第34話 品川宿W(その二)
やくそくも年ン明キ前は蜘の糸
藤屋という小見世の座敷である。 客の吉蔵は職人で、年のころは三十歳くらい。玉紬の広袖に、八端織の帯を締めていた。寝床の上に大あぐらをかき、三味線を爪弾きして、二上がり新内を口ずさんでいる。 「ぬしを帰したそのあとで、夜着にもたれて独り言、しかけの遣り繰り…… 相方女郎のお七は、吉蔵の馴染みだった。二十五、六歳の年増である。脂染みた縞縮緬の寝巻に、黒びろうどの帯をぐるぐる巻きにしていた。 お七は火鉢にかけた小鍋で、客が食べ残した肴の残りをグツグツ煮ている。 そばで、朋輩女郎のお杉が愚痴った。 「ほんにさァ、霜枯れ三月は往生さ」 「しっかりしやな。うしろに、吉さんという大尽がついておいでなさらァ」 吉蔵の太平楽に、お七が言った。 「大尽が聞いてあきれらァ。マア、三味線はいい加減にして、一杯呑みねえな」 「そいつァ奇妙だ。ドレ、あおるべい」 と、茶碗を差し出す。 お杉が酒をついでやった。 三人がてんでに箸を出し、鍋をつついて食べ始めた。 そのとき、階下で若い者の、 「お客だよーう」 という声がした。 「ほう、ちょっと行ってこよう」 お杉が箸を置いて立ち上がる。 「へん、欲張るもんだの」 吉蔵が憎まれ口を利いた。 「エエモ、憎い」 お杉は吉蔵の背中をたたくと、階下におりていった。 お七が言った。 「あの子は、おめえさんに惚れてるよ」 「あきれけえらァ」 「一杯、茶づりな」 「ウンニャ、飯はよすべえ」 「酒ばかりじやァ、毒だに。そんなら、わっちが一杯やろう」 お七が飯を食べ始めた。 吉蔵が茶化す。 「てめえ、飯もいけるか。あきれらァ。二、三日お茶ァ挽いて、お部屋で喰止でもされたと見える。ヤレヤレ、不憫や土瓶やだ」 「お部屋」とは、宿場の女郎屋の楼主のこと、「喰止」とは稼ぎの悪い女郎に食事をさせない制裁である。 「よしねえ、不景気な。こっちやァ、モウ、色気より食い気サ」 「そのはずだァ。世が世なら、孫の守りでもする歳だァ。ちょっと、ほぞを抜いてくるべえ」 吉蔵が立ち上がる。 お七は楊枝を使いながら言う。 「手水か」 「お供しねえのか。不精なあまだ」 吉蔵は座敷を出て、便所に行った。 しばらくして戻ってくるや、障子をがらりと開けながら、毒づいた。 「いめえましい。なんだか踏んづけたァ。犬の糞だろう。コレ、嗅いでみてくれェ」 「馬鹿ァ言いなんすな。二階に犬がいるもんか」 吉蔵は行灯の明かりですかして見て、 「紙くずだァ。畜生め、子だねがくっついてらァ」 と、精液がにじんだ紙切れを敷居にこすり付けた。 「エエ、汚ねえことをすらァ。ソレサ、障子をしっかりと閉めな」 「小便に行ってきたら、素敵と寒くなった」 襦袢ひとつになった吉蔵は、寝床に飛び込むと夜着を引っかぶった。首だけ出して、周りに立てめぐらした屏風をながめる。 「この屏風も久しいもんだ。宿屋の雪隠を見るようにまんべんなく書きやがったが、ろくな手はひとッつもねえ」 「おめえさんには読めめえ」 「ヘン、読めねえでよ。こっちは、みみずという字だ」 お七は笑いながら、夜着にもぐりこんできた。 「冗談はおいて、わっちも来年の春は年季明けだよ。もう、飽き飽きしやした」 「てめえもそのくらい大店に辛抱したら、いまごろは蔵の三つも建ったろうに、惜しいことだの」 「ほんに、考えてみると、年がら年中、お部屋と高島屋の奉公ばかりしているよ」 高島屋は、品川宿の質屋である。 「その代わり、来年からァれっきとした吉さんの奥様だァ。そのときは、人の面ァ見返すがいい」 「見返すが聞いてあきれらァ」 「この古狸め」 吉蔵が手を、股のあいだに差し入れた。 もう、おたがいに知り尽くしている間柄である。 「アレサ、マア、こうしてヨ」 お七は、男の好みをしてやる。 屏風の内は静かになった。 (終わり) 第35話へ |