江戸の風俗八百八店

永井義男

第12話 櫓下

 櫓下(やぐらした)は、深川の永代寺門前山本町にあった岡場所の俗称である。そばに火の見櫓がそびえていたことからの命名ともいう。いわゆる深川七場所のひとつであるが、七場所には表櫓、裏櫓という岡場所もある。櫓下は表櫓の別称とも言うし、表櫓と裏櫓を合わせて櫓下と称する場合もあるなど、必ずしも明確ではないが、深川の代表的な岡場所だったことに違いはない。現在の、東京都江東区門前仲町二丁目のあたりであろう。
 文政三年(一八二〇)ころの櫓下である。

 女将のお袖が酒と直し肴を台にのせて重そうに運んできて、廊下から声をかけた。
「サア、六さん。もし、お起きなさいまし。御酒でもひとつ、おあがんなさいませんか。もし、お園さん、お園さん」
 茶屋の出雲屋の二階座敷である。
 六さんと呼ばれたのは客で、六三郎といい、二十四、五歳くらい。お園は女郎で、十九歳である。
 お袖もふたりが同衾しているのは知っているため、障子は開けずに、廊下から呼びかけ続けた。
 ようやく、お園が目を覚ました。
「六さんは、まことによく寝ているよ。六さん、六さん」
「おい、何だ。ああ、まことによく寝た。もう、外は暗くなっているじゃねえか」
 揺り起こされた六三郎は、あたりを見まわしながら言った。
 じつは、六三郎は居続けだった。
 昨日、葬儀に参列した帰り、出雲屋にあがって、お園を呼んだのである。深川では女郎を子供、女郎屋を子供屋というが、子供屋が子供を茶屋に派遣する場合が多い。
 なお、葬礼帰りに女郎買いをするなど不謹慎のようであるが、「精進落とし」といって、当時の男たちにとってはごく普通のことだった。
 六三郎は昨夜はお園と寝て、きょうは昼ごろに起きた。そのあと、昼間から芸者を呼んで大騒ぎをした。いいかげん酔ったあげく、ふたたびお園と寝て、いま、日が暮れてからようやく目を覚ましたというわけだった。すでに丸一日、出雲屋に滞在していることになる。
 お袖が障子を開けて、
「おあがんなさいまし」
 六三郎は銚子を見て、
「こいつは、ありがてえ。寝覚めの酒としようか」
「通しのお肴も召し上がりませ」
「また、さっきの羽織を呼んでくんねえ。それと、船頭を起こしてきてくんねえ」
 六三郎は目覚めた途端、遊びの段取りを命じた。
 羽織とは芸者のことである。出雲屋に案内してきた船頭の松蔵も、そのまま逗留していた。
 お袖が、女中に芸者の手配と松蔵を呼んでくるよう命じた。
 しばらくして、松蔵がまだ酒が抜けないという様子でやってきた。
 お袖がさっそく銚子を取って、
「サア、お始めなさいまし」
 松蔵もちょっとあきれた顔になり、
「ヤア、また始まったか。昼間の酒で大酔いして、下座敷に寝かせてもらったのだが、蚊に責められてさっぱり寝付かれなかった」
 と、ぼやいた。
 しばらくして、芸者の大吉と兼次が現われた。昼間に続いて、一日のうちに二度目である。
「六さん、さきほどは、まことに酔いましたよ」
「おや、松どん、おめえ、顔に何をつけている」
 みなはドッと笑った。
「さては、寝ているうちに誰か墨でいたずらをしやがったな」
 松蔵はふところから手ぬぐいを取り出し、ごしごし顔をこすった。
 お袖が笑いをこらえて言った。
「そんなにふいても、面の皮は薄くはならねえ。鉋でもかけな」
 松蔵もだまされたことがわかり、
「おきやァがれ。また、かつがれた」
 ふたたび、みなはドッと笑った。
 杯の応酬があり、大吉と兼次が三味線を弾いて歌う。
 しばらくすると、女中のお町が来て言った。
「六さん、楠見屋からお園さんをちょっと借りにまいりました」
 茶屋の楠見屋にいる客が、お園を指名しているということだった。
「アア、いやだのう」
 お園が小声で言った。六三郎の手前、ほかの座敷に喜んで行くような真似はできない。
 松蔵が言った。
「お町どん、『このあいだ貸したとき、縁を欠いて返してきたから、焼継に出さねばならなかった』と言って、断わんねえ」
 このごろ深川あたりではやっている、欠けた陶器の焼継にひっかけた洒落だった。
 お町も応じて、
「そうかい、縁が欠けているなど、さっぱり気がつかなんだよ」
 六三郎はここで機嫌を悪くしたり拗ねたりすれば、通人でも粋人でもなくなるため、無理をして言った。
「早く行ってくるがいい」
 お園はなおも、座を立ちがたい様子である。
 お袖がころあいを見て、
「モシ、ちょっと行っておいでなさいましな」
 お園は女将に勧められ、やむなくという風情で、
「そんなら、そうしよう」
 と、座敷を出て行った。
 大吉と兼次が三味線を弾き、めりやすを唄った。

「聞き慣れし、耳にもつらき鐘の音は、ありゃ八幡の七ツ八ツ、真のはなしに長い夜を……

 めりやすは、長唄の一種である。
 そのしんみりとした旋律と文句に、六三郎も気分が沈んできた。ふと、家や商売のことが頭に浮かんだ。こんなことをしていてはいけない、そろそろ帰らなければと思った。
 そのとき、お袖が新しい肴を持ってきた。
 六三郎は一目見るなり、
「これはいい肴だ。ひとつ飲めるぜ」
 松蔵もはしゃいで、
「こいつあ、気の利いた肴だ。新しい蟹だぜ」
「六さん、おひとつ」
 お袖がここぞとばかりに酒を勧める。
 六三郎の頭は酔いで朦朧となった。もう、家のことも商売のことも念頭からはすっかり消えている。
 このままでは、さらに居続けになるのは確実だった。

                     (終わり)
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