江戸の風俗八百八店

永井義男

2004年4月27日更新

第4話 谷中いろは茶屋

 東京都台東区谷中にある天台宗の寺、天王寺の境内にはかつて五重塔があった。幸田露伴の小説『五重塔』で有名であるが、この五重塔は昭和三十二年に焼失した。なお、天王寺は天保四年に改称したもので、それまでは日蓮宗の感応寺だった。江戸時代、天王寺(感応寺)の門前には谷中いろは茶屋と呼ばれる岡場所が栄えていた。いろは茶屋という名称の由来については、かつて茶屋が四十八軒あったことから、いろは四十八文字にちなんで名づけられたとも言うが、俗説であろう。つぎのような狂歌がある。

 もてなしもいろはの茶やの名にめでゝ
      四十八手をつくす多おや女


 文政三年(一八二〇)ころの、谷中いろは茶屋である。


 日が落ちてから急に冷えてきたが、駕籠の出入りがひっきりなしだった。
 谷中いろは茶屋には十軒を超す料理茶屋、六十数軒もの水茶屋が櫛比し、それぞれが軒先の掛行灯に灯をともしている。
 茶屋の女将が提灯を持って先に立ち、初会の客ふたりを女郎屋に案内していくところだった。
 結び髪に横櫛を挿し、黒びろうどの帯を締めた女将が言った。
「どこにいたしましょう」
 若い職人風の男ふたりは顔を見合わせたあと、ひとりがぶっきらぼうに、
「どこでもいい」
「そんなら、ここのうちにしましょう」
 女将が女郎屋の土間に入る。
 醤油樽に腰をかけていた見世番の女が、
「これはいらっしゃいまし。サア、お客だよ。お連れ申しな。お茶あげなよ」
 小職の女が「ハイ」と返事しながら、二階への階段をのぼる。
 続いて、ふたりの客と茶屋の女将も階段をのぼった。
 二階を仕切っている遣手のお松が、
「これは、どなたもようおいで。サア、こちらへ」
 と、表座敷に案内した。
 女将が顔を見て、
「おや、お松どん」
「女将さん、今晩は。ご初会でござりますか」
「アイサ。誰がいる」
「お竹さん、お梅さん、お鶴さん、お亀さんでござります」
「そんなら、お鶴さんとお亀さんを出してくんな」
「かしこまりました」
 と、お松がいったん階下におりる。
 小職の女が火鉢と、盆に載せた渋茶を持参した。
 客のひとりは、黙って火箸で火鉢の灰をならしている。もうひとりも無言だった。
 やがて、お松が盃台を持ち、女郎ふたりを引き連れて現われた。お鶴とお亀である。お鶴は二十七、八歳くらい、背が高く痩せぎすで顔色が青白く、上田縞の小袖を着ていた。お亀は十六、七歳くらい、背が低く丸々と太り、土器色の胴抜を着ていた。
 お鶴とお亀が廊下の敷居際に座った。顔見せである。
 お松はふたりを紹介したあと、
「では、お召し替え」
 と言って、いったんその場から去らせた。といっても、とくに着替えるわけではない。客に、気に入ったかどうかを言いやすくさせるためだった。
 女将が客に向かい、
「いかがでございます」
 客はふたりとも「よし」と、うなずいた。
 お松が、お鶴とお亀に声をかけた。
「サア、すぐにおいでなはいよ」
 客のひとりが女将に、
「芸者は呼べるか」
「へい」
 と、女将がさっそく芸者の手配をする。
 酒と肴も出て、宴会となった。
 しばらくして、芸者の春吉が座敷に入ってきて、
「ヘイ、今晩は。どなたもよういらっしゃいました。女将さん、ありがとう。オヤ、お鶴さん、お亀さん」
 客が春吉に猪口を差し出し、
「まず、ひとつあげやしょ」
「ありがとう。いただきましょう」
 春吉は酒を呑み干したあと、三味線を弾きながら、
「背に腹かへても添わねばならぬ人に言われたこともある
 と、都都逸を唄った。
 廊下から若い衆が、
「お鶴さん、チョット。お亀さん、チョット」
 と呼んだ。
 ふたりとも廻しを取る、つまり他の客との掛け持ちということだった。
 そのとき、階下で、「お客だよ」の声があがった。続いて、ドヤドヤとかなりの人数が登楼する気配がした。
 お松が一行を迎える。
「これは、どなたもよくいらっしゃいましや。オヤ、熊さん、八さん、権さん、吉さん、サア、こちらへ」
 夜がふけるにつれて、妓楼はますますにぎやかになった。
 若い衆が二階の廊下を回りながら触れた。
「サア、どなたもひけにおいでなさい」
 まもなく消灯ということだった。
 二階座敷の女郎がいちどきに廊下に出たため、あちこちで障子の開け閉めや、廊下で上草履のバタンバタン、階段をのぼりおりするトントンという音が響く。
 酒や肴をかたづけたあとに、寝間が用意される。といっても、割床である。八畳の部屋に四組の布団を敷く。あいだを屏風で仕切って通り道も作るため、狭苦しい。
 女郎たちは床に入りながらおたがい、
「おやかましう」
 と声を掛け合っている。
 まもなく、屏風を隔てただけで、あちこちからア行、ハ行の声があがり始めた。
 そのとき、隣りの座敷と境の襖がドシーンと響き、続いて廊下に面した障子が荒々しく開くや、客が廊下を走り出した。
 お松があわてて、
「もし、あなた、どちらへ」
「みどもは、おもしろうないによって、帰る」
「まあ、お待ちなさい。これさ、お鍋さん、お客が出ておいでだよ。早くよ」
 廻しを取っていた女郎のお鍋が別な座敷から駆けつけ、
「なんだよ。久しいもんだ。帰るもねえもんだ。まあ、こっちえ」
 と、無理に押し戻す。
 帰ろうとした客の連れが、
「なんじゃ、甚太夫どの。貴殿ひとりでいぬということがあるものか。それでは、相部屋のよしみがない。機嫌直しに、ひとつやろう」
 と、枕もとから、ふくべの酒と重箱の肴を取り出した。
 数人連れの勤番武士だった。どういう理由をつけたのか外泊の許可を取って岡場所で一泊の遊びというわけだったが、酒や肴は持参するといういじましさだった。
 やがて、春歌が始まった。
「いとこなりゃこそ、もちゃげてさせろ
「赤の他人にサッサさせましょか
 みなで手を打ち、まさに放歌高吟である。
 隣りの座敷に寝ていた、お鶴とお亀の客は、
「なんだ、いけ騒々しい」
 舌打ちをしたが、武士の一行とわかっているだけに、怒鳴りつけることもできない。
「おい、てめえの女はどうした」
「俺の女か。宵からさっぱりきやがらねえ。いめえましいお化けだ」
 お鶴もお亀も廻しを取り、ふたりのところにはさっぱり寄り付かないのだ。
 ふたりは屏風越しにぼやいた。
「そのかわり、あしたの朝、つとめを取り返して、あげだしとしよう」
 つとめ、つまり代金を取り返して、下谷広小路の三枚橋のそばにある茶漬屋に行こうということだった。
「そうしよう。まったく、おもしろくもねえ」
 廊下がバタリバタリと響いた。小便所に向かう女郎の上草履の音である。
「今夜はべらぼうに寒いよ」
 女郎が首をすくめてつぶやいた。
 夜はしんしんとふけていく。
 女郎はみな廻しを取っているため、金を払って登楼しながら「ふられた」、つまり独り寝を余儀なくされている客も少なくない。女郎と同衾しているのは、いわゆる「もてた」男だけである。
                        (終わり)
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