この本の最終章になっている「未来からの挨拶」は、ある教科書に掲載されていたが、私がこれまで読んできたなかで忘れることのできない教材の一つだ。
副題「−Back to the Future−」から、あの人気映画を思い出す人は多いだろう。
映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は、マイケル・J・フォックス主演で1985年に世に出た。当初は続編の予定はなかったようだが、パート2(89年)、パート3(90年)と製作され、いずれも大ヒットした。
第1弾では、タイムマシンで1985年から55年へタイムスリップした主人公が、結婚する前の自分の両親と出会う。かつての母は、父ではなく息子となるはずの主人公に恋してしまう。この恋が進展するまま放っておくと、過去を変えてしまうことになる。自分と母が結ばれては、この自分は存在することができない。そうならないための格闘があって、やがてその難問を解決し、主人公が「現在」に戻ってくるという話。
映画のタイトルは、主人公が「過去」から「現在」に戻ってくることを指していると考えればいいだろうか。1955年という「過去」にとっての「未来」が85年という「現在」だ。つまり、それが「未来への帰還」ということになる。
だが、堀田氏はそう解釈するだけでは済まさない。「タイトルの発想の仕方に異常なほどの関心、あるいは興味をそそられた」と語っている。
バルセロナ大学で古典学を講じるカタロニア人の教授にたずねたところ、謎を解くカギはホメロスの『オディッセイ』にあると教えてくれた。
ホメロスの世界をたぐり寄せると、まさにその「発想」の根っこにあるものに出会う。過去と現在がわれわれの見ることのできるものであり、未来は見ることができず、われわれの「背後にあるもの」という考え方が古代ギリシアにあったことを確認するのである。
それを堀田氏は「われわれはすべて背中から未来へ入って行く」と言い換えている。
なるほど。この言葉が私のなかで大きく響いた。私たちは未来に向かっている存在だと当たり前のごとく思っている。背中を向けているのは「過去」に対してだと疑わないようなところがある。
しかしそうではないのだ、と。
私たちが顔を向けていられるのは過去の方向。知り得るのは過去であり、つねに過去を腹側にしながら、現在の現実を今この身体に受け止め、そして、背中側にひかえる未来に向かって生きているということか。未来を目ざしながらではなく、未来に背
を向けたまま突入していく。
いや、未来に背を向けているという明確な意識すらもたず、未来へ「背中から」「入って行く」ということかもしれない。
教壇に立ち、黒板の前で、背中が引っ張られるような感じで後ろに向かって移動していく(=後ずさりする)と、それが実感できることに私は面白さを感じたのだった。
未来に向かうとは、後ずさりすることに等しいのか。何というたどたどしさだろう。そこで背後に顔を向けようとする、つまり「未来」をふり向いて見ようとすることはさらに難しい。
古代ギリシア文学をはじめとする古典では、背後にある未来をふりかえることのできる人はごくわずかの賢人だけだと言っている。
何年か前に読んだ時、私はここまでの部分にすっかり心を奪われてしまった。死は背中からやってくるといったことを述べている吉田兼好の『徒然草』を思い出したりもした。
だが、この先がある。腹側にある「過去と現在」のことだ。「目の前に」どこまでも広がっている過去という鉱脈である。
今回読み直してみて、背後にある未来というもの以上に、眼前の過去と現在というものの重みを痛感することになった。
未来は背後にあって見えないとしても、現在に至るまでの過去を正面から見据え、受け止めることはできるのではないか。
私たちは見ることのできるはずの過去をちゃんと見ているのだろうか。見ようと思えば見える過去と現在を見逃してはいないだろうか。
それは「歴史」とも言い換えられると堀田氏は言う。
賢人たちがどうして現代を知り、未来を予言できるのかといえば、「眼前の歴史と(現在の)現実を見て見て見抜いて」いるからだ。ドストエフスキーしかり、ランボーしかり。
賢人でなければなおのこと、過去と現在をしっかと見なくてはならない。日常的な感覚では、人はただ未来に向かっているものと思い込んでいる。過去と現在をとことん見ることをしないで、未来にばかり期待をかける。かと思えば、未来に対して過剰なほどの不安を抱く。
期待も不安も人にはあっていいと思う。しかし、未来とは背後にあるもので、過去と現在こそが眼前にあることにひとたび気づくと、背後からやってくる何かへのうつろな依存やおびえが別のものに変わっていくのではないか。
ひょっとしたらそれはもっと恐ろしいものに変貌するかもしれない。見ないでいられたらその方がよかったというような、堀田氏いうところの「魔物めいたもの」。
それを引きずり出してしまった賢人たちを待ち受けているのは、祖国や故郷を捨てたり、追放されたり、悲劇的な死を迎えたりといった行末なのか。
この文章は「−Back to the Future!」と、感嘆符を付けて終わっている。「未来からの挨拶」が届けられたときの、いったい誰から誰への言葉なのだろう。