あ・ら・カルチャー

阿武秀子

2007年6月12日更新

第5回 お稽古というもの(その3)

「〈かたち〉から入る」
 昨年の夏に子供が能を習いはじめた。声変わりをしないうちに、ということだと思うが、小学校の3、4年生くらいがちょうどいいらしい。いい機会だと思い、月に2回ほど息子を通わせることにしたのだった。
 最初の日からいきなり『船弁慶』をやりましょうと言われる。
 先生のお弟子さんが一人か二人いっしょに稽古場にいて、ともにやってくださることもあるし、先生お一人のこともある。教わる側はテキストのようなものを持たずに、口伝えによって所作、謡(うたい)や台詞を教わる。
 私は岩波古典文学大系をコピーしたものを持参し、最初のうちは子供の教わる動きや台詞をメモしたりしたが、何度か通ううちに体で覚えるものらしいとわかってきた。文学大系の文言と異なることもあるし、微妙な動きは書いてもあまり意味がない。
 毎回稽古場(公民館の一室)に着くと、靴下から白足袋に履き替える。それだけで、まず日常から離れることになる。扇子を持ち、正座をし、おじぎをして稽古がはじまる。
 『船弁慶』というのは、わりとポピュラーな能である。題名の通り弁慶が登場し(ワキといういわば劇全体を案内する役割)、義経を子供が演じる(子方という)。前半の主人公(シテ)が静御前で、それが後半には平知盛の霊に変わる。息子はその子方の義経の役を与えられた。
 義経役とは名誉なことである。学芸会では、じゅげむの村人くらいしかやったことがないので、飛躍的な、ともいえる大役だろう。
 能全体では1時間半くらいになるので、30分程度の稽古時間では全部をやるわけにはいかない。最初の4分の1ほどを何度かさらうことからはじまって、前半をやるようになり、前半がだいたいできるようになったあたりで、後半の練習へと移った。10か月ほど経った今、ちょうど後半の所作や謡に慣れてきたところである。
 当初息子には夏休みだけなどと言っていたし、私もそのくらいの気楽な考えでいたのだが、様子をみているうちに私の側に欲が出てきた。息子のふだんとはまったく異なる動きを見たり、台詞まわしを聴いたりするのも親としてはうれしいし、半端で終わらせるのも残念な気がして、もうちょっと行ってみようかと子供に誘いかけた。
 子供はかなり抵抗した。秋も終わり頃になると、いつまでやるの、と何度も聞かれた。
 あるとき先生から、せっかくですから『船弁慶』の謡本を買ったらどうですか、と言われた。そうだ、口伝えで教わっているといっても、私がそばで文学大系のコピーをめくっているのはみすぼらしいではないか。
 そこで、神保町の檜書店というところへ行って謡本を買うことにする。ここには能や古典関連の書籍の類だけでなく、能に関するグッズもいろいろあった。ついでなので扇子を入れる袋と謡本を挟むケースを購入した。どちらも和装の生地でできており、色や模様が何種類かあったので、私としては選ぶ楽しみがあった。
 これは息子にも受けた。扇子を自分で袋に入れ、謡本(これはくずし字のクニャクニャ文字なので彼にはほとんど読めない)をケースに挟んで、何だかとても満足げにしている。次のお稽古が待ち遠しいという素振りまで見せた。
 ああ、物事をやるっていうのはこういうことだったな、と私は先生のアドバイスに感心した。何度もやるうちに慣れが生じる。そういうときには次元を変える必要がある。しかも息子はただ「やらされている」にすぎない。続けるための機縁をときどき与えてやるのは大事なことだ。
 あるいはこうも言えるだろう。そもそも能なんて、実用からも日常からも遠いものである。大人にとってもそうなのだから、息子にとっては何をかいわんや。冥王星より遠い存在かもしれない。私のケチな実際的な感覚では文学大系だって構わないが、息子と能をつなぐには正統な道具に一役かってもらわねばならないのではないか。
 本気になるには「かたち」も大切。いや、もしかして「かたち」こそが大切なのかもしれない。
 お稽古はまず〈かたち〉から。