第22回 井伏鱒二の『山椒魚』を読む4 
何年か前のことだが、高校生の授業で、絵心のある生徒に山椒魚を黒板に描いてもらったことがある。
私は絵を描くのが絶望的なほどに下手なので、いつも失笑をかう。それでも頭の大きい山椒魚をデフォルメして、ごく簡単に描いたりはする。岩屋の出口に頭がひっかかる状態を断面図のようにして描いてみるが、岩屋の奥までは想像ができずにいた。
生徒は少し上から見た山椒魚の全身を描いた。岩屋のなかでバランスのわるい身体を大儀そうにくねらせ、小さな目が愛くるしい。清流の感じもよく出ていて、これなら山椒魚の岩屋の窓から小さな生き物たちもよく見えるだろうなと思えた。
清流といえば聞こえはいい。しかし、当の山椒魚にとっては「幽閉」されているただの空間にすぎない。その空間しか自分には与えられていない。生きる可能性を見いだせるのが、自分の身体の周囲のごく狭いところだけなのだ。
岩屋から出られないとわかった山椒魚は「ああ、寒いほど独りぼっちだ!」と独りごちた。
そして、すすり泣きの声が岩屋からもれてくる。
悲嘆にくれているうちに、山椒魚は「よくない性質を帯びて」きたらしい。
ある日、岩屋にまぎれこんだ一ぴきの蛙を外に出られないようにしてしまったのである。
山椒魚が「コロップの栓」になっているので、蛙は岩屋の天井の「銭苔の鱗」にへばりついた。
蛙を自分と同じ状態においたことで、山椒魚は痛快になって「一生涯ここに閉じ込めてやる!」と言う。
悪党の呪い言葉のように。
こんなことをしたって、どんな呪いをかけたって、山椒魚のおかれた状況は変わらない。蛙を仲間に引き入れたということ以外は。
それなのになぜこのようなことをするのか。
蛙の行く末を左右できることに意味があるのだろうか。
蛙からみたら、一匹の山椒魚に運命を握られてしまった。
ここで山椒魚は蛙のためになることをしようとは考えないのか。
蛙を逃がしてしまったら、ふたたび「独りぼっち」になってしまうことが不安なのか。
蛙は天井にくぼみを見つけて、そこに入り、くぼみから顔だけ出す。それからは二匹で呪い言葉の応酬だ。
「出てこい」「勝手にしろ」「お前はばかだ」と主張しつづけ、一年がたつ。
冬眠から覚めた二匹は前の年と同じように口論をつづける。そのときには蛙のほうも、山椒魚の不自由に気づいている。
「お前こそ頭がつかえてそこから出て行けないだろう?」
「お前だって、そこから出ては来れまい」
「それならば、お前から出て行ってみろ」
「お前こそ、そこから降りて来い」
さらに一年がたったときには、今度は二匹とも黙りこんでしまった。
作者は次のように物語を終わらせている。
──けれど彼らは、今年の夏はお互いに黙りこんで、そしてお互いに自分の嘆息が相手に聞こえないように注意していたのである。
とても有名なことなのだけれど、このあとに続きがある。続きを作者が晩年に全集を編んでいるときに削ってしまったので、作者の意志を尊重すれば、ここまでということになる。
この終わり方をいったいどうとらえたらよいのであろうか。
二匹(というか二人というか)は張り合ったままである。最初の年は互いに主張をゆずらず、一年後は口論をつづけ、二年後はだんまり。
勝負がつかない、というか、井伏鱒二は勝負をつけないで終わらせようとしたのだろうか。
このあとに何か展開があるとしたら、いずれかが声をかけることが突破口になるだろう。
人間の実際というのは、案外それが難しいのかと思う。
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