江戸の風俗八百八店

永井義男

第14話 吉原V

 江戸時代の人々の朝は早かった。夜明け前に起床するのが普通である。吉原も例外ではなかった。泊り客は、案内した引手茶屋の若い衆が夜明け前に妓楼に迎えに来て、朝帰りをする。このとき、女郎もいったん起きて、客を送り出す。いわゆる、後朝(きぬぎぬ)の別れである。女郎は客を送り出したあと、二度寝をし、巳の刻(午前十時ころ)には起床するという生活だった。客のなかには朝帰りをせず、居続けをする者もいた。もちろん、かなりの金がかかる。居続けをして妓楼で女郎と一緒に朝飯を食べるというのは、もてた証拠であり、男にとって甲斐性だった。
 文化四年(一八〇七)ころの吉原である。

「オヤ、連子窓が明るくなった」
 安之助が目を覚ましてつぶやいた。十八、九歳である。
 横に寝ていた、相方女郎の松滝も目を覚ました。十七歳である。
「夜が明けても、いいじやァおっせんか」
「日が昇ってから家に帰るのは、外聞が悪いはな」
「帰りなんす気かえ」
「知れたことさ」
 安之助は起き上がろうとした。
 松滝が抱きついた。
「きょうは、お帰し申しんせんから。付き合っておくんなんし。ぬしにやァ、まだ話し残したことがありいすから、ぜひお流しなんしな」
「おもしろい話なら、早く言いなせえ。どんな相談だえ」
「そう急にやァできいせん」
「居続けしろという相談なら、そこのところは、お受けできやせん」
「きついご存知さ。憎らしいのう」
 松滝が股間に手をのばした。
「これさ、これさ、謝った、謝った」
「謝んなんすなら、堪忍しておあげ申しんすから、その代わりに、ね」
 婉然とほほえんだ。
 松滝は、安之助が大店の若旦那と見ていた。遊ぶ金に不自由しない身分だし、性格も悪くない。ここはどうしても馴染みにしてしまうつもりだった。
「サア、この手を離してくんなせえ。ちょいと、藤さんや、豊さんを見てきやしょう」
 安之助も相手が自分にぞっこんであることはうれしかったが、深情けには困った。連れの藤治郎や豊平をダシに使って、起きようとした。昨夜、三人で登楼したのである。
「気にしなくとも、そのうち、誰かが来いすはな。こうやって、おいでなんし。それとも、もっとこうしておあげ申しいしょうか」
 松滝は安之助の上にのしかかり、唇を合わせると、
「なぜ、わたしをこのように気をおかしくしなんした。憎いのう」
 と言いながら、男の顔をうっとりしたように見つめる。
 そのとき、隣りの座敷で、豊平が藤治郎を起こす声がした。
 安之助もあせった。
「豊さんも帰るようだ。サア、離してくんねえ」
 豊平は、今度は安之助と松滝の座敷に来る。障子を開けるなり、
「ごめんなせえよ。安さん、どうだね」
 松滝がツンとして言った。
「ぬしやァ、きょうは居続けなんすとサ」
 安之助はあわてて起き上がり、
「いま、帰るぜ。少し待っていねえ。藤さんは、もういいのか」
 と、帯を締め直す。
 豊平はふたりが直前までいちゃついていた様子を見て、ニヤニヤしていた。
「藤さんも、いま、お支度最中さ。さあ、花魁、ちょいと羽織を出して、安さんに衣装をつけておやんなせえ」
「なんだえ、鳥の立つように。そうまで急いで帰りてえもんでおすかえ」
 松滝は恨み言を言いながら、安之助の帯をそっと引っ張ったり、羽織を着せ掛けながら脇の下をくすぐったりする。最後に、名残惜しそうに、
「どうでもお帰りなさりたいのなら、お帰し申しいすから、明日の晩はぜひおいでなんしよ。心に待っていすにえ」
 と、背中をなでた。
「知れしおんことさ」
 と、安之助もまんざらではない。
 豊平もたまりかねて言った。
「もう、話はいい加減にしねえか」
 そこへ、身支度を終えた藤治郎が現われた。
「どれ、おさらばにしましょう」
 と、三人は連れ立って妓楼を出る。
 松滝は安之助を見送りながら、居続けさせるのは失敗したものの、あれだけ惚れた様子を見せつければ、必ず近いうちに来るはずと踏んでいた。十八、九歳の男を手玉に取るなど、女郎の手練手管をもってすればいとも簡単だった。

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