ダイヤ・ノ・ヒト
     歌と、芝居と、わたし。

安曇野めぐ留

2003年9月4日更新

第4話 農作業の中から

 ここ何年間か渋谷アピアのみんなと、新潟県の岩室へ米作りに出かけているが、いまだにあの田んぼのドロドロ感は許せない。小さい頃に、田んぼの感触を知って育つと、天才になるという説があるらしいが、我慢してまで天才にならなくてもいい。毎月、田んぼの日に用事があると嬉しい。もちろん学ぶことは、八十八のお米の大切さや田植え唄の発祥についてなどたくさんあるが、田んぼの哲学を知るようになるまで、泥に浸かっていられない。
 富良野塾の河口湖公演で仲良くなった、何歳か年上の富良野塾の卒業生が公演が終わるとすぐに、私の川崎の自宅へ連絡をくれた。在塾中にお世話になった農家さんへ、恩返しの旅に出るということだった。
 彼女の運転するワゴン車で、私も急遽“富良野たまねぎ農家へ住み込みしてみよう!”の旅に出る。21歳の夏だった。
 新潟からフェリーで北海道に渡り、富良野に向かう途中、窓の外は一面に畑が広がっていた。何度も訪れている北海道のありふれた風景だった。
 お世話になった農家さんは、父さんと母さん、じいちゃんとばあちゃんに、子供たちの7人家族。着いた次の日から、みんなの朝昼のご飯と農作業を始めた。
 100メートル×100メートルの畑を一町とするが、この家の畑は、ニンジン等もあわせて23町ほどあった。もちろん、実りのなんだかと言って、1年のうちで一番楽しい仕事のはずだった。
 仕事は、畑いっぱいに植えているタマネギをすみのほうだけ抜いてやり、機械の入れる道を作る事から始めた。次の日からは、1トンのタマネギを積むコンテナを何個も組み立て、機械に乗って、腐ったものを捨てたり、機械では切り取れなかった葉を切っていく仕事をした。農機による事故の話を聞いていたが、油断したことで実際に引き込まれそうになったりしては、機械の怖さを知らされた。
 タマネギはすぐ腐ってしまうから、雨によって収穫が遅れることはたいへんな損害になりかねないのだが、テレビの天気予報を見て、晴れを祈っている父さんや母さんを横目に、本気で雨が降ることを願ったこともあった。朝はなれない仕事からくる筋肉痛と戦って起きる。カレンダーにバッテンをつけるように、日ごと家に帰りたい気持ちはつのっていったが、私達が布団に入ってからも聞こえる、夜業をする父さんのエンジン音に胸は痛んだ。それから数日後には、私達も夜業を手伝うことにした。夜は寒く、土ぼこりの舞う厳しい仕事に、ソーラン節を歌って励ましあった時は、民謡の原点を知った様だった。野外でのコンサートは別だったけれど、今まで天気と戦う仕事にはついた事がなかったから、一服の時間に眺める富良野の青空も、土まみれになる顔も誇らしかったし、収穫の終わった畑を眺め、いままで味わったことのない達成感というものに、深く感動した。
 帰る前の日、畑に座り、顔を近づけたら太陽に照らされたいくつかのタマネギの皮は、黄色に光っていた。もちろん、スーパーに並ぶタマネギには見たことのない輝きだった。よく見れば、どれも同じように光ってはいるが、毎日の仕事の中で、タマネギがこれほど美しいとは気づかずにいた。ごまんといる表現者をタマネギにたとえたら、私も、誰かに見つけてもらえる輝きを持ちたいと思った。
 次の日は、お礼の手紙を置いて、挨拶せずに富良野を出た。見慣れた北海道の畑は、車から見るよりずっと、ずっと大きかった。そして、隣で運転してくれている友達は、私の表情が毎日変わっていった事を、とても喜んでくれていた。