムの男で、巡礼を済ませた裕福な男であった。その町に到着する巡礼者たちは彼が世話をしていた。その町では、売り買いや取引は籠に入った鉛で行われており、籠はそれぞれ6千重量ディルハムの重さであった。取引をする際には、人々は籠を数えて持っていくのであった。しかし、誰もそのお金をそこから持ち出すことはなかった。そこでは素晴らしいフータが織られ、バスラやその他の土地に運ばれる。[町の人々は、]自分たちは礼拝を行わないが、誰かが礼拝を行うのを妨げることもない。スルターンが騎乗しているときに話しかける者がいると、[スルターンは]丁重な返事を与え、へりくだった態度をとる。また人々は、決してぶどう酒を飲むことはない。昼夜問わず常に、首当てや面懸をつけた馬が、交替でブー・サイードの墓の門のところにきつく繋がれている。それは、ブー・サイードが復活したときにその馬に乗るためである。ブー・サイードは自分の子供たちに、「私が戻ってきて、お前たちに私が分からないときは、私の剣で首をはねよ。もし私ならば、即座に蘇るであろう」と言ったという。その決まりは、誰かがブー・サイードであると偽称しないように定められたものである。
その[地の]スルターンたちの一人は、バグダードのカリフたちの時代に軍隊を率いてメッカに行き、メッカの町を征服して、カアバ神殿のまわりでタワーフを行っていた人々を殺し、[カアバ神殿の]角から黒石を取り外してラフサーに運んだ。そして、「この石は人々を引き寄せる磁石である。世界の諸方から人々を自らに引き寄せる」と言っていた。ムハンマド−神よ彼と彼の一族に祝福を与えたまえ−の高貴さや偉大さが人々をそこに引き寄せていることを知らなかったのである。黒石は[ムハンマド以前にも]長年にわたってそこにあったが、誰もそこに行くことはなかったというのに。結局、黒石は彼らから買い戻され、元の場所に戻された。
ラフサーの町では、猫、犬、ろば、牛、羊など、あらゆる動物の肉が売られている。何を売るにせよ、客に自分が何を買っているのかが分かるように、その動物の頭と皮を肉の側に置いておく。そこでは犬を、肥えさせた羊のように、肥満で歩くことができなくなるまで肥えさせる。その後、それを屠殺して食べる。
ラフサーから東の方へ行くと7ファルサングで海になる。海の中に入ると、バーレーンである。それは島であり、その長さは15ファルサングである。大きな町であり、たくさんのやし園がある。その海からは真珠が採れる。潜水夫たちが採ったものの半分がラフサーのスルターンのものとなっていた。ラフサーから南の方へ行くとオマーンに着く。オマーンはアラブの地にあるが、その三方は沙漠であり、誰も横切ることはできない。
オマーン地方は80ファルサング四方の広さで、温暖な場所である。そこではインドくるみ−いわゆるココナツ−が育つ。オマーンから海へ、つまり東に向かって進むと、キーシュの荷揚げ場とマクラーンにいたる。南に向かうと、アデンにいたる。別の方角に向かうとファールスにいたる。ラフサーでのナツメヤシの豊富さといえば、それで駄獣たちを太らせるほどであり、時期によっては1ディーナールで1千マン以上が買えるほどである。ラフサーから北に進むと、7ファルサング行ったところにカティーフと呼ばれる地区がある。そこも大きな町であり、ナツメヤシの木がたくさんあった。
あるアラブ[=ベドウィン]のアミールがラフサーに侵攻し、1年間包囲していた。四重の壁のうちの一つを奪い、一団の者たちから略奪していたが、彼らは大したものを持っていなかった。彼は私を見ると、星の相について尋ねた。「私はラフサーを取りたいのだが、それは可能か否か。やつらは無信仰なので。」私は役に立つことを何でも話してやった。私に言わせれば、ベドウィンたちも無信仰という点ではラフサーの住人と大した違いがない。そこでは、一年もの間、水を手にかけることさえしない者もいる。今述べたこのことは、私が見たことにもとづいており、虚聞によるものは一切ない。私は彼らのところに9ヶ月間続けて滞在したのである。[そこの]乳は私にはとても飲めなかったが、私が飲み水を求めると、常に乳が出された。それを受け取らずに水を要求すると、「水を欲しがるのは、見かけた時にしろ。あの人が水を持っていると思うか」と言われた。彼らは生まれてこの方、浴場や流水を見たことがまったく無かったのである。
それでは話を戻そう。私たちがヤマーマからバスラに向けて出発してから寄った宿場には、水があるところもあればないところもあった。そうして443年シャアバーン月20日(1051年12月27日)バスラの町に到着した。バスラは立派な壁で囲まれているが、川に面している側には壁がなかった。その川はシャット・アル=アラブ川である。バスラ諸管区の端で合流するティグリス川とユーフラテス川、さらにジューバラ川も合流すると、シャット・アル=アラブ川と呼ばれる。そのシャット・アル=アラブ川から二本の大きな運河がひかれており、その二本の運河の取水口の間は1ファルサングである。二本ともキブラの方角に4ファルサングほどひかれている。その後、両運河は合流させられ、一本となった運河もさらに1ファルサングほど南方にひかれている。それらの運河から数限りない運河がひかれ、四方に伸ばされており、それらに面してナツメヤシ園や果樹園が造られている。この二本の運河のうち、上流に位置する、つまり北東のものは、マアキル運河、そして南西のものはウブッラ運河と呼ばれている。この二本の運河によって長方形の大きな島ができている。バスラはその長方形の短辺に面している。バスラの南西は、村も水も樹木もないような沙漠である。私たちが到着した時には、町の大部分が荒廃しており、居住区は、ある街区から別の街区まで半ファルサングほども廃墟が続くほどに途切れ途切れになっていた。しかし、門と壁は頑丈で手入れが行き届いており、住人は多く、スルターンは多くの収入を得ていた。当時、バスラのアミールはファールスの王であったダイラム人のアブー・カーリージャールの息子であった。彼の宰相はファールスの人であり、シャフマルダーンの子アブー・マンスールと呼ばれていた。
バスラでは毎日三ヶ所で市が立っていた。一日のはじめには、フザーア市場と呼ばれる場所で取引がなされていた。そして日も半ばになると、ウスマーン市場と呼ばれる場所で、日の終わりには椀屋市場と呼ばれる場所で[、取引がなされていた]。そこでの市場の状況は、以下のようであった。何らかの品物を持つ人は[その品物を]両替商に渡し、両替商から書付をもらっていた。そして必要なものを何でも買い、その代価は両替商にまわしていた。町にいる限り、[支払いにあたって]両替商の書付以外は何も渡さないほどであった。
そこへ着いた時、私たちは裸同然で貧窮しており、まるで狂人のようであった。最後に髪を解いてから3ヶ月が過ぎていた。私は、浴場に行って温まりたかった。気候は寒く、衣服もなかったからである。私と私の兄弟は、使い古した腰巻きで身を覆い、寒いので、一切れの毛の粗布を背中にかぶっていたのである。一体誰が[こんな]私たちを風呂に入れてくれるだろうかと思った。本を入れていた鞍嚢があったのでそれを売り、その代価で何枚かの銅製の小銭を紙に包んだ。浴場番に渡して少しでも長く浴場に居させてもらい、垢を落とそうと考えたのである。私が浴場番の前にその小銭を置くと、彼は私たちを見て狂人であると思った。そして、「去りなさい。ちょうど人々が浴場から出てくるから」と言い、私たちを浴場には入れてくれなかった。私たちは恥ずかしい思いをしながら出てくると、急いで立ち去った。浴場の外で遊んでいた子供たちが、私たちを狂人であると思い、追いかけてきた。子供たちは石を投げつけ、叫んでいた。私たちは[町の]一角へ戻り、浮世の事に驚きあきれていた。また、らくだ引きは、30マグリビー・ディーナールを請求していたが、私たちはなす術を知らなかった。ただ、アフワーズの王の宰相で、アブー・アル=ファトフ・アリー・イブン・アフマドといい、能力のある人物で、詩と文学に通じ、全き寛大さも持ち合わせていた人が、息子たちと従者たちを連れてバスラにやって来て滞在していた。[その時は]職務についてはいなかったが。
さて、そうこうしているうちに私はこれまた学識を備えたファールス人の男と知り合いになっていた。彼はその宰相とつきあいがあり、いつも彼のもとに出入りしていた。このファールスの人もまた貧しく、私たちの状況を改善する余裕はなかった。彼は私たちの状況を宰相に伝えた。宰相はそれを聞くと、一人の男に馬を連れさせ私のもとに送って、「そのまま馬に乗って私のところに来なさい」と伝えさせた。私は惨めで着るものもないことを恥じて、行くことはふさわしくないと思った。一通の手紙を書き、許しを請うて、「後ほど御前に参ります」と言い送った。私は二つのことを考えていた。一つは、[自分の]みすぼらしさである。いま一つは、彼が私に大変な学識があると思っているかもしれないということである。私の手紙を見れば、私の[真の]器量を察するであろうから、私が彼のもとに行ったときに、恥をかかないで済むと考えたのである。彼はただちに、服の代金にするようにと30ディーナール送ってきた。私たちはその金で二着の良い服を仕立て、三日目に宰相のところへ行った。彼は、有能で文に長け、博識で容貌も良く謙虚、さらに信心深く話し上手であった。彼には4人の息子がいた。最も年長の者は、雄弁で文に長け、賢明な若者であった。彼は、ライース、アブー・アブドゥッラー・アフマド・イブン・アリー・イブン・アフマドと呼ばれていた。彼は詩人で書記術を心得ており、賢く、禁欲的な若者であった。彼は私たちのことを引き受け、私たちはラマダーン月の初めからシャウワール月の半ばまでそこにいた。くだんのアラブ[=ベドウィン]にらくだの料金30ディーナールを負っていたのも、この宰相が支払うように命じて、私をその苦しみから解放してくれた。神−称えられ崇高たれ−よ、真(まこと)と真(まこと)に従う人々にかけて、すべての僕を借金と負債の責苦から救いたまえ。私が出発しようとすると、彼はいろいろと餞別をくれて、海路で送りだしてくれた。おかげで私たちは優雅にそして悠々とファールスへ着くことができた。この気高き人のおかげである。神−偉大なれ−が気高き人々に満足されんことを。
バスラには信徒の長アリー・イブン・アビー・ターリブ−彼に平安あれ−にちなんだ十三のマシュハドがある。その一つはマーズィン族のマシュハドと呼ばれている。それは、預言者−神よ彼に祝福と平安を与えたまえ−のヒジュラから36年目のラビーウ・アウワル月(656年8月28日〜9月27日)に信徒の長アリーはバスラに来ていたが、アーイシャ−神が彼女を嘉したまいますように−も戦いに来ていた。[その時]信徒の長−彼に平安あれ−はマスウード・ナフシャリーの娘ライラーを妻としていたが、このマシュハドはその女性の屋敷である。信徒の長−彼に平安あれ−は72日間その家に滞在し、その後クーファの方へと戻った。また、集会モスクのそばにマシュハドがあり、ティーブ門のマシュハドと呼ばれている。私はバスラの集会モスクで、長さ30アラシュ、厚さ5シブル4アングシュトの木材を見た。その一方の端はより太くなっていた。それはインド産の木材であった。信徒の長−彼に平安あれ−がその木材を持ち上げて、そこに運んだといわれていた。残りの11のマシュハドは、それぞれ別の場所にあり、私はそのすべてに参詣した。
私たちの苦境が去り、それぞれが服を身につけるようになってから、ある日、私たちを入れてくれなかった浴場に行った。入口から中に入ると、浴場番や居あわせた人たちは皆立ち上がり、私たちが浴場に入るまで立っていた。[浴場では]三助が入ってきて世話をしてくれた。私たちが外に出てくると、脱衣場にいたすべての人たちが立ち上がっていて、私たちが服を着て外に出るまで座ろうとはしなかった。浴場に入っている最中、三助が仲間に、「この若者たちは、私たちがかくかくしかじかの日に浴場に入れなかったやつらだ」と言っているのが聞こえた。彼らは、私たちが彼らの言葉を知らないと思ったのである。そこで私は、アラビア語で、「そのとおり。私たちは毛の粗布の切れ端を背にくくりつけていたあいつらだよ」と言ってやった。その男は恥じ入り、しきりに許しを乞うた。[たった]二十日の間にこの二つの両方があったのである。このことを書いたのは、人生で出会う苦難を嘆いてはならない、そして創造主−その偉大さよますます偉大たれ、その恵みよ遍く満ちよ−の恩寵と慈悲に対し希望を捨ててはならないということを、人々が知るためである。というのも、彼−崇高たれ−は慈悲深いのだから。
バスラとその水路での潮の満ち干の描写。オマーンの海は、一昼夜に二度満ちるのが常で、10ガズほど水[位]が上昇する。完全に満ちると徐々に引き潮となり、[水位は]10ガズから12ガズ下がる。いま述べている10ガズというのは、バスラでは、まっすぐに立てられている柱や壁によって分かる。地面が平坦で高いところがなければ、[水は]非常に遠くまで行く。ティグリス川とユーフラテス川は、いくつかの場所ではどちらに流れているか分からないほど緩やかに流れているが、海が満ちると、その水は[河口から]40ファルサング近く上がってくる。その様は、あたかも逆流して上流に向かって流れているかのようである。海岸の他の場所では、[状況は]地面の高さや平坦さによる。水は平坦なところでは大いに上がってくるが、高いところではそれほどではない。
この潮の満ち干は、月によるものといわれている。月が天頂と天底にあるとき、それは10番目と4番目であるが、水は満潮になる。月が二つの地平線、すなわち東と西の地平線にあるとき、[水は]干潮になる。またさらに、月が太陽と重なっているときや太陽の反対側にあるとき、水は多い。すなわち、満ち潮はこれらのときにもっとも大きくなり、より高く上昇する。[両者が]矩の位置になると、水は少ない。すなわち、満ち潮のときでもその水位はそれほどにはならず、月が太陽と重なったり太陽の反対側にあるときほどは上昇しない。また引き潮は、月が太陽と重なったり太陽の反対側にあるときに下がる以上に下がる。これらの理由により、この潮の満ち干は月によるものであるといわれているのである。神−崇高たれ−はよりよく知りたまう。
運河に面し、その名が運河の名にもなっているウブッラの町は、数えることも描写することもできないほど多くの邸宅、市場、モスク、リバートのある栄えた町であった。町のもともとの部分は川の北側にあったが、南側にも街区、モスク、リバート、市場、いくつもの大きな建物があり、そこよりも気持ちのよい場所は世界にないほどであった。そこはウスマーンの河岸と呼ばれていた。ユーフラテス川とティグリス川が合わさったシャット・アル=アラブと呼ばれる大河は、ウブッラの東側にあり、運河は南側にある。ウブッラ運河とマアキル運河はバスラで合流している。その子細はすでに述べた。
バスラには二十の地区があり、それぞれの地区には多くの村や枝村があった。
バスラの諸管区の描写。ヒッシャーン、シャラッバ、バラース、アクル・マイサーン、マフタフ、ナフル・アル=ハルブ、シャット・アル=アラブ、サアド、サルム、ジュライラ、マシャーン、サムド、ジューナ、ジャズィーラ・アル=ウズマー、マスラファール、シャリール、ジャズィーラ・アル=アルシュ・アル=ハミーダ、ジューバラ・アル=ムフラダート。ウブッラ運河の口のところは、かつては船が通ることができなかったという。大きな渦があったのである。バスラの金持ちの女性が命じて400艘の船を造り、すべてにナツメヤシの種を満載し、船首を繋ぎ合わせて、そこに沈めた。それで[今は]船が通っている。
さて、443年シャウワール月15日(1052年2月19日)に、私たちはバスラを出発し小舟に乗った。ウブッラ運河を4ファルサング行くあいだ、運河の両岸には庭園、果樹園、四阿、見晴台が続き、途切れることはなかった。いくつもの支流がこの運河から四方に向けて次々と出ていたが、そのそれぞれが川のような大きさであった。ウスマーンの河岸に着くと、私たちはウブッラの町の対岸で船を下り、そこに逗留した。17日(1052年2月21日)、私たちはブースィーと呼ばれる大きな船に乗ったが、四方からこの船を見た多くの人々は、「おお、ブースィーよ。崇高なる神がお前を無事に旅させたまうように」と祈願していた。私たちはアバダーンに着き、人々は船から下りた。
アバダーンは海岸にあり、島のようである。というのも、[シャット・アル=アラブ]川がそこで二つの支流に分かれており、川を渡らずにはどの方向からもアバダーンには行けないようになっているからである。アバダーンの南側は大海であり、満ち潮になるとアバダーンの壁まで水がくる。引き潮になると、[水は]2ファルサング弱遠ざかる。[船の乗客の中には]アバダーンでむしろを買った人たちもおり、食べ物を買った人たちもいた。翌日の朝に船は海に出て、北へと向かった。10ファルサング行くまでのあいだ人々は海の水を飲んでいたが、[実際それは]良い水であった。それは川の水であり、あたかも舌のように海水の間に貫入しているのであった。日が昇ると、雀のようなものが海に見えてきて、近づけば近づくほど大きく見えるようになった。それに向かい合う場所、つまりそれが左手の方向1ファルサングに位置するような場所に来ると、向かい風になった。すると[船員たちは]船の錨を下ろし、帆を畳んだ。私が「[あれは]何ですか」と尋ねると、彼らは「ハシャーブ(?)だ」と言った。
その描写。大きな4本のチークの材木があり、投石機のような形で、[つまり]基部が広くて頂部が狭い四角[柱の各辺をなすよう]に、据えられていた。その高さは水面から40ガズである。その頂には、天井のような要領で木材が渡され、その上に見張りのための小屋がつくられた後、[屋根に?]焼き物や石が乗せられている。このハシャーブを作ったのは、一説によるとある大商人であり、また別の一説によるとある王である。その目的は二つであった。一つ目は、それが立っている一帯では海底に船が引っかかりやすくなっており、浅瀬になっているからである。つまり大きな船がそこにいたると、海底に乗り上げてしまい、誰にもそれを動かすことができなくなってしまうのである。二つ目は、世界の方角を知らせることである。また、もし海賊が出たら、見つけて用心するためである。夜にはそこで、風で消えないようにガラスの中に明かりを灯し、人々はそれを遠くから見て用心し、船をそこから遠ざける。
私たちがハシャーブを通りすぎ、それが見えなくなると、別の同じ形をしたものが見えてきた。しかし、この建造物の頂にはドームはなく、完成していないかのようであった。私たちはそこからマフルーバーンの町へ到着した。
[マフルーバーンは]大きな町であり、海の東側の岸に沿って築かれている。大きな市場と素晴らしい集会モスクがある。しかし、町の人々は水を雨から得ており、雨水のほかに、真水をもたらす井戸やカーリーズはない。[だが、多くの]貯水槽があるので決して渇水にはならない。そこには三つの大きな隊商宿が建てられており、そのどれもが城砦のようで、堅固で立派なものである。私はそこの金曜モスクで、説教壇にヤアクーブ・ライスの名が書かれているのを見た。私はある人に、「どんな次第だったのですか」と尋ねた。彼は、「ヤアクーブ・ライスはこの町まで征服していました。しかしそれ以後、どんなホラーサーンのアミールにもそのような力はなかったのです」と述べた。私がそこに着いたこの時には、この町はファールスの王であったアブー・カーリージャールの息子たちの手にあった。この町の食糧つまり食べ物は、他の町や地方から運ばれる。というのも、そこには魚以外に何もないからである。また、この町は関税の徴収所であり船つき場である。そこから海岸沿いに南方に行くと、タウワジュとカーゼルーンの地区である。
私は、道が安全ではないと言われたのでこのマフルーバーンの町に留まった。アブー・カーリージャールの息子たちがたがいに戦い、敵対し、覇を競っていたので、王権が不安定になっていたのである。人々は、アッラジャーンに、正しき長老、ムハンマド・イブン・アブドゥルマリクという偉大で学識のある人物がいると言った。この話を聞いたとき、私はこの町での滞在にとても倦んでいたので、彼に手紙を送り、自分の状況を伝え、私をこの町からどこか安全な場所へと送り届けてくれるように懇願した。手紙を送ってから3日後に、私は30人の武装した徒歩の男たちを見た。彼らは私の近くにやって来て、「私たちは長老に派遣されて来ました。あなたのお供をしてアッラジャーンに参ります」と言った。彼らは私たちを気遣いながらアッラジャーンへ連れて行ってくれたのである。
アッラジャーンは大きな町で、2万の男がいる。町の東側には、山に発し北に流れる川がある。[川からは]四つの大きな水路がひかれており、水は町の中央を通されている。大変な費用をかけて町を貫流させているのである。町のはずれには水路に沿って庭園や果樹園が造られており、多くのナツメヤシ、だいだい、シトロン、オリーブがある。町には、地上に建物が建てられているのと同じくらい地下にも建物がある。全ての場所で地下室に水が流れており、夏にはこの水と地下室のおかげで町の人々は安らぐことができる。そこには、大半の宗派の人々がいた。ムウタズィラ派には、アブー・サイード・バスリーと呼ばれる指導者がいた。正しく言葉を操る人物で、幾何学と算術に一家言ある人物であった。私は彼と神学や算術などについて議論をし、お互いに問うては、答えを言ったり聞いたりした。
ムハッラム月1日(1052年5月3日)に私たちはそこを出発し、山道を通り、イスファハーンへ向かった。道中、ある山に着いた。そこには切り立った谷があった。庶民は、バフラーム・グールが剣でこの山を斬り割ったと言っており、それ[=峡谷]を、剣斬峡と呼んでいた。そこで、私たちの右手にある穴から湧き出し、高いところから流れ落ちる大量の水を見た。庶民は、この水は夏には絶え間なく流れているが、冬になると止まり、凍ると言っていた。それから私たちはルールドガーンに到着した。アッラジャーンからルールドガーンまでは40ファルサングであった。
このルールドガーンは、ファールスの端である。そこから、ハーン・ランジャーンに着いた。町の門に、スルターン、トゥグリル・ベグの名前が書かれているのを見た。そこからイスファハーンへは7ファルサングである。ハーン・ランジャーンの人々は、平穏のうちにとても安らいで暮らしており、それぞれの仕事や家のことに精を出していた。
私たちはそこを出発した。イスファハーンの町に到着したのは444年サファル月8日(1052年6月9日)のことであった。バスラからイスファハーンまでは180ファルサングである。平野に位置し、水も気候も良い町である。どこでも井戸を10ガズ掘れば、冷たく良い水が湧き出る。町には、高くて堅固な壁があり、[壁には]門や戦うための場所が造られている。そして壁全体に胸壁が設けられている。町には水の流れる水路や高く素晴らしい建物があり、町の中央には大きく素晴らしい金曜モスクがある。町の壁は、[周囲]3ファルサング半であると聞いた。町の内部はどこも荒廃したところがなく、人が住み、栄えており、たくさんの市場がある。200人の男がいる両替商の市場を見た。どの市場にも[鍵のかかる]入口や門があり、どの街区や路地にも、同様に、堅固な入口や門ときれいな隊商宿があった。クー・タラーズと呼ばれる路地があった。その路地には素晴らしい隊商宿が50軒あり、それぞれにたくさんの商人や店主が入っていた。私たちがともに旅をした隊商は、1300ハルワールもの荷を運んで町に入った。しかし、どこにも場所の不足がなく、滞在場所と飼葉に困ることがなかったので、目につくような騒ぎもないままに、[それぞれの場所に]落ちついてしまった。
スルターン、トゥグリル・ベグ−彼に神のお慈悲がありますように−は、その町を手中にした際、若い男をそこに任じていた。その男は、ニーシャープール出身で達筆の素晴らしい書記で、慎重で、容貌が良く、ハージャ・アミードと呼ばれていた。彼は学識を愛す、雄弁で寛大な人物であった。スルターンは、3年の間、人々から何も求めないように命じており、彼はそれに従っていた。それで、離散していた人々はみな故郷に戻りつつあった。この男は、かつてはスーリー配下の書記の一人であった。私たちが到着する前には厳しい凶作が起こっていた。しかし私たちがそこに着いた時には、大麦が収穫されているところであった。1マン半の小麦のパンが1ディルハムちょうどで、3マンの大麦のパンも同じ[価格]であった。そこの人々は、この町では、1ディルハムで8マンのパンさえ買うことができないことは絶えてなかったと言っていた。私はペルシア語を話す人々の住む土地の中で、イスファハーンほど素晴らしく、人が集まっており/何でもそろっており、繁栄している町を見たことはない。小麦や大麦やその他の穀物類は、20年間置いておかれたとしても腐らないと聞いた。またある人たちは、壁ができる前は町の気候はもっと良かった、壁が造られてから[気候が]変化し、いくつかの物は腐るようになったと言っていた。しかし、ルースタークの気候は以前の通りである。
隊商がなかなか出発しなかったので、私は20日間イスファハーンに滞在した。サファル月28日(1052年6月29日)、私たちは出発した。ハイサマーバードと呼ばれる村に到着した。[そこから]平野/沙漠とマスキナーンの山を通って、ナーイーンの町にいたった。イスファハーンからそこまでは30ファルサングであった。ナーイーンから43ファルサング行き、ビヤーバーン地区にあるガルマの村に到着した。この地区[=ビヤーバーン地区]は十から十二の村からなっている。そこ[=ガルマ]は暑く、ナツメヤシがあった。この地区は、その昔クーフィジュ族のものであった。私たちが到着したときには、アミール・ギーラキーがこの地区を彼らから奪い、自分の代官を小さな砦のあるピヤーダと呼ばれる村に置いていた。代官はその地方を掌握し、道の安全を保っていた。クーフィジュ族が追剥をしようと出発すると、アミール・ギーラキーの将たちを派遣する。[将たちは]彼らを捕え、財貨を奪い、殺すのである。この偉大な人物の保護によって、この道は安全であり、人々は安らいで暮らしている。神−称えられ崇高たれ−よ、すべての公正な王の守護者、保護者、援助者たれ、そして故人[となった公正な王たち]の魂に慈悲を与えたまえ。
この荒野の道には、2ファルサングごとに小さなドームが建てられている。また、マスナウが造られており、雨水が集まるようになっている。それらは塩沢地ではない場所に造られている。この小さなドームは、人々が道に迷わないように、また、暑いときや寒いときにそこでしばし休息をとるためにある。
道中、巨大な流砂を見た。道標をそれた者は、その砂の中から出てくることができずに死んでしまう。私たちがそこを過ぎると、沸きたったかのような様子の塩沢地が見えてき、6ファルサング続いた。誰かが道をはずれていたならば、沈んでしまっていたであろう。私たちはそこから、マラー/マラーミーのリバートと呼ばれるズバイダのリバートを指して行った。このリバートには五つの井戸がある。もしこのリバートと水がなければ、誰もその荒野を通ろうとはしないであろう。そこからタバス四村のうち、ルスターバードと呼ばれる村に着いた。ラビーウ・アウワル月9日(1052年7月9日)にタバスに到着した。イスファハーンからタバスまでは110ファルサングといわれていた。
タバスはルースタークのように見えるけれども、人口凋密な町である。水が少なく、耕作はあまり行われていない。ナツメヤシ園と果樹園がある。そこから北に向かうと、ニーシャープールまで40ファルサングである。南の方、荒野の道をハビースに向かうと、40ファルサングである。東は峻険な山である。この時、この町のアミールは、ギーラキー・イブン・ムハンマドであり、武力で[この町を]奪い取っていた。そこの人々は非常に平穏かつ安らかに暮らしており、町には壁がないにもかかわらず、屋敷の戸は夜にも閉められず、駄獣も路地に出されたままである。どの女にもよその男と話をする度胸はない。もし話しかけたら二人とも殺されてしまう。同様に、彼の監視と公正さによって、盗みや流血もない。
私はアラブとアジャム[の地]で色々なものを見たが、公正さと安寧さで際立っていたのは以下の四つの場所であった。一つはラシュカル・ハーン治下のダシュト地区、二つ目は大アミール、ジュスターン・イブン・イブラーヒームが治めていたダイラミスターン、三つ目は信徒の長、ムスタンスィル統治下のミスル[のくに]、そして四つ目はアミール・ギーラキーが統べていたタバスの地である。方々を旅したが、これらの四つの場所ほど安全な場所は見ることもなかったし、耳にすることもなかった。
[アミール・ギーラキーは]私たちをタバスに17日のあいだ引き止め、盛んにもてなした。そして出発の際には褒賞をくれ、[もてなしのいたらなさを]しきりに詫びた。神−偉大にして崇高たれ−よ、彼に満足したまえ。また彼は、自分の従者の一人に、72ファルサング先のズーザンまで私を送らせた。
タバスから12ファルサング行くと、ラカと呼ばれる町があった。流れる水があり、農地、庭園、木々、壁、金曜モスク、そして村や枝村がそろっていた。
私たちはラビーウ・アーヒル月9日(1052年8月8日)にラカを発ち、12日にトゥーンの町に到着した。ラカとトゥーンの間は20ファルサングである。トゥーンは[かつて]大きな町であったが、私が訪れた時には大部分が荒廃していた。町は荒野に建っており、流れる水とカーリーズがある。町の東にはたくさんの庭園があり、堅固な砦がある。人々が語るところでは、この町には[かつて]400の工房があり、小型のむしろが織られていたという。町の屋敷の中にはピスタチオの木がたくさんあった。バルフやトハーリスターンの人々は、ピスタチオの木は山にしか生えないと思っている[が、そんなことはないのである]。
トゥーンを発つと、ギーラキーの従者が私に次のような話をした。ある時、トゥーンからグナーバードに向かっていると、賊が出てきて私たちを襲った。[私たちのうちの]何人かは恐怖のあまりカーリーズの井戸に身を投げた。その後、井戸に身を投げた者の父親で、慈しみ深かった者がやってきて、息子[の亡骸]を回収させるために人を雇って、井戸に入らせた。手持ちの綱という綱が出され、多くの人たちが集まった。雇われた男が井戸の底に着くまでに、700ガズの綱を垂らさなければならなかった。綱をその息子の亡骸に縛りつけ、引き上げた。くだんの男は井戸から出てくると、このカーリーズには大量の水が流れていて、4ファルサングも続いていると言った。このカーリーズは、カイ・フスラウが造らせたものだということであった。
ラビーウ・アーヒル月23日(1052年8月2日)、私たちはカーインの町に着いた。トゥーンからそこまでは18ファルサングであるとされているが、隊商は4日で[ようやく]行くことができる。道が険しいからである。
カーインは大きくて堅固な町である。城内区の周囲には堀がある。金曜モスクは城内区にある。マクスーラになっているところには非常に大きなアーチがある。ホラーサーンではそれより大きいものは見たことがないほどのものであるが、そのモスクには釣り合っていない。町中の建物にドームがある。カーインから北東に行くと、18ファルサングでズーザンである。南はヘラートまで30ファルサングである。
カーインで、アブー・マンスール・ムハンマド・イブン・ドゥーストと呼ばれる男に会った。医学、天文学、論理学などのあらゆる学問に何かしら通じていた。彼は私に、「これらの諸天球と星々の外側は何であるか、[あなたの意見を]言ってください」と尋ねた。私は、「ものの名というものは、諸天球の内側にあるものにつくのであって、その他のものには名はない」と答えた。すると彼は、「[名はないと言うならば、]これらの諸天球の外側に概念があるかどうかについてはどう考えますか」と言った。私は、「世界が限られたものであることは間違いない。その境界は、最も外側の天球である。ここで境界とは、何かをそれ以外のものから分かつものを言う。このことを踏まえると、諸天球の外側は内側のようではないということになる」と答えた。さらに彼は、「それでは、理性が[その存在を]確証するところの概念というものには、あちら[=諸天球の外側]に向かっていくと限界があるのでしょうか。もし限界があるのならば、どこにあるのですか。もし限界がないのならば、無限なものがどのようにして非存在たりうるのでしょうか」と言った。このような調子でしばらく話をしていると、彼は、「私はこれらのことにとても悩まされています」と言った。私は、「誰が悩まないということがあろうか」と答えた。さて、ウバイド・ニーシャープーリーによってズーザンで引き起こされていた混乱とズーザンの長による反抗のため、私は1ヶ月カーインに滞在した。アミール・ギーラキーの従者はそこから帰らせた。そして、カーインからサラフスを目指して出発した。
ジュマーダー・アーヒラ月2日(1052年9月29日)、私たちはサラフスの町に到着した。私たちの計算では、バスラからサラフスまで390ファルサングであった。そしてサラフスからは、道沿いに続く三つのリバート、すなわち、ジャアファルのリバート、アムルのリバート、ニーマト/恩寵のリバートを通って行った。ジュマーダー・アーヒラ月12日(10月9日)、マルヴッルードの町に到着した。そして二日後にアーベ・ガルムを指して出発した。同月19日(10月16日)、バールヤーブに着いた。36ファルサングであった。ホラーサーンのアミールはチャグリー・ベグであった。彼はシャブールガーンにおり、王都であったマルヴに向かおうとしていた。道が安全ではなかったので、私たちはサマンガーンの方へ向かった。そこから、スィ・ダッラ経由でバルフに来た。スィ・ダッラのリバートに着いた時に、私の兄弟、ハージャ、アブー・アル=ファトフ・アブドゥルジャリールが、ホラーサーンのアミールの宰相のもとにいることを聞いた。[ちなみにその宰相は、]アブー・ナスルと呼ばれていた。
私がホラーサーンを発ってから7年が過ぎていた。私たちがダストギルドに到着したとき、シャブールガーンへ荷が運ばれているのを目にした。私に同行していた私の兄弟が「これは誰のものですか」と尋ねると、「宰相のものです」と言われた。「あなたたちはアブー・アル=ファトフ・アブドゥルジャリールを知っていますか」と問うと、「彼の配下の者が一緒にいます」ということであった。すぐに一人の者が私たちのところにやって来て、「どちらからいらっしゃったのですか」と尋ねた。「巡礼[の旅]からだ」と私たちは言った。すると彼は、「私の主人であるアブー・アル=ファトフ・アブドゥルジャリールには二人の兄弟がおり、何年も前に巡礼に出ました。主人はずっとその方たちに会いたがっているのですが、誰に尋ねても彼らの消息はまったく分からないのです」と言った。私の兄弟は「私たちはナースィルの手紙を持って来ている。お前の主人が来たら渡そう」と言った。すぐに一行が止まったので、私たちもそうした。するとその小者は言った。「今、私の主人が到着します。もしあなた方に会えなければ心を痛めるでしょう。手紙を私に託してくだされば、喜ばれるでしょうに」。[それに対して]私の兄弟は、「お前はナースィルの手紙が欲しいのか、それともナースィル自身か。ほら、これがナースィルだ」と言った。その小者は喜びのあまりどうしていいか分からない様子であった。私たちはミヤーン・ルースターを通ってバルフの町へと向かった。私の兄弟、ハージャ、アブー・アル=ファトフは、ダシュトを通ってダストギルドにいたり、宰相に随行してホラーサーンのアミールの下に向かっていた。彼は私たちのことを聞いてダストギルドから戻ってきて、私たちが着くまでジュムーキヤーンの橋のたもとで待っていた。それは444年ジュマーダー・アーヒラ月26日火曜日(1052年10月23日金曜日)のことであった。私たちは、希望が完全に断たれ、何度も危険な事態に陥り、生命の望みもなくしてしまったこともあったが、[また]会うことができた。そして[再び]会えたことを喜び、神−偉大にして崇高たれ−に感謝を捧げた。その日のうちに私たちはバルフに到着した。私はこのことに関して次の三つの詩行を詠んだ。
たとえこの世の苦労や苦悩が長かろうと
良かれ悪しかれ、必ず終る
天は我らのために昼夜めぐるもの
一人が去れば、また別の者が来る
我々は終わりのあるこの旅を行くことにしよう
終わりのない旅が始まる時まで
バルフからミスルにいたり、そこからメッカへ、そしてバスラを通ってファールスに着き、バルフに[戻って]来るまでの行程は、諸方へ参詣などに赴いたのを除けば、2220ファルサングであった。
私は、この記録では、目にしたことをそのまま記述した。いくらかの部分は人が物語るのを聞いたものであるが、もしそこに事実に反することがあったとしても、読者には、それを私めの非ととることなく、非難や叱責をすることがないようお願いしたい。もし、神−偉大にして崇高たれ−の思し召しがあれば、東方への旅をして、[そこで]目にしたものをここに付け足そう。唯一にして偉大なる神−崇高たれ−が望みたまうならば。万世の主たる神に賞賛あれ。ムハンマドとその一族、そして教友たち全てに祝福あれ。
(おわり)