市原豊太『自己嫌悪』その5
前回は夏が終わる頃に書いた。こうして年末を迎えているから、秋という季節を一つ跨いでしまった。
この1か月ほど歯痛に悩まされていた。もっと前から兆しはあったのだが、いよいよ悪くなって、歯医者にようやく行ったのが半月ほど前のことである。歯医者に通うほどめんどうなものはない。行ってしまえばケロリとしているのだが、どうも行く気になれなかった。
秋口くらいだったろうか、奥歯に詰めていたものがはずれてしまった。そこに空洞ができて、食べ物がはさまってしょうがない。痛みがほとんどないし、抜けているだけのことだからと、たかをくくって放置していた。ふだんよりは歯磨きをていねいにするようになっていたかもしれない。
ある日、はさまったものを爪楊枝でつついていたら、周辺のわるくなっていた部分もいっしょにポロリととれた。空洞はますます大きくなった。
鈍い痛みを感じるようになって、その痛みがだんだん大きくなってきた。それが1か月と少し前だろうか。そこで私はどうしたか。
手持ちの風邪薬を飲んで、痛みをしのごうとしたのである。内科にかかって風邪薬を飲んだら、のどの腫れや痛みのための薬が偶然に効いたからだった。子供も同じような薬をもらっていて、そちらの風邪はすぐに回復したのでその薬も頂戴した。いよいよ薬がきれると、風邪気味だといってふたたび内科に行った。その時点で歯医者に行ったとしても遅いと言われただろうけれど、それでも歯医者には行かなかった。
それから数日して、やはりどうにも痛みがおさまらない。そのうえ周囲が腫れてきた。以前どこかで聞いた、虫歯のせいで顎を手術せねばならなくなった人の話を思い出した。夜中にガバと起きて、そんな情景が頭に浮かんでくる。いよいよ明日は歯医者に行かねばならないと観念した。
翌日、人が紹介してくれた歯医者さんに電話。あいた時間に入れてもらった。「もうぎりぎりというところですね。まあ、何とか治るでしょう」とのことで、たまっていた神経の膿を出してもらい、3、4日のあいだ化膿止めと痛み止めを服用することに。
こうなると現金なもので、気分がよくなって仕事もはかどるように思えた。ただ、削ったところが舌にさわって話しにくいし、舌も痛いし、といった不具合はあったので、次回に何とかしてもらおうと考えていた。
1週間ほど後に歯医者に行くと、だいぶいいようなので仮に覆っておきましょう、ということになった。歯垢も除去してくれて、健康な歯に少しだけ近づいたような気分になった。
ところが、である。その晩からすっきりしない。ひいていた腫れがぶり返してきたのではないか。まさかねえ。
翌日には朝から熱をもったようになり、痛みが増した。時間が経つにつれて、最初に歯医者に駆け込んだときと同じような状態になってきた。何かあったら電話するようにということだったので歯医者に電話をすると、少ししてから「すぐに来てください」と連絡をくれた。
膿が完全に出ていなかったものらしい。仮の覆いを取り除き、膿が出やすいようにしてもらう。前回と同じように薬を服用するようにとの指示。
その日は午後から夕方まで生きた心地がしなかった。仕事を早退した。後で聞いたら、その時の私は顔が青白くなっていて、ひどく機嫌がわるかったそうである。
夜になって薬が効いてきたのか、痛みや腫れがひんやりと感じられて落ち着いてきた。家に戻って伏せっていたものが、急に起きだして食事をつくりはじめたので家族が怪訝な顔をしていた。その後、痛みも腫れも日に日に鎮まっていった。
1週間後に診てもらった。それが数日前のことである。
今度こそは大丈夫だと思うけれど、覆いを軽くしてみましょう、ということで処置されて、奥歯の空洞はなくなった。年明けから本格的に治療することに。
ひょっとしてまた痛みがはじまるか、腫れるかということの不安は残っているけれど、顎を手術というところは何とか免れたようである。
歯医者には早めに行きましょう、という教訓はもちろんあるのだが、膿ってちゃんと出さなきゃダメなんだな、中途半端な状態で蓋をしてしまっては元も子もないのだな、ということの方が私には響いた。
私のような人間って、どうしても計算や先読みができない。身をもって経験しないと(つまり、懲りないと)自分に効いてこない。困ったものである。
さて、数回読んできた市原豊太の「自己嫌悪」について。これこそ、自分のなかで「よくない」点に気づいてその認識をもち、それを「引き離そう」とする自分がいて、それらがぶつかりあう運動を何度もくり返していくしかないのではなかろうか。
先生が何かアドバイスをする。親が心配して子供になにかれとなく言う。また、私たちは先人たちのさまざまな理想や教訓を知ることもできる。
だが、どうもそれらの「ためになること」というのは、そのまま個々にスムーズに届いて、すぐさま生かされるというのではないらしい。
どうも人間の人間たるゆえんの一つはそういうことなのかなと、このごろ私は思うようになった。
誰かが人生のこの部分を代わりにやってくれそうだからそこはやらないで済ませる、簡単に通り抜ける、端折る、というようなことはできないのではないか。人間が生きていくということにおいては。
親や先人が苦労して人生をたどってきて、じゃあその徒労に思えるような人生の局面を子供には回避させようとしても、実際には子供は喜ばない。回避されたようにみえても、別の想定外の苦労がやってくるだろうし、回避されたことで子供のほうに力が一向に身につかないこともある。これは「回避」を「先回り」という言葉に代えても同様である。
一方で、親が他人よりもうまくいったように見えたからといって、同じようにやらせようとしてもあまり意味がない。親と子供は似た部分はあっても、明らかに違う性格をもっているし、第一、生きる時代がちがう。親の暮らしぶりの晴れやかな部分を見せられて、あのような生き方がいいなと子供が感じたとしても、それを親が真にうけて、じゃあ、そのようにしなさいとうれしがってはいけない。本当にそれを子供自身がやりたいとわかるまでには時間がかかるものなのだ。(生業を親から子に伝えていくような場合は、また状況が異なるだろう。)
人は不器用に、一人ひとりが、道なき自分というものを踏んで、それなりに人生らしきものをかたちづくっていくしかないのではないか。節目節目の選択、長いこと煮つめてゆく考え、ようやく気づいてきたこと、そういったもろもろを抱えながら。
もうひとつ、重要な点がある。
市原豊太がこの文の最後のほうでふたたび志賀直哉を取り上げて伝えようとしているもの。自己嫌悪ののちにやってくる「救済」と、それがどうやってもたらされるかということである。
志賀作品でいえば、『暗夜行路』の末尾、主人公謙作が急病にかかり、「明けがたの山の美しさに大自然と溶け合うような調和的な気持ちになる」あたりだ。
市原氏はこう語っている。「長い自己嫌悪に苦しんだあげくに、落ち着いた、明るい、あたたかな心境に救い上げられていて、もうこうなれば、生きようが死のうがどうでもよいというところへ来ているのだと想像されます」と。
そして、志賀直哉の言葉を引用しつつ、どんなに自己嫌悪に苦しめられても、「自分を熱愛し、自分をたいせつにすること」が根っこにあるからこのような「救い」がおとずれると述べている。
しかし、ただ自分を愛し、大切にするだけでは「救い」はやってこない。
自分を愛し、大切にするとともに、他人や世界を見つめ、そこに「捨て身になって」熱愛したり大切にしたりするものを見いだしていくこと。見いだしたものに向かって、熱愛することや大切にすることを実際に成し遂げていくこと。それはうんと簡潔に、なおかつ、すべてをひっくるめていってしまうならば、「美しいもの、よきもの」なのかもしれない。
具体的には、恋愛や文芸運動、芸術作品、科学研究、スポーツなどがあげられようが、それらしいものばかりとは限らないだろう。
いちばん最後に市原氏は、このように締めくくっている。
自己嫌悪から抜け出る道は、「何か自己がよきものと認めたものをどこまでも愛しぬくということにありそうです」。
市原豊太の随筆についてはここで筆をおく。
年明けにまたお会いしましょう。