江戸の風俗八百八店

永井義男


第27話 柳橋

 柳橋は本来、神田川が隅田川にそそぎこむ、河口付近に架かっていた橋の名称であるが、一帯をさす俗称地名でもあった。むしろ、地名としてのほうが有名であろう。現在の東京都台東区と中央区にまたがった地域である。
 柳橋は江戸の水上交通の要衝であったことから、一帯にはもともと船宿が多かったが、江戸後期になると芸者置屋や料理屋が増え、花街となった。成島柳北著『柳橋新誌』を読むと、幕末から明治にかけて、柳橋が男の歓楽街になっていたことがわかる。船宿の二階座敷や料理屋の奥座敷で、金さえはずめば芸者は転んだ、つまり客と寝た。柳橋の芸者は実質的に売春婦だった。男女の密会の場所としても利用され、柳橋の船宿や料理屋は実質的なラブホテルでもあった。
 明治以降、船宿は廃れたが、芸者屋と料理屋はますます隆盛となり、柳橋は東京随一の花柳界となった。
 天保八年(一八三七)ころの柳橋である。


 料理屋「信濃屋」には、渡り廊下でつながった離れ座敷があった。
 座敷には昼間から布団と枕が用意されていて、金一分を渡せば女中が案内し、ことが終わって手を鳴らすまで、誰も寄りつかない。
 その離れ座敷では、秀蔵がお次を口説いている最中だった。
「コレサ、おめえはどうも、野暮を言う子だ。粋な柳橋にきて、野暮を言っちゃあいけない。マア、じっとしていなと言うのに。今夜、柳橋についてきたのは、てえげえ承知していながら」
 秀蔵は叱ったり、なだめたりする。
 お次はすでに帯を解かれ、着物の裾もまくられて太ももが露出してしまっているのだが、まだ抵抗していた。
「ナニ、おっ母さんに知れると悪い」
「おっ母ぁに知れたら、おめえを連れて逃げるだけよ。サア、もっとこっちへ寄んな。コレサ、また股座をつぼめるヨ。なぜ、そんなにいやがるだろう」
 秀蔵もやや持てあましていた。
 だが、女たらしとしては、こういう抵抗があればあるほど燃えるのである。ようやくだまして連れ込んだ処女である。それなりの抵抗がなければ、張り合いもないというものだった。
 また、いざとなれば駆け落ちするというのは秀蔵の殺し文句だった。これまで、この殺し文句で数多くの女を落としてきたが、まだ駆け落ちをしたことはない。というより、駆け落ちをする気など毛頭なかった。
 秀蔵は、実家は商家であるが、家業には身が入らず、女遊びに日を送っていた。実家で親の脛をかじっているからこそ、ぶらぶら遊び暮らしても食っていけるのである。駆け落ちして実家を離れたら、女を養う生活力などなかった。
「それでも、なんだか怖いものを」
 お次が最後の抵抗をした。
 といっても、ことばだけである。男の最後のひと押しを、心のどこかで望んでいた。
「なァに、怖いのは最初のうちだけだ。ヤ、どっこい、ソレ、指が入った。そんなにブルブルふるえなさんな。しかし、新開(あらばち)は、ここがありがてえのう。どうだ、痛かァあるめえ」
 秀蔵は指一本を挿入しながら、女を安心させる。
「ええ」
「ちょいとだけ、ちんぼを入れてみようか。な、もし痛けりやぁ、すぐやめるから。なッ」
「どうとも」
 お次は恥ずかしげに答え、ついに股をひらいた。
 いっぽう、こちらは信濃屋の隣りにある船宿「田代屋」である。二階の座敷で、亭主持ちのお伸と、間男の元吉が密会していた。
 船宿の二階座敷では、猪牙舟で吉原にかよう客が行き帰りに、あるいは屋根舟で川遊びを楽しむ客が行き帰りに飲食をする。吉原の女郎と客の手紙の中継をするのも船宿の役目である。そのほか、密会の男女のためにも座敷を提供していた。
 元吉とお伸は、田代屋の二階座敷をもっぱら密会に利用していたのだ。
 窓の外は神田川である。
 障子はぴたりと締めきっていたが、それでも、
「おーい、どけえ行くぅ」
「山谷堀だぁ」
 などと、行き交う舟の船頭が呼びかけ合う声が聞こえてくる。
 まずは一戦を終え、お伸はしどけないかっこうのまま、
「きょう会って、またいつ会われるか知れねえ思えば、わちきやァいっそ悲しくなったヨ。知らぬ昔が、気が楽だねえ」
 と、しみじみ述懐する。
 といっても、いつもの口説である。男の気を引くためでもあった。離縁しないかぎり、元吉と一緒になることはできないことはわかっていた。それでいながら、いまの夫と離縁する気はさらさらなかった。
 元吉は女の乳房をもてあそびながら、
「ナニ、まだどうにか一法をつけて、会われるようにするハな。しかし、亭主というものは、どんな野暮天であろうが醜男であろうが、ほかの男より可愛いということだから、これから帰って抱かれて寝たら、俺がことなんぞは忘れてしまうだろう」
 と、拗ねてみせる。
 これも、いつもの口説である。
 嫉妬してみせるわけだった。
 いわば、人目を忍んだ仲を刺激する薬味といってもよかろう。
「ヘン、そんな浮気者じやァございません。たいがい、知れそうなものだよ。じれってえヨ」
 お次が元吉の股間に手をのばした。
 おたがいに運命を嘆いたり、嫉妬してみたりすることで興奮も高まる。
 これから、いよいよ二戦目の開始である。
 柳橋の料理屋の奥座敷や船宿の二階座敷では、きょうも昼間っから、わけありの男女が交合していた。

                            (終わり)
第28話へ


ご意見ご希望、どうでもいいお話も  くろにかメール まで