江戸の風俗八百八店

永井義男

第17話 吉原W(その一)

 女郎は金で買われる身である。たとえ相手がどんないやな男であろうと、客である以上、体を任せなければならない。一日に数人の客と肌を接することもある。そういう境遇だけに、せつないほどに真実の恋愛にあこがれていた。いわゆる、イロ(色男、情夫、情男)である。女郎はイロのためとあれば、けっきょく自分の借金がかさみ年季が延びる結果になるのはわかっていながら、揚代(遊興費)を引き受けて無料で登楼させたり、他の客をだまして金を工面してやることすらあった。女郎がイロのために尽くすのは、「体は売っても心は売らない、真実惚れたのはイロひとり」という心意気であり、また、こういう意地があったからこそ、苦界にも耐えられたのであろう。いっぽう、男の側からすれば、女郎のイロになることは最大の見栄であり、勲章だった。
 文政五年(一八二二)ころの吉原である。


 引け四ツ(午後十時ころ)の拍子木がチョン、チョンとなった。
 妓楼の玉屋でも、若い衆が燭台のろうそくを消し、代わりに行灯をともしてまわる。
 このときになって、客の正六はようやく目を覚ました。年齢は四十前後で、本町通りにある大店の番頭である。
 正六はけさ、出入りの武家屋敷の役人衆を接待するという名目で店を出た。昼間は飛鳥山で花見をして、有名な料理茶屋の海老屋で大いに飲んだあと、駕籠で吉原まで来た。玉屋に登楼したのはちょうど夕暮れだったが、それから芸者や幇間をあげてドンチャン騒ぎをした。どうせ店の接待交際費で落とすため、金遣いは荒い。正体をなくすほど酔ったあげく、みなに寝かしつけられ、四ツ時になってやっと目覚めたというわけだった。
 寝床は自分ひとりであり、相方女郎の花ノ戸はいない。煙草盆の火入れの火も消えて白い灰になっている。正六もややムッとしながら、喉の渇きを覚え、枕元の茶碗の茶をぐいと一口飲んだ。途端に、顔をしかめた。
 なかに入っていたのは、塩茶で溶いた、吉原名物の酔いざましの薬「袖の梅」だったのだ。
 正六は腹立ちまぎれに、パンパンと手を叩いた。
 しばらくして、紫縮緬と緋鹿子縮緬の額無垢に浅黄縮緬のしごきという寝巻き姿、御簾紙を褄に持ち添えるといういでたちで、花ノ戸が現われた。歳のころは十九か二十歳であろう。
「さっきはひどくお酔いなんしたが、モウようおすか」
 寝床に座りながら、にっこりと笑う。
 正六も花ノ戸の笑顔を見て、やや機嫌を直した。
「すっかり寝てしまった。そりやァそうと、ここにあった茶碗の中身は茶じやァなかったの」
「ホホホホ、袖の梅ざいます」
「そうか、すっかり忘れていた。コウ、ちょっくら誰ぞ呼びてえが、手を叩いてもよしかえ」
「なんぞ用でもありいすか」
「こいつがほしい」
 と、正六が煙管で火入れをコンと叩いた。
「わたしがそう申しいしょう」
 花ノ戸は煙草盆から火入れだけを取り出し、さっさと手に持って座敷から出て行った。腰が軽いというより、なんとなくそわそわして、落ち着かない様子である。
 正六は起き上がり、帯をぐるぐる巻いて前にはさむ。寝床から出て、行灯の火をかきたてた。
「おや、これは何だ」
行灯のそばに、封を切った手紙が落ちていた。
 そのとき、廊下に足音がした。正六はあわてて手紙を着物の袂に隠す。
 火種を入れた火入れを持参した若い衆が、花ノ戸の伝言を告げる。
「『正さん、おまんまを食べてまいりいすから、それまで目をさましていておくんなんし』とのことでございます」
「おっと、よしよし。寝はしないから、花魁にゆるゆると食べてきなせえと、言ってくんな」
 正六は若い衆を追い払うと、袂から手紙を取り出し、まず上封じの宛名を読んだ。
「ナンダ、

 玉やの御内にて花の戸さま参る いもふとより

 ハハア、とんでもねえ。おらァ、イロからの文かと思っていたが、こいつァ在所の妹から来たのだな。なんにしろ、まず読んでみよう」
 手紙には、次のような内容が書かれていた。

父親はすでに死に、母親が病気になったため、まず姉が吉原に身売りをしたのに続いて、妹の自分も深川の岡場所に身売りをした。ところが、母親を養う唯一の頼りである兄までもが病に倒れてしまった。いまでは近所の人の情けにすがって、母と兄はようやく露命をつないでいるありさま。近所の人が深川に訪ねてきて近況を伝えてくれたが、母と兄を救う薬があるのだが高価であり、十両もする。妹の自分には、どうがんばっても三両しか工面できない。姉さんのほうで、どうにか七両を工面できないであろうか。

 というものだった。
 読み終わるや、さしもの遊び人の正六もほろりとして、目頭が熱くなった。

                       (続く)


第17話 吉原W(その二)

「モシエ、そりやァなんざます」
 正六が振り向くと、花ノ戸が立っていた。
「ムウ、いつのまに来たのだ。びっくりした」
「そりやァようおすが、それをお見せなんしな」
 と、手を伸ばしてくる。
 正六もやむを得ず、
「こりやァ、おめえが落としたのじやァねえか」
 と、手紙を示した。
「おやおや、とんだものをお目にかけいして、恥ずかしゅうおす。こちらへお寄越しなんし」
 花ノ戸は手紙を取り戻すと、そっとため息をついた。
 正六はいつにない、しみじみとした口調で語りかけた。
「そんなにふさぐことはねえわな。俺も他人に触れ回るような男じゃねえ」
「あんまり面目ないことをお見せ申して、定めておさげすみなんしょうと、真につろうおす」
 花ノ戸はうつむいた。
「じつに気の毒なことだの」
「アレサ、モウ、その話はやめになさりいし。身を切られるよりつろうおす」
「他に打ち明けて話す男もいるであろうに、俺には隠すとは、恨みだぜ」
「おやおや、ぬしやァ気休めばかり言わっしゃるよ。こんなことを相談できる人はおっせん。おおかた、ぬしなどは、これきり愛想をつかして、おいでになんすめえと思やァ、いっそ悲しうおすものを」
「ハテ、そんな心遣いならよしなせえ。これきりにするものか。そして、おめえの親里はどこだえ」
「文を見られいしたからには、ぬしにばかり、何もかも包み隠さずお話し申しいす。わたしが母さんは麻布町でざいます。深川の妹が寄越した文の様子では、母さんのご病気が重くなりいした上に、兄さんまでご病気とか。このごろはソハソハして何も手につかず、相談する人とてはなし。何の因果でおっしょうかと、真に悲しゅうおす」
 花ノ戸は涙ぐんだ。
「それじやァ苦労になるのはもっともだ。して、その七両の金はモウやりなすったか」
「それどころじゃあ、おっせんわな。ぬしも知っていなんしょうが、深川とは違い、ここでは紋日の身じまいも相応にしなければ勤まりいせんから、出費がかさみ、妹よりも苦労ざいます。とはいえ、妹が三両を工面しながら、姉のわたしが七両を工面できぬというのは、真に悲しゅうおす。モウモウ、こんな話はやめにして、横におなんなんしな」
 花ノ戸も寝床に横になりながら、枕の引き出しに手紙を収める。
 正六の気持ちはすでに固まっていた。
「じつに妹の心根が不憫じやァねえか。こんなことを言っちゃあ、みくびりがましいが、その七両はわっちがあげようから、麻布のほうへ早くやるがよかろうぜ」
「そりやァもう、有難うおすが、まだお馴染みも薄いぬしから、いただくなど恥ずかしゅうおす。今後とも、続いて来ておくんなんし。ホンに頼りにいたしいす」
「はて、おめえの難儀を知ったのもなにかの縁だ」
「それでも、あんまり勝手がましゅうおすものを」
「母や兄のために使う金に、なんの勝手がましいことがあるものか。こう言っちゃあ自慢たらしいが、俺くらいの歳になれば万端、心の置き所が違うわな。必ず気兼ねをしねえで、この後も用があるなら、言って寄越しな。きっと身に及ぶだけの力になってあげようから」
 正六は枕もとの紙入から小判を七枚取り出し、渡した。
 花ノ戸は小判を受け取り、男を拝んだ。
「ホンに有難うおす。死んでも忘れいせんよ」
 正六もぐっと胸に迫るものがあり、女を抱き寄せようとする。
「ちょっとお待ちなんしよ」
 花ノ戸は腹ばいになって一服吸い付けたあと、煙管を煙草盆の灰落しの縁で叩いて吸殻を落とした。カチ、カチ、カチと、ことさらに強く三度鳴らす。
廊下から障子越しに、若い衆が呼んだ。
「花ノ戸さん、花ノ戸さん」
「アイ、エエ、モウ、なんざいます。いっそじれってへぞヨ」
 と言いながら、花ノ戸は正六の体に抱きついた。誰が呼ぼうと、もうここから離れないという風情である。
 なおも若い衆が声をかけた。
「花ノ戸さん、花ノ戸さん、麻布から急用だと言ってめえりいしたよ」
「えっ、そうざいますか」
 花ノ戸も驚いて体を起こした。
「モシエ、ちょっと行ってくるから、堪忍しておくんなんしえ」
 いかにも申し訳なさそうに言い残すや、急いで座敷から出て行く。
 ひとり寝床に取り残された正六は呆然としていた。
 まるで、いざ食べようとしたご馳走を、すっと横取りされたような気分であるが、「まさか、母親か兄に不幸があったのであろうか」と思うと、それまで熱く脈打っていた兆候も萎えてくる。
 正六は、親のために身を売った花ノ戸と、その妹がひたすら哀れだった。

                         (続く)


第17話 吉原W(その三)

 玉屋の座敷で、花ノ戸のイロの猪三郎はひとりため息をついていた。年のころは二十四、五歳で、なかなかの好男子である。
 猪三郎は本町通りにある大店の若旦那であるが、花ノ戸と深い仲になって居続けをするなど遊びがすぎたため、ついには親の勘気をこうむり、旦那寺に預けられた。寺で謹慎の身であり、吉原で遊ぶ金などとてもないのだが、花ノ戸が手紙を出し、自分の借金にして呼んでくれる。そのため、時々、玉屋に忍んで来るのだった。
「起きていなんすかえ」
 花ノ戸がそっと障子を開けながら入ってきた。夜着のなかにもぐりこむや、ひしと猪三郎に抱きついた。
「よく待っていておくんなんした。嬉しゅうおす」
「ハテ、俺が身は、どうせおめえに揚げられた身だものを。朝までも待っている気さ」
「アレサ、またそんな気弱なことをお言いなんす。必ずそんなことは言わねえで、昔のような、派手な気分でおいでなんし。そりやァそうと、まだお父っさんのご機嫌は直りいせんか」
「俺が居る旦那寺の和尚からお袋に話をしてもらったが、とかく親父がうんと言わない」
「それというも、みんなわたしからおこったこと。堪忍しておくんなんし」
「ハテ、愚痴なことを言うもんだぜ。すべては、俺が悪いのさ。おめえは両親のために身を売るという親孝行。俺ときては、身分相応に遊んでいればこんなことにならなかったものを、つい羽目をはずして、親父が苦労して儲けたその金を湯水のように使い、あげくはお袋が貯めた小遣いまで使い果たしてしまった。こんな親不孝者はあるまい。勘当されても当然のところを、旦那寺に預けるという親の慈悲。寝床でおめえを待ちながら、これまでの自分の親不孝を考えていると、つくづく死にたくなったぜ」
 花ノ戸は嗚咽を袖でおおった。
「悔やんで返らぬことでおすから、モウモウ、気をお晴らしなんし。そのおふさぎなんす心から病気にでもなってみなんし、それこそ、お父さんやおっ母さんへの不孝じやァおっせんか。ともかく、その和尚さんとやらをよくお頼みなんして、ちっとも早く首尾よくなるようになさりいし」
「ふた親の機嫌も直り、家にさえ戻れば、おめえを身請けする相談もできよう。それまでの辛抱だが、それにつけても、先日、おめえにも話した十両の件よ。俺がつい店の品を質入してしまったのだが、あの質物を早く取り戻さねば、親父の難儀にもなりかねねえ。しかし、十両という金だからなァ。ほんに金が敵の世の中とは、この節、思いあたったぞ」
「そのことについても、わたしも心遣いをいたしいしたが、今夜の客が金を持っている様子ゆえ、若い衆のひとりを頼みいして、嘘な手管を用いぃした。うまうまと思う壺へはまりいして、七枚ほどは工面をしいした。これに、わたしがありあわせの金子三両、都合十両をあげ申しいすから、かねての質をうけ出しなんし」
 花ノ戸は正六の七両と自分の三両を合わせて渡しながら、にせ手紙で客をだました顛末を語った。
 猪三郎もさすがに気が咎めるのか、苦笑まじりに言った。
「こころざしは有難いが、他人の金でわが身のことを……」
「ハテ、気の弱いことをお言いなんす。アノ客が承知でくれた金なれば、わたしがぬしにあげいすものを、誰がなんと申しいしょう」
「そんなら、俺が世に出るまで借りておこう」
「アレサ、モウ、後生でおすよ。そしてまあ、こちらへお寄りなんし」
 花ノ戸は枕の下から手を入れて、猪三郎の体を抱きしめる。
 ふたりは唇を合わせた。
 いっぽう正六は、プイと座敷から出て行った花ノ戸がいつまでたっても戻ってこないため、落ち着かない。起きてみたり寝てみたり、あくびをしたり、鼻くそをほじってみたり、布団の上で座禅を組んだりしていたが、尿意を覚えて、小便に行った。
 小便所から戻る途中、とある座敷のなかから花ノ戸の声が聞こえた。正六は廊下に立ち止まり、耳を澄ませる。
 障子越しに聞こえるその睦言は、房事を終えたあとのイロと女郎の会話に違いなかった。
 正六もここにいたって、手練手管で七両を巻き上げられたことを悟った。思わずカッとなり、怒鳴った。
「エエ、花ノ戸の大泥棒め」
 障子を開けてなかに入ろうとする。
 大声を聞きつけ、遣手が飛んできた。
「ぬしやァ、どこへおいでなんすえ」
「くそをくらえ。うぬも同類、覚悟をしやァがれ」
「おやおや、あきれ返ったもんざいます。そして泥棒とは誰がこっておす」
「誰だもすさまじい。ここの内では、ちっと馴染みになると、客の金をだまして取るが商売か。お多福め」
「そりやァお客をだますは常ざいますものを。マア、静かになさりいし。人聞きも悪うおす」
「うるさい、これがこのままにすませられるか」
 正六は遣手が止めるのを振り切り、座敷のなかに入ると、寝床のまわりにめぐりした屏風を荒々しくめくった。
 廊下の騒ぎに、すでに花ノ戸も猪三郎も寝床の上に起き上がっている。
 正六と猪三郎は顔を見合わせ、唖然とした。
「あなたは、若旦那」
「おまえは、番頭」
 正六は、猪三郎の実家の番頭だったのだ。
 正六がかたり取られた七両は、もとはといえば店の金である。その金がけっきょく、店の若旦那の手に戻ったというわけだった。

                            (終わり)


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