江戸の風俗八百八店

永井義男


第25話 内藤新宿V(その一)

 江戸時代、武士階級や大商人は別として、庶民のあいだでは、年季の明けた女郎、いわゆる「商売あがり」の女を妻に迎え、周囲もそれを知っているというのはごく普通のことだった。当時の人々が「もと女郎」という経歴にこだわらなかったのは、彼女たちは自分の意志で女郎になったのではなく、貧しさのために女郎屋に売られたからだ。当時の人々はけっして女郎を、ふしだらとか荒淫とは考えなかった。また女郎のほうでも年季が明けたあとは、客のなかの真に惚れた男(情男、イロ)と所帯を持つことを夢見た。
 文政三年(一八二〇)ころの内藤新宿である。

 江戸の三名鐘のひとつといわれる天竜寺の鐘がゴーンと鳴って、明け六ツ(夜明け)を告げた。内藤新宿の遊客には「追い出しの鐘」とも呼ばれている。
 飯盛旅籠屋(女郎屋)である福田屋の二階の奥座敷では、居続け客の粂之助が寝床の上にあぐらをかき、三味線を爪弾きしながら、めりやすを口ずさんでいた。
 歳のころは二十四、五歳で、苦みばしったいい男だった。太織の茶縞の羽織や紬の上着は脱ぎ、絹の更紗小紋の下着に、女郎の萌黄縞の細帯を締めるという、自堕落なかっこうである。
 かたわらでは、女郎のお梅が火鉢で酒の燗をしながら、物思いにふけっていた。眉尻がやや下がっているが、なかなかの美人だった。歳のころは十八、九歳であろう。
 ブツンと、三味線の三の糸が切れた。
 お梅は糸の切れた音にびっくりして顔をあげた。
「モシエ、心というものは乙なもんだネ。十年も二十年も先のことを思ったり、二年も三年も昔のつらかったことを思い出したり、いろいろなことを思うもんだネ。それに、この五、六日はおめえさんの足は遠のくし、クヨクヨ思って、真にふさいでばかりいたよ。わっちがおめえさんのことを思っているのは、よっぽど人目につくそうで、朋輩のお綱さんやお悦さんが、
『お梅さんはこのごろじやァ、粂さんが来なさるといっそイソイソして元気がいいが、そうでもないときやァ、病人のようだ』
 なんだと言ってなぶるわナ。
 こんなにこっちばかり思っていても、おめえさんのほうじやァ、わっちが思う百分の一も思いなさりやァしめえが。ちったァ可哀想だと思ってくんねえな。先のことを言うようだが、年季もまだ二年あるがネ。年季が明けると、なんでもかでもおめえさんのとけえ行くから、どうぞ世話をしてくんなよ」
「そりやァ、おいらがような者にでも世話になろうという気なら、ずいぶん世話もしようが、年季といっても長い年月。毎晩、毎晩、代わる客。枕の数のそのうちにやァ、あんべえのいい客ができて、そのほうへ乗り換えて、こっちはおさらばだ。女郎の言うことを当てにしていたら、いつでもアゴが食い違うよ」
「まだそんな疑ったことを言いなさる。初会や裏じやァあるめいし。嘘か実かは素振りでも知れそうなもんだァな」
「素振りじやァおいらにはわからねえ。女に惚れられたことがねえから」
「憎いよ。茶にしてばかりいなさる」
 お梅が涙ぐんだ。
 粂之助も口調をあらためた。
「このところ、俺の足が遠いと言うのだろう。俺だって来てえのはやまやまだが、これまで親にも苦労をかけたから、いまじやァ少しは慎まなければならねえ。来るにしても、なにかと難しい遣り繰り算段をしなければならねえため、どうしても間遠になるのサ。コレ、謝るはな。酒がチリチリいい出した。燗ができたら、仲直りに一杯やろう」
「ホンニ、忘れていたよ」
 お梅は銚子を持って布団の上に上がり、
「毒見をしてあげようから、マア、待ちな」
 と、杯にそそいで、まず一口飲んだ。
 粂之助は茶碗を差し出した。
「面倒だ。これにしよう」
 お梅が茶碗に酒をついだ。
 粂之助は一息で飲み干し、
「硯蓋は何だ。久しいものばかりだな」
 と、蒲鉾をつまんで口に入れ、空の茶碗を差し出す。
「よしなよ。そんなに続けて飲まねえでもいいわな」
「いいよ。つぎねえな」
「それでもね。アノ、酔って、肝心のことができねえと、楽しみがないわナ」
 お梅はちょっと恥ずかしそうに、男の膝をつついた。
「べらぼうめ。爺ぃじやァあんめえし。酔って間に合わないということがあるものか。いいから、ついでくりゃ」
「情のこわい女房の言うことも、ちったァ聞きなよ」
 お梅は茶碗をひったくった。
 粂之助は茶碗を取り返そうとする。
「よしなと言うのに。あとにしなせえな。女房の言うことに悪いこたァないから。マア、こうなりな。これから、おまえさんに聞いてもらうことがたァんとあるがネ」
 お梅は男の手を取って寝かせ、自分も横になった。体の上に、夜着をかぶせる。
 粂之助はされるがままになっていた。
「こんな美しい可愛い女の言うことだ。聞かねえでどうするもんだ」
「うれしがらせを言って、憎い口だよ」
 ふたりは唇を合わせる。
 お梅は粂之助の帯を解き、自分の帯も解いて枕元に放り出した。
「こうしたら、せつなかろうネ」
「どうするのだ」
「どうするか、こうするか、教えてあげようから、じっとしていなせえ」
 お梅が夜着にもぐりこんだ。


                          (続く)


第25話 内藤新宿V(その二)

 福田屋の見世先に、霰小紋の羽織を着て、腰に脇差を差した二十七、八歳の男が立った。
「コウ、若え衆、ちょつと頼みやす」
「ハイ、ハイ」
 若い者の加助が答えた。
「ここのお梅さんという女郎衆のとけえ、粂という客が来てるだろう」
「ハイ、来ていらっしゃいます」
「会いたいという人が来ていると言って、ちよッこら呼び出してくんな」
 加助は二階にあがり、お梅の座敷の障子を細目に開けた。
「モシ、粂さん、粂さん」
 お梅が返事をした。
「誰だ。加助どんか。なんだえ」
「ハイ、粂さんにお目にかかりてえと言って、どなたか見世へ来ておいでなさいます」
「おいらに会いてえと。どんな人だえ」
「おめえさんぐれえの背格好で、目の細いお方でござります」
「誰だっけナ」
 粂之助は小首をかしげながら座敷を出て、階段をおりた。
 お梅も気がかりなため、あとについて階段をおり、中仕切りのところで様子をうかがう。
「おや、銀さんか」
 粂之助は店先の男を見て、明らかに動揺していた。
 銀次郎が苦々しげに言った。
「コウ、粂さん、おのしのところへ、おとといも、きのうも行ったが、内にはいねえ。きょうはどうでも話をつけようと、方々を尋ねまわって、どうもここにいるらしいと見当をつけてきた。あんまりじやァねえか。そりやァ、女郎買いをするのもいいが、あんまり友達を茶にしねえがいいぜ。ぜんてい、先月の十五日までというのを三十日まで延ばし、それからさらに延ばして、おとといまでには必ず返すといったじやァねえか。それを、おとといから家にもいないで、女郎屋に居続けとは、なかろうぜ」
「おめえが腹を立てるのももっともだ。じつは、アテにしていたところが駄目になって、それでつい」
「知っている通り、おめえに貸した金はそもそもおいらの身金じやァねえ。このままだと、おいらが使い込みをしたように思われる。今夜のうちに、ぜひ工面をしてもらはねえけりやァならねえ」
「今夜といっても。できないものは、仕方がないわな」
「仕方がねえと言いやァすむかえ。馬鹿馬鹿しい」
 銀次郎が声を荒らげる。
 加助が横からなだめた。
「モシ、そんなに声高におっしゃらずとも、わかりそうなこってございます。それに、見世先で人聞きも悪うございますから、静かになすってくださいまし」
 お梅が出てきて、
「コレ、粂さん、二階にしなせえ。モシ、おめえさんも、わっちの部屋でお話し合いをなさいまし」
 と、粂之助と銀次郎をうながす。
 二階の座敷にふたりを座らせると、お梅が言った。
「モシエ、女の身で差し出がましいようだがネ、こちらの腹ァ立てなさるのも無理はねえ。粂さんの言いようが悪いわナ」
 粂之助も殊勝に謝った。
「銀さん、了見してくんねえ。おいらも、困りきって、つい」
 銀次郎は渋面のままである。
「了見するも何も、どうしてくれる気だよ」
「とてものことに、あすの昼まで待ってくんなさらねえか。それまでにやァ、工面をしよう」
「明日の昼までに、みんなできるか」
「みんなは難しいが、半金はどうにかしようから」
「ハテ、困ったもんだ。しかし、無理にというのも野暮催促だ。そんなら、あすの昼までに、半金はきっとこせえてくんねえ」
「そりやァ、間違いねえ」
「では、あす会おう」
 銀次郎が立ち上がる気配を見せた。
 お梅があわてて、引き止める。
「お寒いから、お待ちなさいまし。すぐに、燗ができますから」
 粂之助も勧める。
「ホンニ、いっぺえ飲んでいきねえ」
 銀次郎は馴れ合いになるのを警戒しているのか、硬い表情をくずさない。
「イヤイヤ、酒は飲まねえ」
 断わって立ち上がろうとするのを、「まあ、まあ」と、ふたりでどうにかひきとどめた。
 階下から、お梅が頼んでいた銚子と硯蓋が運ばれてきた。
 お梅が酌をして酒を勧めるが、もとより話がはずむはずもない。銀次郎はむっつりしているし、粂之助も元気がなかった。
 銀次郎はお義理に数杯飲んだだけで、
「サアサア、モウ帰りやしょう。長居をして、とんだご馳走になりやした。そんなら粂さん、あす」
 と、さっさと帰っていった。

                            (続く)


第25話 内藤新宿V(その三)

 銀次郎が去ったあと、粂之助は黙ってうつむいている。
 お梅が声をかけた。
「粂さん、あんなことを言って、返すアテがあるかえ」
 粂之助が吐き捨てるように言った。
「何のアテがあるもんか。アア言わねえと、おさまりがつかねえからサ」
「どうするつもりだえ」
「どうにもこうにもならねえ。あすはあすの風が吹こうわさ。ただ、親父に知れると、勘当ということにもなりかねねえ。ここを一番困っているよ」
「返す金はいくらばかりだえ」
「みんな返せば五両だが、まず二両もやればいい」
「二両くらいなら、どうぞわっちが算段してみよう」
 粂之助は驚いてお梅を見た。
「算段しようだと。おめえにそんなことをさせては気の毒だ」
「気の毒なんぞと、他人がましい。女房が亭主のために苦労するのは当たり前じやァないか」
「おめえの今のことば、一生忘れねえぜ。今度ばかりは、俺も誠に困りきっている。どうぞ、工面をしてみてくりゃ」
「わっちがアテというのは、牛込から来さっしゃる宗悦さんか、茶屋の山城屋から来さっしゃる忠さんか。このふたりに文でもやって無心をするから、そんなに気に病みなさんナ」
 そのとき、加助が廊下から呼んだ。
「お梅さん、ちょっと」
 お梅が廊下に出る。
「今、山城屋からネ、『忠さんがおいでなすった』と、言ってめえりやした」
「ナニ、忠さんが来なすったと。本当か」
 まさに、噂をすれば影だった。
 加助はずかずかと座敷に入ってきて、
「モシ、粂さん、お気の毒ながら、どうぞここをお明けなすってくださいまし」
 と、粂之助を追い出しにかかる。
「おいおい、俺はどけえ行くのだ」
「下座敷でございます。ご案内いたしましょう」
 加助は手早く座敷内を片付け、銚子や杯などを盆に載せると、粂次郎を連れて階下に向かう。
 ややあって、山城屋の案内で登楼した忠左衛門が座敷に入ってきた。
 歳のころは三十二、三歳で、恰幅がいい。黒七子の羽織を着て、厚板錦の帯を締め、ほろ酔い加減である。あとに芸者ふたり、幇間ふたり、それに山城屋の女将や若い者などを従えるという大一座である。
 福田屋の若い者が酒や肴をどんどん運びこむ。
 いったん着替えたお梅も座敷に現われ、あいさつした。
「おや、忠さん。みな、おそろいだね」
 幇間が素っ頓狂な声をあげた。
「コレハ、お梅さんの御来臨だ。旦那、御酒はどうでございます」
「山城屋で豪儀と酔ったヨ」
 忠左衛門はそう言いながらも、鷹揚に杯を差し出した。
 芸者、幇間、山城屋の女将などがつぎつぎと酌をする。
 幇間のひとりが小咄を始めた。
「モシ、こういう話があります――」

 さるところに、さっぱり女にもてない醜男がいた。
 男はつらつら思うよう、「俺も一生のうちに一度は生娘としてみたいものだ」と。
 いろいろ思案するうち、近所になんとも不器量な娘がいるのに目をつけた。
「あの女であれば、よもや男としたことはあるまい」
 掛け合ってみると、女はすぐに承知して、いついつの晩、どこどこでと逢引の約束をした。
 さて、その晩、女としたところが、取り回しの按配など、どうも初めての様子ではない。そこで、女に尋ねた。
「おめえは初めてであろうと思っていたに、初手ではないようだな」
 女はこう答えた。
「どなたも、そうおっしゃるよ」

 座敷は大笑いとなった。
 ひと笑いしたところで、幇間が芸者に言った。
「ときに、商売をちと身にしみて、三味線を出すという法にしようじゃねえか」
「アイ」
 芸者が三味線を弾き、幇間がめりやす、潮来節などを唄う。
 もう、ドンチャン騒ぎである。そんななか、お梅だけはひとり浮かない顔をしていた。
                            (続く)



第25話 内藤新宿V(その四)

 芸者や幇間、それに山城屋の女将と若い者は引き上げる。
 女将が最後にあいさつをした。
「忠さん、ごきげんよう。お梅さん、さようなら」
 お梅は「アイ」と言っただけで、ふさいでいる。
 忠左衛門が女将に言った。
「コウ、あすの朝は、いつもより少し早く迎いに来てくりゃれ」
「ハイ、ハイ」
 若い者の加助が手早く座敷を片付け、寝床の準備をした。
 加助が去ると、寝床の上で忠左衛門とお梅の差し向かいである。
 酔った忠左衛門が上機嫌でいろいろと話しかけるが、お梅は生返事ばかりして、心ここにあらずという様子である。 
 廊下から、女中が呼んだ。
「お梅さん、お梅さん、ちょっと」
 お梅は廊下に出て、女中とひそひそ声で話をしていたが、座敷に戻ると、独り言を言った。
「じれってえよ」
「おめえ、客があるか」
「伊勢屋から来た初会さ。ちょっと行ってくるよ」
 お梅はそう言い、座敷から出て行った。
 しばらくして戻ってきたが、なんとなくソワソワしていて、落ち着かない。
 忠左衛門もさすがに機嫌を悪くした。
「コウ、お梅、羽織を出してくりゃ」
「どうしなさるえ」
「帰るからさ」
「いま時分、なぜえ」
「なぜでもサ。いいから、羽織を出してくりゃと言うに」
「ぬしやァ、腹を立てなすったね」
「ナニ、腹は立たねえが、用があるからさ」
「嘘をつきなせえ。ナニ、用があるもんか。わっちがソワソワしているから腹を立てなすったろうが、これにやァわけがあるよ」
「わけがあると。そりやァどういうことだ」
「どうも、ぬしにやァ言いにくいからさ」
「言いにくくても、言わねえじゃ、わからねえわえ」
「そんなら言うがネ。愛想をつかしなさんなえ。あのう……、いっそ恥ずかしいよ」
「なんだ、おもしろくもねえ」
 忠左衛門がいらだった。
 お梅も思い切って打ち明ける。
「アノネ。こうだわな。いつかぬしにもお目にかけた、わっちがこしらえた玳瑁の簪と櫛さ。あの代を、きのうまでに払うはずのところ、おっ母さんの病気やなにやらで、都合が悪くなってね。もうちっと待ってくだせえと頼んでいるのだが、きょうじゅうに払えという催促。さっきの伊勢屋から来た客というのは、じつは小間物屋の催促さ」
「そんなことなら、早くそう言えばいいに。そして、その金というのは、いくらだ」
「おめえさんがそんなに親切に言っておくんなさると、わっちゃあ身を切られるよりつらいがネ。朋輩衆の前で、小間物屋に言いたい放題を言われて、外聞が悪くって、悔しくってならねえわな。以前にもご無心を言って、またこんな話を申しちやァ、おめえさんがどう思いなさろうかと、恥ずかしくってならねえわな」
 お梅はもじもじしている。
 忠左衛門が声を高めた。
「なんとも思うもんか。コウ、いくらだと言うに」
「簪と櫛と、そのほかにちっと残りがあるから、合わせて二枚あればいいがネ」
「二両か。おおかた、あろうて」、忠左衛門は鼻紙袋のなかをさぐり、一分金を八つ取り出し、「サア」と、懐紙に包んで渡した。
「誠に、おありがとうございます。これを持って行って、小間物屋に見せつけてやろう」
「ここに呼んで、払えばいいのに」
「商人は二階へ上がることはなりませんからサ。ホンニ、人を見くびりやァがって。憎いといっちゃあねえよ。この金を、顔に叩きつけてやろう」
 お梅は金をふところに収めるや、決然とした顔で座敷を出て行った。
 カツチ、カツチと、不寝番が八ツ(午前二時ころ)の拍子木を打つ。

                             (続く)


第25話 内藤新宿V(その五)

 按摩の笛の音や、「蕎麦ぃ、蕎麦ぃ」の呼び声も絶えた。
 すでに福田屋も寝静っている。
 遠くから犬の遠吠えと、「火の用心さっしゃりましょう」の声が風に乗って聞こえてきた。
 階下の下座敷に押し込められた粂之助は、襖ひとつ隔てただけの隣りの部屋に寝ているお茶引き女郎の高鼾が耳について眠られず、ひとりぽつねんと火鉢に向かっていた。
 そっと障子を開けて、お梅が座敷に体をすべり込ませてきた。
「粂さん、おさみしかったァろう。その代わり、お土産がある。コレ、こまかいのが八つあるよ」
 粂之助は懐紙を広げ、一分金が八個あるのをたしかめた。
「コリャありがてえ。誠によくしてくれた。これで俺の顔も立つというもんだ。とは言うものの、勤めの身にこんなことをさせて、申し訳ない。この恩は一生忘れないよ」
「わっちゃあ、恩に着せようと、こんなこたァしねえわな。年季が明けたら、ぬしのとこへ行っていろいろな苦労をする、その稽古をしているのだものを。一生忘れねえの何のと、他人がましいことを言いなさんな」
「もしも、おめえがおいらのとこへ来て、こういう苦労ばかりしたら、そのときはよせばよかったと思うだろう」
「ナニ、それはないのさ。惚れた男のそばにいるのだもの。どんなにせつねえ暮らしでも、ちっともいとやァしねえよ」
「そりやァそうと、おめえ、忠さんとやらのとけへ行かねえでもいいのか」
「取るものを取ったら、さっぱりその気がなくなったよ」
「そりやァ悪い了見だ。あっちも大事にするがいい。行きねえ、行きねえ」
「邪魔になさるネ。ここにいちやァ悪いかえ」
「邪魔にするわけじゃねえが、あっちは結構なお得意さまだからさ」
「この金を手にするまでには、てえてえ気骨を折ったことじやァねえから、ここでちっと休ましてくんなせえ」
 お梅は夜着のなかに体を入れると、手をのばして、枕元の屏風を引き回した。
「ぬしも、そんななりをしていないで、本当に寝なせえな」
 粂之助も火鉢のそばを離れ、夜着にもぐりこむ。
「肩から風が入って、寒いね」
「もっとこっちへ寄りやァ」
 粂之助はお梅を抱き寄せ、手で裾をめくった。内心では食傷気味だったが、女の尽力に対して褒美をあたえるくらいのつもりだった。ここは一番、たっぷりとよがらせてやらねばなるまい。
 ことが終わると、商売抜きで気をやったお梅はぐったりと横たわっている。
 粂之助は起きる気配を見せた。
「モウ、帰ろう」
「早くはないかえ」
「早いほうがよかろう」
 粂之助は寝床を抜け出すと、身支度を整え、羽織を着て座敷を出た。あとから、お梅が従う。
「いつ来なさるえ」
「四、五日のうちに来よう」
「そんなら、あの銀さんとやらによく頼んでネ。そして、お父っさんに知れねえようにしなよ」
「うむ、うむ」
「必ず短気なことを言わず、銀さんに残りの金は待ってもらいナ」
「承知だよ」
「加助どん、加助どん、粂さんが帰らっしゃるよ」
「ハイハイ、まだ、とんだお早うございます」
 若い者の加助が、寝床から起き出してきた。はれぼったい目をして、寒そうに肩をすぼめている。
 加助があずかっていた脇差を渡し、履物をそろえ、潜り戸の錠を開けた。
「お世話、お世話」
「また、お近いうちに」
 加助が潜り戸をガラガラと開け、粂之助が外に出る。
 お梅は潜り戸から顔だけのぞかせ、後ろ姿に声をかけた。
「粂さん、粂さん」
「なんだ」
「モウいっぺん、顔を見せていってくんな」
 粂之助が唇をゆがめて笑顔を作った。
 お梅はそんな男の顔を見ながら、なぜか急に胸にこみ上げてくるものがあった。一種の勘だった。そっと「粂さん」と、つぶやく。思わず涙がにじんだ。

                            (続く)


第25話 内藤新宿V(その六)

 内藤新宿の四谷寄りに、「から汁」と書いた置き行灯がずらりと並んで、夜明け前の道を照らしていた。朝帰りの客を目当てとする茶店である。
 なかでも、繁昌しているのが大和屋だった。
 粂之助は大和屋という屋号を確認して、すっとなかに入るや、ためらいなく奥の座敷に進む。店の女中に、
「コウ、から汁一膳、出してくんな」
 と声をかけておいて、襖を開けた。
 座敷では、昨夜、福田屋に粂之助を訪ねてきた銀次郎がちろりを引き寄せ、手酌でちびりちびりと酒を飲んでいた。
「おう、粂さん」
「銀さん、おめえも夕ンべは遊んだか」
「遊ばねえでか。そりやァそうと、あの狂言はどうした」
「まんまと首尾よく。これ、見ねえ」
 粂之助はお梅からせしめた二両を、紙入れから取り出して見せた。
「奇妙、奇妙。山分けだぜ」
「とんだことを言う。そうはいかねえ」
「なぜ」
「おめえは金貸しになって威張っていたろうが、おいらァ若い者やなんやの前で恥をかかされた。それでふたつ割りじゃ、勘定に合わねえ」
「ハハハ。それでも、『おめえに貸した金はそもそもおいらの身金じやァねえ。このままだと、おいらが使い込みをしたように思われる』と、ぐっとやらかしたところは、よっぽどよかったろう」
 銀次郎が自慢した。
 粂之助もニヤニヤする。
「うまくいったぜ」
「その金を内へ持って帰るは野暮な理屈だ。なんと、これから昼遊びと、ぶっつけはどうだ」
「よし、増本へ行くべい」
 増本は、甲州街道と青梅街道が分岐する追分寄りにある女郎屋である。
「しかし、でいぶ明るくなったから、福田屋の前を通ってめっけられてはたまらねえ」
「駕籠に乗ろうか」
「それがいい、それがいい」
 すぐに相談はまとまる。
 粂之助はから汁はひと口すすっただけで、大和屋の主人に声をかけた。
「コウ、ご亭主、勘定は帰りに一緒にしやしょう」
 ふたりは、増本の帰りにも大和屋で腹ごしらえをするつもりだった。
 大和屋の主人も、粂之助と銀次郎は馴染み客であるし、昼遊びのあとにまた寄るつもりであることもわかっていた。
「よろしゅうございます」
「アイ、お世話」
 ふたりは大和屋を出ると、数軒隣りの駕籠屋に向かった。
「おい、頼むぜ。面倒ながら、二丁、出してくんな」
 店先の奉公人はあくびをこらえながら、
「ハイハイ。二丁、出らァ。松や勘次を起こしてきや」
 と、下女に命じた。
 しばらくして、二階から棒組がおりてきた。四人はみな、眠そうな目をしている。
 二丁の駕籠が用意され、ふたりが乗り込む。
 粂之助が乗った駕籠の先棒が言った。
「モシ、旦那、どけえやりますな」
「増本へやってくんな」
「かしこまりました」
 ごく近距離であるが、駕籠かき人足は別に不審そうな様子もない。遊里では、見栄を張って、あるいは顔を見られたくないなどの理由で、ほんの近所であっても駕籠を利用し、女郎屋の前に乗り付ける客は珍しくなかったのだ。
「ハイ、ハイ、ハイ、ハイ……」
 棒組が掛け声で呼吸を合わせながら、二丁の駕籠が福田屋の前を通り抜け、増本に向かう。

                              (終わり)

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