あ・ら・カルチャー

阿武秀子

2007年3月26日更新

第3回 お稽古というもの(その1)

「五百円札の人」
 お稽古ごとといえば思い出すことがある。
 三十年以上も前のことだが、私は小学生時代にずいぶん習い事をしていた。ピアノ、合唱団、そろばん、日本舞踊、モダンバレエ、バイオリン……。このなかで、そろばんと日本舞踊は半年も続いていない。自分からやりたいと言ったのはモダンバレエのみ。あとはすべて「習わされていた」わけである。
 まあ、習い事ってのはそういうものであろう。かのアインシュタインは小さい時から、親から強制的にバイオリンをやらされ、それは一生を通じての趣味となった。音楽への理解が「特殊相対性理論」にもつながっていないともかぎらないのである。
 私の場合、ピアノにしろ合唱団にしろ、あまり楽しいものではなかった。いまだに音楽がよくわからないのはそのせいではないかとも思ってしまう。最初の頃のピアノの先生がよくなかったし、そのピアノの先生の関係で通うことになった合唱団はもっとつまらなかった。からだが拒否している感じで、合唱団の練習のある日曜日は朝からゴロゴロして蒲団のなかで本を読んでいた。引率する母もいいかげんで、電車と歩きで三十分もかからない練習場にいつも遅刻していた。着いた駅から練習場までの道のりがやけに長かった記憶がある。
 結局、どれも小学校の5年くらいでやめてしまい(進学塾に通うのが大きな理由だった)、唯一小学六年生までやりとおしたのが書道。
 現在、セカンドライフがどうのといわれる。私がこのまま長らえるのならば、十数年後にはそういう時代に突入することになる。だが、これをぜひやりたいというのがどうも思い浮かばない。書道はたしかにやり直したい気はする(その前に、授業で教える時の黒板の字を何とかしろ、という声が聞こえてくる)。水墨画と陶芸もいいなあなんて思う。でもいちばんやりたいのは読書、それに映画や演劇、美術館めぐり、
それには散歩や旅も加わるだろうか。要するに、今やっていることの延長戦なのである。無芸に近い。

 さて、小学校5年生の頃、書道教室でのこと。その教室は和風の民家で、玄関を上がって部屋に入ると先生の大きな机が右手前にあって、その横と向かいに二列ずつ子どもたちの練習机が並んでいた。十人も入ればいっぱいになるので、入れない子どもは廊下で並んで待つのが決まりだった。その日も満員で、私は隣の小学校の男子二人と廊下に座っていた。
 その男の子たち。おしゃべりをしながらやおら一人が五百円札を取り出した。書道の先生に渡すように親からもらった経費だったのかもしれない。五百円が硬貨になる前の五百円札である。
 そのお札を見ているうちに、いつもは気にならない文字が眼にとまったらしい。「これ何て読むンだろうな」「うーん」「いわ、くら…(そのあとがまったくお手上げという様子)」「いわくら、ぐ…し…」。
 ははん、お札の人の名前のことだな、と私は察した。なんとなしに私はすでにその名、岩倉具視の読みを聞いたことがあったのである。
 同年代の男子の前だから、そこはしゃきっとして、そんなことわかって当然でしょという口調で私が「いわくらともみ、でしょ」と言うと、彼ら本当に驚いて、いきなりソンケーのまなざしになった。「ふーん」と。
 知ったかぶりをするのはイヤな女、である。もし、私が彼らと同じ小学校であったら、からかわれたかもしれない。翌日、蹴飛ばされるなんてことになったかもしれない。そこは、別の小学校であることが幸いしたのだろう。
 二人は何度か「いわくらともみ」を繰り返していた。彼らは家に帰って、弟や妹がいたら、五百円札を見せて「なんて読むか知ってるか」と自慢しようと思ったか。いや、書道道具を放り出し、外へ出て野球でもやっているうちに「ともみ」のことなんか忘れてしまったかな。
 岩倉具視なる人物がどういう人なのか知らないのは彼らも私も同じだったはず。私は読み方を知っていただけなのだが、その後の二人が私を見る視線は変わったような気がする。しかし、それまでもその後も、彼らとこの時以外ほとんど会話をした覚えはないから、私と彼らのつながりは「いわくらともみ」しかない。
 不思議な絆、しかも私のなかに残っているだけの……。
 私にとってお稽古ライフを通しての実りはあまりなかったが、このときのことは、楽しく思い出されるのである。
 お稽古の話はまだまだ続く。次回は子どもお稽古の話に移る。