第21回 井伏鱒二の『山椒魚』を読む3 
山椒魚が2年のあいだ、周囲と自分とのあいだに起きた変化に気づかないでいたこと。これを怠慢だというのはたやすいのだけれど、私たちには往々にして、何かに必死で取り組んでいたりして、その変化に気づかない場合があるのではないか。
たとえば資格をとるために勉強をする、ある種のプロジェクトをやり遂げる、あるいは、少しやっかいな病にかかったときに療養をするといったこと。2年というのは、ちょうど手頃な期間のように思える。
いや、ごく日常的に日々をおくっているときのほうが気づかないものかもしれない。何か目標をもってやっているときは、期限をもうけている場合が多いし、人生の転機にさしかかったりすると、人はじたばたして何とかしたいと攻めの構えをもつ。
大過なく日々をすごしているときの方が期限の意識がうすい。あっという間に2年ぐらいが経ってしまって、変化に対しても鈍くなっている。
やはり「慢心」というものであろうか。
しかし、この「慢心」は誰でももってしまうようなものだから、私は山椒魚に同情してしまう。
山椒魚は何もわるいことはしていない。岩屋はそれなりに居心地がよかったのだろう。ただ、からだが大きくなっただけだ。
小さいままだったら以前と変わらずに岩屋を自由に出入りできる。大きくなったとしても、出入り口を通れる程度のサイズのときに岩屋から出ていたらよかったのに。
大きくなったことがわるいこととも思えない。
ひとえにこういうことか──出入り口と自分のからだの大きさの関係に気づかなかったのが悲劇を招いた。
ある日突然、自分がとんでもないことにみまわれる、まったく想定外の局面に置かれる。気づいたら自分が虫になっていたというカフカの『変身』(一九一五)のグレゴール・ザムザの身に起こったようなことか。
「不条理」という言葉が思い浮かぶ。
山椒魚は別の生き物にされたわけではない。山椒魚として存在しつづけるが、からだが大きくなって外に出られず「幽閉」された状態になる(『山椒魚』のもとになった短編は題名が『幽閉』だった)。
グレゴールは動くことはできるが、家族が彼を部屋に閉じ込めてしまう。どんどん虫になっていくのに誰も同情しない。実質的には「幽閉」されたも同然である。
グレゴールは家族からひどい仕打ちをうけるけれど、山椒魚には家族はなく、ひとり身である、といった違いはある。
山椒魚とグレゴールは、ふと気づいたらわけもわからず幽閉状態におかれ、自由を奪われ、絶望の淵に立っていた、という点で一致するだろうか。
では、岩屋から出られないことは山椒魚にとって何を意味するか。
からだはさらに大きくなるから岩屋はどんどん狭くなる。からだに付着する苔がもっと分厚くなるかもしれない。水中の植物や出入りする動物によって岩屋の中が汚される。
山椒魚自身は狭いところにいて、しかも外に出られないと思うと、精神的に混乱をきたし、八方ふさがりで鬱々としてしまう。
外に行けないということは、外に出ることで得られたかもしれない自分のこれからの可能性が閉ざされてしまう。
自力で岩屋以外の場所に逃げることができない。
永遠にこのままなのか──こう察知したときの恐ろしさ。
生きていられるのだったら同じところにいるので構わないと開き直らずに、山椒魚は外に出たいと思ってしまった。出ないで済ますのもわるくないとは考えないで、出られる自分を想像してしまった。
山椒魚は出入り口に体当たりして脱出をはかる。が、かなわない。
物語そのものに戻る。
絶望的な思いにうちひしがれて、山椒魚は涙を流す。
「たった二年間ほど私がうっかりしていたのに、その罰として、一生涯このあなぐらに私を閉じ込めてしまうとは横暴であります。私は今にも気が狂いそうです」と、神様に向かって嘆く。
この姿を語り手は「発狂した山椒魚」と指摘し、「諸君は、この山椒魚を嘲笑してはいけない。すでに彼が飽きるほど暗黒の浴槽につかりすぎて、最早がまんがならないでいるのを、諒解してやらなければならない」と述べる。
読者に向かって呼びかける「諸君」という堅苦しい語が、瞬間的に不思議な開放感を生み出している。
また山椒魚は言う。
「ああ神様、どうして私だけがこんなにやくざな身の上でなければならないのです?
」
岩屋の外を見ると、自由に泳ぐ水すましや活発に動き回る蛙がいる。つい自分と比較してしまい、「目を避けた方がいい」と気づいて目を閉じる。そして自分を「ブリキの切屑」だと考える。
自分に残された目蓋を開閉するという自由を行使するけれど、何も変わりはしない。
目を閉じることが幾分かでも自分への慰めになるつもりが、かえって「巨大な暗やみを決定してみせた」。
ここで山椒魚が発する「ああ、寒いほど独りぼっちだ!」という言葉は、この作品のなかで最も印象に残る。
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