徳八は三十七、八歳である。
その徳八も、今夜はよだれをたらさんばかりだった。照代が、これまでにないほど情熱的であり、技巧のかぎりをつくしてくれたのだ。「ついに、俺の心意気に惚れたのだろうか」と、うぬぼれも生じていた。
隣室から、襖越しに梅路が呼んだ。
「照吉さん、ちょっと来ておくれなんし」
「梅路さんか。よければ、ここへ来て言いなんし。徳さんだから、気兼ねはありいせん」
「悪いはな。どうぞ、ちょっと来ておくれなんし」
「では、ちょっと、行ってきいすよ」
照吉は寝床を抜け出し、隣室に向かった。
徳八は興味津々である。おそらく、正月用の衣装の相談であろうと察した。そっと寝床を抜け出すと、よつんばいになり、襖に耳をあてた。
やはり徳八が想像したとおり、ふたりは小声で正月用の衣装にかかる費用のことを話し合っていた。
照吉が言う。
「わたしもほしいけれど、今は金が……」
梅路がそそのかす。
「徳さんに出してもらいなんし」
「それは言いにくうおす」
「なぜえ。もっと、こっちへおいでなんし。徳さんがもし、聞きなんしては……」
徳八は息をひそめて聞き耳を立てていたが、ふたりはさらに向こうの座敷に場所を変える様子である。
これからが肝心の話題のはず、聞き逃してなるものかと、徳八が襖を開こうとすると、ギシギシときしむ。
枕元にあった飲みさしの茶碗を見つけ、残っていた茶をそっと敷居にたらした。襖は音もなく開く。
徳八はよつんばいで隣室を横断すると、境の襖に耳を寄せた。
ふたりはあいだにひとつ座敷をへだてて、もう話し声が漏れ聞こえる心配はないと安心しているのか、普通の声で話をしていた。徳八には、はっきりと聞き取れる。
「徳さんは、なんと言うてでおざんす」
梅路が詰問していた。
照代の口調は煮え切らない。
「イヤとは言いなんせんが」
「それでは、なぜ頼みなんせん。徳さんは男気がありいす。五両や八両くらい、どうとでもしてくれなんしょう」
「それでも……、察しておくれなんし」
「おまえさん、徳さんに惚れなんしたね」
「アイ、真実、惚れいした」
照代が恥ずかしそうに答える。
「あの秀さんとは、どうなりいした」
「もう秀さんとは、きっぱり切れいした」
「だったら、それこそ徳さんに頼みなんし。ほかに、お客はありいすまい」
「おまえさんのように、お客はなし。よし、あるにせよ、おまえさんのように厚かましゅうは」
梅路が声を荒らげた。
「わたしのようには厚かましゅうは言いなんせんか。それなら、どうとなりと、勝手にしなんせ」
照代も、精一杯の気強さで答える。
「あいさ」
「その代わり、正月にあまりみすぼらしい格好はしておくれなんすな。外聞が悪うおすから」
梅路が捨て台詞を吐き、立ち上がる様子である。
照代が涙声で言い返した。
「一寸の虫にも五分の魂とか。わたしにも、意地がありいす」
ふたりは決裂し、照代が戻る気配がした。
徳八はあわてて、よつんばいで寝床に戻った。
夜着を引っかぶり、熟睡しているようによそおったが、胸の動悸が激しい。まるで、夢を見ているようだった。あの照代が、自分に心底惚れているのである。これで、さきほどの商売ッ気を離れた乱れっぷりにも納得がいった。
なまじ惚れているだけに、かえって金の無心ができないのだ。
徳八は、照代の女心がいじらしかった。
(よし、金は俺が出してやろう)
もう、心は固まっていた。
徳八もそれなりの商家の旦那である。五両や八両くらいの金はどうにでもなる身だった。
(照代が寝床に戻ってきたら、盗み聞きしていたことなどおくびにも出さず、それとなく正月用の衣装を話題にして、気前よく十両くらいポンと出してやろう。そうすれば、照代が俺に首ったけになるのはもう間違いない)
徳八は寝床で照代を待ちながら、胸をはずませていた。自分がまんまと手玉に取られているなど、思ってもいない。
(終わり)
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