江戸の風俗八百八店

永井義男

第16話 内藤新宿U(その一)

 江戸時代の物資輸送の主役は船だったが、内藤新宿は江戸の西部に位置して水路にめぐまれず、甲州街道という内陸に向かう街道の宿場だったこともあって、輸送は馬か人力に頼らざるを得なかった。江戸四宿のなかでも、他の品川、板橋、千住にくらべて、内藤新宿は馬の役割が格段に大きかった。歌川(安藤)広重『名所江戸百景』中の、馬の尻と路上に散乱する馬糞を描いた大胆な構図の「四ツ谷内藤新宿」は有名であるが、これも内藤新宿と馬の密接な関係を象徴しているであろう。
 文化三年(一八〇六)ころの内藤新宿である。


 日没が近いため、行き交う人々の足はせわしなげだった。
 馬方ふたりがそれぞれ馬を引きながら、前と後ろで大きな声で話をしていた。
「ゆんべ、おらが隣の実蔵めが、うつけたことをしやァがって、大騒ぎよ」
「あにをしたの」
「名主どんのところの、アノ下女のお豆と出会いをしやァがって、どうしたことか、肥溜めの中へおっぱまって、実蔵は指の爪のうはがして目をつん回す、お豆は腰骨をぶって足腰立たねえという騒ぎよ」
「実蔵めも、いい年をしやァがって」
 後ろの馬が不意に止まった。
 馬方は手綱を引っ張りながら罵倒した。
「あんだ、この畜生めは。きりきり行きやがれ」
 馬は動こうとせず、その場でシャーシャーと小便を始めた。場所は女郎屋の楠本屋のまん前である。
 ちょうど、芸者の空雲と幇間の甚八が連れ立って歩いて来た。ふたりは夫婦である。
「おや、おや、こっちへ寄んなせえ。はねがかかる」
「ああ、臭え、臭え」
 ふたりは馬の小便のしぶきをよけながら、あわてて楠本屋の土間に入った。
 甚八が若い衆にあいさつした。
「お歌さんのお座敷へ」
 座敷を終えて帰る別な幇間が、ちょうど階段からおりてきた。
「イヨッ、夫婦連れはいまいましいな」
 空雲が言い返す。
「きざな。よしておくれ」
 幇間は愉快そうに笑い、手を振った。
 甚八と空雲は階段をあがり、座敷に入った。
 客の七兵衛は初会だった。女郎のお歌はなにが気に入らないのか、仏頂面をしている。七兵衛を案内してきた茶屋の女将が、沈んだ雰囲気を盛り上げるため、幇間と芸者を呼んだのである。
 七兵衛は手持ち無沙汰なのか、しきりに甚八に酒を勧める。
「サア、呑まっし」
「いいえ、もう、呑みますまい。あまり呑むと、ここの嬶ァが叱ります。それでいて、てめえの都合で、ひとつ呑みなせえと勧めますのさ。もうもう、スケベエな嬶ァを持ちますと、大難儀でござります」
 空雲が三味線の撥で甚八の背中を軽く叩いた。
「いいかげんに洒落なせえ」
「アア、痛え、痛え、ここに隠れよう」
 甚八は大げさに痛がりながら、ちょうど銚子を持参した女中の前垂れをめくると、顔をうずめようとする。
「あれさァ」
 と、女中があわてて逃げ出す。
 大笑いとなった。
 空雲の三味線で、甚八が潮来節などを唄い、ひょうきんな踊りを披露した。
 茶屋の女将がころあいを見て、言った。
「もう、ここを幕にしてもようござりましょう」
 七兵衛とお歌の床入ということだった。
 ふたりの寝床が定まり、甚助と空雲、茶屋の女将も引きあげる。
 お歌が横目で見ながら言った。
「おめえさん、どこやらにお馴染みがいながら、そこでなにやらがあって、内へ来さっしたのだね。陰見世でも、みんながそう言っていますよ」
 内藤新宿の女郎屋のあいだでは、客の噂はすぐに伝わる。お歌もあとあともめごとに巻き込まれるのはいやなため、用心していた。
「ナアニ、そうじやァねえのさ」
 七兵衛は弁解しながら、女を抱き寄せようとする。
 そこへ、若い衆が廊下から障子越しに言った。
「もし、ちょっと」
「なんだな」
 お歌は面倒くさそうに寝床から出る。廊下でしばらく若い衆とひそひそ話をしていたが、いつのまにか、どこやらに行ってしまった。
 じつは、お歌は最初から七兵衛をふるつもりだった。そこで若い衆に事前に耳打ちしておいて、さてこれからというときに、声をかけさせたのである。
 七兵衛は寝転がりながら、いまいましそうに舌打ちした。
「廻しを取ってやがったか」
 さきほど指摘された通り、七兵衛はそれまでの馴染みの女郎屋で不義理をして登楼を断わられ、気分を変えるため楠本屋で遊ぼうとしたのである。しかし、初会からふられるようでは、ここも幸先がよいとはいえない。
 もう、内藤新宿はやめて、千住宿や板橋宿にするか、それとも岡場所にするか。
 七兵衛は眠られないままに考え続けていた。
 ほかの座敷では、まだ騒ぎが続いている。

                       (続く)


第16話 内藤新宿U(その二)

 夜もふけ、内藤新宿には旅人の行き交いや馬の蹄の音は絶えたが、女郎屋のにぎわいはまだ続いていた。
 楠本屋でも、芸者や幇間をあげた大騒ぎがようやく終わったところだった。
 客の太助があくびをした。
「アア、おおきに酔うた、酔うた」
 年のころは四十くらいで、恰幅がよい。甲州街道筋の、商人である。馬をあつかう商売をしているのか、なんとなく体から馬のにおいがする。商売は繁盛しているらしく、遊び方は派手だった。
 太助を楠本屋に案内してきた茶屋の女将も、ようやく宴席が終わり、帰り支度をしながら言った。
「サア、お休みなさいまし」
「もう、何ン時じゃの」
「はい、もう、引け前でござります」
「ええ」
「九ツ(午前零時ころ)前でござります」
「そうか。きょうは仕入れのことでやかましがあって、おそくなったじゃ」
「今度から、ちとお早くいらっしゃりまし。おまえさんはとかく、おそくいらっしゃるから」
 そこへ、相方女郎の花町が寝巻きに着替えて現われた。二十三、四歳で、器量はさほどよくないが、太助の馴染みである。
「サア、おめえさん、蚊帳のなけへ、へえんなさいまし。蚊が刺しますわな」
「では、お先に入るじゃ」
 太助は入る拍子に、髷が蚊帳に引っかかった。
「痛、たたたた」
 女将は笑いたいのをこらえ、
「おやおや、危のうござります。ごきげんよう。いつもの通り、七ツ(午前四時ころ)にお駕籠をつけましょう」
 と、明朝の迎えの時刻を確認して、帰っていく。
 花町も蚊帳のなかに入る。
「サア、寝なんしな。いっそ、おめえさんは酔いなすったよ」

「酔うた、酔うた、五酌の酒に

 太助が調子はずれの声で唄った。自分では、粋なつもりである。
 そのとき、奥座敷で怒鳴り声がした。廊下を走る音が続く。
「あれは、何事じゃの」
「廻しを取って女郎衆が来ないというので、客人が腹ァ立てたのでございましょう」
 花町は妓楼の騒ぎなど気にも留めていない。廻しをめぐる悶着など、しょっちゅうだったのだ。それをうまく裁くのが、つまりは遣手と若い衆の手腕である。
 煙管を吸いつけて手渡しながら、花町は肝心のことを話題にした。
「もしエ、このあいだの文ァ、届きまきしたかえ」
「届いた段か。お心はわかったとはいうものの、どうも知れぬものじゃて」
「おめえさん、そう疑りなさることァありません。先日もお話し申した通りだものを。なぜ、おめえさんはそんなだえ。今宵は廻しの客人があるけれども、おめえさんのとこにばかりいますよ」
 花町は恩着せがましく言った。
 じつは、親が病気で薬代が必要という理由で、金を無心する手紙を太助に出していたのだ。「女郎の身ではあるが、真実惚れているのはおまえさんひとり」と、お定まりの文句を書き連ねたのはいうまでもない。
 いっぽう、太助も花町のことばを信じているわけではない。なかば、だまされているであろうと思っていた。にもかかわらず、たとえだまされたとしても、もてたほうがよいという気持ちもある。客と女郎の駆け引きを楽しんでいたのだ。自分の身代からすれば、多少の無駄金は痛くもかゆくもなかった。
「どういうお心でそのように思ってくださるのか。それ、お約束のものを」
 紙入から、懐紙で包んだ金を取り出して渡した。
「ほんに、おありがとうございます。これで、あした、かかさんが来ると、やりますよ。ほんに、親のためなればこそ、おめえさんに、こんなご苦労をかけます。堪忍してくんなさいましよ」
「ナニサ、おまえのことじゃもの。このくらいのことは、安いことさ。よしや、命でもやる気じゃもの」
「真実なお心意気だね。うれしいねえ」
 花町は、相手の枕の下から手を差し込み、体を寄せると、唇を合わせた。口を吸いながら、手を股間にのばす。
「おぉ、おぉ」
 と、男は興奮している。
「サア、これを解きなさいましな」
 と、太助の帯を解き、着物を脱がせた。
 素肌と素肌を合わせる。
 花町も今夜ばかりは、太助に対して日ごろしないこともしてやるつもりだった。
 もちろん、親が病気というのは真っ赤な嘘である。着物を新調する金が必要だったのだ。そういう費用を算段するには、手練手管を用いて客に出させるしか方法がない。女郎にとって、ごくあたりまえの方便だった。

                             (終わり)


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