江戸の風俗八百八店

永井義男


第34話 品川宿W(その一)

 品川宿はなにかにつけて吉原と対比されたほどで、女郎屋の数も多かったし、値段にもピンからキリまでかなりの幅があった。俗に「土蔵相模」と称された大見世もあり、幕末期に高杉晋作ら長州藩士が登楼して、倒幕の謀議をこらしたことで有名である。川島雄三監督の映画『幕末太陽伝』(昭和三十二年)は、この土蔵相模を舞台にしていた。
 天保三年(一八三二)ころの品川宿である。

 傾城にかわいがられて運の尽

 四ツ(午後十時ころ)の鐘がボオン、ボオンと鳴った。
 大見世の竹田屋の座敷では、すでに酒宴が終わって芸者や幇間、茶屋の女将も引き取り、寝床が用意されていた。
 客がひとりで、女郎が来るのを待っている。
 年のころは二十歳くらいで、なかなかの色男だった。京縮緬の藍微塵の上着に、媚茶小緞子の帯を締めている。獅噛火鉢にもたれ、火箸で灰に「丸にの」の字を書いたり、消したりしていた。酒はあまり呑めないたちと見えて、酔って少し苦しそうだった。
 そこへ、女郎が現われた。
 十八、九歳くらいで、藤鼠の山繭の小袖に鯨帯を締めて打掛を羽織り、手には御簾紙を持ち添えていた。座敷に入ってくるや、行灯の明かりが届かない暗い場所に座った。いかにも、初会の客との床入に恥らっている様子である。
「モシ、今宵はいっそ寒うございますね。上着を取んなましな」
「あい」
 客が素直に上着を脱いだ。
 女郎は上着をたたみ、床の間に置かれていた羽織に重ねた。
「わっちやァ、豪勢にのぼせやした」
「そうざいますか。気色が悪うございすか」
「なにサ、呑めねえ酒を過ごしやしたから、せつなくってなりやせん」
「薬をあげんしょう。呑んでみなまし」
 女郎が箪笥の引き出しから紫金錠を取り出して男に渡し、枕もとの白湯を湯飲みについでやる。
 客は紫金錠を噛み、白湯で飲み下した。
「こりゃあ、ありがとうございやす。おかげで、心持ちが治りやした」
「チット、横になりなましな」
 女郎は枕を出して客を寝かせると、自分も打掛を脱いで寝巻き姿になった。客のそばに横たわると、ふたりの上を夜着でおおう。
「モシエ、きょうはどこへ行きなんしたえ」
「金賀さんに誘われて、海晏寺サ」
 海晏寺は品川宿にほど近い寺で、紅葉の名所である。
「あの金賀さんは、おまはんの何でありますエ」
「俳諧の友達さ。金賀さんは、ここへよく来るだろう」
「ああ、よく来なますよ。おまはんもこれをご縁に、ちっと来なましな」
「ちっととは恨みだね。これからは、たんと来るのさ」
「オヤ、嘘にもうれしい。おまはんのところは、どこでありますエ」
「金賀さんの近所サ」
「それでは、新橋とやらでありますエ」
「さようサ」
「さだめて、おかみさんがありんしょう」
「まだ、なしサ」
「おや、うれしいよ」
 女郎がにっこり笑いながら、客の体に抱きついた。
「なぜえ。なけりやァ、どうするのだえ」
「どうでもようありいす。ちっと、胸にありますのサ」
「羽織の紐のようだネ」
「オホホ、いっそ洒落なますヨ。モシエ、おまはん、こっちへたびたびおいででしょうネ。どこの見世へ行きなますエ」
「ついに来ずサ。一度、大師の帰りに、湊屋に行きやした」
 大師とは、厄除大師として知られる川崎大師のことである。
「それからたびたびざましょう」
「初会かぎりさ」
「実なしだねエ。わちきなんぞも、きっと初会ぎりざいましょう」
「よそはともかく、おまえには……」
 客は口ごもって気を引いたあと、わざとらしくあくびをした。
「アア、眠い、眠い」
 と、横を向く。
 内心では、女郎が自分に気があるとうぬぼれていた。恋の駆け引きをして、女を手玉に取っているつもりである。
「オヤ、厚かましい。今夜は寝かしやァしませんヨ」
 女郎がひしと抱きつき、片手を男の裾に入れた。
 その拍子に、頭から簪が落ち、枕もとの茶碗にあたってチンチラリンと鳴った。
 女郎はさも客に夢中になったかのようであるが、もちろん演技だった。女郎を手玉に取った気にさせて、じつは女郎が客を手玉に取るのである。

                               (続く)


第34話 品川宿W(その二)

 やくそくも年ン明キ前は蜘の糸

 藤屋という小見世の座敷である。
 客の吉蔵は職人で、年のころは三十歳くらい。玉紬の広袖に、八端織の帯を締めていた。寝床の上に大あぐらをかき、三味線を爪弾きして、二上がり新内を口ずさんでいる。

「ぬしを帰したそのあとで、夜着にもたれて独り言、しかけの遣り繰り……

 相方女郎のお七は、吉蔵の馴染みだった。二十五、六歳の年増である。脂染みた縞縮緬の寝巻に、黒びろうどの帯をぐるぐる巻きにしていた。
 お七は火鉢にかけた小鍋で、客が食べ残した肴の残りをグツグツ煮ている。
 そばで、朋輩女郎のお杉が愚痴った。
「ほんにさァ、霜枯れ三月は往生さ」
「しっかりしやな。うしろに、吉さんという大尽がついておいでなさらァ」
 吉蔵の太平楽に、お七が言った。
「大尽が聞いてあきれらァ。マア、三味線はいい加減にして、一杯呑みねえな」
「そいつァ奇妙だ。ドレ、あおるべい」
 と、茶碗を差し出す。
 お杉が酒をついでやった。
 三人がてんでに箸を出し、鍋をつついて食べ始めた。
 そのとき、階下で若い者の、
「お客だよーう」
 という声がした。
「ほう、ちょっと行ってこよう」
 お杉が箸を置いて立ち上がる。
「へん、欲張るもんだの」
 吉蔵が憎まれ口を利いた。
「エエモ、憎い」
 お杉は吉蔵の背中をたたくと、階下におりていった。
 お七が言った。
「あの子は、おめえさんに惚れてるよ」
「あきれけえらァ」
「一杯、茶づりな」
「ウンニャ、飯はよすべえ」
「酒ばかりじやァ、毒だに。そんなら、わっちが一杯やろう」
 お七が飯を食べ始めた。
 吉蔵が茶化す。
「てめえ、飯もいけるか。あきれらァ。二、三日お茶ァ挽いて、お部屋で喰止でもされたと見える。ヤレヤレ、不憫や土瓶やだ」
 「お部屋」とは、宿場の女郎屋の楼主のこと、「喰止」とは稼ぎの悪い女郎に食事をさせない制裁である。
「よしねえ、不景気な。こっちやァ、モウ、色気より食い気サ」
「そのはずだァ。世が世なら、孫の守りでもする歳だァ。ちょっと、ほぞを抜いてくるべえ」
 吉蔵が立ち上がる。
 お七は楊枝を使いながら言う。
「手水か」
「お供しねえのか。不精なあまだ」
 吉蔵は座敷を出て、便所に行った。
 しばらくして戻ってくるや、障子をがらりと開けながら、毒づいた。
「いめえましい。なんだか踏んづけたァ。犬の糞だろう。コレ、嗅いでみてくれェ」
「馬鹿ァ言いなんすな。二階に犬がいるもんか」
 吉蔵は行灯の明かりですかして見て、
「紙くずだァ。畜生め、子だねがくっついてらァ」
 と、精液がにじんだ紙切れを敷居にこすり付けた。
「エエ、汚ねえことをすらァ。ソレサ、障子をしっかりと閉めな」
「小便に行ってきたら、素敵と寒くなった」
 襦袢ひとつになった吉蔵は、寝床に飛び込むと夜着を引っかぶった。首だけ出して、周りに立てめぐらした屏風をながめる。
「この屏風も久しいもんだ。宿屋の雪隠を見るようにまんべんなく書きやがったが、ろくな手はひとッつもねえ」
「おめえさんには読めめえ」
「ヘン、読めねえでよ。こっちは、みみずという字だ」
 お七は笑いながら、夜着にもぐりこんできた。
「冗談はおいて、わっちも来年の春は年季明けだよ。もう、飽き飽きしやした」
「てめえもそのくらい大店に辛抱したら、いまごろは蔵の三つも建ったろうに、惜しいことだの」
「ほんに、考えてみると、年がら年中、お部屋と高島屋の奉公ばかりしているよ」
 高島屋は、品川宿の質屋である。
「その代わり、来年からァれっきとした吉さんの奥様だァ。そのときは、人の面ァ見返すがいい」
「見返すが聞いてあきれらァ」
「この古狸め」
 吉蔵が手を、股のあいだに差し入れた。
 もう、おたがいに知り尽くしている間柄である。
「アレサ、マア、こうしてヨ」
 お七は、男の好みをしてやる。
 屏風の内は静かになった。

                            (終わり)
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