第291話 デルスウザーラがいいな、と言った男(1)彼と初めて会ったのは八年、いや九年ほど前になるだろうか、季節は秋か冬の初め、小さなバッグを持った私と同じくらいの年かさの男性がふらりと窯にやって来た。車は見えず、たぶん清川のバス停から歩いて来たのだろう。『ちょっと見せてもらっていいですか』、旅の途中、どこかで紹介されて見学に来られたのだろう、と私は思った。ちょうど窯出しの途中だった。勧めた椅子に彼は坐った。どんな話をしたかは覚えていないが、どちらからですかとかどんなお仕事ですか、といったような個人的な事には関心はないから、たぶん作業の合間合間に製炭の工程や山仕事の事、それに目の前で炎を吹き上げる窯の中の炭の事などを話したのだろう。彼が何を言ったのかも覚えていない。口数少なく椅子に坐ってじっと作業の様子や熱地獄のような窯の中を見ていた、そんな風だった。一時間が経ち二時間が過ぎ、とっくに見学者向けの炭の説明は終わっていただろう、会話は途切れ、彼は見る人、私は作業をする人、そんな雰囲気だったと思う。辺りは暗くなり始めようとしていた。電灯はまだつけていなかった。そのことをよく覚えているのは、言葉少なくあまり表情も変えず椅子に坐って窯の中の炎をじっと見つめている彼の姿にその時何か陰のようなものをふと感じたためである。帰りはどうするのだろう、私は尋ねた。みなべ行の最終バスの時刻は調べてあるからそれに乗り、みなべ駅からJRで帰るということだった。そしてその時刻まで窯出しの作業を手伝わせてもらえないか、と彼は丁寧な言葉づかいで言った。出てきた炭に彼はス灰をかけた。長いエブリを持って窯から炭をかき出した。もちろん初めてのことだからうまくいかない。窯出しの道具は長く、重く、それに炭は熱い。バス停へ急がなくてはいけない時間になった。『また来ていいですか、炭焼きの仕事がしたいと思ってるんです、今度は二泊か三泊かして』、そういうことだったのかと私は思った。たまたまやって来た旅行者が三時間近くも窯出しを見ているなんてことはない。軽い気持ちで、僕でよければと答えた。後で知った事なのだが、私の窯に来たのもたまたまではなかった。提げていた小さなバッグには私の記事が載った新聞の切り抜きが入っていたということも後で彼が教えてくれた。これが彼との最初の偶然とは言えない出会いだった。人の第一印象というものは付き合っていくうちにすっかり消えてしまうこともある。彼はさっぱりとした明るい気質だった。何でも前向きにとらえ前進することだけを、それはしゃにむにと言ってもいいだろうそんな人物だった。若い連中や子供たちと話をするのも好きだった。律儀でもあった。年代もほぼ同じ、音楽の好みも似ていて炭焼きどうしという枠を越え気の合う同僚として話をする私の目に映る彼の姿はそんな風だった。けれども彼が逝った今、いろいろ彼のことを思い出すのだが、その姿に私が最初感じた陰のようなものは何だったのかという思いが巡る。単に薄暗くなり始めた辺りのせいだったかもしれない。窯の炎の非現実的な光を目に残したまま振り返って人の姿を見たためかもしれない。こうして彼は私の窯で炭焼きを覚えることになった。仕事を持っていたためひと月に一度か、二度、三泊、四泊といった具合で彼はやって来た。たぶんその最初の日、彼は少々あらたまった顔つきで自分が在日であることを告げた。たいていの人がそうであるように、それは私にとってまったく気にならないことを伝えた。彼は在日二世だった。親しい在日のおばさんが日本の言葉も朝鮮の言葉も出来るのを思い出し、バイリンガルやね、と冗談交じりで言うと、いや僕は言葉も喋れんし、日本しか知らん中途半端な在日です、と彼は笑った。亡くなった父親が愛用していたという小刀を手製の柄を付け直して彼は使っていた。たまに母親の事を話してくれることもあった。この時、彼は親父やお袋、父や母とは呼ばず、お父さん、お母さんと呼んだ。五十代の男性の口から発せられるこの呼び方が私には新鮮だった。親を慕う子のままのやわらかな口調とその呼び名の音が好きになった。 第290話 春を想う花の咲く春のことを考えている。たとえば病院の中庭に咲く黄色や朱や白の花、それは床に臥せる者、そこで働く者、訪れた者、そんな人たちをどれほどに慰めることだろう。生命力が溢れる乱暴な夏より、目覚めたばかりの春はいかにも優しい。一月の朝、見える限り空は青く雲一つない。冬にしては強い陽の光が射し地形にくっきりとした輪郭を与えている。山の中腹から見えるいつもの景色はちょうど半分に陽のあたる部分と陰の部分とに分けられ、陰になっている稲田の耕耘機でおこされた黒い土は霜がまだ消えず白く凍て、陽があたっている横にうねうねと伸びる背の低い山の植林や梅畑や雑木山はみんな暖かそうで快活に見える。その明るい山の裾で黄色いユンボが逞しい機械音をたて土をすくい上げダンプに盛っている。どこかの工事現場に運ぶのだろう。そこからもう少し手前の所には橋が架かっていて、途切れ途切れに車が二台、三台、みなべの町へ下ってゆく。また空を見る。視線を遠くへ飛ばせと、雲のない空が誘う。その遠くの空の下にどこでもない街を思い浮かべる。地下鉄の駅へつながる地下街の通路、オフィス街の街路樹、人たちのたくさんのシルエットが浮かぶ。ただそれだけの事、目の前の仕事にとりかかる前のちょっとした儀式の様なもの。そして木の伐採を始める。三本、四本と斜面に倒し、倒れた幹を二mほどに玉切ってゆく。余計な枝は払い、使えそうな太さの枝を鉈でこれも二mほどに切りそろえる。私の視野は十m内外。そんな作業を繰り返しているとあっという間に十一時、十二時になる。簡単なお握り弁当を食べ、昼からもう少し伐って、岩がゴツゴツするサゼ(原木を落とす凹状のルート)をその日に伐った原木を放り落としながら谷の手前に着く頃は日暮れまであと二時間ほど、またもやあっという間に時間が過ぎてしまう。谷に降りてまた空を見る。この時はもうどこでもない街のことは浮かばない。どうしてだろうか。今日一日の仕事を振り返っているからだろうか、明日の事を考えているからだろうか。 こうして一日の仕事が終わる時、それに夜ベッドにもぐり込む前、本サイトの〈牧師さんのちょこっと辻説法〉第297話で釘宮義人さんがおっしゃっていた『一日三回笑いましょう』という言葉を思う。いろいろな面での笑いの大切さや効能はよく言わ れている。そんな事にはあまり頓着しない私が氏のこの言葉をちゃっかり無断借用しているのは、・・・『一日、三回笑いましょう』と私に語りかけると、素直に私自身が忠実に従ってくれるのです。何気なく、こだわりもなく、軽く笑ってくれるんです。しかも3回!・・・(牧師さんのちょこっと辻説法より抜粋)という件に深く感じ入ったからで、氏のように笑うことはまだ出来ないが、一日数度口に出したり、頭の中で思ったりしている。アハハでもエへへでもワハハ、ウフフでもなく、どんな笑いだろうかと笑いの下手な頭で考えてもみる。今ここに在る自分を心から祝す笑い、そんな事を言ったら氏はきっと〈そんな小難しく考えないでいいですよ〉と温和な笑顔で仰るかもしれない。 今日は昨日にくらべて暖かく感じる一日だった。いつも着ている防寒のためのヤッケを脱いでも昼間はよかった。けれどまだ一月半ば、強い霜が降りたり薄っすらと雪が山に積もったりする日もまだあるのだろう。崖の白い水仙、日当たりの良い空き地に咲いていた菜の花少し、道端の細々とした小さなキク科の花、それに野菜の無人販売所におばあちゃんが並べた新聞紙にくるんだ切り花、以上が今日私が仕事の行き帰りで見つけた花である。 |
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