ダイヤ・ノ・ヒト
     歌と、芝居と、わたし。

安曇野めぐ留

2003年10月9日更新

第9話 マイペンライ

 人は天使にはなれない。小さい頃から気が強く、男の子ともよくケンカしていた私に、「女の子は何がなくても、人にやさしくなきゃいけない。」祖母から、耳にタコができるほど言い聞かされた。今になっても物腰や発言から、やさしい女性とは決して言えない。人や地球にやさしくなんて、どうしたらなれるのだろう。
 チェンマイでは毎晩、ライブハウスで飲んだくれていた。一人寂しそうに見えたのか、周りの男性からテーブルいっぱいのビールが届く。私はお礼を言っては、ガブガブ飲んで、ロックな夜に酔いしれる。午前中のアートスクールにも、半分酔ったままで行っていた事もあり、先生はそんな私を心配してくれたのか、同じくらいの年の女の子を何人か紹介してくれた。その中に、観光客相手に土産物を売るナイトバザールで、小さな店を構えていたオイという子がいた。彼女はチェンライから出稼ぎに来ていて、弟とボーイフレンドと暮らしていた。いつも困った人を見ては、飽きもせずに面倒をみていて、商売と金策と人助けにいつも忙しくしていたが、私の所持金が底をついた時にも、自分の生活費を削って、慣れない国での暮らしにと、日本からの送金が届くまで貸してくれた。見ず知らずの外国人に、あそこまでしてくれた彼女には、今でも頭は上がらない。
 旅の途中、流行っていた肺炎のような原因不明の咳に悩まされ、空気の良いオイのホームタウンへ一緒に里帰りした。チェンマイからチェンライへバスで四時間、そこから一時間の『バンサンチェンマイ』という所だった。彼女の親戚しかいない、畑に囲まれた北海道のような静かな村だった。村中が出稼ぎから帰った子供と初めて見る日本人の私に、“牛の丸焼きと蛇スープパーティー”で歓迎してくれた。普段は川で魚を釣り、虫を取って晩のおかずにしているのだから、この日はどんなに豪華な食事だったか想像がつく。風と共に時間はゆっくり流れていく。チェンマイのガスで曇った空が、どんなに体に良くなかったかすぐにわかった。
 驚いたほど病気で寝込んでいる人が多くいた。見舞いや葬式にも出かけたが、村人には嘆いたり涙する人もいなかったし、いつも笑顔。タイは暑いから長生きできないと勝手に解釈していたが、生活の為に身を売ったり、治療費が払えないから自殺したり。日本に生活する私には考えられない状況で、ここにエイズが存在していたのだ。タイの北部には、日本人とのハーフである孤児達がたくさんいるように、違う国の事だと決して割り切れなかった。
 星のきれいな村で、毎日それを眺めては、お互いの夢を語った。チェンマイに帰る前の夜、オイは家族についても話してくれた。彼女は17歳で両親をエイズでなくしている。父親は、軽い気持ちで女の人を買い、そして妻へ感染したという。親戚に見守られながらではあったが、弟と二人、自力で生きてきていた。私の親への愚痴に対して、「それでも、親は他にはない。大切にしなきゃいけないよ。」いつも変わらずそう返していた彼女の言葉は、すごく重いものだった。彼女のやさしさは、とんでもない嵐をくぐり抜けて生まれた微笑だったのだろう。私を不自由なく育ててくれた親に感謝し、文句ばかり並べていた自分がとても恥ずかしかった。
 タイを訪れた人は、街中で『マイペンライ』という単語をよく耳にするだろう。「平気。大丈夫」や「気にしない」という意味を持つこの言葉は、タイ人の救いの言葉となり、この国の良いも悪いも煙にまいている。