あ・ら・カルチャー

阿武秀子

2007年2月19日更新

第2回 明和電機と青い作業服

 先頃、六本木に国立新美術館(The National Art Center, Tokyo)がオープンした。どうもこの「新」のつく名前がとってつけたようで、何とかならないのかと思う。加勢大周という俳優がいるが、だいぶ前にプロダクションをかわるとき、芸名をそのまま使えるかどうかでもめたことがある。もとのプロダクションは、別人を新加勢大周という珍妙な名前で売り出そうとした。「新」の一字からこんなことを思い出してしまった。
 早速行ってみる。1月21日から2月4日までやっていたオープニング企画はよかった。「日本の表現力」と題して、戦後日本のアニメやおもちゃ、ゲーム、現代アートなどの歴史をたどるものだった。
 平日の午前中に行くと、お客のほとんどが学生ではないかと思われた。大学生や専門学校生といったオタクの若い男女がこの地に終結しているという感があった。1人や2人連れはわりと少なく、たいていは5、6人で束になって歩いている。一つひとつの束には男女が入り交じっているのだが、男女の判別ができない場合もある。オタクという種族は、男らしさ女らしさを消しているものらしい。
 3階のフロアの通路では、ポール・ボキューズという三ツ星レストランのランチめがけて、品よく決めたオバサマたちがこれまた鈴なりになっている。午前11時すぎからのランチはすでに満席で、12時にもなると2列並びの群れが、そうねえ、50メートルにはなっていたろうか。最初に入れないと2時間待ち確実なのだそうである。ちなみにポール・ボキューズは、大丸ピーコックにパン屋さんが入っているブランドでもあり、その銘柄のワインなども売っているはず。料理ではスズキのパイ包み焼きが有名らしい。ボキューズ氏はクリーム・ブリュレというデザートの考案者でもある。
 2階にもカフェがある。ここもたくさん人が入っている。とにかく大勢を処理しなくてはならないということで、しゃれた内装のところにビッシリ人が詰め込まれている。
 これは、展示作品以上に現代アートかいな、と私は思った。見ている私もそのすみっこにおさまっているのかもしれない。
 この手の文化施設には熟年夫婦も多いかなと予測していたが、それなりにいるものの、彼らは目立たない。だんなさんの方がたいていは服装が地味で、おくさんもそれに合わせたかのように、お互いに保護色のように溶け合って並んで真剣に展示を見ている。
 さて、「日本の表現力」のなかで何より私が嬉しかったのは、「明和電機」の展示があったこと。パフォーマンスをする現代アートの範疇に入り、吉本に所属し、最近は海外でも活躍しているらしい。
 1965年、67年生まれの兄弟の2人組で、93年に「明和電機」を結成。兄は広島大学を出てマツダにいたことがあり、弟は筑波大学大学院の出身。
 「パチモク」「コイビート」といったユニークなオリジナル楽器をつくって、それを演奏する。アトリエを「工場」、楽器を「製品」と呼び、ライブを「製品説明会」と称し、魚の骨型のコンセントや携帯ストラップをグッズにして売っている。当初は兄が「社長」、弟が「副社長」であった。最近弟が「社長」になったようで、「工員」も何人か加わった。
 今回私が色めきたったのは、国立新美術館の開館記念で彼らのライブをやることを知ったからだ。なんとか当日券を手に入れ、行ってきましたよ。
 だが行ったものの、コンサートについては気のきいたコメントはできそうにない。99年に新宿の小田急百貨店でやった展覧会のときのイメージと比べると、ライブでは歌ありトークありでかなり軟派だたので、それは私としてはあまり好むものではなかった。無意味さをいっそう追求してほしいし、もっと無表情で演奏に徹してほしかったなあ。
 それはともかく、二人の大きな特徴が、ブルーの作業服をコスチュームにしていることだ。これが好き、なのである。そうでなかったら、彼らの存在はおそらく私の視界には入ってこなかった。
 並みいる女性ファンの方々もひょっとして、腰を振って踊る彼、あるいは微動だにせず楽器を抱えてたたずむ彼らが作業服であることに、妙な陶酔を覚えているのではないかと思う。
 実際、明和電機という名前も、兄弟のお父さんが経営していた電器部品を加工する会社に由来している。彼らがデビューした90年代前半は、バブルはじけた頃だ。彼らのつくり出す町工場、町の電器屋さんのイメージは、モノづくり日本、高度成長時代への郷愁をかき立てるのだ。

 私の父も技術者だった。大正生まれの父は戦前の高等工業専門学校で機械工学を学んだ。昔は下級武士の家だったらしく、手に職ということを意識したのだろう、医者になった長男をのぞいて男子はみんな工学系にすすんでいる。
 私が小さい頃に、何かの用事で日中たまたま作業服を着た父が家に戻ってきたことがあった。そのときに、いつもの父と違うといって私が泣いたと、母から聞いたことがある。どうして泣いたのだろう。
 さきほども書いたように、私は作業服姿が好きである。何かそこからアイデアとか面白いモノが出てきそうでワクワクする。個を持たないようでいて、どうしようもなくその人が出てくるものだと思う。
 少しものがわかるようになった幼稚園のころ、ネジを拾って家に持って帰ったことがある。パパにあげる、と言って。
 のちに就職した私は10年ほど広告制作の仕事をした。クライアントが浜松にある楽器メーカーで、そことの付き合いが頻繁にあった。
 勤めていた広告会社は朝9時半から始まるのだが、先方は8時15分にすでに始まっている。こちらと連絡をとりたい担当者は9時半になるとピタッと電話をしてくる。私のほうは10分くらい遅れて会社に着くこともあるから、相手をずいぶん苛立たせた。現場にいる人はせっかちだなと思ったものである。
 作業服のことを菜っ葉服とも呼ぶと教わったのもその頃だ。コピーライターが新製品を取材に行くのに付き合ったこともあって、そういうときに出てくるのが技術者であることも多く、作業服にはなんとなく親しみを覚えた。それは、私が公務員や銀行員の子でなく、営業マンの子でもないことからきているかもしれない。
 最近の私は朝型になっているから、今ならメーカー担当の仕事も容易にこなせるような気がする。

 父の記憶の中心は昭和40年代である。父はそれほどの働き手ではなかったのだろう。病弱でもあったので、帰宅は早かった。家族もあまり高度成長の恩恵はうけていない。
 夕飯にはアジかカレイの煮付けに、ホウレンソウのおひたしを食べる。バリエーションはほとんどなかった。私は自分が何を食べていたか、ちっとも思い出せない。親戚が来るようなときに、母が近所の肉屋さんでフライを注文した。セロリのサラダなどを添えて、ちょっとモダンな気がした。
 当時2階建てのアパートの2階に住んでいた。小津安二郎の映画などで、夕方の早い時間に帰宅する父親の映像を見ると、その薄暗がりがむしょうに懐かしくなる。
 明和電機から父へ。個人的な話題になりました。