ダイヤ・ノ・ヒト
     歌と、芝居と、わたし。

安曇野めぐ留

2003年8月21日更新

第2話 まずは第一歩


 歌や芝居はたくさんの共通点がある。恩師のメゾットより学んだことは、「日常生活の中で、全ての感覚を養え!」という事だった。寒いや暑いを感じるように、役者は芝居の中でこれを本当に感じる。そして、五感すべてを使い観客に表現する。プロの歌手が、悲しい気持ちや恋しさを体感し声にのせ、歌いながら一筋の涙を流すのも、これと類似すると思う。こんな風に、共通点はたくさんあるのだ。今でも、木曾節をうたう時は、目の前に山を見るし、道南口説には私の海を前にする。メゾットは私の歌に生きているはずである。
 父は不登校の娘を心配してか、高校時代から、付き人や影マイクでのコーラスを、やらせてくれた。同時に、その頃にスカウトされた事務所の社長さんのおかげで、ある映画のオーディションにも合格し、演技のレッスンにも通っていた。
『安曇野めぐ留』という名前もこの人につけてもらった。その頃は、黒沢監督の"夢"が公開されていて、映画に出てくる長野県の安曇野のように、美しい自然や時代、世界をめぐるようにと・・・。
 後に、このレッスンは映画と共になくなってしまったが、私はその後もテアトル養成所に通うなど、演技に深く興味を持った。
 高校を卒業と同時に、父のバンドの正式なメンバーとしてコーラスをやるようになってからはずいぶんと忙しくなり、1年の3分の2は地方に出ているようになっ
た。おもしろく思わない人ももたくさんいただろう。娘じゃなかったありえないことで、怒鳴られたり、馬鹿にされるのは当たり前だったし、父は厳しい人だから、「芸は盗むもの。自分の耳で、俺の歌を盗んでみろ。」と、教えてはくれなかったし、ほめてもらえることも一度もなかった。本格的な音楽の勉強もなしに、同じ舞台に立つことなんて周りからすればたまったもんじゃなかっただろうと、今になればわかるが、その頃は、生まれた環境を恨んだし、サラリーマン家庭の友達が本当にうらやましかった。
 民謡や、洋楽について懸命に勉強した。演技のレッスンの傍ら、レンタル屋さんに通っては、はじからはじまでの覚悟で、CDやミュージックビデオ、映画を借りて、毎日、毎日、何本もかじりついたりした。ライブや芝居もたくさん行ったし、本もたくさん読んだ。ただ、早く力をつけたかった。
 あっという間に6年は過ぎ、父のバンドのいい先輩のメンバー達にも囲まれ、だんだんとさまになってきた頃、ふと、センターに立つ父親の背中を見て、彼のフィールドの中に、自分は自分が表現できているのか?なんて疑問を生意気にも持ち始めた。
 都合のいい時は、サラブレットとか、二代目と呼ぶが、同時にハングリーやストイックにしか芸術は生まれないとも人は言う。安住の地にいた訳ではないのに、そう思われることへの苛立ちだったかもしれないし、隣の青芝に横たわりたかっただけかもしれない。昔よくやった、何日かで帰ってきてしまう家出のように、親からはなれもっと遠くの方まで出かけてみたくなった。