江戸の風俗八百八店

永井義男


第35話 吉原Z(その一)

 岡場所や宿場の女郎屋は割床、つまり相部屋が普通だった。ひとつの部屋を屏風で仕切っただけで、数組の客と女郎が房事をおこなった。
 吉原でも割床は珍しくはなかったが、さすがに大見世の上級女郎になると個室をあたえられているため、客と女郎のふたりきりになれる。しかし、プライバシーが守れるということではない。隣室との境は襖だし、廊下との仕切りは障子である。襖も障子も紙製であり、防音効果はほとんどなかった。室内の声や物音は筒抜けとなるため、他人に聞かれたくない話は、声をひそめてしゃべるしかなかった。
 文政十一年(一八二八)ころの吉原である。


 桂屋の奥座敷では、女郎の照代と情男(イロ)の秀次郎が涙にむせんでいた。
 秀次郎は吉原遊びが過ぎて勘当され、いまは伯父の家に預けられている身である。今夜はどうにか伯父をごまかし、久しぶりで会いに来たのだが、茶屋などに借金がある。この借金をどうにかしないかぎり、もう二度と桂屋にはあがれない。今夜が、おたがいに顔の見納めになるかもしれないのだった。
 照代が男の顔を見て、しみじみと言う。
「これもみんな、わたしゆえ。好いたが因果。なぜ、こんなに惚れさせなんした」
「そんなら、なぜ迷わした」
 秀次郎が女を引き寄せる。
 隣りの女郎屋の二階座敷から、新内が聞こえてきた。

「朝の帰りもまだ早い、もう一服とだきしめし、その言の葉が居続けと、しげりしゆえにお前の身、仇となしゆく悲しやな、許してくださんせ八っぁんト

 その文句は、まさに身につまされる。照代は男の胸にすがり、
「あの新内を聞くにつけ、わたしという者ないならば、こうした身にはなりいすまいに。わたしゃ、いっそ死にたい」
 と、泣き伏す。
 秀次郎も自暴自棄になっていた。
「では、死んでくれるか」
「アイ、もとよりその覚悟。では、このカミソリで」
 ふたりは心中を決意した。
 そこに、隣室との境の襖を開けて、朋輩女郎の梅路が飛び込んできた。
「待ちなんし。隣りで聞いていて、わたしも泣いておりいしたが、それほどのことならば、なぜわたしに相談しておくんなんせん、照代さん」
「そう言うておくれなんすほど、嬉しゅうて悲しゅうて、胸いっぱい」
 照代はうつむいて涙を落とす。
 秀次郎も身もだえしながら言った。
「梅路さん、面目もなきこの次第。お世話はまことに嬉しいけれど、相談もせぬは、おまえにまで苦労をさせるがつらいゆえ」
 梅路はふたりを叱ったり、なだめたりしながらも、当面の解決策としては、秀次郎の借金を帳消しにすればよいのだと教えた。
「あの徳八さんに頼みなんしたら、五両や八両の金はできそうなもの」
 徳八は、照代の馴染み客のひとりであり、今夜も登楼していた。照代は徳八を寝床に置き去りにして、秀次郎と語らっていたのだ。
「徳さんも、秀さんのことは知っておいでなんすから……」
 照代もためらった。さすがに、情男のための金策を徳八に頼むわけにはいかない。
 梅路が声をはげました。
「これ、照代さん、気をしっかり持ちなんし。徳さんに頼むと思えばこそ腹も立ちなんしょうが、秀さんのためじゃと思うて」
「なにごとも、秀さんのためなれば」
 照代もついに納得した。
 さっそく、ふたりはひたいを寄せて策を練る。
 そばで聞きながら、秀次郎もさすがに渋った。
「いかに手詰めの難儀の身とはいえ、人の物を盗っては……」
「なにも盗みをするのではおっせん。客人が得心づくでくれるように、仕向けるのでおす。気の弱いことをお言いなんすな。
 さあ、照代さん、徳さんのところに行きなんし」
 梅路は、秀次郎のためらいを叱りつけ、照代には徳八の待つ座敷に早く行くよううながした。

                              (続く)


第35話 吉原Z(その二)

 徳八は三十七、八歳である。
 その徳八も、今夜はよだれをたらさんばかりだった。照代が、これまでにないほど情熱的であり、技巧のかぎりをつくしてくれたのだ。「ついに、俺の心意気に惚れたのだろうか」と、うぬぼれも生じていた。
 隣室から、襖越しに梅路が呼んだ。
「照吉さん、ちょっと来ておくれなんし」
「梅路さんか。よければ、ここへ来て言いなんし。徳さんだから、気兼ねはありいせん」
「悪いはな。どうぞ、ちょっと来ておくれなんし」
「では、ちょっと、行ってきいすよ」
 照吉は寝床を抜け出し、隣室に向かった。
 徳八は興味津々である。おそらく、正月用の衣装の相談であろうと察した。そっと寝床を抜け出すと、よつんばいになり、襖に耳をあてた。
 やはり徳八が想像したとおり、ふたりは小声で正月用の衣装にかかる費用のことを話し合っていた。
 照吉が言う。
「わたしもほしいけれど、今は金が……」
 梅路がそそのかす。
「徳さんに出してもらいなんし」
「それは言いにくうおす」
「なぜえ。もっと、こっちへおいでなんし。徳さんがもし、聞きなんしては……」
 徳八は息をひそめて聞き耳を立てていたが、ふたりはさらに向こうの座敷に場所を変える様子である。
 これからが肝心の話題のはず、聞き逃してなるものかと、徳八が襖を開こうとすると、ギシギシときしむ。
 枕元にあった飲みさしの茶碗を見つけ、残っていた茶をそっと敷居にたらした。襖は音もなく開く。
 徳八はよつんばいで隣室を横断すると、境の襖に耳を寄せた。
 ふたりはあいだにひとつ座敷をへだてて、もう話し声が漏れ聞こえる心配はないと安心しているのか、普通の声で話をしていた。徳八には、はっきりと聞き取れる。
「徳さんは、なんと言うてでおざんす」
 梅路が詰問していた。
 照代の口調は煮え切らない。
「イヤとは言いなんせんが」
「それでは、なぜ頼みなんせん。徳さんは男気がありいす。五両や八両くらい、どうとでもしてくれなんしょう」
「それでも……、察しておくれなんし」
「おまえさん、徳さんに惚れなんしたね」
「アイ、真実、惚れいした」
 照代が恥ずかしそうに答える。
「あの秀さんとは、どうなりいした」
「もう秀さんとは、きっぱり切れいした」
「だったら、それこそ徳さんに頼みなんし。ほかに、お客はありいすまい」
「おまえさんのように、お客はなし。よし、あるにせよ、おまえさんのように厚かましゅうは」
 梅路が声を荒らげた。
「わたしのようには厚かましゅうは言いなんせんか。それなら、どうとなりと、勝手にしなんせ」
 照代も、精一杯の気強さで答える。
「あいさ」
「その代わり、正月にあまりみすぼらしい格好はしておくれなんすな。外聞が悪うおすから」
 梅路が捨て台詞を吐き、立ち上がる様子である。
 照代が涙声で言い返した。
「一寸の虫にも五分の魂とか。わたしにも、意地がありいす」
 ふたりは決裂し、照代が戻る気配がした。
 徳八はあわてて、よつんばいで寝床に戻った。
 夜着を引っかぶり、熟睡しているようによそおったが、胸の動悸が激しい。まるで、夢を見ているようだった。あの照代が、自分に心底惚れているのである。これで、さきほどの商売ッ気を離れた乱れっぷりにも納得がいった。
 なまじ惚れているだけに、かえって金の無心ができないのだ。
 徳八は、照代の女心がいじらしかった。
(よし、金は俺が出してやろう)
 もう、心は固まっていた。
 徳八もそれなりの商家の旦那である。五両や八両くらいの金はどうにでもなる身だった。
(照代が寝床に戻ってきたら、盗み聞きしていたことなどおくびにも出さず、それとなく正月用の衣装を話題にして、気前よく十両くらいポンと出してやろう。そうすれば、照代が俺に首ったけになるのはもう間違いない)
 徳八は寝床で照代を待ちながら、胸をはずませていた。自分がまんまと手玉に取られているなど、思ってもいない。


                            (終わり)
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