阿武秀子

2009年5月7日更新

第18回 「アリジゴク」から『山椒魚』へ 

 前回、未来は人の背後にあるもので、人は未来に「背中から入っていく」ということを堀田善衞の文章をきっかけに考えたのだった。
 私たちは未来に向かって「後(あと)ずさり」をするような格好になる。前を向いたまま後ろへさがっていく動きである。そろりそろりといくのか、はたまたズルズルと後退していくのか、それはわからないが。
「後ずさり」は、古語では「後しざり」ともいう。「ずさり」も「しざり」も漢字で表記すれば「退り」である。動詞は「しざる(しさる、とも)」で、「しり(後ろ)」へ「さる」が約まってできた。
「アトズサリ」には、「アトスザリ」「アトシザリ」「アトシサリ」といったバリエーションがある。濁点がスに付いたりサについたり、あるいは濁点がなかったり。わりと曖昧だ。
 そして、この語はなんと、アリジゴクの別称なのだ。

 アリジゴク(ant-lion)がウスバカゲロウ(lace-wing)の幼虫であることはよく知られている。成虫のカゲロウの嫋(たお)やかな姿とは異なり、幼虫はいかにも肉食で、大きな顎(あご)を持ち、小さな虫の体液を吸って成長する。
 そのアリジゴクだが、事典によれば、前に進むことができないと説明されている。
「アトズサリ」の名がついているのは、そのことを指すのだろう。
 だが、それだけではないとも思う。
 アリジゴクは擂り鉢状の砂の穴を仕掛けて小さな虫たちを待っている。そこにうっかり落ちた虫は、頭を上に向けて戻ろうとする。しかし、後ろ足がすべって、からだ全体は砂の穴の下方に引っ張られるばかり。あわてふためき、足掻く(あがく)けれども、やがて奈落の底に落ちていく。
 待ち構えるアリジゴクだけでなく、やむにやまれず落ちていく虫のほうも、ぶざまに「後ずさり」をすることになる。だから「アトズサリ」の呼び名は、擂り鉢に落ちたお客さんたちの姿とも重なってくる。

 ところで、砂の擂り鉢の縁からすべり落ちた瞬間に、虫たちは「シマッタ!」と思うものなのだろうか。
「シマッタ!」という体験は、人生に及ぼす影響の大小や、その瞬間の衝撃の度合いの強弱によって、人それぞれいろいろありそうな気がする。「シマッタ!」を痛切に感じた存在といえば……。
 これまで読んできたなかで私がすぐに思い出すのは、井伏鱒二の『山椒魚』だ。
 山椒魚が住みなれた洞穴(岩屋)から長いあいだ出ないでいたら、自分の頭が大きくなって穴の外に出られなくなってしまう。そのことに気づいて、穴に出入りする水生動物たちをばかにしたり、からかったりする。ついに穴から外の世界に出る決心をするが、結局穴から出ることは叶わない。
 悲惨な話ではあるのだが、どこかおかしみが感じられ、高校の国語教科書や中高生向けの副読本などにも載っている。
 以前これを授業で扱ったあとに、自分や周囲の人たちが、つまりは多くの人が実にこの「山椒魚」なるものに近いのではないかと感じ、愕然としたことがあった。

「山椒魚」のことを私は「シマッタ!」体験の代表的存在のように書いたところだけれど、果たして当の「山椒魚」は「シマッタ!」という認識をどの時点でもっただろうか。
 人びとの発する言葉やふるまいが「山椒魚」なるものと近いなどと私が感じるのは、この作品で繰り広げられる山椒魚のどんなありように対してなのか。
 穴から出られないことが、そんなに「シマッタ!」ことなのだろうか。
 
 なんだかあれこれと疑問がわいてきた。次回から『山椒魚』を読み込んでいかねばなるまい。

 第1回 バカボンとアリババ
 第2回 明和電機と青い作業服
 第3回 お稽古というもの(その1)
 第4回 お稽古というもの(その2)
 第5回 お稽古というもの(その3)
 第6回 お稽古というもの(その4)
 第7回 お稽古というもの(その5)
 第8回 お稽古というもの(その6)
 第9回 お稽古というもの(その7)
 第10回 新年の雑感「草思社のこと」
 第11回 教材〜国語教科書に取り戻したい作品・市原豊太1
 第12回 教材〜国語教科書に取り戻したい作品・市原豊太2
 第13回 教材〜国語教科書に取り戻したい作品・市原豊太3
 第14回 教材〜国語教科書に取り戻したい作品・市原豊太4
 第15回 教材〜国語教科書に取り戻したい作品・市原豊太5
 第16回 堀田善衞の「未来からの挨拶」1
 第17回 堀田善衞の「未来からの挨拶」2