2年のあいだ、安穏と暮らしていた山椒魚。出入り口に頭がひっかかって岩屋から出られなくなることは想定していなかったらしい。出られなくなったと気づいたときに思いをめぐらすが、さしたる、というより、何も解決法は浮かばない。
岩屋の天井に密生する杉苔や銭苔をながめてみる。それから岩屋の出入り口から外を見る。
「小さな窓からのぞき見するときほど、常に多くの物を見ることはできないのである」
この翻訳調の一文はなかなか含みがある。
私たちは一人ひとりが「小さな窓」から世界を見ているものなのだろう。ぐるりと見回して、見えてくるものを立体的にとらえ、洞察を深くしようとすることで、世界に少しでも近づくことできる、と思いながら。せっかく見えたものでも他人事と思ってしまえば、「葦(よし)の髄から天井のぞく」のと変わらないかもしれないが。
「小さい窓」であることを意識すると、窓の外に広がる景色からより多くの何かをくみとろうとするだろうか。
6月ごろ『アンネの日記』を読む機会があった。一歩も外に出られない隠れ家生活のなかで、屋根裏の小さな窓から外をながめたり、鳥のさえずりや風の音を聞いたりすることにアンネは希望や慰めを見いだしている。以前読んだときにはあまり気に止めていなかった部分である。
自分が生きてここにあることの実感。隠れ家生活の「小さな窓」は、格別に大きい意味をもつ。
山椒魚の「小さな窓」からは、谷川の流れがつくった淀みが見える。水底に生えた藻が水面まで伸びている。藻のあいだを泳ぐメダカたちは群れをなして、右に左にとよろめく。
彼らをながめ、山椒魚は嘲笑する。「なんという不自由千万な奴等であろう!」と。
淀みの水面に渦ができている。浮かんだ白い花弁が吸い込まれるのを見て、山椒魚は目がくらみそうになる。
ある夜、一ぴきの小エビが岩屋のなかにまぎれ込む。それは「みもち」で、山椒魚の横腹を岩石と思い込んで卵を産みつけた。
そこで山椒魚は「どうしても岩屋の外に出なくてはならないと決心」する。
岩屋の出口に突進した。が、頭が出口につかえて出られない。小エビは「彼女が岩石であろうと信じていた棍棒の一端がいきなりコロップの栓となったり抜けたりした光景に、ひどく失笑してしまった」。
よく笑う小エビをよそに、山椒魚はふたたび岩屋から出ようと試みるが、それも徒労に終わる。
山椒魚は自身が絶望的状況におかれていることを思い知る。