江戸の風俗八百八店

永井義男


第39話 吉原[(その一)

 吉原で嫌われ、馬鹿にされた客に、武左(ぶざ)と半可通がある。
 武左は、参勤交代で江戸に出てきた勤番武士のことで、浅黄裏とも呼ばれた。彼らは江戸藩邸で独身生活を強いられ、性に飢えていた。しかし、金はない。妓楼では規定の額しか払わずに、交接だけは目いっぱいしようとした。女郎からは嫌われるはずである。
 半可通とは、江戸っ子気取りで、自分がさも何でも心得ているかのように耳学問をひけらかすが、金払いとなるとみみっちい客のこと。陰で笑われているのに、それに気づかず、自分では粋なつもりで得意になっている客である。
 要するに、金払いのよくない客は嫌われたのだ。
 では、どういう客が「粋」といって好まれたのか。十人十色であるが、けっきょく妓楼の側からすれば、女郎に無理強いをせず、奉公人一同に対して祝儀をはずむなど気前のよい客は「粋な客」だった。当然といえば当然、客からすればいい面の皮であろう。
 天保三年(1832)ころの吉原である。

 酒宴が終わって、客と女郎が寝床におさまったところである。布団は延べたばかりで、まだ夜着はたたんだままだった。
 客の与九郎は四十歳くらい、赤ら顔で、髪の毛も薄かった。唐桟の羽織を枕元に脱ぎ捨て、藍の玉紬の着物になっている。布団の上に寝転がり、さきほどから知ったかぶりをして、ひとりでペラペラとしゃべっていた。
 女郎の綾琴は年齢こそ二十一、二歳であるが、すでに多くの男に接している。与九郎の半可通はとっくに見抜いていたが、おくびにも出さず、適当に付き合っていた。
「ぬしやぁ、きょうはどこへ行かしったえ」
「根岸の俳諧連の帰りさ」
「オヤ、そうざんすか。それじゃあ、ぬしやぁ、根岸とやらの近所でありいすか」
「なあに、おらぁ、市谷さ」
「さだめし、お馴染みが方々にありいしょう」
「こりやぁ、花魁、ご挨拶でござりやす。初めからそういう手でこられると、寝ねえうちから、体が溶けそうでござりやす」
「オヤ、どうしんしょう。ホンに、今じゃあ、女郎衆より客人のほうが手があらっしゃるよ」
 与九郎はほめられたと思って、もう有頂天になった。
「そりゃあ、生まれつきの朴念仁もありやしょうが、こちとらぁ、江戸の真ん中で生まれ育って、それ相応に泥水に無駄な銭金をぶち込んだおかげにやぁ、口広いようだが、吉原も岡場所も、知らないことはない男サ。おめえがたの苦界も呑み込んでいる。マア、気の利いた客は少ねえものよ。『廻しをとった』の、『来るのが遅いの』と言ってゴタクを並べる客を見ると、ハハア、こいつは田舎者だな、武左だなと、心のうちでおかしく思っているわな」
「ホンに、ぬしのようにさばけた客人ばかりでおざりぃしたら、苦界のうちにもまた少しは楽しみもありいしょうが。ホンに、苦界とはよく言ったもんでおすねぇ」
 綾琴はしみじみと言い、思い入れたっぷりの悲しげな表情になった。
 じつは、情男(いろ)がそろそろ来るはずであり、その伏線だったのだが、与九郎は女が自分に心を開いたのだと思い、自惚れている。
「コレ、なにもそう、ふさぐことはあるめえ」
「真に苦労になりいすことがおざんすからさ」
「なんだ、なんだ」
「わっちが悪うござんしたのさ。おととい、廻しを取っていて、つい初会の客人を放っておいたら、その客人が腹を立て、若い衆に言いたい放題を言って、そのまま帰りなんした。もう二度と来さっしゃるめえと思いぃしたら、遣手衆に『また、あさって来る』と言わしったということでおざんす。今夜、その客人が来さっしたら、どうしぃしょうかと思いぃして、真にそれが苦労でおざんす」
「ナニサ、来たら来たときのこと。あんまり気をもむと、癪がおきるぜ」
「ホンに、ぬしのようにそう優しく言っておくんなんすと、真に嬉しくって、ほかの客人へは出る気がなくなりぃすえ」
 綾琴が涙ぐんだ。
 そのとき、廊下から振新(振袖新造)のひとりが呼んだ。
「花魁、ちょっとおいでなんし」
「なんだな、じれってえのう」
 座敷から飛び出すや、綾琴は上草履をはくのももどかしく廊下を駆け出す。
「おもしろくもねえ。いまいましい」
 取り残された与九郎は、硯蓋にのっているかまぼこなど、肴のやけ食いを始めた。
 そこへ、綾琴が戻ってきて、泣きそうな顔で懇願した。
「モシエ、どうしぃしょうねぇ。あの客人が来ぃしたとさ。それに、今夜はぜひとも座敷までもらいたいと言いすがね。先日のこともありぃすから、今夜はむげに帰すこともなりぃせん。おまえさん、どうか聞き分けておくんなんし。並みの客人にはとてもこんなお願いはできぃせんが、ぬしやぁ、苦界のこともよっく承知していなんすから、それで、こんなこともお願い申すというものでおざりいす」
 要するに、座敷を明け渡して、ほかへ移れということである。
 さすがに与九郎もムッとしたが、さきほからさんざん通ぶった自慢をしてきただけに、野暮にゴネルこともならない。それでも、やはり憤懣がことばの端々ににじむ。
「どうで、今夜はこんなことだろうと思った。勝手にするがいい」
「そりゃあ、ありがとうおす」
 そこへ、若い者が廊下から障子を開けた。
「花魁、さっきのことは」
「客人が承知してくれいぃしたよ」
 若い者が、ずかずかとなかに入ってきた。
「へい。それは、あなたさま、おおきにお寂しゅうござりましょう」
「ナニサ、これも時の巡り合わせ。仕方がねえのさ」
 与九郎も精一杯の強がりを言う。
「ヘヘヘ」
 若い者は薄笑いをしながら、与九郎の羽織と紙入を持つ。
 与九郎は煙管と煙草入を持って立つ。
 これから、別な座敷に案内されるのである。

                             (続く)


第39話 吉原[(その二)

 与九郎が去ったあと、綾琴の座敷に現われたのは、情男の祐次郎である。
 年齢は二十四、五歳くらいで、色は少し浅黒い。これまで、ほかの座敷で芸者、幇間を相手に酒を飲んでいたため、かなり酔っていた。
 すぐに敷いてある寝床にあがりそうになったが、急に足をとめた。
「オオ、気味の悪い。まだ色男さまの寝たほとぼりも冷めねえ」
 綾琴はカッとなった。祐次郎の手を取り、寝床の上に引き倒した。
「ぬしやぁ、何をお言いなんすえ。わっちの心もお知りなんせんように」
「おっと、謝り、誤り。アア、豪儀と酔った。う、ゲッ」 
 と、祐次郎がゲップをした。
「ナゼ、そんなに飲みなんした。体に毒ざますに」
 男の気分が悪そうなのを見て、綾琴が煙草盆の引き出しを開けた。
「こないだの薬をあげいしょう」
 煙草盆のそばに、紙で作った蛙があった。背に「勘兵衛」と書かれ、針で畳に留められている。吉原ではやっている待ち人のまじないだった。待ち人が来れば、針を抜いてお神酒を備え、蛙は水に流す。
「おや、それはなんだ」
 祐次郎が蛙に気づいた。
 綾琴はあわてて隠そうとしたが、もう間に合わない。
「勘兵衛……。コウ、こりゃあ、何だえ。そう黙っていちゃあ、訳がわからねえはな」
 綾琴は返事もせず、じっとうつむいている。
 ここにいたり、祐次郎も顔色が変わった。
「ほんに、俺もよくよくコケには違いない。こんなことまでして呼びたい情男がいるとは知らず、末の末まで約束をしたのが、今になっては恥ずかしい。親父やお袋をだまし、家業も放り出し、おめえのもとに通いつめたが、みんなおめえの空涙にだまされたのかと思やぁ、しみじみ……、今となってはみんな愚痴。自分で自分に愛想が尽きた。俺もふっつり思い切ったぜ」
 と、後ろを向いた。
 綾琴が男の背中に手をかけた。
「よしてくれ」
「そりゃあ、あんまり短気でおざんす。これにやぁ、いろいろと筋道のありぃすことでおざんすわな」
「やかましい。筋も道もあるものか」
 涙声で、綾琴が語り始めた。
「この勘兵衛さんは蔵前の人で、茶屋の槌屋からくる客人でありぃす。槌屋の女将さんや、遣手衆からも『客種がいいから大事にしろ』と言われていることもあり、相応に付き合ってはいましたが。つくづく考えてみると、槌屋には、ぬしも不義理なことがおざんせんかぇ」
 祐次郎もグッと言葉につまった。
じつは槌屋の案内で登楼していたのだが、かなり借金がたまっていたのだ。このままでは、吉原に出入りできなくなるのは目に見えていた。
「槌屋の借金をすませておきぃせんけりやァ、もうぬしと会うこともできなくなりぃしょう。そう思いぃしても、ほかに才覚のない女郎の身。そこで、この勘兵衛さんに相談しようと、こんなまじないまでしたのでおざりいす。こう申しぃしても、ぬしの胸が晴れいせんならば、きっぱり切れましょうわな」
 祐次郎が槌屋に作った借金を、羽振りのよい勘兵衛に借りてとりあえず清算するつもりだったのだ。
 綾琴は男の肩にすがり、切々と口説く。
「ぬしも知っておいでなんす通り、親兄弟というものがないわっちが身でおすものを、杖とも柱とも思っていぃすは、ぬしばかり。その頼みに思うぬしがそんな愛想尽かしをお言いなんしちやァ、わっちが身は何を頼りに生きながらえて……胸が一杯になって……真に悲しくなりいす」
 祐次郎も綾琴の意図を知り、胸が熱くなった。
「それで疑いがすっかり晴れた。それほどまでに俺のことを心にかけてくれているものを、野暮に根強く疑って、面目ねえ」
「そんなら、ぬしやァ、さっきからの疑いは晴らしておくんなんしたかえ」
「あれこれ言ったが、おらぁ今じゃあ、おめえが気の毒でならねえ」
 さすがに、祐次郎もしょんぼりしている。
 寝床に横たわり、夜着をかぶった。
 綾琴がはずんだ声で言った。
「もう、ぬしやァ、寝なんすかえ」
「知れたことよ。いつまでも起きているものか」
「いいえ、お寝かしやぁ、申しんせん」
 夜着にもぐりこみ、綾琴が男の体にしがみついた。
 商売抜きで、たっぷり堪能させるつもりである。

                              (続く)


第39話 吉原[(その三)

 別な狭苦しい部屋に押し込まれた与九郎は寝床の上で、女がいま来るか、いま来るかと待ちかねているのだが、綾琴はいっこうに現われない。
 だれかれかまわず罵倒したい気分なのだが、若い者すら姿を見せない。相手がいないため、けんかにもならない。
 与九郎はやたらと、煙管で煙草盆をたたき散らした。
「いまいましい。まだァ来やァがらねえ。さっきのうるさい初会の客というのは、馴染みの情男にちがいねえ。それでなくっちゃあ、女が今まで来ねえということはないはずだ。ちくしょうめ。いっそ思うさま、ゴタクをきめてやろうか。まあ、いいわ、こうなりゃあ、早帰りときめべえ」
 部屋には行灯もともされていないため、手さぐりで廊下に出ると、一緒に登楼した源助を呼びに向かった。
障子を開けて、座敷の中にぬっと入り、
「コウ、源公、もう帰らねえか」
 と、屏風を引き開けてのぞいた。
 ちょうど、重なり合っていた客と女郎が仰天した。
「なんだと」
「コレハ、お粗相。角違いでござりやした。真っ平ご免なせえ」
 与九郎もあわてて謝る。
 女郎と客がぶつくさ言った。
「なんざんすナ。好かねえのう」
「おえねえ、頓痴気だ」
 日ごろは口が立つ与九郎も、さすがに一言もない。はほうほうの体で逃げ出す。
 いっぽう、源助は寝床でふと目を覚ました。けっきょく女郎にはふられ、酔ったままひとりで寝ていたのだ。
「おお、寒い、寒い」
枕元を見回していたが、
「おっと、あるある。こいつはありがたし」
 と、燗冷ましの酒を茶碗についで飲んだ。
「おお、冷てえ。こいつァ、なお寒くなりそうだ。なんにしろ、小便を垂れてくるべえ」
 源助はぶるぶる震えながら、廊下の端の小便所に行き、用を足した。座敷に戻るや、夜着にもぐりこんだ。
「なぜ、アノ女は来やがらねえ。もう八ツ(午前二時ころ)時分だろうぜ」
 ひとりで悪態をついていたが、廊下に足音が近づいてくるや、障子がスッと開いた。
 源助はついに相方の女郎が来たと思った。「しめた」と、飛び立つような気持ちだったが、わざと見栄を張り、スヤスヤ眠っているようによそおう。
 寝床を囲った屏風が荒々しく開けられた。
「コウ、源公、どうだ、もう帰ろうじゃねえか」
「おお、与九さんか。おらァ、またそうじねえかと思った」
 源助は女ではなかったことにがっかりしていたのだが、強がりを言う。
「コウ、貴公の女ァ、どこへ行った」
「どけえ行きやァがったか、まだ一度もここへは来やァしねえ。おめえは、さだめし、たんとしたろう」
「ウンニャよ。まあ、聞きねえ」
 与九郎は、綾琴にまんまと一杯食わされた憤懣をぶちまける。
「そいつは仕打ちが面憎いじゃねえか。ナント、若い者を呼びつけて、ちょいと啖呵を切ってやろうじゃねえか」
「俺もそうは思ったが、江戸っ子が武左めいた真似をするのも、野暮ったいじゃねえか」
「それもそうだの。そんなら、厄落としをしたと思って、無言の早帰りとしようか」
 ふたりは相談がまとまり、帰り支度をする。
 階段をおり、若い者に言った。
「コウ、草履を出してくだせえ」
「ヘイ、まだよろしゅうござりましょう」
 与九郎が押し返して言う。
「いいや、もう、よくねえ」
「へい、さようでござりますか」
 若い者はふたりの不機嫌の理由を察しているが、そ知らぬ顔をしている。ふたりの草履を出して、そろえた。
「では、また、お近いうちに」
 与九郎と源助は口の中で「糞でも喰らえ」と毒づきながら、潜り戸をくぐって外に出た。
 浅草寺の鐘がボーンと鳴った。

                            (終わり)
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