第2話 本所入江町
東京都墨田区の一帯はかつて本所と呼ばれた。本所入江町は、現在の墨田区緑四丁目のあたりである。入江町には微禄の幕臣の屋敷が建ち並び、そのあいだに町屋もあり、武家屋敷と町屋が混在していた。『岡場遊郭考』に入江町の岡場所の絵図が掲載されているが、武家屋敷と町屋に囲まれていることがわかる。時期は不明だが四六見世が四軒あり、そのほか切見世もあったという。なお、切見世は一定の場所で営業する売春としては最下級で、天明のころまでチョンノマで五十文くらいが相場だった。
安永九年(一七八〇)ころの、本所入江町の切見世である。 秋の昼下がり、切見世の路地に入った途端、ぷんと異臭が鼻をつく。小便の臭いだった。 狭い路地をはさんで、両側に棟割長屋が続いている。路地の奥に共同便所があるのだが、そこまで行くのが面倒な女郎など、路地の中央に掘られている溝で用を足す。そのため、溝にはほとんど小便が垂れ流しであり、一帯に臭いがこもるのだった。 長屋のずらりと並んだ間口二間の部屋は、入口の木戸が開け放たれている。木戸が閉じられているのは、なかに客がいるということだった。 路地を歩く男たちに対して、開け放たれた木戸の内側から声がかかる。 「モンシ、モンシ、町人さん」 「寄んなんし、侍さん」 「中間さん、コレ、来なせえ」 声につられて入る者もいれば、木戸を開けて出てくる客もいる。冷やかしでぶらついている男もいる。 溝の上に載せられたドブ板を日和下駄でカラカラ鳴らせながら現われたのは、地回りの権太である。藍返の袷を着て、三枡格子の手ぬぐいで頬被りをしていた。 女郎のお兼が声をかけ、 「コレ、権さん、そう見回ってばかりじゃあ、下駄がすり減ろうぜ」 「下駄がすり減ったら買ってくれるだろう」 権太は言い返しておいて、隣りの、やはり木戸が開いたままのお銀に向かい、 「お銀ぼう、どうだ」 お銀が言った。 「権さん、聞きねえ。きょうはもう七ツというに、まだ口明けもしねえ。これじゃあ、あごが干上がっちまう」 「たまにゃあ、そんな日もあろうよ」 「たまにゃあどころか。このごろは、あぶれどうしさ」 「おきやァがれ。夕べも泊りを取ったじゃあねえか」 うわまえをはねるだけに、各女郎の営業状況はちゃんと把握していた。 そのとき、四、五軒先の部屋で男の怒鳴り声があがった。 権太はすぐさま駆け出す。 足軽らしき下級武士が激怒していた。 終わったあと、敷布団の上に四十八文を置いたのだが、女郎がそのまま布団を折りたたんだため見えなくなった。女郎が「つとめは」と尋ねたところ、足軽は「つとめを二重に取るのか。俺は買い逃げするような男ではない」と、怒り出したというわけだった。「つとめ」は代金のことである。 権太と、同じく駆けつけてきた地回りの八五郎のふたりで、 「モシ、間違えはあるもんだ。買い逃げするような旦那じゃねえことは、わかってまさァ」 「たかが女だァ、取るに足らねえ。うっちゃって、帰んなんし」 両側から足軽の脇をかかえて、強引に路地から外の通りに連れ出す。 お銀が隣室に話しかけた。 「わっちの所には、あんなのさえ来ない。お兼さん、きょうはとんだ日だのう」 部屋と部屋の境は襖だけである。顔こそ見えないものの、相手の声は手に取るように聞こえる。 「ホンニ、まだ明かねえの。わっちは朝から三人上げたが、おめえはきついもんだの」 お兼が気の毒そうに答えた。 ふたりが襖越しに話をしていると、渡り中間の長助が現われた。青梅絣の袷を着て、頭に手ぬぐいをかぶっていた。 「お銀さん、久しいの」 「おや、長さん。お兼さんが待ちかねているに、なぜ来さんせん」 お兼はわざとツンとして、 「道を忘れたかと思った。よく覚えていたの」 長助は照れ笑いをしている。 お銀が気をきかせて、 「マア、久しぶりだから、お兼さんの所へ入ってから、口舌を言いねえよ」 「ああ」 木戸からなかに入ると、小さな土間がある。土間をあがると、四畳半の一間だけである。 長助は後ろ手に木戸を閉め、草履を脱いで部屋にあがるや、 「このごらァ、とんだ工面が悪くって。夕べも一分ばかり取られたから、あんまり気が腐って、いめへましいから、ちっと気を抜こうと思って来た」 博奕で負けがこんでいることを告げた。 お兼が茶を出しながら、 「きょうは晩まで居るかい」 「むむ、いま話す通りだから」 そのとき、閉じられた木戸がトントンと鳴った。 お兼が外に向かい、 「回ってきな。すぐに明くよ。帰んなんなよ」 長助はチョンノマだから、そのあたりをひと回りしてくるあいだに番がくるということだった。 客が言った。 「帰る、帰る」 お兼も言い返す。 「勝手にしやァがれ」 隣りでは、お銀が必死に呼びかけていた。 「モシモシ侍さん、コレコレ侍さん」 立ちどまったのは、四十歳くらいの実直そうな勤番武士だった。青茶太織の綿入に土器色の羽織を着ていた。訛りの強いことばで、 「寄りますべいかな」 「おあがンなんし。オヤ、紅葉の枝を持っていなんすね。どこから取って来なすった」 「きょうは非番で、真間に行き申した」 「おまんまを食べに行って、紅葉を折ってきなすったか」 長助はお銀の勘違いを聞き、小声で、 「真間とまんまじゃあ大違いだ」 お兼も声をひそめて、 「わっちは方々と鞍替えもして、ちっとは世間も見たけれど、あの子なんざァ遠国から十一の歳に売られてきて、ホンニ、ここより外の世界を知らないからね」 しんみりと言った。 長助が鼻で笑った。 「きつい新内節だ」 新内には、女郎の悲哀を題材にしたものが多い。 「そんなことより。おまえさん、するんだろ」 お兼がたたんでいた布団を敷いた。夜着は部屋の隅に重ねられている。夜着を使うのは泊りのときだけで、チョンノマでは敷布団のみだった。 馴染みだけに、お兼も長助の好みは心得ている。さっさと帯を解き始めた。 襖越しに、お銀のあえぎが聞こえてきた。 「ああ、あああぁ」 「おお、おお、これは」 という、勤番武士の嘆声も聞こえる。 お兼が笑みをふくんで言った。 「おや、お銀さんのよがり声、あれは本当だよ。どうしたんだろ、本気になったようだね。さあ、きなよ」 「俺も味な気分になってきたぜ」 長助もお兼の上に重なった。 しばらくして、勤番武士が帰る様子である。 「これはハア、初の見参をして、いかくお世話になり申した。これからァまた、おりおり来ますべいから、目さァかけてくれますかな」 「ちょっちょと、おいでなさいまし。お腰の物を」 お銀が両刀を渡す。 「では、おさらば」 「お近いうちに」 長助とお兼も終わった。 お銀とは反対側の隣りは、客がいる気配なのにまったく物音がしない。 お兼は紙で局部をふきながら、 「お倉さん、でえぶ静かだネ」 隣室のお倉が答えて、 「定さんは酔ったまま、寝ているからさ」 馴染みの客が、そのまま寝込んでしまったらしい。 お兼が木戸を開けてやる。 長助は手ぬぐいで頬被りをしながら、ふと振り返り、 「ソレ、簪が抜けそうだぜ」 「おや」 お兼が髪に手をやった。 長助が外に出ると、お銀は路地のドブ板を一枚はがし、溝に向かって平気で小用をしていた。 「お銀さん、おさらば」 お銀は尻をまくりあげて溝にまたがったまま、 「アイ、もうお帰りかえ」 片手をあげて振った。 すでに夕闇が迫っている。 ねぐらへ急ぐカラスがカアカアと鳴いた (終わり) 第三話へ |