という名前


 「吾輩は猫である。名前はまだ無い」と答えられて、森川新一はひどく驚嘆した。まさか、本物の猫からそんな台詞が飛び出すなんて。
 
 新一が彼を見つけたのは、近くのスーパーで買い物をした帰りだった。その猫は茂みの陰で眠っていたが、新一に声をかけられたとたんパッと起き、暗がりから目をギラギラさせた。
 「……どうした?」いきなり絶句してそこにたたずむ人間に、猫は尋ねた。新一は少し間をあけて、興奮気味に話した。
「お前、なんでそれを知ってるんだ?」
「何をだ?」
「その言葉だよ。『吾輩は〜』っての」
「それがなんだ?」
あれ、と新一は不思議に思った。猫も不思議そうにこっちを見ている。新一はハッと思い立ち、ポケットに手を突っ込んだ。取り出した財布の中から旧千円札を一枚引き出し、猫の目の前でひらひらさせてみる。
「この人がお前の飼い主……じゃなくて、その言葉を書いた人だよ。知らないのか?」
「ああ、顔のみなら知っている」目の前のひらひらを目で追いながら猫が言った。新一は再び驚嘆した。握った手に熱がこもるのが分かった。
 
 父親がファンだったこともあり、新一は昔から夏目漱石の小説が好きだった。漱石の書籍は家の本棚に全巻揃っていた。「夏目漱石の会」なる個人団体に首をつっこんだり、父親と酒を片手に、彼の物語について一晩中討論したりもした。そんな彼にとって、ここでの彼との出会いはとてつもなく貴重に思えた。もちろん小説の登場人物が実在するわけはないと思ったが、ファンとしての情熱が一旦燃え上がると、自分でも止められない事は自覚していた。

 「本当に? でも、ちょっとまって。じゃあなんで君は今生きてるの? 確か君は、水に落っこちて死んじゃうんだよね?」
 すると猫はびっくりして、
「な、何を言っている! 吾輩は確かに水に落ちたことはある。しかしその時はちゃんと飼い主が引き上げてくれたわ! 全く、わけの分からないことを言うな!」
 と怒鳴った。新一もびっくりして、慌てて謝った。
「や、ごめんごめん。ふうん、そうなんだ。あ、その飼い主の事だけど、もしかして、先生……だったりしない?」
「なぜそれを知っている?」
 猫は目を開いた。その言葉を聴いて新一は、さらに嬉々として小さく叫びをあげた。
「そ、それじゃあ」新一は胸の鼓動を抑えきれないまま言葉を続けた。
「その飼い主さ、胃腸が弱い癖に大食いだったり、実は怠け者だったり……どうかな」
「そうだ。その通りだ」
 猫はフン、と鼻で笑った。新一がなんでもピタリと当てるので、猫の方も面白くなってきたらしい。新一はもはや興奮のあまり、何も考えられなくなってきた。新一は妄想を膨らませた。
 まさかこんな出会いがあるなんて、本当に夢のようだ。こんな体験をした人間なんて、世界中のどこにもいないだろう。まさか、本の中の、しかも漱石の物語の猫と話ができるなんて、すごい。すごいぞ!

 「うちに来てくれ!」
 新一は、轟くような大声で叫んだ。猫はびっくりして「なんだと?」と言った。
「僕と一緒に住んでくれ! 部屋はまあまあ広いし、掃除も割としてるから綺麗だよ。そうだ、毎日お前の好きなものをやるよ。何がいい?」
 怒濤のように言葉を浴びせられ、じっと黙っていた猫は、少し間をおいてから口を開いた。
「お前の気持ちはとても嬉しい。吾輩も一度くらい、お前のような男に飼われてみたい。しかし吾輩は飼い猫だ。吾輩には別の飼い主がいる。彼女をおいて他のところで世話になるなど、吾輩にはできん」
 その途端、新一の興奮は一気に冷めきった。そりゃそうだ。この猫には苦沙弥さんという飼い主がいるんだ。この猫は確かに飼いたい。けれど無理矢理に飼い主と引き離して、小説の世界を壊すことはできない。
「……そう、だな。馬鹿な事言ってごめん」

 あれ? さっき猫はなんと言った? 「彼女をおいて」だと? 飼い主は確か男性だったはずでは……。
「おい、ひとつ聞くけど、お前の飼い主の名前は苦沙………」
「由紀だ。山本由紀。小学校の教師をしているぞ」
 猫は満足げに答えた。
「ソウセキナツメが大のお気に入りでな。吾輩もちらと写真を見た事がある」
 新一は額を手で抱え唸った。
「いや、ちょっと待て。そんな事はないだろう。そうだ、さっきだって『名前はまだ無い』と言っただろう。飼い猫に名前も付けない主人なんてそんなに多くはないんじゃないか?」
 
「………言っておくが、吾輩の名前は『マダナイ』だ」

あとがき:他サイトでも公開している作品ですが個人的にお気に入りの小説ですので改めて登場させてみました。
余談ですが、今作の主人公森川新一は、小説「牛になる」にもちょっとだけ出演しているんですのよ。