あ・ら・カルチャー

阿武秀子

2009年8月1日更新

第19回 井伏鱒二の『山椒魚』を読む1

 それこそ「山椒魚状態」に身をおいてしまって2か月以上も書けずにいた。何が何でもと思えば書けるはずなのだが、なかなかそうはならない。些末なあれこれに追われ、数時間机に向かってじっくり書くことができない。
 書かない状態は周囲からすれば、書かずに放っていると見えるだろう。私にとっては胃の腑がずっともたれている感じだった。
 言い訳ついでに何をやっていたかを記してみる。
 新学期→ゴールデンウイークでようやくひと息(家族で近所のイタリアンを食べにいった程度)→5〜6月:生徒との面談(ほぼ毎日生徒の数だけ)→夏休みの行事の準備(これは行事直前まで続く)→6月上旬:定期テスト→採点→教育実習生の指導(3週間にわたる)→…といった具合である。
 さらに、自分の子供たちの保護者会とか懇談会とか、成績をもらいにいくだとか、そんなことが挟まってくる。

 教育実習生を指導するのは新鮮な体験だった。
 以前から私が担当をするという予定がはっきりしていたのではなく、けっこう近くになって決まったのは決め方も含めて滑稽なことだった。いつかこのくだらない、ばかばかしい経緯について書くこともあるだろうか。
 私の教科の実習生ではなかったのだが、クラスでの実習が要求されるのでそちらで指導する者が必要なのである。
 実習生は自分の大学から記録ノートをもたされており、指導する教師が書く項目がある。結局ほとんど毎日、それを数行ではあったが書いた。3週間となれば書くことがパターン化してきて、最後の方は困ってしまった。
 こういう仕事も毎日すべきかすべきでないか、どこにも決まりはないということで、熟練している(らしい)教師などは「そんなこと毎日引き受けなくたっていいものよ」などと言い出す。
 引き受けないことをできるだけ増やす、つまりやるべき仕事をきわめて狭い範囲にとどめようとする教師がいかに多いかというのは、痛切に感じることである。それが恒常化している世界では、仕事を柔軟にとらえ、それをやっている者がいると、愚かなわざだと見なされる。

 私は今、二つの学年の国語の授業を担当しているのだが、6月の定期テストのときに片方は採点がごく普通に終わった。ところがもう一方にすぐ手を付けられず(手を付けず、と言うべきか)、取りかかれない週末が続いた。そちらの生徒たちは鷹揚にかまえていて、○○先生よりは返却が早そうなどと下馬評をとばしていた。
 意外にもその○○先生の採点が早く終わり、私より先に返却した際には、生徒たちはこんなことを言った。
 実はまだ△△先生の返却が残っているんですよ。そちらは夏休み前に返ってくることはないと思うので、そうなると先生(私のこと)のが最後かな……。
 ま、私は7月になって採点を終え、返却しました。
 もし中学校や高等学校の教育現場に詳しい方がいらしたら、これらのやり取りは相当にけしからぬこととされるかもしれない。

「気ままに読み込む」シリーズは山村基毅さんの提案によって決めたタイトルで、「気まま」であることはとても気に入っているのだけれど、ついそれに甘えてしまう。当初の目論見は、「気まま」なのは書く周期についてではなく、読み込む姿勢のことだったはず。ひと月に1回は必ず書くと決めるかな、と思う。
 昨年から教師業に重きをおくようになった。あくまでも時間的な拘束が増えただけのつもりだったが、時間というものは侮りがたく、不自由さがじくじくとからだに沁みてくる。
 実際のところ、今年になってからめんどうなことがいろいろ見えてきた。そもそも昨年のうちに殊更気づいていなかったところが能天気、ではある。
 
 だいぶ前のことだが、とある書店で名作のビデオを陳列していたことがあった。俳優が朗読を吹き込み、それに合う映像を流している。たまたま『山椒魚』をやっていた。どんなものかと思って見たら、清流にオオサンショウウオがただ映っているだけだった。横広で肉厚の顔の両脇に、ちょこんと小さな目がついているのが愛敬であった。
 たしかに『山椒魚』を映像化したらこうなるだろう。映像になんかしなくてよいのにと思う反面、案外これだけがいいかもしれないとも思った。音で聴いた言葉がかえってイメージを豊かにしてくれるだろうから。

 さて『山椒魚』は、「山椒魚は悲しんだ。」で始まっている。
「山椒魚は」の助詞「は」が、提示とも強調ともとれるが、ここに一つの存在がまぎれもなくあることを示していて、ぐいと読者をひき付ける。
 彼は「棲家である岩屋から外へ出てみよう」とするのだが、「頭が出口につかえて外に出ることが」できない。頭は出入り口をふさぐ「コロップ(=コルク)の栓となるに」すぎない。
 2年のあいだそこにいてどうして気づかなかったのか。彼はそれを「何たる失策であることか!」と言う。さして広くもない岩屋を泳ぎまわり、自分のからだにも苔が生えてしまったと認める。
 彼は「相当な考えがある」などと呟くが、そんなものはない。

 「彼は」を別の誰かに置き換えたくなる。まずはてっとり早く「私は」だろうか。それとも身近な誰かにしてみようか。あるいは、ニュースでおなじみの政治家たち。とんでもない事件をひきおこしたり巻き込まれたりする人たちか。
 いかになんでも2年とは。出られないことに気づくのが遅すぎるのではないかという科白は、第三者からはいくらでも言えることだ。
 山椒魚がどんな生き方をしてきたのか、「彼の体が発育した」との記載はあるが、それ以上のことはわからない。
 こういう生き方をしたからこうなったという因果がほとんど見えてこないのだけれど、「コロップの栓」に頭がつかえてしまった山椒魚には、苦い共感と、ふっとこぼれてくる可笑しみを覚える。