江戸の風俗八百八店

永井義男


第22話 吉原X(その一)

 一般に「吉原の遊女」や「花魁(おいらん)」とひとくくりにして言われるが、実際にはこまかい階級があった。時代による変遷もあるため、実態はかなり複雑である。大雑把に整理すると、上位から、
昼三(ちゅうさん) このなかで最上級が、呼出し昼三。
付廻し
座敷持 自分の部屋と、客を迎える座敷を持つ。
部屋持 自分の部屋に客を迎える。
振袖新造 略して振新(ふりしん) 姉女郎の世話をする。
番頭新造 略して番新(ばんしん) すべての女郎の世話をする。
局女郎
 などである。
 もちろん、揚代(遊興費)にも差があった。
 寛政三年(一七九一)ころの吉原である。

 <夜明け>
 カラスの鳴き声に続いて、明け六ツの鐘が響く。製紙の原料である楮を槌で打つコトコトという砧の音や、行商人の「油あげ、油あげ」という呼び声が伝わってくる。
 いま内藤屋で最高位の、呼出し昼三の夕霧は、朝帰りの客を引手茶屋まで送っていき、見世に戻ってきたところだった。
 入り口の敷居には、塩が盛られていた。
 夕霧は土間からあがり、そのまま二階に向かう。
 階段下の床には、茶屋などを通じて女郎に届けられた手紙がずらりと並べられていた。
夕霧は階段をのぼりながら、
「オオ、冷た」
 と、素足の裏から伝わってくる冷気に肩をすぼめた。
 後ろに従う振新の空音も寒そうだった。夕霧の中切下駄と、自分の下駄を手にさげている。
「おや、もう掃除がきたそうだ。いっそ臭うよ」
 と、眉をひそめた。
 下掃除人が早くも便所の汲み取りを始めたのだ。
 二階の廊下は、まさに杯盤狼籍と形容するにふさわしい乱雑さだった。懸盤や杯台、茶台が高く積み重ねられ、紙くずが山になり、隅の小便所には客が吐き散らしたヘドが点々と散っている。
 そんな廊下で、不寝番の起介が多数の行灯を並べてせっせと掃除をしていた。夜じゅう、時を知らせる拍子木を打ったり、行灯の火が消えないよう油をついでまわったりするのが仕事である。
 夕霧が声をかけた。
「起介どん、ソレ、足から血が出るよ。どうした」
「台のものの松の釘で踏み抜きをいたしました」
「おや、危ねえ」
 と言いながら、夕霧は座敷に入った。
 女郎は夜明けにいったん客を送り出したあと、二度寝をする。
 獅噛火鉢の火は消えていた。
「コレ、空音さん、下に熾きができたろう。ちっと持ってきな」
「アイ」
 空音は階下に向かう。
 そこへ、遣手が現われた。
「花魁、お早うござります。きのうはモウ、おおきにくたびれましたよ」
 各妓楼に遣手はひとりずついる。いわば監督係で、女郎あがりの古手が多い。遣手はきのう、「お祖師さま」と称される堀の内の日蓮宗の寺、妙法寺に参詣したのだ。
「堀の内さんは、にぎやかでおざんしたかえ」
「アイ、納め手ぬぐいは、すぐに掛けさせてまいりましたよ」
「そりゃぁ、もう、かたじけのうおざんした」
 そこへ、空音が火入れへ炭火を入れて持参した。火鉢の灰のなかに炭火を埋め、部屋を暖める。
 遣手と空音が去った。
 夕霧はこれからひと眠りする。
                       (続く)


第22話 吉原X(その二)

 <五ツ時(午前八時ころ)>
 部屋持の車井は、きょうは早めに目をさました。
 車井が鏡を見ながらうがいをしているところへ、禿の綱が眠そうな目をこすりながら階段をのぼり、二階へやってきた。仕着せの布子は、襟のあたりが脂汚れで光っている。板締めの色あせた細帯を締めていた。
「綱か」
「アイ」
「いいところへ来た。煙草を吸いつけてくりゃ」
 車井が、雁首に煙草を詰めた煙管を渡した。部屋にはまだ火種がなかったのだ。
「アイ」
 綱が煙管を持って遣手部屋に行き、そこの火鉢の火で吸いつけて戻った。
「エエモ、べらぼうらしい。火が消えたは」
 車井が腹立たしそうに煙管を叩いているところへ、茶屋の若い者がとんとんと階段を駆けあがってきた。
「モシ、花魁、蛙声さまが、お煙草入れをお忘れなすったそうでござります」
 昨夜、茶屋の案内で蛙声という雅号の客が内藤屋に登楼し、車井を買って同衾した。夜明け前に、茶屋の迎えで帰ったのである。いまごろ忘れ物を取りにくるというのは、まだ茶屋に腰をすえて、朝酒でも飲んでいるらしい。
「床のなかにあるか、見ていってくだせえ」
「はい」
 茶屋の男はふたりが同衾した寝床をさがし、すぐに見つけた。
「ここにござりました」
「蛙声さんはまだ、こんたの内にいさっしゃるか」
「さようでござります」
 男は煙草入れを持って、そそくさと戻っていく。
 そのあと、別な茶屋の女中が車井の部屋に姿を見せた。
「モシ、花魁、お文をお出しなされまし」
「きょうは、人が行くか」
「つかわします」
 女郎と客との手紙のやりとりは、船宿や茶屋を通じておこなわれる。茶屋の女は、客に出す手紙を集めに来たのである。
「そんなら、ちっと待ってくだせえナ。コレ、こんたのところの瓜の香々はもうねえか」
「まだござります。あげましょうか」
「そんなら、文を書くうち、持ってきてくだせえ。後生だヨ」
 茶屋の女は別な女郎に声をかけに行く。
 車井は、このところ足が途絶えている客の顔を思い出しながら、常套句をちりばめた手紙を書き始めた。
 いっぽう、こちらは一階である。
 入り口に掛けられた、柿色の地に藍で「内藤屋」と筆太に染め出した暖簾はまだ半分、巻き上げられている。
 見世の隅、暖簾の際にある畳敷きの牛台では、禿が腰をかけて、吉平に髪を結ってもらっていた。禿の髪は、男の髪結いが結う。
「コレ、じっとしていねえか。てめえのように動く者はいねえ」
 吉平が叱った。
 そばで順番を待っている禿が言った。
「吉平どん、わっちはもう奴島田はよして、針うちに結ってくだせえ。花魁がそう言わしった」
 別な禿が、
「つぎはわっちだよ」
 また別な禿が、
「あつかましい。なに、おめえなものか。わっちが先に来たは」
 吉平が叱った。
「この子供らァ、よう毎朝毎朝、いがみ合う。ちっと静かにしねえか」
 土間では、浅草山之宿町から来る出入りの魚屋が盤台を並べている。
 吟味しているのは、上料理番の文助と下料理番の源七である。内藤屋の主人の喜左衛門も、大黒柱のきわに腰をかけて、煙管の先で指図をしていた。
「コリャ、おめえさん、いい鯵でございます。生麦でなくッちやァ、こんな丈長は獲れません」
 魚屋は、鯵が生麦村の沖で獲れたことを力説した。
 喜左衛門が、上料理番に言った。
「文助、吸い物魚はそれでいいか」
「ハイ。この生貝は、みんな女貝だノウ。こいつァ、いい地平目だ」
 魚屋はここぞとばかり推奨する。
「いい魚でござります」
 源七が喜左衛門に勧めた。
「旦那さん、海鼠もちっとお取ンなさりまし」
「この海鼠は、榎堂でござります」
 魚屋はまたもや、海鼠が榎戸湊で獲れたことを力説した。
「車を、もちっと入れさっせえ」
 文助が車海老をさらに買い込む。
 喜左衛門が渋い顔で言った。
「なぜ魚がありながら、そねえに高いノウ」
 魚屋は値切られるのを警戒して、
「シケのあげくでござりますから、安くござりません」
 と、懸命に力説していた。
                         (続く)


第22話 吉原X(その三)

<四ツ時(午前十時ころ)>

 二階では、二度寝をした女郎もみな起き出していた。
 夕霧は自分の部屋で、金の無心を頼んだ客からの返事の手紙を読んでいる。
 番新で、古株の川竹が率先して、箒で掃除を始めた。振新の夜舟と明日香も動かざるを得ない。
 夜舟が素っ頓狂な声をあげた。
「夕べ見えなんだ歌留多が、夜着の袖から出んしたよ」
 夕霧が笑った。
「それ、みなんし」
 川竹が、夜舟と明日香に命じた。
「おめえがたァ、きりきり湯へ入ってきて、床の間や連子窓を拭きなよ。なにもかも、ほこりだらけになっているわ」
 そこへ、禿の雪乃が現われた。
 川竹が獅噛火鉢の縁を磨きながら言った。
「雪乃や、湯に誰がいる。見てきや」
「いま見てめえりィしたが、外の人は誰もおりィせん」
 内湯には、内藤屋の人間以外は入っていないということだった。
 川竹が夕霧に勧めた。
「花魁、おいでなせんかえ」
「わたしはもちっとして、まいりンしょう」
 川竹もいちおう気を使ったのだが、夕霧がまだ行かないとなれば、自分が先に入ることにした。
「コレ、明日香さん、わっちが湯へ行っているうちに、花魁の膳も、わっちの膳も用意しておこうし、お茶も沸かしておこうよ。雪乃や、糠袋へ糠を入れて、浴衣を持って一緒に来な。みな、埒が明かねえと、きかねえヨ。みな、花魁があんまり気がよくていさっしゃるから、ずるくなるもんじやァねえ」
 ひとしきり小言を言って川竹が風呂場に向かったあと、荷を肩にかけた小間物屋が現われた。
 小間物屋はちらと夕霧の座敷をのぞき、声をかけた。
「花魁え。この笄はとんだ鼈甲がいいから、取っておきなされませんか」
 夕霧は笄を手に取り、日に透かしてみた。
「ホンニ、こりやァいいよ。死ぬほどほしいが、いまはちっと相談できんせんから、あしたまで売れずにいたら、持っておいでなんし」
 小間物は荷を広げて、いろいろな商品を見せる。
 部屋持の花崎が声を聞きつけてやってきた。
「モシエ、この櫛を接いできておくんなんしな。どうぞ、早くおたのん申しィすよ」
「かしこまりました」
 振新の水巻も来た。
「指の輪はまだできんせんかえ」
「あすはできます。紋所は、比翼だっけね」
 小間物屋が冷やかす。
「これさ、静かに言っておくんなんしナ。馬鹿らしい」
 水巻は恥ずかしがった。イロ(情人)との比翼紋であつらえていたのである。
 そこへ、川竹が湯から戻ってきた。
「わたしの笄の、鼈甲の合わせ目に隙間がでんした」
「直してあげましょう」
 小間物屋は如才なく愛嬌を振りまいたあと、別な女郎屋に向かう。
 夕霧の座敷には振新たちによって朝食の膳が用意された。火鉢にかけられた土瓶はチンチンと鳴って、白い湯気を上げている。 
 川竹が言った。
「明日香さん、けさの惣菜はなんだ」
「たしか、芋に油揚でござりィすよ」
「おそれるね。夜舟さん、茶箪笥に座禅豆と、唐辛子があったろう。ここへ出しな」
 みなで惣菜への不平を言いながら朝食を終えた。
 夕霧は食後に煙草を二、三服吸ったあと、風呂へ行った。禿のひとりが浴衣を持って従う。
 川竹は少しも人を休ませない。
「コレ、雪乃や。この二朱を持っていって、おあしを買ってきや」
 禿の雪乃に、二朱銀を銭に両替してくるように命じた。変動相場制のため、このころの二朱は六百文前後である。
「アイ」
 雪乃は二朱銀を受け取り、階下に向かう。

                           (続く)


第22話 吉原X(その四)

 浅草田町の呉服屋の八十兵衛が現われ、川竹に愛想笑いをみせた。
「きのうの雛形はお気に入りましたか」
「いっそようおざりィす。あれに決めんしょう」
「無垢はやっぱり」
「総無垢にしておくんなんし。そして、今度は、禿の着物の丈をもちっと長くしておくんなんしえ」
「かしこまりました」
 そこへ、禿が来た。
「八十兵衛さんえ、花魁がちょっとおいでなんしッとさ」
「てめえは、どこの子だ」
「車井さんのところの子サ」
 八十兵衛は禿と一緒に、車井の部屋に向かう。
 入れ違いに、湯上りの夕霧が座敷に戻ってきた。
「明日香さん、髪結いのお吉さんが二階へ来ちやァいねえか、見てきてくんなんし。お針部屋も見てきなんしよ」
 川竹もすかさず命じる。
「雪乃や、お歯黒の用意をしな。夜舟さん、お歯黒筆を出しな」
 振新の夜舟と禿の雪乃が、夕霧と川竹の鏡台を出してきて並べ、お歯黒の準備をした。
 夕霧と川竹は鏡を見ながら、お歯黒をつける。
 そこへ、若い衆の牛吉が顔を出した。
「お茶をひとつくださりやし」
 自分で火鉢の上でチンチンなっている湯をついだ。茶碗を両手で持って、冷えた手のひらを温めながら、熱い茶をすすった。
「いめえましい。仲の町へ行ってきたが、さっぱり掛けがよらねえ。これじゃあ、節句前には、首でもくくらにやァならねえ」
 吉原では、客は茶屋を通して女郎屋に登楼し、金も茶屋に支払う。女郎屋では、茶屋から掛売りの金を取り立てなければならないが、牛吉が仲の町の茶屋をまわったところ、さっぱりだったのだ。集金の成績が悪いと、給金も減額される。
 夜舟が茶化した。
「盆前にもそんなこと言っていたが、首はくくらなかったじゃないか」
「人の気も知らねえで、洒落るよ」
 牛吉は苦笑しながら、階段をおりていった。
 外から、行商人や芸人の呼び声が聞こえてくる。
「三番叟、三番叟、南京操り」
「鏡とぎ、鏡とぎ」
「桜草、桜草、桜草、桜草」
「針金、針金」
 夜舟と明日香は連子窓のそばに行き、外をのぞいた。
「おや、虚無僧が来たよ。ごろうじいし」
「ホンニ、ちょっと立派な虚無僧ざんす」
 そのとき、湯番の男が、
「湯をしまいます、湯をしまいます」
 と、二階に触れまわった。
 内湯の湯を落とすということだった。
 髪結いのお吉が座敷に来て、さっそく夕霧の髪を結い始めた。
 夕霧は髪を結わせながら、訓読の仮名付きの『唐詩選』を読んでいる。

  大道直如髪  大道直うして髪の如く
   春日佳気多  春日佳気多し

 儲光義の五言絶句である。
 女郎とはいえ、吉原の、しかも昼三ともなれば、『唐詩選』も味読する。一般の女以上の教養を備えていた。
「ぜんてえ、おめえさんにやァ、手絡髷より忍髷がよく似合います」
 お吉が、夕霧に髪型を変えるよう勧めた。
「それでも、忍に結うと、いつでもお茶を挽きンすから、縁起が悪うおざんす」
 夕霧は、髪結いの勧めをやんわりと断わる。
 川竹が、煙草を吸いつけてお吉に渡した。
 お吉は手が油だらけのため、紙で煙管をくるんで持ち、煙草を一服した。

                            (続く)


第22話 吉原X(その五)

<九ツ時(正午ころ)>

 浮草屋という茶屋の若い者が、夕霧の座敷に呼びに来た。
「モシ、花魁、昼狐さんがおいでなされましたよ」
 昼狐はもちろん、吉原遊び用の変名である。夕霧の馴染み客だった。茶屋を通じて、夕霧を買うのである。いま全盛だけに、声がかかるのも早い。
「ホンニか。マア、雪乃をさきに連れて行ってくだせえ」
「ハイ、お早うおいでなされまし」
 男は、禿の雪乃を連れて戻っていく。
 番新の川竹が振新にしたくを手伝うよう命じた。
「夜舟さん、着物を出してあげ申しな」
 夕霧は夜舟に手伝わせ、着物を着替える。
 上着は白七子に、紫の吹絵落しの源氏雲のなかに四季の草花を極彩色の筆で仕上げ、藤の丸の紋所は紫の撚糸で刺繍してあった。下着の無垢は縁取り無垢で、胴は緋緞子、縁は鳶色の無地の八丈絹に上着と同じ模様を刺繍している。媚茶緞子に緋縮緬の裏をつけたしごきを締めた。
 夕霧は振新の空音を従え、階段をおりる。
 楼主の居間である内所では、喜左衛門が帳面付けをしていたが、夕霧を見て声をかけた。
「花魁、お早いの。きょうは、店衆の出番か」
 楼主といえども、昼三の女郎には気を使う。朝早くからの客は、公休日の商家の奉公人かと尋ねたのである。
「イイエ、浮草屋の客衆でござりやす」
「フウ。ちょっと後ろを向いて見せな。おお、でえぶ、髪の風が人柄がよくなった。サアサア、客人が待っていよう。早く行きな」
「行ってまいりィやしょう」
 夕霧は楼主にあいさつすると、空音をともない、浮草屋に向かう。
 喜左衛門は夕霧の後姿を見送りながら、つぶやいた。
「夕霧もこのごろは貫禄が出てきたノウ」
 そばの女房も同意した。
「さようサ。だんだんよくなります」
 いっぽう、一階にある台所では料理番が仕込みの最中であり、目のまわるような忙しさである。
 井戸の滑車がひっきりなしにまわる音に、時々、丼などの割れる音がまじる。米を精米する音がかまびすしい。
 煎り酒の匂いがただよい、多数の鍋が立てる湯気は霧のようである。
 大勢の禿は長い飯台を取り巻いて、昼飯を食べていた。
 庭には台のものの造花が持ち込まれ、そのそばでは、若い者が酒樽に抜き口をつけている。
 内所へ、病気のため親元で養生している女郎の母親が顔を出した。脂染みた布子を着て、足元は素足に草鞋ばきだった。
「おお、ござったか。どうだのう。ちっとはいいかの」
 喜左衛門が様子を尋ねた。
「相変わらずでございまして」
 母親は土間で、しきりに腰を折る。
「ソリャア、困ったもんだ。早くよくしてえもんだのう」
「ハイ」
「マア、飯でも食っていかっせえ」
 喜左衛門が気前のいいところを見せた。
 母親も、内藤屋で昼飯を食べさせてもらうのを期待していた。
 そのあいだにも、暖簾をくぐってさまざまな物もらいが土間に入ってきた。托鉢僧もいれば、乞食もいる。
 そのたびに、喜左衛門は手近なところにいる禿に、
「アア、うるせえ。おい、進ぜろ」
 と、一文銭を放り出した。
 二階で、部屋持の車井が声を張り上げて禿を呼んだ。
「綱やァ、綱やァ」
「アイ、アイ」
「コレヨ、楓屋へ行っての、二朱と百で、煙草を紙で包んで、水引で結わえてもらってきや。また太神楽を見て、おそくなるめえよ」
 客は三会目には、馴染みになったしるしに「床花」と呼ばれる祝儀を出す。女郎のほうでは、その返礼として、煙草一包みを客に贈るのが慣例だった。
 車井は、吉原のなかにある小間物屋の楓屋で、返礼をあつらえようとしていたのだ。二朱と百文の予算となれば、床花は三両くらいだったのであろう。
 そのとき、八ツ時(午後二時ころ)を知らせる拍子木が鳴った。
 いよいよ、昼見世の開始である。吉原は昼夜二回の営業であり、昼見世は八ツから始まる。
 すががきと呼ばれる三味線の音色とともに、女郎たちは張見世に出て行った。格子の内側に居並び、顔見せをしながら客を待つのである。

                            (終わり)
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