あ・ら・カルチャー

阿武秀子

2007年9月17日更新

第7回 お稽古というもの(その5)

「シンプルがよし」
『船弁慶』の後場(後半)はスピードがあって、謡や所作も派手なので、わかりやすく、そして面白い。
 間(アイ)狂言が「波よ波よ」と謡いながら、急に天候が変わって激しい波風が起きていることを表現する。大道具として枠だけの船が用意される。それ以外に舞台装置らしいものはない。義経は枠を跨いでその内側に入る。それだけで船に乗ったことを示す。
 やがてその異常な波風の原因が、平知盛の亡霊であることが明らかになる。後シテとして知盛の霊が登場し、義経は襲ってくる亡霊と戦う。

 この後半シーンを練習するにあたって、稽古はさらに新たな段階に移った。小道具が加わったことである。義経は太刀を、亡霊は長刀を持つ。
 長刀は骨董品を先生が手に入れたもの(インターネット・オークションで買ったそうだ。ときどきこの手のお宝が出るらしい)。
 太刀は浅草で数千円のものを買って先生が用意してくださった。本物の重い太刀とは比較のしようもないし、刃はいかにもオモチャだけれど、持ってみるとそれなりに雰囲気が出る。

 まったく別の機会に、友人が習っている居合いの稽古に立ち寄ったことがある。30分程練習風景を見せていただいた。刀は居合い用とのことだったが、刃は本物でずいぶん重いものだった。しっかりと腰がすわっていないと刀に振り回されてしまう。刃は上に向けて鞘におさめるものだということを教わった。
 能で持つ刀にはそういうリアルさは必要ない。室町時代に完成したものだから、武士道の意識もうすいのだろう。『船弁慶』は源平の合戦の時代(平安時代末期)が舞台ということもあるので、武士といってもむしろ優美さが要求される。

 ズボン姿で腰に布を巻き、太刀をつけてのお稽古が始まった。
 小道具があるだけでその役らしくなり、本人も役に没入でき、緊張感が出てきた。
 義経が太刀で戦う時間は5分とない。知盛の亡霊が長刀をもって派手に立ち回りをするのと比較するとずっと短いし、能全体からみたらほんの一瞬のこと。それだけに、太刀の一振りに静かな意気を込めなくてはならない。
 ただ刀を振るだけの動作で終わらせないためには、物理的な時間を超える何かがあらわれることが期待される。その辺の表現は、息子にとってはまだまだ難しく、目下修業中といった段階である。

 稽古のはじまりに、足袋をはき、太刀を身につけ、扇をもち、正座して「よろしくお願いします」と挨拶する。
 今では息子はこの段取りにすっかり慣れたが、見ている私は稽古のたびに新鮮な気持ちになる。
 装置のほとんど出ないきわめて簡素な舞台だからこそ、太刀も長刀も生きてくる。
 能のシンプルさの意味をあらためて思うのである。