あ・ら・カルチャー

阿武秀子

2007年10月26日更新

第8回 お稽古というもの(その6)

「中原中也の巻」
 前々回で、『船弁慶』といえばこの謡、というくらい代表的な場面について書いた。
最終場面の謡のことで、知盛の亡霊に立ち向かう義経が「その時 義経 すこしも 騒がず」と言う。私にはほかに、前半の謡でどうしても気になるところがあった。
 義経は弁慶らとともに都落ちのために大物浦を出発することになる。静御前もついてきたが、これからの道程には同行させられないと言われる。静はどうしても義経とともに行きたい。義経の真意を直接確認しようと、義経のもとにやってくる。そこで義経が静に向かって言うのが、次の謡である。
「いかに静 このたび思はずも落人となり 落ち下るところに これまではるばる来たりたる こころざし 返すがへすも神妙(しんびょう)なり さりながら はるばるの波濤をしのぎ下らんこと しかるべからず まづこのたびは 都にのぼり 時節(じしぇっ)と 待ち候へ」
 要するに、いよいよ都落ちをしていくことになる、ここまで一緒に来たけれど、これからはあなたを伴うことはできない、あなたは都へ帰って、私がいずれ戻るのを待っていてくれ、ということである。

 この謡の冒頭「いかに」は、現代の言葉の感覚でとらえると堅苦しい表現であるように思われる。「いかに+人の名前」のかたちで、呼びかけとして謡ではよくある言い回しだそうだが、私たちの日常の言葉にはなじまない言い方だ。
 ここより少しあとの義経の謡にも、「いかに弁慶」という弁慶に対する義経からの呼びかけが出てくる。
 副詞の「いかに」は、どんなに、どのように、どうして、といった疑い問う意味が中心だが、感動詞として使われる「いかに静」「いかに弁慶」の場合は、どうだ、さあ、といった軽いニュアンスで考えておけばいいだろう。だが、副詞に込められたような意味がまったくないともいえないと思う。
 静御前も弁慶も、義経に対する思いにはひとかたならぬものがある。二人とも義経のためなら命を投げ出してもいいというほどの人たちだ。だから、そんな二人に向かって、義経がここぞという言葉を伝えるときには、ただ呼びかけるだけでなく、この気持ちをよくわかってほしい、自分のほうもあなたのことをどれだけ思っているかを感じとってほしい、という深いメッセージが込められているのではなかろうか。
 
 とそんなふうに、義経の謡の「いかに」が気になっていたあるとき、思いがけず別の「いかに」と出会うことになった。
 シンクロニシティということなのか、その語について私が敏感になっていたせいなのか、それは判然とはしない。おそらくその両方だろう。

 時こそは今は花は香炉に打薫じ、/そこはかとないけはひです。/しほだる花や水の音や、/家路をいそぐ人々や。

 いかに泰子、いまこそは/しづかに一緒に、をりませう。/遠くの空を、飛ぶ鳥も/いたいけな情け、みちてます。

 いかに泰子、いまこそは/暮るる籬や群青の/空もしづかに流るころ。

 いかに泰子、いまこそは/おまへの髪毛なよぶころ/花は香炉に打薫じ、

 近代の詩である。題が「時こそ今は……」。
 泰子という女と同棲し、別れてからも彼女を愛していたらしい。その詩人、中原中也がうたった「いかに泰子」が私の目に飛び込んできたのだった。第一詩集『山羊の歌』(昭和9年刊)に収められている。
 他の男(小林秀雄)のもとに走った泰子だが、中也は相当の未練があったようだ。新しい男のもとにいる泰子との交流もあったという。中也は泰子の子供の名づけ親にもなった。そんなことをしていたら、ますます未練の気持ちは研ぎすまされてしまうだろう。
 中也が能の謡にどのくらい親しんでいたのか、義経の「いかに静」を知っていたのか、私にはわからない。だが、山口の医者の家に生まれ、当時の教養ある男性は謡を習うことが多かったから、中也の父親が家で謡を練習していた可能性は十分にある。

 いつだったか歴史の本を読んでいたら、義経の実像は端正な容貌の貴種ではなく、小柄で敏捷な山猿みたいな男だったというのがあった。
 私のなかで、中也と義経がつい重なってしまう……。