江戸の風俗八百八店

永井義男

第9話 上野山下(その一)

 上野山下、たんに山下ともいうが、東叡山寛永寺のふもと一帯をさす俗称である。明治になって、正式に上野山下町という名称になった。現在の、東京都台東区の上野駅構内から南口駅前のあたりである。江戸は火事が頻発したため、徳川家の菩提寺である寛永寺を類焼から守るため、山下には火除地が設けられた。この広々とした空き地には、必要なときはすぐに取り払うという条件のもと、葦簀張の小屋で各種の商売をおこなうことが認められていた。そのため、見世物小屋、飲食店、講釈場、矢場などが軒を連ね、多くの人出でにぎわった。なかでも、安永・天明期にはケコロと呼ばれる女郎で有名だった。ケコロの値段は、銚子一本が付くチョンノマで二百文。最盛期には、山下にはケコロを置いた見世が百七軒あったという。なお、ケコロという名称の語源は「蹴転ばし」ともいわれているが、さだかではない。
 安永六年(一七七七)ころの山下である。

 ふらりと葦簀張の水茶屋に入って来たのは、「山下雀」とあだ名をされるほどの遊び人の希山だった。れっきとした幕臣であるが、希山という俳号で通している。媚茶の羽織を着ていたが、袴はつけず、紺の博多帯に細身の大小を差し、笠でいちおう顔を隠していた。
 希山は茶屋の女将に向かい、
「ぬしは、いつ見てもよい器量じゃの。われらが妾にきてたもらぬか。しかし、女房があってはいやかの」
 女将のお升はツンとして、
「旦那、きついものでございます。無駄を言いなさらずと、まずお茶をあがりまし。丘賛さまがお待ちかねでござりますよ」
 床机に腰をかけていた僧侶が、茶碗をそばに置きながら会釈をした。丘賛というのはやはり遊びのときの号である。
 希山と丘賛は遊び友達だったのだ。
 ふたりは床机に腰をかけしばらく雑談をしていたが、そろそろころあいもよしと見て、丘賛がお升に言った。
「おま坊、いつもの支度を、裏の山田屋に行って、取ってきてくんな」
 隠れ遊び用の衣装をそのつど、懇意にしている商家から借りる算段をしていたのである。
 お升は、店の裏手で用事をしていた父親に言った。
「父っさん、ちょっと。丘賛さまの支度を、取ってきてあげ申してくんねい」
 父親も心得ている、「お召し物か」と言いながら出て行ったが、しばらくして戻ってくるや、娘に風呂敷包みを渡した。
 お升は風呂敷包みを広げてあらためながら、
「もしえ、山田屋のおばさんがよこしたのは、黒縮緬のお羽織と、茶返しのお羽織のふたつ。お単衣は、縞縮緬。おみ帯は浅黄の博多が参りました。お羽織はどちらになさいます」
 丘賛が即座に言った。
「黒ちり、黒ちり」
「さあ、召しまし」
 お升が手伝って着替えをさせた。丘賛が脱いだ墨染めの衣は、茶屋であずかる。
「さて、これで医者に成り変わりました」
 丘賛が頭をなでながら言った。
 僧侶は剃髪しているため遊里で遊ぶときは、同じく剃髪している者が多い医者をよそおうのうが通例だった。
 ふたりは連れ立って茶屋を出ると、近くの小料理屋に入った。
「これ、若い衆、草履を頼むによ」
 と言いつつ、ふたりは奥まった座敷に座った。
 まず酒を注文したあと、希山が若い衆にたずねた。
「吸い物は何がある」
「ヒラメ、タイ、そのほかボラのたぐいでござります」
「では、フキかミョウガをあしらい、器用な吸い物をひとつ、早く頼む」
 丘賛が注文して、
「俺もちっと好みがありさ。アワビを玉子とじにして、茶碗盛りに頼みたい」
 希山が横から茶々を入れた。
「こちらは、アワビも玉子も精進がいいとおっしゃる」
 若い衆は答えて、
「さようでございますれば、鰹節を入れますまい」
 丘賛が出家であることをとうに見抜いていた。
 ふたりは、若い衆の機転の利いた切り返しに声をあげて笑った。
 酒と食事を終えると、希山が手を鳴らした。
 さきほどの若い衆が「へーい」と、顔を出す。
「勘定を」
 希山が南鐐二朱銀を放り出した。
 若い衆は算盤をパチパチとはじいたあと、つりを渡す。
「おっと、よしよし」
 希山はつり銭をふところに入れながら、丘賛と連れ立って外に出た。いよいよ、ケコロのもとに向かう。
                        (続く)


第9話 上野山下(その二)

 間口が二間から九尺くらいの、一見茶屋風の造りの女郎屋が並んでいる。格子戸は開け放たれていて、女郎が座っているのが通りから見える。
 丘賛がきょろきょろしながら言った。
「希山さん、気はどこかの」
「わたくしは、この四、五軒さきの、井筒屋の律が馴染みでござりやす」
「では、おまえさんのお敵は定まっているという腹だの。では、これから、おいらも吟味しよう」
「では、後ほど」
 丘賛は建ち並んだ女郎屋の見世さきをのぞきこみながら、女郎を物色していく。
 希山は井筒屋に向かった。
 お律がすぐに気づいて、
「もしもし、希山さん、きょうはここを素通りして行きなさるつもりかえ」
「どうして、そういう不心実なことをするものか」
 希山は見世に入ると、すぐにふたりで急勾配の階段をのぼった。
 二階には、三畳か四畳の部屋が四〜五間あり、あいだは襖で仕切られている。
 お律は希山を部屋に通すと、いったん階下におり、しばらくして銚子一本と、梅干やゴボウのきんぴらをのせた硯蓋を持って戻ってきた。
「ひとつあげやしょう。したが、ぬしはここの酒をばあがるまいが」
 お律がわざといやみを言いながら、銚子を取って酌をした。
 希山は一杯飲んだあと、
「どうも、冷酒はごめんだ」
 と言いながら、窓の障子を開けて通りを見おろした。丘賛がすでに登楼したかどうか、気がかりだったのだ。
「悪い癖だ。外をば見なはんな」
 お律が障子をぴしゃりと立て切った。さらに、雨戸まで閉めた。部屋のなかが暗くなる。
 階下で、飼われている狆がけたたましく吠えた。
「あの狆は、俺が来ると吠える」
 希山が苦笑した。
 お律が、客がいないときは風を通すため開け放っている襖を閉めた。鴨居の上にのせていた枕をおろした。
「もし、ちっと寝なはらぬか」
「いかよう。ちと、臥せりましょうか」
 希山が自分で帯を解いた。
 お律も帯を解き、横になった。
 ふたりは肌を合わせる。おたがいに、相手の好みや癖は知り抜いていた。
 隣の部屋との境は襖一枚であるが、たまたま客が少ないため、あえぎ声を聞かれる心配もない。
 希山は久方ぶりに堪能した気分を味わった。
 しばらくして、お律が乱れた髪をかきあげながら立ちあがり、窓の雨戸を開けた。
 まだ布団の上に横たわったまま、希山がけだるそうに言った。
「もう、何ン時であろうの」
「また、奥さんの角を怖がりなさるのかえ。まあ、待ちねえ」
 お律が階段をおりて下へ行った。
 そのあいだに、希山は二百文のつとめと多少の祝儀を懐紙に包んでひねり、襖のそばに置いた。
 お律が茶を持ってあがってきた。
 希山は茶を飲んだあと、帯を締め直し、大小の刀を差した。
「お律さん、おさらばよ」
「もし、ぬしは次は、いつ来なさるえ」
「明後日は非番だから、参ろう」
「そんなら、必ず。うそをつきなはるなよ」
 希山はお律の声に送られて、外に出た。あとは、さきほどの茶屋に向かう。
 丘賛がすでに床机に腰をかけて待っていた。
 希山が照れ臭そうに、
「早くおしまいなされましたの」
「希山さん、お馴染みはまた格別の楽しみもあるものですかな。わたくしなどは、とおりいっぺん。それで、早く終わりました」
 丘賛が冷やかす。
 女将のお升まで、
「お床入りの段をお話なさりやし」
「なに、お床入り……、枕をふたつ置いて、あとは口伝サ」
 希山はニヤニヤしていた。
 そのとき、丘賛が素っ頓狂な声をあげた。
「これはいかぬ。降りそうになってきた」
 空がにわかに暗くなった。続いて、大粒の雨がバラ、バラと葦簀を打ち始めた。
 それまで通りをそぞろ歩きしていた人々も、雨宿りする場所を求めて散り散りになって駆け出す。
「さて、困った……」
 希山と丘賛は顔を見合わせ、途方に暮れていた。

                            (終わり)
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