市原豊太『自己嫌悪』その3
つづいて市原豊太は、自己嫌悪のことを「自分が自分をきらう、自己をいやに思うということ」と述べている。「いやだなあ」と感ずることは「後悔」の語におきかえられ、後悔とは「自己嫌悪の一種」であるという。
「きらう自分」と「きらわれる自分」がいるが、「きらう自分」のほうが「きらわれる自分」よりも高尚で、上等である。そして、「ばか」とののしられる自分と、そう叫ばずにいられない自分はずいぶん違う、と。
時間的にも数秒の違いが生じており、「きらわれる自己」=「前の自己」は「すでに流れ去って過去に属する自己」であり、「きらう自己」=「後の自己」は「生命の持続の先端に立っている自己」と表現している。
私がいっしょに文章を読んだ高校生のなかには、この部分に共感する者が多かった。自分の中に、見る自分と見られる自分がいて、「見る自分」がいるからこそ自己嫌悪を覚えるのであり、それが成長の機縁にもなってきたのだということをあらためて認識するものらしい。
高校生たちにとって(もちろん高校生にかぎらないが)、自分のなかでしばしば起きる自分に対する「いやだなあ」「ばか」という化学反応について、わるいものではないよ、むしろそれは有効なものであるのだよと言ってくれるのだから、わるい気はしないのであろう。
著者が提示する「きらう自分」と「きらわれる自分」という構図は、二項対立の発想法に嵌まっているかなという気がするし、「きらう自分」つまり「見る自分」が、「きらわれる自分」つまり「見られる自分」を一段高い位置に立ってみているというのも、本当にそうだろうかと言いたくなる。
「きらう自分」が何かあるたびにあらわれて、「きらわれる自分」を批判する。そうして人間は段階的に成長していくことができる。こんなことを簡単に信じてよいのだろうか。
著者の発想法は、近代主義的なとらえ方の枠のなかに収まっているなあ、とつくづく思う。だからこそ、ポストモダンの時代を生きる高校生の眼に新鮮に映ったともいえるのだが。
前回のおしまいに書いたことであるが、私自身は市原豊太のこの文章を古めかしいなどと一蹴することができない。近代主義で結構ではないの、と言いたい自分がちゃんといるのである。
「羞恥心」は褒めそやされても、「自己嫌悪」することをばかにするようなご時世である。「自己嫌悪」を大いに推奨したいと思っている。とにかく著者の考えに寄り添っていくことにしよう。
さて、ひきつづいて市原が述べるのは、長期的な自己嫌悪のことである。それは「一時的の行為に対して」ではなく、時間的にもっと続く自分の言動や性格に対して感ずるものである。
おのれという人間はいつまでもこうでいやになる、直そうと思うがどうにもならない、われながらつくづくあいそうが尽きる、というふうに自己を嫌悪する。そうしてゆううつな気持ちになる。
こういった心の動きは、前に述べた自己嫌悪よりも「緩慢」ではあるが、「つらいことは同じようにつらい」と。
「きらわれる自分」が段階的に積み重なって蓄積している状態を「きらう自分」が引き受けるのだから、同じようにどころか、もっとつらいかもしれないな、と私は考えてしまう。
そして、長期的な自己嫌悪の例として、安倍能成をまず挙げる。安倍は市原よりも20歳ほど年長の哲学者だが、齢を重ね、功なり遂げても「自己嫌悪に陥って困る」のだと手紙で吐露している。
それについて、「およそ成長し発展する魂にとっては、その健康さを示す一つのしるし」「自己がいやでなくなったら進歩はなくて退歩」だと市原は評価する。
次に孔子の例。論語の「七十にして心の欲するところに従って矩(のり)をこえず」を引き、孔子も七十になるまでは、「矩」をこえて、自己嫌悪することがしばしばあったのではないかと言っている。
「矩」を「ノルム(フランス語、規範)」とも言い換えるが、これは「社会が作り上げたもの」であったり、「自己が特別に自分の内に築いたもの」であったりする。いずれにしても、自分が良しと肯定するもの、理想とするものが「矩」「ノルム」であって、それに自分の行為や状態が合わないときに自己嫌悪が起きる、と説く。
このあと夏目漱石や志賀直哉の例が続く。それは次回以降に紹介することにしよう。