第5話 ライブハウス
オイルショックの年に生まれた私の十代は、ジャニス・ジョップリンを聞き、『ローズ』や「べティ−ズ・ブル−」の映画を観ては、破滅的な夜につかっていたような気がする。戦争や大災害が身近で起きたわけでもなく、フォ−クゲリラもいなかったが、夜になると渋谷センター街に集まる"チーム"という集団がいた。シルバーアクセサリーやレアで高価なジーパンを身につけては、流行のドマンナカを歩き、六本木などで開かれるパーティで、資金集めをしては遊んでいた。今ほどの凶悪事件はなかったとしても、大人をだました詐欺や小さなケンカから始まる事件、覚せい剤などの薬物や大人たちの組織は、すでに私たちの近くに存在していた。
何が楽しかったかと聞かれたら、ただ、寂しい子供たちの溜まり場だったとしか答えられない。度胸試しをしては、生きている事を確かめ、純粋であればあるほどその瞳は麻痺したように、怖さへの恐怖心を捨てて、どんどん鋭くなっていく。そして親達は、それを覗いては気づかないふりをした。社会に何を訴えたかったのか。いっとき親に分かって欲しくとも、いずれ諦めとともに冷めていく。 愛されたい、心から誰かを愛したい。なんでもいいから、暖かいものによって自分を包んで欲しかった。そんな時代の仲間達は、肉親よりもそばで支え合い、守ってくれていた。 渋谷アピアというライブハウスは、私の高校の同級生の親が経営している。このライブハウスの門を叩いた表現者の中には、私と同じように感じた人もたくさんいるだろうが、アピアのママは、今年二月に亡くなるまで、時に母親以上の事を教えてくれた。 初めてアピアのマスターやママに会ったのは、私が二十歳になってすぐだった。同級生である彼女の長男が、元住吉のアピアの姉妹店「ピンクのブタ」に連れて行ってくれた。店の常連にはいろんな職種の人達がいて、マスター達を囲み音楽や芝居、それぞれの日常の話を楽しんでいた。 その頃私の愛読書には、『青森のせむし男』をはじめとする寺山修司があったし、アピアは芝居小屋から始まった事もあって、天井桟敷や東京キッドブラザーズの頃の話や、画家、舞踏家であったマスターやママの独自のメゾットが、酒に酔えないほどおもしろかった。「舞台で真っ裸になれるか、なれないかよ」そんな言葉がいつも飛び交っていた。 また、その店には、めずらしい音源もたくさんあったし、たびたびすごい歌手にも出会った。友川かずきという人の歌にも、ここではじめて触れた。叫ぶようなドンパン節は、胸に突き刺さった。裸になるという、表現の怖さがあり、普通の大人が差し出すような音楽ではなく、人が生きるとか、誰か愛したいとという言葉を通り過ぎた、もっと奥の方へ突き詰められていたものばかりだった。 ただ、肉体が生きているということだけに、ブルブル身震いしたこともたくさんあった。 その空間には、居酒屋などにある愚痴やストレスの発散は一切なかったし、傷をなめあう事もなかった。ただ黙って飲んだり、それぞれが生きている事へと向き合う語り合い。その中で、情報や意見を交換していた。私は、そこへ行くたびに、くだらない悩み事は勝手に解決され、そして暖かい何かを感じていつも家に帰ってきていた。 その後、アピアという場所でなにか表現させてもらうと約束をした。一人芝居の本を書き、稽古も近くの公民館で始めた。 アピアのママが私にこう言っていた。「やるしかないのよ」 たくさんのものを作り上げてきた先代達は、どんどん亡くなっていく。残された者達は何ができるんだろう・・・。今だからこそ、この言葉が本当によくわかる気がする。やるしかないんだ。ママの名言集が、今でも私を支えてくれている。 |